東京にある,世界とのつながりが感じられる史跡や文化財を紹介しています。東京を散歩しながら,時空を飛び越えてみませんか!
関連するめっけブック
紹介スポット
- 104件お茶の水にあるニコライ堂は,正式には東京ハリストス正教会教団「東京復活大聖堂」と言います。ニコライ堂の名は,日本に正教を伝道するため1861(文久元)年に来日したロシア人宣教師ニコライ・カサートキンに由来しています。 ニコライは,最初の伝道地・函館から1972(明治5)年に上京し,伝道の新たな拠点として現在地に大聖堂の建設を進めました。着工は1884(明治17)年,原設計はロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ,そして実施設計にあたったのが当時個人の設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルでした。 コンドルは,原設計にあった5つのドームからなる様式を周りと調和するように変更し,1891(明治24)年に竣工した大聖堂は,柱のない大きなドームを特徴とする本格的なビザンティン様式の建築となりました。この大聖堂は関東大震災で大きな被害を受けたため,1927(昭和2)年から,明治生命館などの設計で知られる岡田信一郎の設計により補強と修復が行われ,1929(昭和4)年に現在の姿になりました。鐘楼は低くなり,中央のドームの形が変わるなど外観が一部変更されましたがその美しさは変わっていません。
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(コンドル)】コンドルがニコライ堂の実施設計をする際,原設計から変更したのはどんなところだったのでしょうか?
お茶の水にあるニコライ堂は,正式には東京ハリストス正教会教団「東京復活大聖堂」と言います。ニコライ堂の名は,日本に正教を伝道するため1861(文久元)年に来日したロシア人宣教師ニコライ・カサートキンに由来しています。 ニコライは,最初の伝道地・函館から1972(明治5)年に上京し,伝道の新たな拠点として現在地に大聖堂の建設を進めました。着工は1884(明治17)年,原設計はロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ,そして実施設計にあたったのが当時個人の設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルでした。 コンドルは,原設計にあった5つのドームからなる様式を周りと調和するように変更し,1891(明治24)年に竣工した大聖堂は,柱のない大きなドームを特徴とする本格的なビザンティン様式の建築となりました。この大聖堂は関東大震災で大きな被害を受けたため,1927(昭和2)年から,明治生命館などの設計で知られる岡田信一郎の設計により補強と修復が行われ,1929(昭和4)年に現在の姿になりました。鐘楼は低くなり,中央のドームの形が変わるなど外観が一部変更されましたがその美しさは変わっていません。
旧岩崎家住宅洋館と撞球室
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(コンドル)】コンドル設計の代表的な西洋建築・旧岩崎家住宅洋館に見られるコンドルらしさとは何でしょうか?
旧岩崎邸庭園には3棟の建物が残されています。そのうち洋館と撞球室(ビリヤード室)はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計したものです。 工部大学校の教授として来日したコンドルは,官を辞した後に設計事務所を開き,三菱財閥の設計顧問も兼ねて岩崎家関係の建物を多く手掛けました。この洋館は,三菱の3代目当主・岩崎久彌の本邸として建設され1896(明治29)年に竣工しました。 地下室のある木造2階建の建物や館内の装飾は,17 世紀初頭のイギリスで発展した直線的で重厚感のあるジャコビアン様式が基調とされていますが,イスラム風のモチーフなど複数の様式が随所にとり入れられていて折衷を得意としたコンドルらしさが窺われます。列柱が特徴的なベランダは,高温多湿の日本の気候を熟知していたコンドルが,直射日光を遮るのに必須として多くの邸宅建築に採用した代表的な例です。別棟として建てられた撞球室は,洋館と地下通路でつながっていますが,洋館より少しあとに完成したとされています。木造平屋の建物は,刻みの入った柱や軒を深く差し出した屋根など,当時としては珍しいスイスの山小屋風の造りになっています。
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(コンドル)】コンドル設計の代表的な西洋建築・旧岩崎家住宅洋館に見られるコンドルらしさとは何でしょうか?
旧岩崎邸庭園には3棟の建物が残されています。そのうち洋館と撞球室(ビリヤード室)はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計したものです。 工部大学校の教授として来日したコンドルは,官を辞した後に設計事務所を開き,三菱財閥の設計顧問も兼ねて岩崎家関係の建物を多く手掛けました。この洋館は,三菱の3代目当主・岩崎久彌の本邸として建設され1896(明治29)年に竣工しました。 地下室のある木造2階建の建物や館内の装飾は,17 世紀初頭のイギリスで発展した直線的で重厚感のあるジャコビアン様式が基調とされていますが,イスラム風のモチーフなど複数の様式が随所にとり入れられていて折衷を得意としたコンドルらしさが窺われます。列柱が特徴的なベランダは,高温多湿の日本の気候を熟知していたコンドルが,直射日光を遮るのに必須として多くの邸宅建築に採用した代表的な例です。別棟として建てられた撞球室は,洋館と地下通路でつながっていますが,洋館より少しあとに完成したとされています。木造平屋の建物は,刻みの入った柱や軒を深く差し出した屋根など,当時としては珍しいスイスの山小屋風の造りになっています。
北区西ヶ原にある旧古河庭園の敷地は,もとは伊藤博文内閣の外相として活躍した陸奥宗光(むつむねみつ)の邸宅があった場所でした。その後,財閥古河家の所有となり,ここに3代目当主・古河虎之助の本邸が建てられました。 洋館と西洋庭園はジョサイア・コンドルの設計で1917(大正6)年に完成し,西洋庭園に続く池泉回遊式の日本庭園は京都の庭師・小川治兵衛が作庭して1919(大正8)年に完成したもので,いずれも竣工当時の姿が保たれています。 2階建・地下1階の洋館は,主構造は煉瓦造りですが,外壁には真鶴産の紫に近い赤い色の新小松石(安山岩)が使われていて重厚な外観を示しています。内部は,1階がすべて洋室であるのに対して2階は寝室を除き伝統的な和室という,和洋を共存・調和させるコンドルならではのプランになっています。 西洋庭園は左右対称,幾何学模様の刈込があるフランス式庭園と石の欄干や石段など立体的なイタリア式庭園の技法を合わせたつくりになっていて,現在は200本ものバラが植えられています。 この洋館と西洋庭園が竣工したのはコンドルが亡くなる3年前のことで,最晩年の作品となりました。
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(コンドル)】コンドルが最晩年に設計した旧古河邸と西洋庭園には,コンドルのどんなこだわりが認められるのでしょうか?
北区西ヶ原にある旧古河庭園の敷地は,もとは伊藤博文内閣の外相として活躍した陸奥宗光(むつむねみつ)の邸宅があった場所でした。その後,財閥古河家の所有となり,ここに3代目当主・古河虎之助の本邸が建てられました。 洋館と西洋庭園はジョサイア・コンドルの設計で1917(大正6)年に完成し,西洋庭園に続く池泉回遊式の日本庭園は京都の庭師・小川治兵衛が作庭して1919(大正8)年に完成したもので,いずれも竣工当時の姿が保たれています。 2階建・地下1階の洋館は,主構造は煉瓦造りですが,外壁には真鶴産の紫に近い赤い色の新小松石(安山岩)が使われていて重厚な外観を示しています。内部は,1階がすべて洋室であるのに対して2階は寝室を除き伝統的な和室という,和洋を共存・調和させるコンドルならではのプランになっています。 西洋庭園は左右対称,幾何学模様の刈込があるフランス式庭園と石の欄干や石段など立体的なイタリア式庭園の技法を合わせたつくりになっていて,現在は200本ものバラが植えられています。 この洋館と西洋庭園が竣工したのはコンドルが亡くなる3年前のことで,最晩年の作品となりました。
2010(平成22)年に竣工した三菱一号館美術館は,1968(昭和43)年に解体された「三菱一号館」の原設計に基づいて忠実に復元されたものです。 三菱一号館は,ジョサイア・コンドルによって設計され,1894(明治27)年に日本最初のオフィスビルとして竣工しました。政府から丸の内一帯の払い下げを受けた三菱は,そこにロンドンの金融街のようなオフィス街を建設する計画をたてました。三菱財閥の3代目・岩崎久彌がその第一号として建てたのが三菱一号館です。 総赤煉瓦造り,地上3階・地下1階からなる一号館は,尖塔式屋根が連なる凹凸の多い構成や白い窓枠など,19世紀後半のイギリスで流行したクイーン・アン様式を用いて建設されました。またコンドルは,地震の多い日本の状況を考慮し,地中に埋めた9000本以上の松杭で建物を支えるといった耐震構造を採り入れています。この構造もあって,一号館は関東大震災にも耐えることができました。 三菱一号館を皮切りに丸の内地区には赤煉瓦造りのオフィスビルが続々と建設され,ロンドンの街並みに例えられて「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれるようになります。この街並みもコンドルが設計しました。
2010(平成22)年に竣工した三菱一号館美術館は,1968(昭和43)年に解体された「三菱一号館」の原設計に基づいて忠実に復元されたものです。 三菱一号館は,ジョサイア・コンドルによって設計され,1894(明治27)年に日本最初のオフィスビルとして竣工しました。政府から丸の内一帯の払い下げを受けた三菱は,そこにロンドンの金融街のようなオフィス街を建設する計画をたてました。三菱財閥の3代目・岩崎久彌がその第一号として建てたのが三菱一号館です。 総赤煉瓦造り,地上3階・地下1階からなる一号館は,尖塔式屋根が連なる凹凸の多い構成や白い窓枠など,19世紀後半のイギリスで流行したクイーン・アン様式を用いて建設されました。またコンドルは,地震の多い日本の状況を考慮し,地中に埋めた9000本以上の松杭で建物を支えるといった耐震構造を採り入れています。この構造もあって,一号館は関東大震災にも耐えることができました。 三菱一号館を皮切りに丸の内地区には赤煉瓦造りのオフィスビルが続々と建設され,ロンドンの街並みに例えられて「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれるようになります。この街並みもコンドルが設計しました。
日本銀行本店本館は,辰野金吾の設計により江戸時代の金座があった現在地に,1896(明治29) 年に竣工しました。 辰野金吾は,工部大学校造家学科(東京大学工学部の前身)の第一期生としてジョサイア・コンドルに学び,主席で卒業後,ヨーロッパに渡ってイギリスやフランス,イタリアでさらに深く建築を学びました。帰国後はコンドルの後任として工部大学校の教授に就任しています。 辰野が帰国後最初に設計したのが日本銀行本店本館でした。地上3階,地下1階からなる本館は,中央にドームを据え,正面と左右両翼に列柱を配置するなど装飾性の強いネオ・バロック様式の建築ですが,左右対称のかたちや壁面のデザインなどにルネッサンス様式も認められます。また総石造りという当初の計画を変更し,1階部分のみを石造り,2~3階部分を煉瓦造りとして,外側に花崗岩を貼ることで上層部を軽量化し高い耐震性を実現しました。 館内には,日本で2番目というエレベーターや空調設備,水洗トイレなど最新の設備が採り入れられています。 関東大震災や東京大空襲でも建物自体に大きな被害はなく,ほとんど竣工当時の姿のまま現在に残されています。
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(辰野金吾)】関東大震災に耐えた日本銀行本店本館に設計者・辰野金吾が施した工夫とは何だったのでしょうか?
日本銀行本店本館は,辰野金吾の設計により江戸時代の金座があった現在地に,1896(明治29) 年に竣工しました。 辰野金吾は,工部大学校造家学科(東京大学工学部の前身)の第一期生としてジョサイア・コンドルに学び,主席で卒業後,ヨーロッパに渡ってイギリスやフランス,イタリアでさらに深く建築を学びました。帰国後はコンドルの後任として工部大学校の教授に就任しています。 辰野が帰国後最初に設計したのが日本銀行本店本館でした。地上3階,地下1階からなる本館は,中央にドームを据え,正面と左右両翼に列柱を配置するなど装飾性の強いネオ・バロック様式の建築ですが,左右対称のかたちや壁面のデザインなどにルネッサンス様式も認められます。また総石造りという当初の計画を変更し,1階部分のみを石造り,2~3階部分を煉瓦造りとして,外側に花崗岩を貼ることで上層部を軽量化し高い耐震性を実現しました。 館内には,日本で2番目というエレベーターや空調設備,水洗トイレなど最新の設備が採り入れられています。 関東大震災や東京大空襲でも建物自体に大きな被害はなく,ほとんど竣工当時の姿のまま現在に残されています。
1914(大正3)年,新橋と上野を結ぶ鉄道の中央駅として「中央停車場」が開業しました。現在の東京駅です。 駅舎は当初,ドイツ人技師フランツ・バルツァーが設計する予定でしたが,彼が提案したのは煉瓦造りに瓦屋根,唐破風をあしらった和風の建物だったために却下され,改めて辰野金吾が設計することになりました。辰野は,ジョサイア・コンドルに学んだ日本における西洋建築の第一人者です。 設計を依頼された1903(明治36)年当時,辰野は帝国大学工科大学の学長を辞して建築事務所を開いていました。赤い煉瓦と白い花崗岩で描かれたライン,塔を載せた屋根などを特徴とする「辰野式」と呼ばれるデザインは,この頃から辰野が設計する建物に多く用いられていますが,それを代表するのが東京駅丸の内駅舎です。 鉄骨赤煉瓦造り,3階建てで全長約335メートルという巨大な駅舎は堅牢で,関東大震災でも倒壊しませんでしたが,1945(昭和20)年の東京大空襲で南北のドームをはじめ3階部分が大きく損傷しました。その後,2階建ての駅舎として利用されていましたが,2007(平成19)年からの保存・復原工事で2012(平成24)年に開業当時の姿が甦りました。
1914(大正3)年,新橋と上野を結ぶ鉄道の中央駅として「中央停車場」が開業しました。現在の東京駅です。 駅舎は当初,ドイツ人技師フランツ・バルツァーが設計する予定でしたが,彼が提案したのは煉瓦造りに瓦屋根,唐破風をあしらった和風の建物だったために却下され,改めて辰野金吾が設計することになりました。辰野は,ジョサイア・コンドルに学んだ日本における西洋建築の第一人者です。 設計を依頼された1903(明治36)年当時,辰野は帝国大学工科大学の学長を辞して建築事務所を開いていました。赤い煉瓦と白い花崗岩で描かれたライン,塔を載せた屋根などを特徴とする「辰野式」と呼ばれるデザインは,この頃から辰野が設計する建物に多く用いられていますが,それを代表するのが東京駅丸の内駅舎です。 鉄骨赤煉瓦造り,3階建てで全長約335メートルという巨大な駅舎は堅牢で,関東大震災でも倒壊しませんでしたが,1945(昭和20)年の東京大空襲で南北のドームをはじめ3階部分が大きく損傷しました。その後,2階建ての駅舎として利用されていましたが,2007(平成19)年からの保存・復原工事で2012(平成24)年に開業当時の姿が甦りました。
迎賓館赤坂離宮は,皇太子(後の大正天皇)の新居・東宮御所として1909(明治42)年に竣工した本格的な西洋風宮殿建築です。設計にあたったのは,ジョサイア・コンドルに学んだ工部大学校第一期生の片山東熊(とうくま)でした。 長州藩出身の片山は奇兵隊士として戊辰戦争にも参加した人物ですが,工部大学校卒業後は工部省,ついで宮内省に出仕し多くの宮廷建築を手掛けています。1898(明治31)年に東宮御所造営局技監に任命され,東宮御所の設計・造営にあたりました。 建築様式は,19世紀末に欧米で流行しルーブル宮殿新館にも用いられた,左右対称の外観と豪華な装飾,曲線や楕円の多用を特徴とするネオ・バロック様式を基調としていますが,正面玄関の屋根に鎧武者の意匠が見られるなど日本的なモチーフも加えられています。 建物は,半地下階のある3階建ての耐火構造建築で,最新鋭の空調設備や自家発電機もとり入れられましたが,住居としては使いにくく皇太子はほとんど使用しなかったといわれます。戦後の大改修を経て1974(昭和49)年に迎賓館として開館,2009(平成21)年には明治時代以降の建築物として初めて国宝に指定されました。
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(片山東熊)】東宮御所として建てられた迎賓館赤坂離宮が本格的な西洋風宮殿建築とされるのはなぜでしょうか?
迎賓館赤坂離宮は,皇太子(後の大正天皇)の新居・東宮御所として1909(明治42)年に竣工した本格的な西洋風宮殿建築です。設計にあたったのは,ジョサイア・コンドルに学んだ工部大学校第一期生の片山東熊(とうくま)でした。 長州藩出身の片山は奇兵隊士として戊辰戦争にも参加した人物ですが,工部大学校卒業後は工部省,ついで宮内省に出仕し多くの宮廷建築を手掛けています。1898(明治31)年に東宮御所造営局技監に任命され,東宮御所の設計・造営にあたりました。 建築様式は,19世紀末に欧米で流行しルーブル宮殿新館にも用いられた,左右対称の外観と豪華な装飾,曲線や楕円の多用を特徴とするネオ・バロック様式を基調としていますが,正面玄関の屋根に鎧武者の意匠が見られるなど日本的なモチーフも加えられています。 建物は,半地下階のある3階建ての耐火構造建築で,最新鋭の空調設備や自家発電機もとり入れられましたが,住居としては使いにくく皇太子はほとんど使用しなかったといわれます。戦後の大改修を経て1974(昭和49)年に迎賓館として開館,2009(平成21)年には明治時代以降の建築物として初めて国宝に指定されました。
東京国立博物館表慶館
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(片山東熊)】東京国立博物館表慶館のどんなところに設計者・片山東熊の特徴が表れているのでしょうか?
東京国立博物館の本館に向かって左手にある緑青色のドームが印象的な建物が表慶館(ひょうけいかん)です。「慶びを表す」という名が示すように,表慶館は皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して1900(明治33)年に計画され,建設には市民から募った寄付金があてられました。 完成したのは1908(明治41)年,翌年には日本初の本格的な美術館として開館しています。設計を担当したのは,ジョサイア・コンドルの弟子で,東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)も設計した宮廷建築家・片山東熊でした。しかし完成に至るまでには,平面・立面計画が何度も変更されたり,日露戦争で資材の輸送が滞ったりと多くの困難がありました。 建物は,中央に大ドーム,両翼に小ドームが配置された左右対称で十字型の外観を持つネオ・バロック様式。2階建で総石造りのように見えますが,実際は総煉瓦造りで外壁に花崗岩を貼って石造風に見せています。 関東大震災でコンドルが設計した帝室博物館本館は倒壊しましたが,表慶館は被害が少なかったため,1938(昭和13)年に現在の本館が開館するまでの間,展示施設となっていました。
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(片山東熊)】東京国立博物館表慶館のどんなところに設計者・片山東熊の特徴が表れているのでしょうか?
東京国立博物館の本館に向かって左手にある緑青色のドームが印象的な建物が表慶館(ひょうけいかん)です。「慶びを表す」という名が示すように,表慶館は皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して1900(明治33)年に計画され,建設には市民から募った寄付金があてられました。 完成したのは1908(明治41)年,翌年には日本初の本格的な美術館として開館しています。設計を担当したのは,ジョサイア・コンドルの弟子で,東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)も設計した宮廷建築家・片山東熊でした。しかし完成に至るまでには,平面・立面計画が何度も変更されたり,日露戦争で資材の輸送が滞ったりと多くの困難がありました。 建物は,中央に大ドーム,両翼に小ドームが配置された左右対称で十字型の外観を持つネオ・バロック様式。2階建で総石造りのように見えますが,実際は総煉瓦造りで外壁に花崗岩を貼って石造風に見せています。 関東大震災でコンドルが設計した帝室博物館本館は倒壊しましたが,表慶館は被害が少なかったため,1938(昭和13)年に現在の本館が開館するまでの間,展示施設となっていました。
慶應義塾のシンボルとなっている図書館旧館は,慶應義塾創立50周年を記念して1912(明治45)年に建てられました。設計には,曾禰達蔵と中條(ちゅうじょう)精一郎が共同であたっています。 曾禰は,ジョサイア・コンドルに建築を学んだ工部大学校の第一期生で,同期には辰野金吾や片山東熊がいます。彼は工部大学校や海軍省に勤務した後,三菱に建築技師として入社,コンドルに協力して丸の内オフィス街の設計・建設に携わりました。 三菱退社後,後輩の中條精一郎と共に曾禰中條建築事務所を構え,民間の建物を多く設計しましたが,それらのほとんどは関東大震災で焼失しています。 図書館旧館は,煉瓦造りで塔屋のある地上2階(一部3階)・地下1階の建物。赤レンガと花崗岩,テラコッタ(素焼粘土)で仕上げられた壮麗な外観,大きな窓や玄関ホール正面階段上のステンドグラスなどを特徴とするネオ・ゴシック様式が用いられています。屋根裏まであった書庫は20万冊もの蔵書収容能力があり,閲覧席も200席以上という当時の大学図書館では他に類のない規模のものでした。 関東大震災と戦災で大きな被害がありましたが,その都度修復されて当時の姿が今に残されています。
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(曾禰達蔵)】コンドルに学んだ建築家・曾禰達蔵(そねたつぞう)が,慶應義塾図書館旧館に用いたのはどのような建築様式だったのでしょうか?
慶應義塾のシンボルとなっている図書館旧館は,慶應義塾創立50周年を記念して1912(明治45)年に建てられました。設計には,曾禰達蔵と中條(ちゅうじょう)精一郎が共同であたっています。 曾禰は,ジョサイア・コンドルに建築を学んだ工部大学校の第一期生で,同期には辰野金吾や片山東熊がいます。彼は工部大学校や海軍省に勤務した後,三菱に建築技師として入社,コンドルに協力して丸の内オフィス街の設計・建設に携わりました。 三菱退社後,後輩の中條精一郎と共に曾禰中條建築事務所を構え,民間の建物を多く設計しましたが,それらのほとんどは関東大震災で焼失しています。 図書館旧館は,煉瓦造りで塔屋のある地上2階(一部3階)・地下1階の建物。赤レンガと花崗岩,テラコッタ(素焼粘土)で仕上げられた壮麗な外観,大きな窓や玄関ホール正面階段上のステンドグラスなどを特徴とするネオ・ゴシック様式が用いられています。屋根裏まであった書庫は20万冊もの蔵書収容能力があり,閲覧席も200席以上という当時の大学図書館では他に類のない規模のものでした。 関東大震災と戦災で大きな被害がありましたが,その都度修復されて当時の姿が今に残されています。
日本水準原点は,日本全国の標高の基準として1891(明治24)年に,当時,陸軍参謀本部陸地測量部の庭園だった現在地に設けられました。同年に完成した標庫はこれを保護するための建物で,佐立七次郎が設計しました。 佐立は,辰野金吾や曾禰達蔵らと共にジョサイア・コンドルから建築を学んだ工部大学校の第一期生です。工部省や海軍省,藤田組を経て逓信省で勤務し,建築法研究のため欧米にも出張しています。その後,建築設計事務所を開設,日本郵船の設計顧問となって日本郵船小樽支店(現存しています)などを設計しました。佐立が設計に関与した建物は34棟といわれますが,それらはほとんど残っていません。 現存する日本水準原点標庫は,石造りの平家建てで総高4.3mと小さなものですが,正面に配された石段と柱廊,その上部のエンタープラチュア(帯状部)や屋根部分のレリーフが施された三角形の破風など,ローマ風の神殿建築に倣った本格的な建築物です。エンタープラチュアには,現在,公的に使用されている建物には珍しい菊の紋章に挟まれた「大日本帝國」の文字が認められます。
【コンドルとその弟子たちの西洋建築(佐立七次郎)】小さな建物である日本水準原点標庫が,佐立七次郎(さたちしちじろう)の代表作とされているのはなぜでしょうか?
日本水準原点は,日本全国の標高の基準として1891(明治24)年に,当時,陸軍参謀本部陸地測量部の庭園だった現在地に設けられました。同年に完成した標庫はこれを保護するための建物で,佐立七次郎が設計しました。 佐立は,辰野金吾や曾禰達蔵らと共にジョサイア・コンドルから建築を学んだ工部大学校の第一期生です。工部省や海軍省,藤田組を経て逓信省で勤務し,建築法研究のため欧米にも出張しています。その後,建築設計事務所を開設,日本郵船の設計顧問となって日本郵船小樽支店(現存しています)などを設計しました。佐立が設計に関与した建物は34棟といわれますが,それらはほとんど残っていません。 現存する日本水準原点標庫は,石造りの平家建てで総高4.3mと小さなものですが,正面に配された石段と柱廊,その上部のエンタープラチュア(帯状部)や屋根部分のレリーフが施された三角形の破風など,ローマ風の神殿建築に倣った本格的な建築物です。エンタープラチュアには,現在,公的に使用されている建物には珍しい菊の紋章に挟まれた「大日本帝國」の文字が認められます。
荒尾精の墓・山田良政君碑
【近代の日中・日朝関係の記憶】荒尾精と山田良政。あまり知られていない人物ですが,彼らは明治時代の日中関係史上どんなことを為したのでしょうか?
谷中にある全生庵には,中国と関係の深い二人の人物の墓と石碑があります。 墓は,上海に「日清貿易研究所」を設立し日清間の貿易実務を担う人材の育成に尽力した荒尾精のものです。 荒尾は陸軍士官学校を卒業後,参謀本部から清国に派遣され約3年間の諜報活動にあたりましたが,帰国した翌年の1890(明治23)年に軍を辞め,日清両国の提携に基づく貿易振興を主張し「日清貿易研究所」(日中友好提携の人材育成を担った東亜同文書院に発展)を設立しました。 荒尾は,日清戦争の最中にも清国に対する領土割譲の要求に反対しています。 一方,境内にある石碑は,中華民国成立後の1913(大正2)年,孫文が来日した際に同志だった山田良政を悼んで建てられたもので,書は孫文自身のものです。 弘前出身の山田良政は上京して中国語を学び,日清戦争に陸軍の通訳として従軍しました。 戦後,日本に亡命中の孫文と出会ってその祖国への情熱や理念に感銘を受け,革命運動を支援するようになります。 1900(明治 33)年に中国広東省の恵州で孫文が蜂起するとそれに加わりましたがこの蜂起は失敗し,山田は清国の政府軍に捕らえられ殺害されました。
【近代の日中・日朝関係の記憶】荒尾精と山田良政。あまり知られていない人物ですが,彼らは明治時代の日中関係史上どんなことを為したのでしょうか?
谷中にある全生庵には,中国と関係の深い二人の人物の墓と石碑があります。 墓は,上海に「日清貿易研究所」を設立し日清間の貿易実務を担う人材の育成に尽力した荒尾精のものです。 荒尾は陸軍士官学校を卒業後,参謀本部から清国に派遣され約3年間の諜報活動にあたりましたが,帰国した翌年の1890(明治23)年に軍を辞め,日清両国の提携に基づく貿易振興を主張し「日清貿易研究所」(日中友好提携の人材育成を担った東亜同文書院に発展)を設立しました。 荒尾は,日清戦争の最中にも清国に対する領土割譲の要求に反対しています。 一方,境内にある石碑は,中華民国成立後の1913(大正2)年,孫文が来日した際に同志だった山田良政を悼んで建てられたもので,書は孫文自身のものです。 弘前出身の山田良政は上京して中国語を学び,日清戦争に陸軍の通訳として従軍しました。 戦後,日本に亡命中の孫文と出会ってその祖国への情熱や理念に感銘を受け,革命運動を支援するようになります。 1900(明治 33)年に中国広東省の恵州で孫文が蜂起するとそれに加わりましたがこの蜂起は失敗し,山田は清国の政府軍に捕らえられ殺害されました。
アジサイで知られる白山神社の境内の一角に孫文のレリーフがはめ込まれた石碑があり,上部には「孫文先生座石」と記されています。 中国で「革命の父」とされる孫文は,日本を「第二の故郷」と言っていました。 とくに東京は,1905(明治38)年に清朝打倒を目指す中国同盟会が孫文の提唱によって結成された重要な場所です。 革命運動を進めるため世界中を巡っていた孫文は,辛亥革命の前年にあたる1910(明治43)年には,白山神社の近く,当時の小石川原町(現,白山4丁目・5丁目と千石1丁目の一部)にあった革命運動の支援者・宮崎滔天(とうてん)宅に身を寄せていました。 その5月,二人が白山神社の境内の石に腰掛けて中国の将来と革命について語り合っていたところ夜空に流星が現れ,それを見た孫文は祖国の革命を心に誓ったといいます。 その後孫文は,辛亥革命を指導して清朝を倒し,翌年に成立した中華民国の臨時大総統に就任しました。 石碑は,新中国建設を誓った場所を後世に残そうと,1983(昭和58)年に白山神社の宮司を中心に町会有志が建立したものです。 孫文が座ったのは,石碑の下にある横長の石だとされています。
アジサイで知られる白山神社の境内の一角に孫文のレリーフがはめ込まれた石碑があり,上部には「孫文先生座石」と記されています。 中国で「革命の父」とされる孫文は,日本を「第二の故郷」と言っていました。 とくに東京は,1905(明治38)年に清朝打倒を目指す中国同盟会が孫文の提唱によって結成された重要な場所です。 革命運動を進めるため世界中を巡っていた孫文は,辛亥革命の前年にあたる1910(明治43)年には,白山神社の近く,当時の小石川原町(現,白山4丁目・5丁目と千石1丁目の一部)にあった革命運動の支援者・宮崎滔天(とうてん)宅に身を寄せていました。 その5月,二人が白山神社の境内の石に腰掛けて中国の将来と革命について語り合っていたところ夜空に流星が現れ,それを見た孫文は祖国の革命を心に誓ったといいます。 その後孫文は,辛亥革命を指導して清朝を倒し,翌年に成立した中華民国の臨時大総統に就任しました。 石碑は,新中国建設を誓った場所を後世に残そうと,1983(昭和58)年に白山神社の宮司を中心に町会有志が建立したものです。 孫文が座ったのは,石碑の下にある横長の石だとされています。
神田神保町の古書店が並ぶ靖国通りから北に少し入ると「神保町愛全公園」があります。 このあたりに,かつて東亜高等予備学校がありました。 日清戦争に敗れた中国では,体制改革を求める機運が急速に高まり,西洋の諸制度を効率的に学ぶため日本に留学しようという動きが起きてきました。 やがて日本留学がブームとなって,1905(明治38)年ごろには中国人留学生の数が1万人を超えたといわれます。 東亜高等予備学校は,中国人留学生の教育に生涯取り組んだ松本亀次郎によって1914(大正3)年に設立されました。 日本国内での進学を志す中国人留学生の多くが,この学校で日本語・英語・数学等を専門に学んでいます。 中華人民共和国国務院総理(首相)を長く務めた周恩来も,1917年(大正6)年,19歳のときに日本に留学し,この地にあった東亜高等予備学校で2年間日本語を学び,大学進学の指導を受けました。 愛全公園には,周総理生誕100年・日中平和友好条約締結20周年を記念して1998(平成10)年に建てられた「周恩来ここに学ぶ 東亜高等予備学校跡」と刻まれた石碑があります(現在,公園が改修工事中で見ることができません)。
神田神保町の古書店が並ぶ靖国通りから北に少し入ると「神保町愛全公園」があります。 このあたりに,かつて東亜高等予備学校がありました。 日清戦争に敗れた中国では,体制改革を求める機運が急速に高まり,西洋の諸制度を効率的に学ぶため日本に留学しようという動きが起きてきました。 やがて日本留学がブームとなって,1905(明治38)年ごろには中国人留学生の数が1万人を超えたといわれます。 東亜高等予備学校は,中国人留学生の教育に生涯取り組んだ松本亀次郎によって1914(大正3)年に設立されました。 日本国内での進学を志す中国人留学生の多くが,この学校で日本語・英語・数学等を専門に学んでいます。 中華人民共和国国務院総理(首相)を長く務めた周恩来も,1917年(大正6)年,19歳のときに日本に留学し,この地にあった東亜高等予備学校で2年間日本語を学び,大学進学の指導を受けました。 愛全公園には,周総理生誕100年・日中平和友好条約締結20周年を記念して1998(平成10)年に建てられた「周恩来ここに学ぶ 東亜高等予備学校跡」と刻まれた石碑があります(現在,公園が改修工事中で見ることができません)。
東亜高等予備学校があった神保町愛全公園からお茶の水方面に向かい左手に入ると1926(大正15)年に建てられたレトロなビルがあります。 現在は東方学会の本館となっていますが,敗戦まではこのビルに日華学会が入っていました。 日華学会は,学校の選択,入学・転学,宿舎の世話など中国人留学生を支援することを目的に1918(大正7)年に設立された団体です。 設立には,渋沢栄一をはじめとする財界人や元文相小松原英太郎ら政治家,官僚が関わっていました。 背景には,日本が中国の実効支配を進めるため1915(大正4)年に中国政府に突きつけた「二十一ヵ条要求」に対する中国人留学生たちの反発を緩和するねらいがあったといわれます。 設立当初の日華学会は麹町区内山下町(現,千代田区内幸町1丁目)にありましたが,その後神田区中猿楽町に移り,1934(昭和9)年から元は中学校の校舎だったこのビルに入りました。 日華学会の活動は,1945(昭和20)年8月の日本の敗戦にともなって停止されました。
東亜高等予備学校があった神保町愛全公園からお茶の水方面に向かい左手に入ると1926(大正15)年に建てられたレトロなビルがあります。 現在は東方学会の本館となっていますが,敗戦まではこのビルに日華学会が入っていました。 日華学会は,学校の選択,入学・転学,宿舎の世話など中国人留学生を支援することを目的に1918(大正7)年に設立された団体です。 設立には,渋沢栄一をはじめとする財界人や元文相小松原英太郎ら政治家,官僚が関わっていました。 背景には,日本が中国の実効支配を進めるため1915(大正4)年に中国政府に突きつけた「二十一ヵ条要求」に対する中国人留学生たちの反発を緩和するねらいがあったといわれます。 設立当初の日華学会は麹町区内山下町(現,千代田区内幸町1丁目)にありましたが,その後神田区中猿楽町に移り,1934(昭和9)年から元は中学校の校舎だったこのビルに入りました。 日華学会の活動は,1945(昭和20)年8月の日本の敗戦にともなって停止されました。
日清戦争後,中国人の日本留学がブームとなり,1905(明治38)年ころには中国人留学生の数が1万人を超えました。 その後,日本の中国大陸進出が激しくなるに従い留学生の数は減っていきますが,それでも1940年代までは常時,数千人規模の留学生が日本に滞在していたといいます。 彼らの多くは東京に住んでいましたが,とりわけ神保町の界隈には多く集まっていました。 それは,中国人留学生のための東亜高等予備校や日中関係の改善融和を目指して設立された日華学会,数多くの留学生を受け入れていた明治大学などの私立大学,清国留学生会館などがあったからです。 そして,彼らの腹を故郷の味で満たすべく,神保町界隈には中国人が経営するたくさんの中華料理店ができました。 その一つが1911(明治44)年に開業した上海料理の漢陽楼で,開店にあたっては留学生たちが店づくりを手伝ったといいます。留学中の周恩来もこの店によく通いました。 好きだったのは郷里江蘇省の家庭料理「清燉獅子頭(チンドゥシーズートゥ)」(大きな肉団子入りスープ)でしたが,学生の身には高価でいつも食べていたというわけではなかったようです。
【近代の日中・日朝関係の記憶】中国人留学生が多く住んでいた神保町界隈。中華料理店も多くありましたが,なかでも周恩来がよく通ったという漢陽楼の人気メニューとは?
日清戦争後,中国人の日本留学がブームとなり,1905(明治38)年ころには中国人留学生の数が1万人を超えました。 その後,日本の中国大陸進出が激しくなるに従い留学生の数は減っていきますが,それでも1940年代までは常時,数千人規模の留学生が日本に滞在していたといいます。 彼らの多くは東京に住んでいましたが,とりわけ神保町の界隈には多く集まっていました。 それは,中国人留学生のための東亜高等予備校や日中関係の改善融和を目指して設立された日華学会,数多くの留学生を受け入れていた明治大学などの私立大学,清国留学生会館などがあったからです。 そして,彼らの腹を故郷の味で満たすべく,神保町界隈には中国人が経営するたくさんの中華料理店ができました。 その一つが1911(明治44)年に開業した上海料理の漢陽楼で,開店にあたっては留学生たちが店づくりを手伝ったといいます。留学中の周恩来もこの店によく通いました。 好きだったのは郷里江蘇省の家庭料理「清燉獅子頭(チンドゥシーズートゥ)」(大きな肉団子入りスープ)でしたが,学生の身には高価でいつも食べていたというわけではなかったようです。
中華民国留学生癸亥地震遭難招魂碑
【近代の日中・日朝関係の記憶】関東大震災に遭遇した中国人留学生たちはどうなったのでしょうか?
江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母として権勢を振った春日局(かすがのつぼね)の墓所として知られる湯島の麟祥院。 ここに「中華民国留学生癸亥(きがい)地震遭難招魂碑」と刻まれた石碑があります。 癸亥地震とは,1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のことです。 この大震災で,当時日本に留学していた多くの中国人留学生も被災しています。 大震災が発生した直後から,被災した中国人留学生の救護や本国への帰還を推し進める活動を展開したのが日華学会でした。 日華学会は,1918(大正7)年に渋沢栄一ら財界人が一部官僚と提携し日中関係の改善融和を目指して設立した団体です。 大震災のあった年の10月には,亡くなった中国人留学生とその家族の追悼会が,当時の文相岡野敬次郎や日華学会の会長細川護立ら数百名が参加して麟祥院で催されました。 招魂碑は,その翌年の9月,大震災から一年がたったことから日華学会によって建てられたもので,碑の背面には,亡くなった25名の氏名や本籍地・学校・罹災場所などが刻まれています。
江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母として権勢を振った春日局(かすがのつぼね)の墓所として知られる湯島の麟祥院。 ここに「中華民国留学生癸亥(きがい)地震遭難招魂碑」と刻まれた石碑があります。 癸亥地震とは,1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のことです。 この大震災で,当時日本に留学していた多くの中国人留学生も被災しています。 大震災が発生した直後から,被災した中国人留学生の救護や本国への帰還を推し進める活動を展開したのが日華学会でした。 日華学会は,1918(大正7)年に渋沢栄一ら財界人が一部官僚と提携し日中関係の改善融和を目指して設立した団体です。 大震災のあった年の10月には,亡くなった中国人留学生とその家族の追悼会が,当時の文相岡野敬次郎や日華学会の会長細川護立ら数百名が参加して麟祥院で催されました。 招魂碑は,その翌年の9月,大震災から一年がたったことから日華学会によって建てられたもので,碑の背面には,亡くなった25名の氏名や本籍地・学校・罹災場所などが刻まれています。
木母寺の裏門を出ると,塀沿いに「守命供時(天命を守り保つためには時勢と共にしなければならない)」の碑があります。 この碑は,1882(明治15)年に朝鮮の漢城(現在のソウル)で起きた壬午(じんご)軍乱で殺害された日本人14名を追悼して1897(明治30)年に建てられました。 壬午軍乱が起きた当時,朝鮮の政治の実権を握っていたのは国王高宗の妃(閔妃・びんひ)の一族で,朝鮮への影響力を強める日本の指導下で内政や軍隊などの改革を進めていました。 一方,国王の父・大院君を中心とした守旧派と呼ばれる一派は,この動きに強く反発していました。 1881(明治14)年に日本の指導による新式軍隊ができると,待遇の差に不満を募らせていた旧軍兵士は俸給米の遅配問題を機に反乱を起こしました。 これが壬午軍乱です。 背後には政権掌握を目指す大院君一派がありました。 この軍乱で軍事顧問・堀本禮造(れいぞう)中尉をはじめ陸軍省語学生ら7名が殺害され,日本公使館も放火されました。 弁理公使花房義質(よしもと)らは仁川に逃れましたが,そこも襲撃され公使館員や巡査ら7名が殺害されました。 碑は花房らが建てたものです。
木母寺の裏門を出ると,塀沿いに「守命供時(天命を守り保つためには時勢と共にしなければならない)」の碑があります。 この碑は,1882(明治15)年に朝鮮の漢城(現在のソウル)で起きた壬午(じんご)軍乱で殺害された日本人14名を追悼して1897(明治30)年に建てられました。 壬午軍乱が起きた当時,朝鮮の政治の実権を握っていたのは国王高宗の妃(閔妃・びんひ)の一族で,朝鮮への影響力を強める日本の指導下で内政や軍隊などの改革を進めていました。 一方,国王の父・大院君を中心とした守旧派と呼ばれる一派は,この動きに強く反発していました。 1881(明治14)年に日本の指導による新式軍隊ができると,待遇の差に不満を募らせていた旧軍兵士は俸給米の遅配問題を機に反乱を起こしました。 これが壬午軍乱です。 背後には政権掌握を目指す大院君一派がありました。 この軍乱で軍事顧問・堀本禮造(れいぞう)中尉をはじめ陸軍省語学生ら7名が殺害され,日本公使館も放火されました。 弁理公使花房義質(よしもと)らは仁川に逃れましたが,そこも襲撃され公使館員や巡査ら7名が殺害されました。 碑は花房らが建てたものです。
青山霊園の外国人墓地にある,ひときわ大きな板状の墓碑が金玉均(きんぎょくきん)の墓です。 金玉均は,1882(明治15)年に2度目の来日を果たし,福沢諭吉らの支援で約半年間の留学生活を送りました。 日本の明治維新にならって朝鮮の近代化を図ろうとした金は,来日経験のある朴泳孝(ぼくえいこう)らとともに独立党を組織し,清国に依存しながら政権を保っていた国王の妃(閔妃・びんひ)一族の打倒を目指します。 1884(明治17)年,清国がフランスと戦争を始めるとこれを好機とみた独立党は,日本公使館の援助を得てクーデターを起こしました。 これは甲申事変(こうしんじへん)と呼ばれています。 しかし,このクーデターは失敗に終わり,日本に亡命した金はおよそ10年間を日本で過ごしますが,その生活は悲惨なものだったといいます。 その後,金は清国政府に朝鮮の改革を訴えるため上海に渡りましたが,閔妃の一族が送り込んだ刺客によって暗殺されてしまいました。 墓碑は,のちに首相となる犬養毅や国家主義者として知られる頭山満(とおやまみつる)らの支援で建てられました。撰文は同志の朴泳孝によるものです。
青山霊園の外国人墓地にある,ひときわ大きな板状の墓碑が金玉均(きんぎょくきん)の墓です。 金玉均は,1882(明治15)年に2度目の来日を果たし,福沢諭吉らの支援で約半年間の留学生活を送りました。 日本の明治維新にならって朝鮮の近代化を図ろうとした金は,来日経験のある朴泳孝(ぼくえいこう)らとともに独立党を組織し,清国に依存しながら政権を保っていた国王の妃(閔妃・びんひ)一族の打倒を目指します。 1884(明治17)年,清国がフランスと戦争を始めるとこれを好機とみた独立党は,日本公使館の援助を得てクーデターを起こしました。 これは甲申事変(こうしんじへん)と呼ばれています。 しかし,このクーデターは失敗に終わり,日本に亡命した金はおよそ10年間を日本で過ごしますが,その生活は悲惨なものだったといいます。 その後,金は清国政府に朝鮮の改革を訴えるため上海に渡りましたが,閔妃の一族が送り込んだ刺客によって暗殺されてしまいました。 墓碑は,のちに首相となる犬養毅や国家主義者として知られる頭山満(とおやまみつる)らの支援で建てられました。撰文は同志の朴泳孝によるものです。
2・8独立宣言書(2・8独立宣言記念資料室蔵)
【近代の日中・日朝関係の記憶】第一次大戦後,朝鮮人留学生たちがおこなった「2・8独立宣言」はどんな役割を果たしたのでしょうか?
第一次世界大戦の後,アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」の意識が世界的に高まりました。そのなかで,在日朝鮮人留学生の間にも日本による支配からの民族独立をめざす動きが生まれてきます。 1919(大正8)年2月8日,在日本東京朝鮮YMCA(現,在日本韓国YMCA)の講堂で開催された「朝鮮留学生学友会総会」において,独立運動の中心メンバーが朝鮮独立の宣言書を読みあげ,満場一致でその宣言書が採択されました。 しかし,乱入してきた警察官によって中心メンバーのほとんどが検挙されてしまいます。 この事件は海外でも報道されて波紋を呼び,独立宣言書はソウルにも伝えられて,同年,朝鮮全土にわたって起こされる抗日独立運動(三・一独立運動)につながっていきました。 神田にある在日本韓国YMCAの2階には「2・8独立宣言記念資料室」が設けられていて,独立宣言書の写しや宣言書に署名した11名の留学生の写真など2・8独立宣言に関わる様々な資料が展示されています。
【近代の日中・日朝関係の記憶】第一次大戦後,朝鮮人留学生たちがおこなった「2・8独立宣言」はどんな役割を果たしたのでしょうか?
第一次世界大戦の後,アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」の意識が世界的に高まりました。そのなかで,在日朝鮮人留学生の間にも日本による支配からの民族独立をめざす動きが生まれてきます。 1919(大正8)年2月8日,在日本東京朝鮮YMCA(現,在日本韓国YMCA)の講堂で開催された「朝鮮留学生学友会総会」において,独立運動の中心メンバーが朝鮮独立の宣言書を読みあげ,満場一致でその宣言書が採択されました。 しかし,乱入してきた警察官によって中心メンバーのほとんどが検挙されてしまいます。 この事件は海外でも報道されて波紋を呼び,独立宣言書はソウルにも伝えられて,同年,朝鮮全土にわたって起こされる抗日独立運動(三・一独立運動)につながっていきました。 神田にある在日本韓国YMCAの2階には「2・8独立宣言記念資料室」が設けられていて,独立宣言書の写しや宣言書に署名した11名の留学生の写真など2・8独立宣言に関わる様々な資料が展示されています。
旧李王家東京邸(赤坂プリンスクラシックハウス)
【近代の日中・日朝関係の記憶】「赤坂プリンスクラシックハウス」のかつてのあるじだった朝鮮の王族・李垠(イウン)とは,どんな人物だったのでしょうか?
東京メトロ永田町駅から0分の東京ガーデンテラス紀尾井町。 そこにある「赤坂プリンスクラシックハウス」は,朝鮮の李(り)王家東京邸として1930(昭和5)に建てられたものです。 大韓帝国(1897・明治30年から朝鮮は「大韓帝国」を国号としています)最後の皇帝純宗(じゅんそう)の皇太子だった李垠は,その妻方子(まさこ)とこの邸宅で暮らしていました。 李垠は,1907(明治40)年,10歳のときに留学の名目で来日しました。 1910(明治43)年の日韓併合によって父・純宗らとともに,朝鮮王族として日本の皇族に準じる待遇を受けるようになります。 その後,陸軍中央幼年学校や陸軍士官学校で学び,太平洋戦争中には陸軍中将,軍事参議官にもなっています。 梨本宮守正(なしもとのみやもりまさ)の第一王女方子と結婚したのは1920(大正9)年のことで,「日鮮融和」「内鮮一体」を標榜する日本政府の政略によるものといいます。 塔屋付の鉄筋コンクリート造一部木造2階建ての邸宅は,宮内省内匠寮(たくみりょう)の設計で,外観は窓や正面車寄せにみられるアーチを特徴とするイギリスのチュダー様式を基調としています。
【近代の日中・日朝関係の記憶】「赤坂プリンスクラシックハウス」のかつてのあるじだった朝鮮の王族・李垠(イウン)とは,どんな人物だったのでしょうか?
東京メトロ永田町駅から0分の東京ガーデンテラス紀尾井町。 そこにある「赤坂プリンスクラシックハウス」は,朝鮮の李(り)王家東京邸として1930(昭和5)に建てられたものです。 大韓帝国(1897・明治30年から朝鮮は「大韓帝国」を国号としています)最後の皇帝純宗(じゅんそう)の皇太子だった李垠は,その妻方子(まさこ)とこの邸宅で暮らしていました。 李垠は,1907(明治40)年,10歳のときに留学の名目で来日しました。 1910(明治43)年の日韓併合によって父・純宗らとともに,朝鮮王族として日本の皇族に準じる待遇を受けるようになります。 その後,陸軍中央幼年学校や陸軍士官学校で学び,太平洋戦争中には陸軍中将,軍事参議官にもなっています。 梨本宮守正(なしもとのみやもりまさ)の第一王女方子と結婚したのは1920(大正9)年のことで,「日鮮融和」「内鮮一体」を標榜する日本政府の政略によるものといいます。 塔屋付の鉄筋コンクリート造一部木造2階建ての邸宅は,宮内省内匠寮(たくみりょう)の設計で,外観は窓や正面車寄せにみられるアーチを特徴とするイギリスのチュダー様式を基調としています。