全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
関連するめっけブック
紹介スポット
- 1088件寛政の津波供養塔(島原大変肥後迷惑)
網田の一角に、1792年の島原大変肥後迷惑の碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
網田の一角に、1792年の島原大変肥後迷惑の碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
外所地震の供養碑
寛文2(1662)年に発生した外所(とんどころ)地震の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
50年ごとに1基ずつ新たな碑を建てて後世に悲惨な地震のことを伝え、再び悲惨な災害が繰り返すことのないようにと、1712年の石碑から2007年の石碑まで、7基が兄弟のように並んでいます。
50年ごとに1基ずつ新たな碑を建てて後世に悲惨な地震のことを伝え、再び悲惨な災害が繰り返すことのないようにと、1712年の石碑から2007年の石碑まで、7基が兄弟のように並んでいます。
津波襲来の碑(チリ津波)
大浦湾の入り江の奥、アサギ前の広場にチリ津波の石碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)
1960年に発生したチリ津波は沖縄県にも被害を及ぼしました。碑文は「午前5時半ごろから数回に亘り襲来 津波高五mにも及び大浦橋が全壊 護岸も決壊 全家屋浸水し生活用品 家畜等が流失 消滅した」とあります。
大浦湾の入り江の奥、アサギ前の広場にチリ津波の石碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)
1960年に発生したチリ津波は沖縄県にも被害を及ぼしました。碑文は「午前5時半ごろから数回に亘り襲来 津波高五mにも及び大浦橋が全壊 護岸も決壊 全家屋浸水し生活用品 家畜等が流失 消滅した」とあります。
「淪没弧魂両縁塔」(正覚院)
江差町「正覚院」にある寛保津波の碑。遥か渡島大島からの津波は一部で約10㍍に達したと推定されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
1741年8月に発生した寛保津波は、江差や松前をはじめ、津軽や佐渡、北陸に至る日本海側にまで影響が及びました。寛保津波は渡島大島の噴火によって発生した山体崩壊に伴う津波で、人的被害もさることながら家屋の倒壊約800戸、船の被害は1500艘以上に上ったといわれます。火山と災害にも十分な注意が必要ですね。
江差町「正覚院」にある寛保津波の碑。遥か渡島大島からの津波は一部で約10㍍に達したと推定されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
1741年8月に発生した寛保津波は、江差や松前をはじめ、津軽や佐渡、北陸に至る日本海側にまで影響が及びました。寛保津波は渡島大島の噴火によって発生した山体崩壊に伴う津波で、人的被害もさることながら家屋の倒壊約800戸、船の被害は1500艘以上に上ったといわれます。火山と災害にも十分な注意が必要ですね。
希望の灯り(東日本大震災)
東日本大震災で被害を受けた陸前高田に、神戸から届けられた希望の灯りです。(防災ジャーナリスト/森隆)
陸前高田「気仙大工左官伝承館」の一角に、阪神・淡路大震災で甚大な被害のあった神戸から希望の灯りが届けられました。碑には「2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災で被災された方々に少しでも希望を持っていただきたいとの思いから 国内外からのご寄付をもとに被災地のみなさんとボランティアが協力して建立しました」とあります。
陸前高田「気仙大工左官伝承館」の一角に、阪神・淡路大震災で甚大な被害のあった神戸から希望の灯りが届けられました。碑には「2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災で被災された方々に少しでも希望を持っていただきたいとの思いから 国内外からのご寄付をもとに被災地のみなさんとボランティアが協力して建立しました」とあります。
大海嘯記念(昭和三陸地震)
浄土ヶ浜には昭和三陸地震津波とチリ地震の石碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)
マグニチュード8.1の昭和三陸地震の碑です。「大地震の後には津波が来る」「大地震があったら高い所へ集まれ」「津浪に追われたら何処でも高い所へ」「遠くへ逃げては津浪に追いつかれる、常に逃げ場を用意しておけ」「家を建てるなら津浪の来ぬ安全地帯へ」と、いつの時代も変わらない鉄則が述べられています。
マグニチュード8.1の昭和三陸地震の碑です。「大地震の後には津波が来る」「大地震があったら高い所へ集まれ」「津浪に追われたら何処でも高い所へ」「遠くへ逃げては津浪に追いつかれる、常に逃げ場を用意しておけ」「家を建てるなら津浪の来ぬ安全地帯へ」と、いつの時代も変わらない鉄則が述べられています。
カタカナの碑(昭和三陸地震津波)
昭和三陸地震津波(1933年)の教訓を伝える碑。碑文は読みづらいですが、全文カタカナで記されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は風化して読むことが難しいですが、国土交通省東北地方整備局の史料によれば「ヂシンガシタラバユダンヲスルナ」「ヂシンガアッタラタカイトコロニアヅマレ」「ツナミニオワレタラタカイトコロニアガレ」「チカクノタカイトコロヲヨウイシテオケ」「オカミノサダメタヤシキチヨリヒクイトコロニ家ヲタテルナ」(津波被害・津波石碑情報アーカイブ)と記されています。
昭和三陸地震津波(1933年)の教訓を伝える碑。碑文は読みづらいですが、全文カタカナで記されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は風化して読むことが難しいですが、国土交通省東北地方整備局の史料によれば「ヂシンガシタラバユダンヲスルナ」「ヂシンガアッタラタカイトコロニアヅマレ」「ツナミニオワレタラタカイトコロニアガレ」「チカクノタカイトコロヲヨウイシテオケ」「オカミノサダメタヤシキチヨリヒクイトコロニ家ヲタテルナ」(津波被害・津波石碑情報アーカイブ)と記されています。
津波到達地の碑(東日本大震災)
三陸鉄道北リアス線「田野畑駅」前の碑。東日本大震災の津波はなんど標高18メートルのこの駅も襲いました。(防災ジャーナリスト/森隆)
標高約18㍍の高台にある「田野畑駅」。宮沢賢治の童話にちなんで「カンパネルラ」の愛称が付けられています。近くの漁港から攻め入った津波は、その高さを増し、ついに駅にも達しました。現在、駅前の広場の一角には、「津波到達地」の碑が建っています。この駅から見る港は、はるか下方。まさかこの高さまで津波が来ようとは、誰が想像しえたでしょうか。
三陸鉄道北リアス線「田野畑駅」前の碑。東日本大震災の津波はなんど標高18メートルのこの駅も襲いました。(防災ジャーナリスト/森隆)
標高約18㍍の高台にある「田野畑駅」。宮沢賢治の童話にちなんで「カンパネルラ」の愛称が付けられています。近くの漁港から攻め入った津波は、その高さを増し、ついに駅にも達しました。現在、駅前の広場の一角には、「津波到達地」の碑が建っています。この駅から見る港は、はるか下方。まさかこの高さまで津波が来ようとは、誰が想像しえたでしょうか。
奇跡の集落(東日本大震災)
東日本大震災で16㍍を超える津波が押し寄せた吉浜湾。この村が奇跡の集落といわれる所以とは…。(防災ジャーナリスト/森隆)
過去の津波の教訓から高台移転を行った吉浜の村。東日本大震災でも人的被害は最小限に抑えられました。碑文は「きせきのしゅうらく」とひらがなで記され、各々の文字が頭文字になっていて、「『き』絆を大切に希望を持って生きる、『せ』先人の教えを守り 生かされた命、『き』きっとまた来る大津波、『の』のぼれ!山へ高台へ、『しゅ』集落みんなの命のため、『う』美しい海 青い空 私の故郷、『ら』らせん階段のように みんなで語り伝え、『く』暮らしてゆこう 奇跡の集落 吉浜の里で」と結んでいます。
東日本大震災で16㍍を超える津波が押し寄せた吉浜湾。この村が奇跡の集落といわれる所以とは…。(防災ジャーナリスト/森隆)
過去の津波の教訓から高台移転を行った吉浜の村。東日本大震災でも人的被害は最小限に抑えられました。碑文は「きせきのしゅうらく」とひらがなで記され、各々の文字が頭文字になっていて、「『き』絆を大切に希望を持って生きる、『せ』先人の教えを守り 生かされた命、『き』きっとまた来る大津波、『の』のぼれ!山へ高台へ、『しゅ』集落みんなの命のため、『う』美しい海 青い空 私の故郷、『ら』らせん階段のように みんなで語り伝え、『く』暮らしてゆこう 奇跡の集落 吉浜の里で」と結んでいます。
嗚呼惨哉海嘯の碑(明治三陸地震)
明治三陸地震津波で亡くなった村人の名が記された石碑。この地を訪れた石川啄木もこの碑を見て悲しんだとも。(防災ジャーナリスト/森隆)
吉浜に明治29(1896)年、明治三陸地震津波が襲来。この地震は緩い揺れだったことから、多くの村人は24㍍もの巨大な津波の来襲を予想できず、約200人が波間に消えました。1000人ほどの村だけに、人口の2割が失われたことになります。後に石川啄木もこの地を訪れ、哀悼の意を表しています。
明治三陸地震津波で亡くなった村人の名が記された石碑。この地を訪れた石川啄木もこの碑を見て悲しんだとも。(防災ジャーナリスト/森隆)
吉浜に明治29(1896)年、明治三陸地震津波が襲来。この地震は緩い揺れだったことから、多くの村人は24㍍もの巨大な津波の来襲を予想できず、約200人が波間に消えました。1000人ほどの村だけに、人口の2割が失われたことになります。後に石川啄木もこの地を訪れ、哀悼の意を表しています。
昭和三陸地震の碑
「メモリアル・オブ・ザ・グレートアースクウェーク・アンド・タイダルウェーブ」と刻まれた碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
1933年3月3日午前2時半ごろに発生した昭和三陸地震はマグニチュード8.1の海洋型地震。津波は地震後約30分で三陸海岸に押し寄せており、「緑の真珠」と称えれる美しい大島では死者2人、負傷者2人の被害が発生しました。
「メモリアル・オブ・ザ・グレートアースクウェーク・アンド・タイダルウェーブ」と刻まれた碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
1933年3月3日午前2時半ごろに発生した昭和三陸地震はマグニチュード8.1の海洋型地震。津波は地震後約30分で三陸海岸に押し寄せており、「緑の真珠」と称えれる美しい大島では死者2人、負傷者2人の被害が発生しました。
末の松山
寳國寺(ほうこくじ)の裏手にある末の松山。小倉百人一首の中でも津波と共に詠われています。(防災ジャーナリスト/森隆)
小倉百人一首の歌の中で「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは」と詠われた末の松山。男女の仲を西暦869年の貞観津波にたとえたこの一句。津波が末の松山を越えなかったように、二人の愛の誓いも永遠だったはずなのに…。貞観地震は多賀城下でも千人もの溺死者を出したといわれます。東日本大震災の津波もこの末の松山を越えることはありませんでしたとさ。
小倉百人一首の歌の中で「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは」と詠われた末の松山。男女の仲を西暦869年の貞観津波にたとえたこの一句。津波が末の松山を越えなかったように、二人の愛の誓いも永遠だったはずなのに…。貞観地震は多賀城下でも千人もの溺死者を出したといわれます。東日本大震災の津波もこの末の松山を越えることはありませんでしたとさ。
未来の人々に(東日本大震災)
約20㍍の高台にある小泉小学校前に建てられた東日本大震災の碑です。津波は小学校のすぐ下まで迫りました。(防災ジャーナリスト/森隆)
小学校の入り口に建つ高さ4・3㍍、底辺2・85㍍の巨大な石碑。“未来の人々に”で始まる碑文には、「二〇11年三月十一日 午後二時四十六分東日本大震災が起こり 大津波が太平洋沿岸に襲来した。気仙沼市小泉地区は大被害を受け多くの命と家を失ってしまった。学んだことは『地震があったら津波がくる』 ともかく上へ上へと逃げること。『てんでんこに逃げよ』その教えを伝えたい」と記されています。
約20㍍の高台にある小泉小学校前に建てられた東日本大震災の碑です。津波は小学校のすぐ下まで迫りました。(防災ジャーナリスト/森隆)
小学校の入り口に建つ高さ4・3㍍、底辺2・85㍍の巨大な石碑。“未来の人々に”で始まる碑文には、「二〇11年三月十一日 午後二時四十六分東日本大震災が起こり 大津波が太平洋沿岸に襲来した。気仙沼市小泉地区は大被害を受け多くの命と家を失ってしまった。学んだことは『地震があったら津波がくる』 ともかく上へ上へと逃げること。『てんでんこに逃げよ』その教えを伝えたい」と記されています。
大震嘯災記念碑(昭和三陸地震)
唐桑半島先端、唐桑ビジターセンター前にある昭和三陸地震津波の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
三陸ジオパークの一角を成し、巨岩怪石が林立するリアス式海岸で知られ、過去、多くの地震津波にさらされてきた唐桑半島。昭和三陸地震は1933年3月3日午前2時半ごろに発生。マグニチュードは8・1。碑文は「地震があったら津浪の用心」と刻まれ、被害状況などが刻まれています。また、東日本大震災では、唐桑半島を襲った津波は27㍍の高さまで達したといわれます。
唐桑半島先端、唐桑ビジターセンター前にある昭和三陸地震津波の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
三陸ジオパークの一角を成し、巨岩怪石が林立するリアス式海岸で知られ、過去、多くの地震津波にさらされてきた唐桑半島。昭和三陸地震は1933年3月3日午前2時半ごろに発生。マグニチュードは8・1。碑文は「地震があったら津浪の用心」と刻まれ、被害状況などが刻まれています。また、東日本大震災では、唐桑半島を襲った津波は27㍍の高さまで達したといわれます。
東日本大震災の碑
東日本大震災で津波が押し寄せた塩釜港。海岸沿いの千賀の浦緑地の一角には震災のモニュメントが建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
壁のように屹立した石碑には、津波のイメージと共に、浸水位置の2㍍30㌢のラインが記されています。さらに、その横には津波浸水域の地図と共に、「自然の力を心に刻み 未来を見つめ塩竈に生きる」といった碑文が刻まれた石碑もあり、深刻な被害の出た東日本大震災を後世に伝えています。
東日本大震災で津波が押し寄せた塩釜港。海岸沿いの千賀の浦緑地の一角には震災のモニュメントが建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
壁のように屹立した石碑には、津波のイメージと共に、浸水位置の2㍍30㌢のラインが記されています。さらに、その横には津波浸水域の地図と共に、「自然の力を心に刻み 未来を見つめ塩竈に生きる」といった碑文が刻まれた石碑もあり、深刻な被害の出た東日本大震災を後世に伝えています。
いのちの石碑(東日本大震災)
千年先の命を守りたいとの思いから、地域の中学生たちが中心となって、21の浜に建てた石碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
石碑は「東日本大震災で、多くの人々の尊い命が失われました。地震後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。(中略)ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」と、強く訴えています。
千年先の命を守りたいとの思いから、地域の中学生たちが中心となって、21の浜に建てた石碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
石碑は「東日本大震災で、多くの人々の尊い命が失われました。地震後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。(中略)ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」と、強く訴えています。
千年希望の丘(東日本大震災)
東日本大震災の震災廃棄物を埋め立てた千年希望の丘。モニュメントが震災の記憶を後世に伝えます。(防災ジャーナリスト/森隆)
空港横の相野釜エリアと呼ばれる一角に東日本大震災慰霊碑とモニュメントが建っています。天を指すように伸びる2本の塔は津波の遡上高と人と人が支え合う形をイメージし、中心の鐘は鎮魂と記憶、希望の意味が込められているといいます。
東日本大震災の震災廃棄物を埋め立てた千年希望の丘。モニュメントが震災の記憶を後世に伝えます。(防災ジャーナリスト/森隆)
空港横の相野釜エリアと呼ばれる一角に東日本大震災慰霊碑とモニュメントが建っています。天を指すように伸びる2本の塔は津波の遡上高と人と人が支え合う形をイメージし、中心の鐘は鎮魂と記憶、希望の意味が込められているといいます。
東日本大震災唐桑復興祈願碑
唐桑半島のちょうど付け根。早馬の一角にある東日本大震災の碑です。碑は神社を上がった所にあります。(防災ジャーナリスト/森隆)
津波を模した黒い御影石の表面には「子々孫々に語り継げ」と刻まれ、津波の恐ろしさを後世に伝えています。碑文には「東日本大震災大津波により宿浦地区には約十五mの津波が押し寄せ、神社境内には二・二m浸水。唐桑沿岸全体が被災した。この碑は全国より唐桑の早期の復興を祈願して建立された」とあります。また、車が鳥居の横まで打ち上げられた様子なども知ることができます。
唐桑半島のちょうど付け根。早馬の一角にある東日本大震災の碑です。碑は神社を上がった所にあります。(防災ジャーナリスト/森隆)
津波を模した黒い御影石の表面には「子々孫々に語り継げ」と刻まれ、津波の恐ろしさを後世に伝えています。碑文には「東日本大震災大津波により宿浦地区には約十五mの津波が押し寄せ、神社境内には二・二m浸水。唐桑沿岸全体が被災した。この碑は全国より唐桑の早期の復興を祈願して建立された」とあります。また、車が鳥居の横まで打ち上げられた様子なども知ることができます。
東日本大震災の碑
かつて蒲生干潟と呼ばれ、サンクチュアリーとして知られたこの地。東日本大震災では壊滅的な被害に遭いました。(防災ジャーナリスト/森隆)
日和山の麓に佇む半円形の白い石碑には、空を舞い、旅立つ鳥、干潟に遊ぶ蟹、浜に生い茂る植物の姿が刻まれており、碑文は「地震の規模マグニチュード9・0 震度6強(宮城野区) 地震の約1時間後に襲来した大津波により、避難が遅れた方や、避難誘導に奮闘した蒲生、港、西原町内会役員など、多くの方がこの地で犠牲となりました」とあります。
かつて蒲生干潟と呼ばれ、サンクチュアリーとして知られたこの地。東日本大震災では壊滅的な被害に遭いました。(防災ジャーナリスト/森隆)
日和山の麓に佇む半円形の白い石碑には、空を舞い、旅立つ鳥、干潟に遊ぶ蟹、浜に生い茂る植物の姿が刻まれており、碑文は「地震の規模マグニチュード9・0 震度6強(宮城野区) 地震の約1時間後に襲来した大津波により、避難が遅れた方や、避難誘導に奮闘した蒲生、港、西原町内会役員など、多くの方がこの地で犠牲となりました」とあります。
津波の教え(東日本大震災)
東松島市牛網地区に建つ東日本大震災の石碑。碑の上で楽し気に戯れる母と子の姿が印象的です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は「私達は、この日を教訓として後世に伝え続けたい。誰しも予想しない大津波が襲い、愛する父、母、子、兄弟、友人、知人と多くの人を失いました。多くの家が、そして我が家も流されました。ここは『大丈夫』ではありません。常に心がけて再び悔いの残らぬようにまずは逃げる…高台へ。伝えてほしい未来に生きる人達へ」とあります。
東松島市牛網地区に建つ東日本大震災の石碑。碑の上で楽し気に戯れる母と子の姿が印象的です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は「私達は、この日を教訓として後世に伝え続けたい。誰しも予想しない大津波が襲い、愛する父、母、子、兄弟、友人、知人と多くの人を失いました。多くの家が、そして我が家も流されました。ここは『大丈夫』ではありません。常に心がけて再び悔いの残らぬようにまずは逃げる…高台へ。伝えてほしい未来に生きる人達へ」とあります。