
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
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- 1088件碑文は「茨城、福島、宮城、岩手、青森各県の太平洋沿岸は、見るも無残な姿に変わりはてた。死者、行方不明者二万人余、倒壊、流失家屋は十数万戸にのぼる惨状となり、その後発生した原子力発電所の事故によって、一時は数えきれない避難民を出すこととなり、中之作、折戸両地区もこの渦中に巻き込まれた」とあり、地震と津波だけでなく、原発事故による惨状をも記録しています。

碑文は「茨城、福島、宮城、岩手、青森各県の太平洋沿岸は、見るも無残な姿に変わりはてた。死者、行方不明者二万人余、倒壊、流失家屋は十数万戸にのぼる惨状となり、その後発生した原子力発電所の事故によって、一時は数えきれない避難民を出すこととなり、中之作、折戸両地区もこの渦中に巻き込まれた」とあり、地震と津波だけでなく、原発事故による惨状をも記録しています。

関内駅の近く、横浜スタジアムに続く横浜公園は関東大震災時に多くの避難者が逃げ込んだ地。その入り口付近に、公園の由来を刻んだ石碑があり、碑文には、「大正十二年九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多數の市民は緑陰池邊に避難して危くも九死に一生を得たり」と続き、多くの避難者の命が救われたことが記されています。

関内駅の近く、横浜スタジアムに続く横浜公園は関東大震災時に多くの避難者が逃げ込んだ地。その入り口付近に、公園の由来を刻んだ石碑があり、碑文には、「大正十二年九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多數の市民は緑陰池邊に避難して危くも九死に一生を得たり」と続き、多くの避難者の命が救われたことが記されています。

地震後、大火災に見舞われた横浜。特に酸鼻を極めたのが横浜地方裁判所です。古い煉瓦造りの建物は一瞬にして倒壊。所長以下、所員、判検事、訴訟関係者、傍聴者など百数十人が犠牲となりました。

地震後、大火災に見舞われた横浜。特に酸鼻を極めたのが横浜地方裁判所です。古い煉瓦造りの建物は一瞬にして倒壊。所長以下、所員、判検事、訴訟関係者、傍聴者など百数十人が犠牲となりました。

碑文は1703年に元禄地震が起きたことと、小田原城の総石垣が宝永2(1705)年4月に再興できたことを告げています。実はこの石碑、天守台の石垣に埋め込まれていたものですが、大正12(1923)年の関東大震災で天守台石垣が崩落し、偶然に発見されました。

碑文は1703年に元禄地震が起きたことと、小田原城の総石垣が宝永2(1705)年4月に再興できたことを告げています。実はこの石碑、天守台の石垣に埋め込まれていたものですが、大正12(1923)年の関東大震災で天守台石垣が崩落し、偶然に発見されました。

関東大震災の土砂崩れでできた地震峠。ここには観音像とともに、地震で埋もれた人々を弔った供養碑が建っています。碑の説明板には「ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。」とあり、今でもこの峠のどこかに無念の死を遂げた人々が眠っていることを伝えています。

関東大震災の土砂崩れでできた地震峠。ここには観音像とともに、地震で埋もれた人々を弔った供養碑が建っています。碑の説明板には「ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。」とあり、今でもこの峠のどこかに無念の死を遂げた人々が眠っていることを伝えています。

関東大震災でできた「震生湖」近くの一角に、地震の土砂崩れで帰らぬ人となった13歳と11歳の2人の少女が眠っています。この少女たちを偲ぶ石碑です。震生湖には物理学者で随筆家の「寺田寅彦」の句碑も残っています。

関東大震災でできた「震生湖」近くの一角に、地震の土砂崩れで帰らぬ人となった13歳と11歳の2人の少女が眠っています。この少女たちを偲ぶ石碑です。震生湖には物理学者で随筆家の「寺田寅彦」の句碑も残っています。

元禄地震は房総半島の南方約20㌔周辺の相模トラフを震源として発生。高さ約2・4mのこの塔は、過去、房総の地に幾度もの惨禍をもたらした慶長時代や寛永時代の地震などの犠牲者の供養と災害の絶無を願い建てられ、その後、最も凄惨な被害を及ぼした元禄地震の犠牲者を弔うために現在の千人塚に移設されたものといわれます。

元禄地震は房総半島の南方約20㌔周辺の相模トラフを震源として発生。高さ約2・4mのこの塔は、過去、房総の地に幾度もの惨禍をもたらした慶長時代や寛永時代の地震などの犠牲者の供養と災害の絶無を願い建てられ、その後、最も凄惨な被害を及ぼした元禄地震の犠牲者を弔うために現在の千人塚に移設されたものといわれます。

碑文は漢文体で関東大震災における東京・横浜の惨状をはじめ、当時の安房郡の被害状況などが詳細に刻まれています。特に、高齢者の中には逃げるいとまがなく圧死した者がいたことなどを記しているほか、住宅だけでなく警察や役場などの官舎も倒壊したと伝えています。隆起した島は、現在、海水浴場に。

碑文は漢文体で関東大震災における東京・横浜の惨状をはじめ、当時の安房郡の被害状況などが詳細に刻まれています。特に、高齢者の中には逃げるいとまがなく圧死した者がいたことなどを記しているほか、住宅だけでなく警察や役場などの官舎も倒壊したと伝えています。隆起した島は、現在、海水浴場に。

横網町公園の一角に建つ「関東大震災遭難児童弔魂像」があります。震災で亡くなった5000人の児童の魂を弔う目的で建てられたもので、今にも力尽きそうな子、迫りくる火を見上げる子、心配そうにすがる裸の幼児が並び、涙を誘います。

横網町公園の一角に建つ「関東大震災遭難児童弔魂像」があります。震災で亡くなった5000人の児童の魂を弔う目的で建てられたもので、今にも力尽きそうな子、迫りくる火を見上げる子、心配そうにすがる裸の幼児が並び、涙を誘います。

碑文は「時 平成二十三年三月十一日午後二時過ぎ 寒冷曇天の下 突如として地軸ゆがみ激動して東日本大震災発生す この災害 尊崇厚き回天神社の象徴たる忠魂碑を初め元治元年甲子ノ変における水戸市史跡水戸殉難志士の墓等は倒壊破損 壊滅的被害を蒙りたり」との被害を伝えています。

碑文は「時 平成二十三年三月十一日午後二時過ぎ 寒冷曇天の下 突如として地軸ゆがみ激動して東日本大震災発生す この災害 尊崇厚き回天神社の象徴たる忠魂碑を初め元治元年甲子ノ変における水戸市史跡水戸殉難志士の墓等は倒壊破損 壊滅的被害を蒙りたり」との被害を伝えています。
