全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
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紹介スポット
- 1088件福岡県西方沖地震玄界島復興モニュメント「翔」
福岡県西方沖地震(2005年)で被害のあった玄界島に建つ碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は「玄界島は壊滅的な被害を受けました。無残な姿で途方にくれる日々でしたが島民が一致団結し、(中略)離ればなれに生活していた家族・親族が新しく生まれ変わった『故郷玄界島』で生活を再開し、復興した喜びをかみしめながら、これからは多くの方々に訪れてもらえるような玄界島を目指し…」とあります。
福岡県西方沖地震(2005年)で被害のあった玄界島に建つ碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は「玄界島は壊滅的な被害を受けました。無残な姿で途方にくれる日々でしたが島民が一致団結し、(中略)離ればなれに生活していた家族・親族が新しく生まれ変わった『故郷玄界島』で生活を再開し、復興した喜びをかみしめながら、これからは多くの方々に訪れてもらえるような玄界島を目指し…」とあります。
追悼碑(積丹半島沖地震)
天塩川河口近くに建つ神威岬沖地震慰霊碑。家族5人を失いながら、奇跡的に助かった女性の思いが記されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
神威岬沖地震(積丹半島地震)は1940年8月2日、午前0時すぎに発生。地震の規模を示すマグニチュードは7.5。津波が北海道西岸を急襲し、沿岸に被害をもたらし、天塩の町では死者10人を数えました。日本海側の津波に関しては2014年、政府が日本海側の大規模地震の報告書を公表し、稚内市では平地で最大7・1㍍、天塩町で最大5㍍のほか、日本海沿岸の各市町村で数メートル規模の津波高が想定されています。
天塩川河口近くに建つ神威岬沖地震慰霊碑。家族5人を失いながら、奇跡的に助かった女性の思いが記されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
神威岬沖地震(積丹半島地震)は1940年8月2日、午前0時すぎに発生。地震の規模を示すマグニチュードは7.5。津波が北海道西岸を急襲し、沿岸に被害をもたらし、天塩の町では死者10人を数えました。日本海側の津波に関しては2014年、政府が日本海側の大規模地震の報告書を公表し、稚内市では平地で最大7・1㍍、天塩町で最大5㍍のほか、日本海沿岸の各市町村で数メートル規模の津波高が想定されています。
十勝沖地震・チリ地震津波災害 復興記念碑 (1952年十勝沖地震 チリ地震津波)
潮見橋のたもとに白い母子像が建っています。これは十勝沖地震津波で亡くなった親子の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
十勝沖地震は昭和27(1952)年3月4日、午前10時23分に発生。マグニチュード8・2の巨大地震で、震源は襟裳岬の東方約70㌔、震源の深さは約45㌔と推定されています。この地震で十勝から釧路の沿岸などでは震度6を記録。集合煙突の倒壊、ズリ山の崩壊、津波などによる死者・行方不明者は合計33人、住家は全壊815棟、半壊1324棟の被害を出しました。
潮見橋のたもとに白い母子像が建っています。これは十勝沖地震津波で亡くなった親子の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
十勝沖地震は昭和27(1952)年3月4日、午前10時23分に発生。マグニチュード8・2の巨大地震で、震源は襟裳岬の東方約70㌔、震源の深さは約45㌔と推定されています。この地震で十勝から釧路の沿岸などでは震度6を記録。集合煙突の倒壊、ズリ山の崩壊、津波などによる死者・行方不明者は合計33人、住家は全壊815棟、半壊1324棟の被害を出しました。
震嘯災記念碑(昭和三陸地震)
館鼻公園の一角にある昭和三陸地震の碑。灯台のような形をした珍しい碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
昭和三陸地震は1933年3月3日、午前2時半ごろに発生。震源は三陸沖約200㌔、マグニチュードは8.3の海溝型地震で、三陸沿岸の震度は4~5を記録した。八戸地方の死者・行方不明者は22人。特に港では船舶が流失したり、八戸港築港工事用橋梁が流失するなどの被害が生じました。
館鼻公園の一角にある昭和三陸地震の碑。灯台のような形をした珍しい碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
昭和三陸地震は1933年3月3日、午前2時半ごろに発生。震源は三陸沖約200㌔、マグニチュードは8.3の海溝型地震で、三陸沿岸の震度は4~5を記録した。八戸地方の死者・行方不明者は22人。特に港では船舶が流失したり、八戸港築港工事用橋梁が流失するなどの被害が生じました。
祭畤(まつるべ)被災地展望の丘(岩手・宮城内陸地震)
一関から秋田県へ抜ける国道342号線の途中、崩落した祭畤大橋が岩手・宮城内陸地震の凄さを伝えています。(防災ジャーナリスト/森隆)
平成20(2008)年6月14日、祭畤の北、約1・5㌔を震源とするマグニチュード7・2の岩手・宮城内陸地震が発生。この地震で崩落した祭畤大橋が遺構として残されています。
一関から秋田県へ抜ける国道342号線の途中、崩落した祭畤大橋が岩手・宮城内陸地震の凄さを伝えています。(防災ジャーナリスト/森隆)
平成20(2008)年6月14日、祭畤の北、約1・5㌔を震源とするマグニチュード7・2の岩手・宮城内陸地震が発生。この地震で崩落した祭畤大橋が遺構として残されています。
「種の慰霊碑」「芽生えの塔」(東日本大震災)
東日本大震災で大津波にのみ込まれた閖上(ゆりあげ)地区のモニュメントです。(防災ジャーナリスト/森隆)
この慰霊碑と慰霊塔は、種から発芽した芽が大きく空へと伸びていく様子を表現しており、東日本大震災の犠牲者が天に昇る姿をイメージしたもの。と同時に、震災を克服し復興への決意を新たにする人々の姿をも重ね合わせています。また、慰霊塔の高さは8.4㍍の津波の高さに合わせているといいます。
東日本大震災で大津波にのみ込まれた閖上(ゆりあげ)地区のモニュメントです。(防災ジャーナリスト/森隆)
この慰霊碑と慰霊塔は、種から発芽した芽が大きく空へと伸びていく様子を表現しており、東日本大震災の犠牲者が天に昇る姿をイメージしたもの。と同時に、震災を克服し復興への決意を新たにする人々の姿をも重ね合わせています。また、慰霊塔の高さは8.4㍍の津波の高さに合わせているといいます。
東松島市震災復興慰霊碑 (東日本大震災)
「鎮魂・復旧・感謝 東松島一心」と刻まれた東日本大震災のモニュメント。旧野蒜駅にあります。(防災ジャーナリスト/森隆)
東日本大震災の大津波にのみ込まれた旧野蒜駅。当時の駅は今、震災遺構となっています。その一角、震災復興メモリアルパークにある3柱のモニュメントは駅を襲った3・7㍍の津波の高さを示しています。さらに、小さい丸と緩やかな曲線が犠牲者の御霊を表しています。
「鎮魂・復旧・感謝 東松島一心」と刻まれた東日本大震災のモニュメント。旧野蒜駅にあります。(防災ジャーナリスト/森隆)
東日本大震災の大津波にのみ込まれた旧野蒜駅。当時の駅は今、震災遺構となっています。その一角、震災復興メモリアルパークにある3柱のモニュメントは駅を襲った3・7㍍の津波の高さを示しています。さらに、小さい丸と緩やかな曲線が犠牲者の御霊を表しています。
七ヶ浜町 東日本震災慰霊碑「祈り、そして未来へ」
「蓮沼苑」という霊園の奥、蓮沼苑モニュメント広場に建つ東日本大震災の慰霊碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
台座に刻まれた「祈り そして未来へ」で始まる碑文には、「3・11のあの日 巨大な黒い津波は私たちから愛する人々と先人から受け継いだ美しい七ヶ浜の風景を奪い去った 未来永劫 同じ惨事を繰り返してはならない されど私たちは 偉大なる海への畏敬も忘れまい」とあります。また、石碑には東日本大震災の規模や人的被害、家屋の被害の状況がに記されています。
「蓮沼苑」という霊園の奥、蓮沼苑モニュメント広場に建つ東日本大震災の慰霊碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
台座に刻まれた「祈り そして未来へ」で始まる碑文には、「3・11のあの日 巨大な黒い津波は私たちから愛する人々と先人から受け継いだ美しい七ヶ浜の風景を奪い去った 未来永劫 同じ惨事を繰り返してはならない されど私たちは 偉大なる海への畏敬も忘れまい」とあります。また、石碑には東日本大震災の規模や人的被害、家屋の被害の状況がに記されています。
日本海中部地震大津波殉難者慰霊碑
能代駅から風の松原を挟んで「はまなす展望台」があります。その傍らに慰霊碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
秋田で震度5を記録した1983年の日本海中部地震。津波の第1波は地震発生後約7分で男鹿半島に到達しています。碑文には「こゝに三十六柱の霊魂静かに眠る 果てもなき海原のもと 絶ゆるなき潮騒のなかに君は永遠の眠りに就き給うや 悪夢にも似た一瞬の怒涛に身をゆだねた御身等の面影はきゆるなく 我等が胸に蘇る 恨は深し」とあります。
能代駅から風の松原を挟んで「はまなす展望台」があります。その傍らに慰霊碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
秋田で震度5を記録した1983年の日本海中部地震。津波の第1波は地震発生後約7分で男鹿半島に到達しています。碑文には「こゝに三十六柱の霊魂静かに眠る 果てもなき海原のもと 絶ゆるなき潮騒のなかに君は永遠の眠りに就き給うや 悪夢にも似た一瞬の怒涛に身をゆだねた御身等の面影はきゆるなく 我等が胸に蘇る 恨は深し」とあります。
1960年5月24日チリ地震津波記念碑(チリ地震)
1960年のチリ地震。宮古市の景勝地「浄土ヶ浜」に津波の教訓を記した碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
海に浮かぶ奇岩がまるで極楽浄土のようということから名付けられ、日々、多くの観光客が訪れる浄土ヶ浜。その一角に、昭和三陸地震津波の石碑と並ぶように宮古ロータリークラブによるチリ津波記念碑が建っています。この石碑は「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ」と、揺れに関わりなく海水面の異常を感じたら逃げることを諭していています。
1960年のチリ地震。宮古市の景勝地「浄土ヶ浜」に津波の教訓を記した碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
海に浮かぶ奇岩がまるで極楽浄土のようということから名付けられ、日々、多くの観光客が訪れる浄土ヶ浜。その一角に、昭和三陸地震津波の石碑と並ぶように宮古ロータリークラブによるチリ津波記念碑が建っています。この石碑は「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ」と、揺れに関わりなく海水面の異常を感じたら逃げることを諭していています。
東日本大震災慰霊碑「未来の人々へ」
南三陸町、志津川湾に面した高台の一角、五十鈴神社に建つ東日本大震災の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑には「地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」と刻まれています。さらに、津波の浸水高が約23㍍に達したことを伝え、神社に避難した園児や児童、その他約190人が一夜を明かし助かったといいます。
南三陸町、志津川湾に面した高台の一角、五十鈴神社に建つ東日本大震災の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑には「地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」と刻まれています。さらに、津波の浸水高が約23㍍に達したことを伝え、神社に避難した園児や児童、その他約190人が一夜を明かし助かったといいます。
三河地震追悼之碑
太平洋戦争末期の1945年1月13日、東海地方を襲った三河地震。軍部によって隠された地震でした。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は「数度の上下動と共に一瞬にして殆どの家屋が倒壊し、住民はその下敷きとなった。(中略)住民は一丸となって死傷者の救出や手当に奔走した。血まみれの労力にも拘わらず絶命するものが続出し、まさに、この世の生地獄そのものであった。しかも敗色濃き戦火の末期にて、三河地震の惨状は公表されず、住民は物心両面にわたって、筆舌に尽くしがたい惨苦を舐めた」とあります。
太平洋戦争末期の1945年1月13日、東海地方を襲った三河地震。軍部によって隠された地震でした。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は「数度の上下動と共に一瞬にして殆どの家屋が倒壊し、住民はその下敷きとなった。(中略)住民は一丸となって死傷者の救出や手当に奔走した。血まみれの労力にも拘わらず絶命するものが続出し、まさに、この世の生地獄そのものであった。しかも敗色濃き戦火の末期にて、三河地震の惨状は公表されず、住民は物心両面にわたって、筆舌に尽くしがたい惨苦を舐めた」とあります。
旭市飯岡津波被災「伝えつなぐ大津波」の碑(東日本大震災)
飯岡海岸の一角に、東日本大震災旭市飯岡津波被災の碑「伝えつなぐ大津波」と刻まれた石碑が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文には「飯岡地区沿岸部一帯においては、大津波が数回にわたり来襲し、未曽有の被害がもたらされました。(中略)、この津波被災を将来にわたり忘れ去られることのない教訓として後世に伝えるために、来襲した津波の高さを示すモニュメントを設置し保存する」とあります。石碑の基底部はタイムカプセルも設置されています。
飯岡海岸の一角に、東日本大震災旭市飯岡津波被災の碑「伝えつなぐ大津波」と刻まれた石碑が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文には「飯岡地区沿岸部一帯においては、大津波が数回にわたり来襲し、未曽有の被害がもたらされました。(中略)、この津波被災を将来にわたり忘れ去られることのない教訓として後世に伝えるために、来襲した津波の高さを示すモニュメントを設置し保存する」とあります。石碑の基底部はタイムカプセルも設置されています。
地震津浪遺戒(安政東海地震)
安政東海地震は1854年12月23日に発生した巨大地震。甲賀村妙音寺の一角に碑が残っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は過去の地震で村が流失したことから高台移転したとの前文で始まっています。一方、そうした話は昔話に過ぎないと油断していたことで溺死者11人、家屋411戸などの被害が出たとも。
安政東海地震は1854年12月23日に発生した巨大地震。甲賀村妙音寺の一角に碑が残っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は過去の地震で村が流失したことから高台移転したとの前文で始まっています。一方、そうした話は昔話に過ぎないと油断していたことで溺死者11人、家屋411戸などの被害が出たとも。
安政地震津波碑 (安政東海地震 安政南海地震)
安政東海地震と同南海地震による犠牲者を供養した四天王寺の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
安政南海地震は1854年12月24日、南海トラフを震源とするマグニチュード8・4の巨大地震。碑は犠牲者を供養し、津波災害の状況を後世に伝え警告するために町人一同によって建立されたもので、無縁仏を弔った塔の最上部に建てられています。
安政東海地震と同南海地震による犠牲者を供養した四天王寺の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
安政南海地震は1854年12月24日、南海トラフを震源とするマグニチュード8・4の巨大地震。碑は犠牲者を供養し、津波災害の状況を後世に伝え警告するために町人一同によって建立されたもので、無縁仏を弔った塔の最上部に建てられています。
震災メモリアルパーク(阪神・淡路大震災)
震災で被災したメリケン波止場の一角に建つ、阪神・淡路大震災の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は阪神・淡路大震災のもので、「神戸港の被災状況やその復興の過程を中心に大震災の教訓と港の重要性、さらに国内外の多くの人が一体となって港の復旧、復興に努めた様子を後世に伝える」と記されています。
震災で被災したメリケン波止場の一角に建つ、阪神・淡路大震災の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は阪神・淡路大震災のもので、「神戸港の被災状況やその復興の過程を中心に大震災の教訓と港の重要性、さらに国内外の多くの人が一体となって港の復旧、復興に努めた様子を後世に伝える」と記されています。
阪神淡路大震災物故者供養塔(阪神・淡路大震災)
須磨寺の仁王門をくぐった右手に、全日本仏教会による「阪神淡路大震災物故者供養塔」が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は、「科学万能の思想に安定を委ねてきた物質社会は予想せざる自然の脅威に抗しきれなかった。釈尊の『常あるものなし』の教えが現代に於ても真実あることを知らされたのである。」とあり、物故者の追悼を祈念しています。
須磨寺の仁王門をくぐった右手に、全日本仏教会による「阪神淡路大震災物故者供養塔」が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は、「科学万能の思想に安定を委ねてきた物質社会は予想せざる自然の脅威に抗しきれなかった。釈尊の『常あるものなし』の教えが現代に於ても真実あることを知らされたのである。」とあり、物故者の追悼を祈念しています。
2㍍9㌢の碑「これは」(阪神・淡路大震災)
明石公園中央広場の奥に壁のような阪神・淡路大震災の石碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
この石碑の高さは2㍍9㌢。これ、実は故ジャイアント馬場さんの背の高さで、全日本プロレスが寄贈したもの。石碑横には神戸の詩人、安永稔和氏の「これは」という詩が付されています。
明石公園中央広場の奥に壁のような阪神・淡路大震災の石碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
この石碑の高さは2㍍9㌢。これ、実は故ジャイアント馬場さんの背の高さで、全日本プロレスが寄贈したもの。石碑横には神戸の詩人、安永稔和氏の「これは」という詩が付されています。
兵庫県南部地震 モニュメント「明日」 (阪神・淡路大震災)
明石海峡大橋を望む明石市の大蔵海岸公園の一角に、阪神・淡路大震災の碑「明日」が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
このモニュメントは、横たわった石の先端が兵庫県南部地震の震源地を指し、つぶれた部分が地震の力の大きさを、垂直に立つ石が明日への希望を表しています。碑文の下にはタイムカプセルが埋められ小学生のメッセージなどが納められているそうです。
明石海峡大橋を望む明石市の大蔵海岸公園の一角に、阪神・淡路大震災の碑「明日」が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
このモニュメントは、横たわった石の先端が兵庫県南部地震の震源地を指し、つぶれた部分が地震の力の大きさを、垂直に立つ石が明日への希望を表しています。碑文の下にはタイムカプセルが埋められ小学生のメッセージなどが納められているそうです。
鎮魂の碑(阪神・淡路大震災)
ゆずり葉緑地公園のほぼ真ん中、芝生と木々に囲まれた一角に阪神・淡路大震災が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
球体を囲むように天に向かって伸びる4本の柱と、その内側には長さの異なる9本の黒い石柱。4本の柱は大空に向けた両親の手をイメージしたもので大宇宙に届けとの願いを、また、9本の柱は人としての成長の過程を表しているのと同時に不幸にして亡くなった人々を表現しているといいます。
ゆずり葉緑地公園のほぼ真ん中、芝生と木々に囲まれた一角に阪神・淡路大震災が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
球体を囲むように天に向かって伸びる4本の柱と、その内側には長さの異なる9本の黒い石柱。4本の柱は大空に向けた両親の手をイメージしたもので大宇宙に届けとの願いを、また、9本の柱は人としての成長の過程を表しているのと同時に不幸にして亡くなった人々を表現しているといいます。