2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件懐嶋山の碑
「えな塚」とも呼ばれ、源頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣(えな))が納められたと伝えられている。
茅ヶ崎市西久保にある「懐嶋山の碑」は、「えな塚」とも呼ばれ、源頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣(えな))が納められたと伝えられている。 頼朝の子を身籠った丹後局は、北条政子に知られてしまったことから、懐嶋郷の領主・大庭景能(景義)の館(懐嶋館)に匿われ、その後、西久保の桜屋敷に移って男子を出産した。 三郎と名付けられた男子は、1185年(文治元年)、7歳のときに頼朝と対面し「忠久」と名乗った。 この忠久が、のちに薩摩国を本拠地とした島津氏の祖なのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ena-tuka.ht...
茅ヶ崎市西久保にある「懐嶋山の碑」は、「えな塚」とも呼ばれ、源頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣(えな))が納められたと伝えられている。 頼朝の子を身籠った丹後局は、北条政子に知られてしまったことから、懐嶋郷の領主・大庭景能(景義)の館(懐嶋館)に匿われ、その後、西久保の桜屋敷に移って男子を出産した。 三郎と名付けられた男子は、1185年(文治元年)、7歳のときに頼朝と対面し「忠久」と名乗った。 この忠久が、のちに薩摩国を本拠地とした島津氏の祖なのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ena-tuka.ht...
旧相模川橋脚
源頼朝が渡り初めをした橋の橋脚と考えられている。
1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の供養のため、相模川に架けた橋の落成式が源頼朝も参列し行われた。 頼朝は、橋の渡り初めを行い、その帰路落馬してしまう。 その事が原因で翌年1月13日に亡くなったとされ、『吾妻鏡』にも橋供養の帰りに落馬して程なく亡くなったことが記されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sagamigawa....
1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の供養のため、相模川に架けた橋の落成式が源頼朝も参列し行われた。 頼朝は、橋の渡り初めを行い、その帰路落馬してしまう。 その事が原因で翌年1月13日に亡くなったとされ、『吾妻鏡』にも橋供養の帰りに落馬して程なく亡くなったことが記されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sagamigawa....
永福寺跡(ようふくじあと)
永福寺(ようふくじ)は、源頼朝が奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てた寺院。鶴岡八幡宮・勝長寿院とともに頼朝の三大寺院と呼ばれた。
永福寺(ようふくじ)は、1192年(建久3年)、源頼朝が奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てた寺院。 鶴岡八幡宮・勝長寿院とともに頼朝の三大寺院と呼ばれた。 弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立したといわれるが、それとともに頼朝自身の権勢を世に知らしめるためだったともいわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page042yofu...
永福寺(ようふくじ)は、源頼朝が奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てた寺院。鶴岡八幡宮・勝長寿院とともに頼朝の三大寺院と呼ばれた。
永福寺(ようふくじ)は、1192年(建久3年)、源頼朝が奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てた寺院。 鶴岡八幡宮・勝長寿院とともに頼朝の三大寺院と呼ばれた。 弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立したといわれるが、それとともに頼朝自身の権勢を世に知らしめるためだったともいわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page042yofu...
源頼朝の墓(法華堂跡)
頼朝の亡骸は、大倉幕府北側の持仏堂(法華堂)に葬られた。
源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、「相模川橋」の視察の帰りに落馬し、それが原因で53歳で死去したとされる(1199年(正治元年)1月13日)。 頼朝の亡骸は、大倉幕府北側の持仏堂(法華堂)に葬られた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041yori...
源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、「相模川橋」の視察の帰りに落馬し、それが原因で53歳で死去したとされる(1199年(正治元年)1月13日)。 頼朝の亡骸は、大倉幕府北側の持仏堂(法華堂)に葬られた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041yori...
大倉御所跡
1180年に鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えた。頼朝は、この御所で政治を執ったため、のちに「大倉幕府」と呼ばれるようになる。
1180年(治承4年)10月、鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えた。 頼朝は、この御所で政治を執ったため、のちに「大倉幕府」と呼ばれるようになる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041ooku...
1180年に鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えた。頼朝は、この御所で政治を執ったため、のちに「大倉幕府」と呼ばれるようになる。
1180年(治承4年)10月、鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えた。 頼朝は、この御所で政治を執ったため、のちに「大倉幕府」と呼ばれるようになる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041ooku...
畠山重忠邸址
畠山重忠邸は源頼朝の御所の正門前に置かれた。
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出たところに建てられている畠山重忠邸跡の石碑。 ただ、この周辺には政所があったと考えられ、『吾妻鏡』の建久10年(1199年)の条には「畠山次郎重忠の南御門宅」とあることなどから、実際は源頼朝の御所の正門(南御門)の前にあったと考えるべきなのかもしれない。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/jinbutu/hat...
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出たところに建てられている畠山重忠邸跡の石碑。 ただ、この周辺には政所があったと考えられ、『吾妻鏡』の建久10年(1199年)の条には「畠山次郎重忠の南御門宅」とあることなどから、実際は源頼朝の御所の正門(南御門)の前にあったと考えるべきなのかもしれない。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/jinbutu/hat...
勝長寿院跡(しょうちょうじゅいんあと)
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。当時は「大御堂」とも呼ばれ、現在もその名が地名として残されている。
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。 当時は「大御堂」とも呼ばれ、現在もその名が地名として残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page042shot...
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。当時は「大御堂」とも呼ばれ、現在もその名が地名として残されている。
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。 当時は「大御堂」とも呼ばれ、現在もその名が地名として残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page042shot...
由比若宮(元鶴岡八幡宮)
源頼義が源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建した社。
由比若宮は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建した社。 1081年(永保元年)2月には、頼義の子義家が社殿を修復している。 1180年(治承4年)10月7日、鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を遥拝。 10月12日には、由比郷から小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page135moto...
由比若宮は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請して創建した社。 1081年(永保元年)2月には、頼義の子義家が社殿を修復している。 1180年(治承4年)10月7日、鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を遥拝。 10月12日には、由比郷から小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page135moto...
石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂
石橋山は、伊豆国で挙兵し、相模国へ進軍した源頼朝が布陣した古戦場。
石橋山は鎌倉を目指す頼朝軍300騎が布陣した古戦場。石橋山の戦いでは、三浦義明の弟岡崎義実の嫡男義忠や北条時政の子宗時が討死した。石橋山古戦場には、義忠を祀る佐奈田霊社と郎党文三を祀る文三堂が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/isibasiyama...
石橋山は鎌倉を目指す頼朝軍300騎が布陣した古戦場。石橋山の戦いでは、三浦義明の弟岡崎義実の嫡男義忠や北条時政の子宗時が討死した。石橋山古戦場には、義忠を祀る佐奈田霊社と郎党文三を祀る文三堂が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/isibasiyama...
土肥椙山厳窟(しとどのいわや 伝源頼朝隠潜地)
石橋山で敗れ、山中に逃れた頼朝が身を潜めたと伝えられる岩窟。
山中に逃れた頼朝が身を潜めたと伝えられる岩窟。石橋山で敗れた源頼朝を椙山に導いたのは、土肥郷を領していた土肥実平。言い伝えられている話では、「しとどの窟」に潜む頼朝に食糧を届けたのは実平の妻だったという。頼朝は京都の清水寺から賜った二寸銀の聖観音像をこの岩窟に置いて逃げたのだと伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yoritomo-si...
山中に逃れた頼朝が身を潜めたと伝えられる岩窟。石橋山で敗れた源頼朝を椙山に導いたのは、土肥郷を領していた土肥実平。言い伝えられている話では、「しとどの窟」に潜む頼朝に食糧を届けたのは実平の妻だったという。頼朝は京都の清水寺から賜った二寸銀の聖観音像をこの岩窟に置いて逃げたのだと伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yoritomo-si...
蛭ヶ島公園
蛭ヶ小島(ひるがこじま)は、平治の乱で平清盛敗れた源頼朝が流された地とされる。ただ、近年では流された地は伊東とする説が有力。
1159年(平治元年)12月、平治の乱で平清盛敗れた源頼朝。 翌年(永暦元年)2月9日、平宗清(平頼盛の家人)に捕えられて清盛のいる六波羅へ連行されたが、清盛の継母池禅尼の命乞いもあって、3月11日、伊豆国流罪となった。 『平家物語』によると流された地は蛭ヶ小島(ひるがこじま)。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hirugakojim...
1159年(平治元年)12月、平治の乱で平清盛敗れた源頼朝。 翌年(永暦元年)2月9日、平宗清(平頼盛の家人)に捕えられて清盛のいる六波羅へ連行されたが、清盛の継母池禅尼の命乞いもあって、3月11日、伊豆国流罪となった。 『平家物語』によると流された地は蛭ヶ小島(ひるがこじま)。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hirugakojim...
政子産湯の井戸
北条政子の産湯の水をとったとされる井戸。
物見塚公園
源頼朝の挙兵に敵対した伊東祐親の館跡。
伊東祐親は、藤原南家の流れを汲む武将で、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた。 1160年(永暦元年)、前年末の平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となるとその監視役を務める。 1180年(治承4年)、頼朝が挙兵すると、大庭景親らとともに平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕らえられ、三浦義澄に預けられた。 義澄の嘆願によって助命されたが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ito-suketik...
伊東祐親は、藤原南家の流れを汲む武将で、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた。 1160年(永暦元年)、前年末の平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となるとその監視役を務める。 1180年(治承4年)、頼朝が挙兵すると、大庭景親らとともに平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕らえられ、三浦義澄に預けられた。 義澄の嘆願によって助命されたが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ito-suketik...
甘縄神明神社
鎌倉最古の神社といわれている。
源頼義が祈願して子の八幡太郎義家を授かったと伝えられ、源氏とは縁の深い社。 頼義や義家は社殿を修復し、『吾妻鏡』には源頼朝が安達盛長に命じて社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたことが記されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page136aman...
源頼義が祈願して子の八幡太郎義家を授かったと伝えられ、源氏とは縁の深い社。 頼義や義家は社殿を修復し、『吾妻鏡』には源頼朝が安達盛長に命じて社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたことが記されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page136aman...
面掛行列
御霊神社例大祭の神幸祭で見ることができる行列。
源頼朝は非人頭の娘を可愛がり、身籠もらせてしまいます。 そして、娘のもとに、おしのびで通う頼朝の警護を非人たちが引き受けました。 そのような経緯から、年に一度だけの無礼講が許されますが、身分の低い非人であるため、大衆に顔を見せることができず面をつけたのだと伝えられています。 これが面掛行列の起こりだともいわれ、九人目に孕み女(はらみおんな:阿亀)がいるのはそのためだとも伝えられています。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gyoji-matur...
源頼朝は非人頭の娘を可愛がり、身籠もらせてしまいます。 そして、娘のもとに、おしのびで通う頼朝の警護を非人たちが引き受けました。 そのような経緯から、年に一度だけの無礼講が許されますが、身分の低い非人であるため、大衆に顔を見せることができず面をつけたのだと伝えられています。 これが面掛行列の起こりだともいわれ、九人目に孕み女(はらみおんな:阿亀)がいるのはそのためだとも伝えられています。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gyoji-matur...
浄楽寺
鎌倉幕府侍所の別当和田義盛が創建した寺。阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は、運慶の真作。
浄楽寺は、1189年(文治5年)、鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛が建立したと伝えられている寺。 鎌倉光明寺の末。 鎌倉時代後期に浄土宗の僧寂恵(じゃっけい)が中興。 義盛は、三浦大介義明の孫で、源頼朝の挙兵に従った武将。 鎌倉幕府では、侍所別当として活躍した。 頼朝亡き後の1213年(建暦3年)、北条義時と対立し、由比ヶ浜で最期を遂げている。 浄楽寺の阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は、運慶の真作。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/jyorakuji-y...
浄楽寺は、1189年(文治5年)、鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛が建立したと伝えられている寺。 鎌倉光明寺の末。 鎌倉時代後期に浄土宗の僧寂恵(じゃっけい)が中興。 義盛は、三浦大介義明の孫で、源頼朝の挙兵に従った武将。 鎌倉幕府では、侍所別当として活躍した。 頼朝亡き後の1213年(建暦3年)、北条義時と対立し、由比ヶ浜で最期を遂げている。 浄楽寺の阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は、運慶の真作。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/jyorakuji-y...
高松神明神社
後白河法皇が天皇に即位した場所。
高松神明神社は、源高明が高松殿の鎮守として伊勢神宮の天照大神を勧請したことに始まる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
高松神明神社は、源高明が高松殿の鎮守として伊勢神宮の天照大神を勧請したことに始まる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
祇園祭
7月1日から1ヵ月にわたって行われる八坂神社の祭礼。
863年(貞観5年)、京都で疫病が流行した際、神泉苑では「御霊会」が行われます。 しかし、その後も疫病の流行が収まらなかったことから、869年(貞観11年)6月14日、人々は神泉苑に当時の国の数である「66」の矛を立て、神輿3基を送って、牛頭天王(祇園神)を祀る御霊会を執り行いました。 それが「祇園祭」の始まりと伝えられ、970年(安和3年)には官祭として行われるようになりました。 室町時代になると、町衆による山鉾巡行が始められ、徐々に現在のような形に整えられていったようです。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
863年(貞観5年)、京都で疫病が流行した際、神泉苑では「御霊会」が行われます。 しかし、その後も疫病の流行が収まらなかったことから、869年(貞観11年)6月14日、人々は神泉苑に当時の国の数である「66」の矛を立て、神輿3基を送って、牛頭天王(祇園神)を祀る御霊会を執り行いました。 それが「祇園祭」の始まりと伝えられ、970年(安和3年)には官祭として行われるようになりました。 室町時代になると、町衆による山鉾巡行が始められ、徐々に現在のような形に整えられていったようです。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
窟堂
源頼朝が鎌倉入りする前からあったと伝えられている。
窟堂は、江戸期まで東隣にあった松源寺に管理されていた。 松源寺は、頼朝が源氏再興を祈願した伊豆日金山の地蔵を模造した日金地蔵を祀った寺。 頼朝の位牌も祀られていたという。 明治の神仏分離により廃寺となり、頼朝の位牌は白旗神社(西御門)へ、日金地蔵は横須賀の東漸寺に移されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041iway...
窟堂は、江戸期まで東隣にあった松源寺に管理されていた。 松源寺は、頼朝が源氏再興を祈願した伊豆日金山の地蔵を模造した日金地蔵を祀った寺。 頼朝の位牌も祀られていたという。 明治の神仏分離により廃寺となり、頼朝の位牌は白旗神社(西御門)へ、日金地蔵は横須賀の東漸寺に移されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041iway...
白旗神社
源頼朝を祀る神社。
源頼朝墓の下にある白旗神社。 祭神は源頼朝。 現在、源頼朝墓が建てられている場所にあった法華堂が、いつのころからかこの地に移され法華堂と呼ばれていた。 江戸時代まで鶴岡八幡宮の相承院(二十五坊の一つ)が別当を勤めていたが、明治の神仏分離令によって法華堂は廃された。 1872年(明治5年)、白旗神社として創建され、雪ノ下の松源寺(廃寺)にあった源頼朝の古牌が奉納されている ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041sira...
源頼朝墓の下にある白旗神社。 祭神は源頼朝。 現在、源頼朝墓が建てられている場所にあった法華堂が、いつのころからかこの地に移され法華堂と呼ばれていた。 江戸時代まで鶴岡八幡宮の相承院(二十五坊の一つ)が別当を勤めていたが、明治の神仏分離令によって法華堂は廃された。 1872年(明治5年)、白旗神社として創建され、雪ノ下の松源寺(廃寺)にあった源頼朝の古牌が奉納されている ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041sira...