2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件二十五坊跡
鶴岡八幡宮寺の供僧の住坊跡。
鶴岡八幡宮裏の「御谷」(おやつ)と呼ばれている所には、鎌倉時代、二十五菩薩にちなんだ二十五坊と別当坊(長官の宿舎)があった。 二十五坊とは、鶴岡八幡宮寺供僧の住坊のこと。 供僧(ぐそう)とは、神社に奉仕する社僧。 二十五坊の僧は、神主よりも上の地位にあり、その長は鶴岡八幡宮寺の別当(長官)となっていた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041nijy...
鶴岡八幡宮裏の「御谷」(おやつ)と呼ばれている所には、鎌倉時代、二十五菩薩にちなんだ二十五坊と別当坊(長官の宿舎)があった。 二十五坊とは、鶴岡八幡宮寺供僧の住坊のこと。 供僧(ぐそう)とは、神社に奉仕する社僧。 二十五坊の僧は、神主よりも上の地位にあり、その長は鶴岡八幡宮寺の別当(長官)となっていた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041nijy...
原田地蔵の伝説
葦屋浦の戦いで敵対した原田種直を許した源頼朝の伝説。
大橋太郎通貞の土牢
源頼朝に捕らえられた九州平氏・大橋太郎通貞が投獄されていたという土牢。
大橋太郎通貞の子が鶴岡八幡宮で法華経を唱えていることを聞いた源頼朝は、通貞の罪を許したのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamakura136...
大橋太郎通貞の子が鶴岡八幡宮で法華経を唱えていることを聞いた源頼朝は、通貞の罪を許したのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamakura136...
武田八幡宮
源頼朝の挙兵に呼応して兵を挙げた甲斐武田氏の氏神。
武田八幡宮は、822年(弘仁13)に石清水八幡宮(宇佐神宮とも)の分霊を勧請して創建されたのだ伝えられている。 甲斐源氏の武田信義は、武田八幡宮で元服して氏寺とし、社殿を再建したのだという。 現在の本殿は、武田家十九代当主の武田信玄が再建したもので国の重要文化財。 摂社若宮は、信義の弟加賀美遠光が建立。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kai/takeda-...
武田八幡宮は、822年(弘仁13)に石清水八幡宮(宇佐神宮とも)の分霊を勧請して創建されたのだ伝えられている。 甲斐源氏の武田信義は、武田八幡宮で元服して氏寺とし、社殿を再建したのだという。 現在の本殿は、武田家十九代当主の武田信玄が再建したもので国の重要文化財。 摂社若宮は、信義の弟加賀美遠光が建立。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kai/takeda-...
春日大社
春日大社に伝えられる「_太鼓」(だだいこ)は、源頼朝の寄進と伝えれる。
春日大社は、全国にある約3000の春日神社の総本社。 710年(和銅2年)、都が平城京に遷されると鹿島神宮(常陸国:茨城県)から藤原氏の氏神である武甕槌命が御蓋山(みかさやま)山頂浮雲峰に迎えられた。 その後768年(神護景雲2年)、左大臣藤原永手が御蓋山中腹に社殿を造営し、香取神宮(下総国:千葉県)から経津主命、枚岡神社(河内国:大阪府)から天児屋根命・比売神を迎えて祀ったのが春日大社の始まり。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
春日大社は、全国にある約3000の春日神社の総本社。 710年(和銅2年)、都が平城京に遷されると鹿島神宮(常陸国:茨城県)から藤原氏の氏神である武甕槌命が御蓋山(みかさやま)山頂浮雲峰に迎えられた。 その後768年(神護景雲2年)、左大臣藤原永手が御蓋山中腹に社殿を造営し、香取神宮(下総国:千葉県)から経津主命、枚岡神社(河内国:大阪府)から天児屋根命・比売神を迎えて祀ったのが春日大社の始まり。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
牛若丸誕生井
牛若丸(源義経)は、平治の乱が起こった1159年(平治元年)に源義朝と常盤御前との間に誕生した。
誕生井のある場所には、源義朝の屋敷があったとされ、かつては「洛北の名所」だったという。 大きな石碑の前に建てられている小さな古碑には「応永2年」の文字が刻まれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
誕生井のある場所には、源義朝の屋敷があったとされ、かつては「洛北の名所」だったという。 大きな石碑の前に建てられている小さな古碑には「応永2年」の文字が刻まれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
葵祭
源頼朝も見た賀茂神社の祭礼。
葵祭(あおいまつり)は、賀茂神社の例祭。 毎年5月15日に行われる京都三大祭の一つ。 賀茂神社(かもじんじゃ)とは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称。 古くは「賀茂祭」と称され、源氏物語の「葵」の巻にも描かれました。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
葵祭(あおいまつり)は、賀茂神社の例祭。 毎年5月15日に行われる京都三大祭の一つ。 賀茂神社(かもじんじゃ)とは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称。 古くは「賀茂祭」と称され、源氏物語の「葵」の巻にも描かれました。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
大悲願寺
源頼朝の命を受けた平山季重が醍醐寺三宝院の僧を招いて開いたと伝えられる寺院。
大悲願寺は、1191年(建久2年)、源頼朝の命を受けた平山季重が醍醐寺三宝院の僧を招いて開いたと伝えられる寺院。 真言宗豊山派。 本尊は大日如来。 1623年(元和9年)、この寺を訪れた仙台藩主伊達政宗は、見事な白萩に心を奪われたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/daihiganji-...
大悲願寺は、1191年(建久2年)、源頼朝の命を受けた平山季重が醍醐寺三宝院の僧を招いて開いたと伝えられる寺院。 真言宗豊山派。 本尊は大日如来。 1623年(元和9年)、この寺を訪れた仙台藩主伊達政宗は、見事な白萩に心を奪われたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/daihiganji-...
酒匂神社
「浜辺御所」の近くに鎮座する社。
酒匂神社は、鎌倉時代の将軍の宿泊・休憩施設であった「浜辺御所」の近くに鎮座する社。 源頼朝も伊豆山権現・箱根権現と三嶋社をめぐる二所詣や上洛の際などに参拝し、神馬を奉納しているのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sakawa-jinj...
酒匂神社は、鎌倉時代の将軍の宿泊・休憩施設であった「浜辺御所」の近くに鎮座する社。 源頼朝も伊豆山権現・箱根権現と三嶋社をめぐる二所詣や上洛の際などに参拝し、神馬を奉納しているのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sakawa-jinj...
増上寺塔頭宝珠院
本尊の弁財天は、源頼朝が信仰していたのだという。
本尊の弁財天は秘仏。 園城寺(三井寺)を開いた智証大師が竹生島で彫ったもので、源氏に伝えられて源頼朝が信仰していたのだという。 徳川家康は、その像を増上寺に移して信仰し、名を徐波辨才天から開運出世大辨才天と改めたのだとか。 秘仏本尊は、家康の命日である4月17日を中日として開帳されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/zojyoji/hos...
本尊の弁財天は秘仏。 園城寺(三井寺)を開いた智証大師が竹生島で彫ったもので、源氏に伝えられて源頼朝が信仰していたのだという。 徳川家康は、その像を増上寺に移して信仰し、名を徐波辨才天から開運出世大辨才天と改めたのだとか。 秘仏本尊は、家康の命日である4月17日を中日として開帳されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/zojyoji/hos...
本覚寺の夷堂
源頼朝が御所の鬼門にあたる方向の鎮守として夷神を祀ったのがその始まり。
夷堂は、源頼朝が御所の鬼門にあたる方向の鎮守として夷神を祀ったのがその始まり。 夷三郎社と呼ばれ、現在の仁王門の前辺りにあったといわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamakura043...
夷堂は、源頼朝が御所の鬼門にあたる方向の鎮守として夷神を祀ったのがその始まり。 夷三郎社と呼ばれ、現在の仁王門の前辺りにあったといわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamakura043...
熊野神社
源頼朝が鎌倉の鬼門である朝比奈峠に熊野三社大明神を勧請したことにはじまる。
熊野神社は、源頼朝が鎌倉の鬼門である朝比奈峠に熊野三社大明神を勧請したことにはじまる。 朝夷奈切通を開拓した三代執権北条泰時が社を建立し、現在は朝比奈町の鎮守として崇敬されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamakura042...
熊野神社は、源頼朝が鎌倉の鬼門である朝比奈峠に熊野三社大明神を勧請したことにはじまる。 朝夷奈切通を開拓した三代執権北条泰時が社を建立し、現在は朝比奈町の鎮守として崇敬されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamakura042...
平戸白旗神社
源頼朝を遺髪が贈られた神社。
1302年(乾元元年)9月9日、鶴岡八幡宮の相承院に住した元智の勧請と伝えられる。 祭神は源頼朝。 1769年(明和6年)、鶴岡八幡宮の相承院から御神体として源頼朝の「御鬢髪三筋」が送られたと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sirahata-to...
1302年(乾元元年)9月9日、鶴岡八幡宮の相承院に住した元智の勧請と伝えられる。 祭神は源頼朝。 1769年(明和6年)、鶴岡八幡宮の相承院から御神体として源頼朝の「御鬢髪三筋」が送られたと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sirahata-to...
源頼朝と亀谷禅尼供養塔
石山寺にある源頼朝と、頼朝の娘三幡の乳母だった亀谷禅尼の供養塔。
源頼朝の寄進と伝えられる多宝塔の北西にある二基の宝篋印塔は、右が頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられている。 亀谷禅尼は、中原親能の妻で頼朝の次女三幡(乙姫)の乳母をつとめた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
源頼朝の寄進と伝えられる多宝塔の北西にある二基の宝篋印塔は、右が頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられている。 亀谷禅尼は、中原親能の妻で頼朝の次女三幡(乙姫)の乳母をつとめた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
伝頼朝供養塔
西明寺にある供養塔。
西明寺の文殊堂前に置かれている石塔は、源頼朝の供養塔と伝えられているもの。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gyoda-saimy...
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見桃寺
源頼朝の「桃の御所」の跡に建てられた寺。
源頼朝の「桃の御所」の跡に建てられた臨済宗妙心寺派の寺。 三崎船奉行だあった向井正綱が1616年(元和2年)に創建。 開山は玄虎。 本尊は聖観世音菩薩。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misaki-kent...
源頼朝の「桃の御所」の跡に建てられた臨済宗妙心寺派の寺。 三崎船奉行だあった向井正綱が1616年(元和2年)に創建。 開山は玄虎。 本尊は聖観世音菩薩。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misaki-kent...
歌舞島
源頼朝の宴の丘
現在は陸続きだが、鎌倉時代は離れ島で兜に似ていたことから「兜島」と呼ばれていたという歌舞島。 源頼朝が歌舞や酒宴を楽しんだことから歌舞島と呼ばれるようになったのだとか。 三浦義村の招きで訪れた四代将軍の藤原頼経が「来迎の儀」を行い、読経歌舞を催したことからとも。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misaki-kabu...
現在は陸続きだが、鎌倉時代は離れ島で兜に似ていたことから「兜島」と呼ばれていたという歌舞島。 源頼朝が歌舞や酒宴を楽しんだことから歌舞島と呼ばれるようになったのだとか。 三浦義村の招きで訪れた四代将軍の藤原頼経が「来迎の儀」を行い、読経歌舞を催したことからとも。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misaki-kabu...
仮粧坂
鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉の重要な防禦拠点だった。
仮粧坂は、鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉の重要な防禦拠点だった。 名の由来は、平家の首をこの坂で化粧したからとも、娼家があって化粧した女がいたからともいわれる。 新田義貞の鎌倉攻めの際には新田軍の主力が投入され、上杉禅秀の乱のときにも戦陣となった。 その一方で、曽我兄弟の弟五郎時致と梶原景季の遊女をめぐる恋物語の舞台ともなっている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kodou-9.htm...
仮粧坂は、鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉の重要な防禦拠点だった。 名の由来は、平家の首をこの坂で化粧したからとも、娼家があって化粧した女がいたからともいわれる。 新田義貞の鎌倉攻めの際には新田軍の主力が投入され、上杉禅秀の乱のときにも戦陣となった。 その一方で、曽我兄弟の弟五郎時致と梶原景季の遊女をめぐる恋物語の舞台ともなっている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kodou-9.htm...
源頼家の墓
1203年(建仁3年)、北条氏によって二代将軍の座を奪われた源頼家は、修禅寺に幽閉され、翌元久元年7月18日、暗殺された。
1203年(建仁3年)、北条氏によって二代将軍の座を奪われた源頼家は、修禅寺に幽閉され、翌元久元年7月18日、暗殺された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/shuzenji/sh...
1203年(建仁3年)、北条氏によって二代将軍の座を奪われた源頼家は、修禅寺に幽閉され、翌元久元年7月18日、暗殺された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/shuzenji/sh...
修禅寺の指月殿
北条政子が源頼家の冥福を祈って建立。
1203年(建仁3年)、北条氏によって修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された鎌倉幕府二代将軍源頼家の母北条政子が、頼家の冥福を祈って建立したのだという。 伊豆最古の木造建築とされ、釈迦如来坐像と仁王像が安置されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/shuzenji/sh...
1203年(建仁3年)、北条氏によって修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された鎌倉幕府二代将軍源頼家の母北条政子が、頼家の冥福を祈って建立したのだという。 伊豆最古の木造建築とされ、釈迦如来坐像と仁王像が安置されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/shuzenji/sh...