2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
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紹介スポット
- 404件白糸の滝
「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」源頼朝
天下の名瀑として知られる「白糸の滝」は、絹糸を垂らしたように大小の滝が流れ落ちることからその名が付けられた。 幅200メートル、高さ20メートル。 国の名勝及び天然記念物に指定されている。 流れ落ちる水は、富士山の雪解け水で、「新富士火山層」(上部の水を通す地層)と「古富士火山層」(下部の水を通さない地層)の境から湧き出している。 1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りを催した源頼朝は、「白糸の滝」を見て「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」と詠んだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/fuji/sirait...
天下の名瀑として知られる「白糸の滝」は、絹糸を垂らしたように大小の滝が流れ落ちることからその名が付けられた。 幅200メートル、高さ20メートル。 国の名勝及び天然記念物に指定されている。 流れ落ちる水は、富士山の雪解け水で、「新富士火山層」(上部の水を通す地層)と「古富士火山層」(下部の水を通さない地層)の境から湧き出している。 1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りを催した源頼朝は、「白糸の滝」を見て「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」と詠んだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/fuji/sirait...
源頼朝の宿営地
富士裾野で巻狩りを催した源頼朝は井出館を仮宿としたのだと伝えられている。
富士裾野で巻狩りを催した源頼朝は井出館を仮宿としたのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/fuji/fuji-m...
富士裾野で巻狩りを催した源頼朝は井出館を仮宿としたのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/fuji/fuji-m...
鞍馬寺義経堂
奥州平泉の衣川館で自刃した源義経の魂は、幼少期を過ごした鞍馬寺へ戻ったのだとか。
義経堂は、遮那王尊(源義経)を祀る堂。 奥州平泉の衣川館で最期を遂げた源義経の魂は、幼少時代を過ごした鞍馬山へ戻り、遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正の働きを助けているのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
義経堂は、遮那王尊(源義経)を祀る堂。 奥州平泉の衣川館で最期を遂げた源義経の魂は、幼少時代を過ごした鞍馬山へ戻り、遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正の働きを助けているのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
桜田神社
桜田神社は、源頼朝の命で現在の霞が関(桜田門外)に祀られたのが始まりなのだという。
桜田神社は、1180年(治承4年)、源頼朝の命で現在の霞が関(桜田門外)に祀られたのが始まりなのだという。 1189年(文治5年)の奥州征伐では、祈願成就の礼として頼朝から30貫の田畑が寄進され、一般農家の田と区別するため、神田の畔に桜が植えられたのだという。 これが「桜田」の由来なのだとか。 1624年(寛永元年)、現在地に遷座。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sakurada-ji...
桜田神社は、1180年(治承4年)、源頼朝の命で現在の霞が関(桜田門外)に祀られたのが始まりなのだという。 1189年(文治5年)の奥州征伐では、祈願成就の礼として頼朝から30貫の田畑が寄進され、一般農家の田と区別するため、神田の畔に桜が植えられたのだという。 これが「桜田」の由来なのだとか。 1624年(寛永元年)、現在地に遷座。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sakurada-ji...
長田父子磔の松
父義朝を暗殺した長田父子を磔の刑に処した頼朝。
平治の乱で平清盛に敗れ、尾張国野間の長田忠致・景致父子のところに身を寄せた源義朝は、忠致の裏切りに遭い入浴中に殺害された。 1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉に入り、平家の全盛が終わると、忠致父子は頼朝の下で働き、多くの手柄をたてたという。 頼朝は、父義朝を殺害した忠致に対し「勲功があったなら美濃と尾張を与える」と言っていたのだとか・・・。 しかし、1190年(建久元年)、上洛の途上で尾張国野間に立ち寄った頼朝は、手柄をたてた忠致・景致父子に恩賞を与えるといって誘き出し、松の木に磔(はりつけ)にして殺したのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/owari/yosit...
平治の乱で平清盛に敗れ、尾張国野間の長田忠致・景致父子のところに身を寄せた源義朝は、忠致の裏切りに遭い入浴中に殺害された。 1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉に入り、平家の全盛が終わると、忠致父子は頼朝の下で働き、多くの手柄をたてたという。 頼朝は、父義朝を殺害した忠致に対し「勲功があったなら美濃と尾張を与える」と言っていたのだとか・・・。 しかし、1190年(建久元年)、上洛の途上で尾張国野間に立ち寄った頼朝は、手柄をたてた忠致・景致父子に恩賞を与えるといって誘き出し、松の木に磔(はりつけ)にして殺したのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/owari/yosit...
源義朝の墓
野間大坊にある源頼朝の父義朝の墓。
1159年(平治元年)、頼朝とともに出陣した平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、東国へ逃れる途中、尾張国野間に立ち寄り、郎党の鎌田政家(政長・政清)の舅・長田忠致のもとに身を寄せるが、恩賞が欲しい忠致・景致父子によって入浴中に襲撃され最期を遂げた(1160年(平治2年)正月3日 享年38歳)。 この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言い残したという。 そのため野間大坊(大御堂寺)の義朝の墓には木太刀が供えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/owari/nomad...
1159年(平治元年)、頼朝とともに出陣した平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、東国へ逃れる途中、尾張国野間に立ち寄り、郎党の鎌田政家(政長・政清)の舅・長田忠致のもとに身を寄せるが、恩賞が欲しい忠致・景致父子によって入浴中に襲撃され最期を遂げた(1160年(平治2年)正月3日 享年38歳)。 この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言い残したという。 そのため野間大坊(大御堂寺)の義朝の墓には木太刀が供えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/owari/nomad...
御湯殿跡
源頼朝の父義朝が暗殺された所。
『平治物語」によれば、1160年(平治2年)正月3日、義朝は忠致に湯浴みをすすめられ、垢すりをしていた金王丸が湯殿から出て行った隙に、三人の者に押さえつけられ殺害された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/owari/yosit...
『平治物語」によれば、1160年(平治2年)正月3日、義朝は忠致に湯浴みをすすめられ、垢すりをしていた金王丸が湯殿から出て行った隙に、三人の者に押さえつけられ殺害された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/owari/yosit...
観自在王院跡
奥州藤原氏二代基衡の妻(安倍宗任の娘)が建てた寺院。
観自在王院は、毛越寺の東に接して奥州藤原氏二代基衡の妻(安倍宗任の娘)が建てた寺院。 大小2つの阿弥陀堂を配し極楽浄土を表していたという庭園は、1189年(文治5年)の源頼朝の奥州征伐以後は水田となっていたが、1973年(昭和48年)から1976年(昭和51年)にかけて復元された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/k...
観自在王院は、毛越寺の東に接して奥州藤原氏二代基衡の妻(安倍宗任の娘)が建てた寺院。 大小2つの阿弥陀堂を配し極楽浄土を表していたという庭園は、1189年(文治5年)の源頼朝の奥州征伐以後は水田となっていたが、1973年(昭和48年)から1976年(昭和51年)にかけて復元された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/k...
達谷窟毘沙門堂
坂上田村麻呂が蝦夷討伐を記念して建てた。
西光寺にある達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや)は、801年(延暦20年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷討伐(えみし)を記念し、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルの岸壁下方の岩屋に建てた懸造の堂。 前九年、後三年の役の折には、源頼義、義家が戦勝祈願のために寺領を寄進し、奥州藤原氏の祖清衡、二代基衡は七堂伽藍を建立したと伝えられている。 1189年(文治5年)、奥州征伐を行った源頼朝は、その帰路、毘沙門堂を参詣している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/b...
西光寺にある達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや)は、801年(延暦20年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷討伐(えみし)を記念し、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルの岸壁下方の岩屋に建てた懸造の堂。 前九年、後三年の役の折には、源頼義、義家が戦勝祈願のために寺領を寄進し、奥州藤原氏の祖清衡、二代基衡は七堂伽藍を建立したと伝えられている。 1189年(文治5年)、奥州征伐を行った源頼朝は、その帰路、毘沙門堂を参詣している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/b...
腰越海岸
江の島と小動岬の間の浜。
奥州平泉で自刃した源義経は首はここに運ばれ、実検が行われた後、捨てられたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/umi-kosigoe...
奥州平泉で自刃した源義経は首はここに運ばれ、実検が行われた後、捨てられたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/umi-kosigoe...
白旗神社
源義経を祀る神社。
白旗神社は、藤沢宿西方面の総鎮守。 もとは相模一の宮の寒川神社の寒川比古命の分霊を祀り、寒川神社と呼ばれていたというが、その創建年は不明。 のちに、奥州平泉で自刃した源義経を祭神として祀ったことから、白旗神社と呼ばれるようになった。 伝説によると、奥州平泉の衣川館で自刃した義経の首は、腰越の浜で首実検が行われた。 その後捨てられた首は、潮にのって境川を上り、白旗神社近くに流れ着き、里人に洗い清められ葬られたと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sirahata-fu...
白旗神社は、藤沢宿西方面の総鎮守。 もとは相模一の宮の寒川神社の寒川比古命の分霊を祀り、寒川神社と呼ばれていたというが、その創建年は不明。 のちに、奥州平泉で自刃した源義経を祭神として祀ったことから、白旗神社と呼ばれるようになった。 伝説によると、奥州平泉の衣川館で自刃した義経の首は、腰越の浜で首実検が行われた。 その後捨てられた首は、潮にのって境川を上り、白旗神社近くに流れ着き、里人に洗い清められ葬られたと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sirahata-fu...
義経首洗井戸
源義経の首を洗い清めたという井戸。
源義経は、平家追討の第一の功績者であるにもかかわらず、兄頼朝から追われる身となり、奥州平泉の藤原秀衡を頼るが、1189年(文治5年)、頼朝を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ、奥州平泉の衣川館で自刃した。 『吾妻鏡』には、6月13日、和田義盛と梶原景時が腰越の浜で首実検を行ったことが記されている。 首は腰越の浜に捨てられたが、潮に乗って境川を遡り、この辺りに漂着。 里人がその首をすくいあげ、洗い清めたのがこの井戸と伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yositune-ku...
源義経は、平家追討の第一の功績者であるにもかかわらず、兄頼朝から追われる身となり、奥州平泉の藤原秀衡を頼るが、1189年(文治5年)、頼朝を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ、奥州平泉の衣川館で自刃した。 『吾妻鏡』には、6月13日、和田義盛と梶原景時が腰越の浜で首実検を行ったことが記されている。 首は腰越の浜に捨てられたが、潮に乗って境川を遡り、この辺りに漂着。 里人がその首をすくいあげ、洗い清めたのがこの井戸と伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yositune-ku...
流鏑馬神事
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日、源頼朝が放生会の後に奉納したのがそのはじまり。
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日、源頼朝が放生会の後に奉納したのがそのはじまり。9月16日。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gyoji-matur...
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日、源頼朝が放生会の後に奉納したのがそのはじまり。9月16日。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gyoji-matur...
源頼朝旗挙げ武者行列
源頼朝の挙兵に尽力した土肥実平を偲ぶ祭。
武者行列は、1180年(治承4年)に源頼朝が伊豆国で挙兵し、土肥郷に入って石橋山へと出陣する様子を再現したもの。4月第一日曜日。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gyoji-matur...
武者行列は、1180年(治承4年)に源頼朝が伊豆国で挙兵し、土肥郷に入って石橋山へと出陣する様子を再現したもの。4月第一日曜日。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gyoji-matur...
無量光院跡
無量光院は、藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院。
無量光院は、藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院で、毛越寺に対して新御堂と称されていた。 度重なる火災により、今日では土塁や礎石を残すのみとなったが、夕日が背後の金鶏山へ沈むように設計され、園池に浮かぶ大小3つの島に翼廊付の仏堂と拝所・ 舞台が配された庭園は、浄土庭園の最も発展した形態と考えられ、最高傑作といわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/m...
無量光院は、藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院で、毛越寺に対して新御堂と称されていた。 度重なる火災により、今日では土塁や礎石を残すのみとなったが、夕日が背後の金鶏山へ沈むように設計され、園池に浮かぶ大小3つの島に翼廊付の仏堂と拝所・ 舞台が配された庭園は、浄土庭園の最も発展した形態と考えられ、最高傑作といわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/m...
柳之御所遺跡
柳之御所遺跡は、『吾妻鏡』に記された平泉館の跡と考えられている。
奥州藤原氏の祖・清衡が豊田館(奥州市)から平泉に移り居館を構えた所で、三代秀衡が鎮守府将軍・陸奥守に任ぜられたことで、政庁(平泉館)として整備された。 1189年(文治5年)、源頼朝が奥州へ攻め入ると、四代泰衡によって平泉館は焼き払われている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/y...
奥州藤原氏の祖・清衡が豊田館(奥州市)から平泉に移り居館を構えた所で、三代秀衡が鎮守府将軍・陸奥守に任ぜられたことで、政庁(平泉館)として整備された。 1189年(文治5年)、源頼朝が奥州へ攻め入ると、四代泰衡によって平泉館は焼き払われている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/y...
中尊寺金色堂
藤原清衡・基衡・秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首がおさめられている。
中尊寺の金色堂は、中尊寺に現存する唯一の創建時の遺構で、棟木の銘から、藤原清衡が1124年(天治元年)に創建したものと考えられている(国宝)。 堂内には、中央壇、右壇、左壇の須弥壇が置かれ、それぞれに阿弥陀三尊像、地蔵菩薩立像(六地蔵)、二天像(持国天、増長天)が配されている(国宝)。 『吾妻鏡』は、金色堂は建物全てが金色で、堂内には三つの壇があって全て螺鈿で飾られ、阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝の作だと伝えている。 また、須弥壇内には、藤原清衡(中央壇)、基衡(右壇)、秀衡(左壇)のミイラ化した遺体が納められ、右壇には泰衡の首級も納められている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/t...
中尊寺の金色堂は、中尊寺に現存する唯一の創建時の遺構で、棟木の銘から、藤原清衡が1124年(天治元年)に創建したものと考えられている(国宝)。 堂内には、中央壇、右壇、左壇の須弥壇が置かれ、それぞれに阿弥陀三尊像、地蔵菩薩立像(六地蔵)、二天像(持国天、増長天)が配されている(国宝)。 『吾妻鏡』は、金色堂は建物全てが金色で、堂内には三つの壇があって全て螺鈿で飾られ、阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝の作だと伝えている。 また、須弥壇内には、藤原清衡(中央壇)、基衡(右壇)、秀衡(左壇)のミイラ化した遺体が納められ、右壇には泰衡の首級も納められている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/t...
弁慶の墓
中尊寺の表参道・月見坂の入り口に植えられている松の根元の塔は、弁慶の墓と伝えられている。
1189年(文治5年)閏4月30日、源義経の衣川館が藤原泰衡によって攻められ、主君義経とともに最期を遂げた武蔵坊弁慶の遺骨が葬られているという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/t...
1189年(文治5年)閏4月30日、源義経の衣川館が藤原泰衡によって攻められ、主君義経とともに最期を遂げた武蔵坊弁慶の遺骨が葬られているという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/t...
吉水神社
源頼朝に追われて吉野山に逃げ込んだ源義経が静御前や弁慶らとともに隠れ住んだ場所。
後醍醐天皇・楠木正成・吉水院宗信法印をまつる神社。 白鳳年間(7世紀後半)に役行者(役小角)が金峯山寺の僧坊として建立した吉水院(きっすいいん)が始まりだといわれる。 明治維新の神仏分離により神社に改められた。 1185年(文治元年)、源頼朝に追われて吉野山に逃げ込んだ源義経が静御前や弁慶らとともに隠れ住んだ場所と伝えられている。 1336年(延元元年/建武3年)、密かに吉野へ行幸した後醍醐天皇は、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設けて居所としたのだという。 1594年(文禄3年)には、豊臣秀吉が花見の本陣とした。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
後醍醐天皇・楠木正成・吉水院宗信法印をまつる神社。 白鳳年間(7世紀後半)に役行者(役小角)が金峯山寺の僧坊として建立した吉水院(きっすいいん)が始まりだといわれる。 明治維新の神仏分離により神社に改められた。 1185年(文治元年)、源頼朝に追われて吉野山に逃げ込んだ源義経が静御前や弁慶らとともに隠れ住んだ場所と伝えられている。 1336年(延元元年/建武3年)、密かに吉野へ行幸した後醍醐天皇は、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設けて居所としたのだという。 1594年(文禄3年)には、豊臣秀吉が花見の本陣とした。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
勝手神社
静御前が舞った場所。
1185年(文治元年)の暮れ、吉野山で愛する源義経と別れた静御前は、従者に金銀を奪われ山中を彷徨っているところを金峯山寺の僧兵に捕えられて、勝手神社の社殿の前で舞い、荒法師たちを感嘆させたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
1185年(文治元年)の暮れ、吉野山で愛する源義経と別れた静御前は、従者に金銀を奪われ山中を彷徨っているところを金峯山寺の僧兵に捕えられて、勝手神社の社殿の前で舞い、荒法師たちを感嘆させたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...