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- 1088件「天地之変異」で始まる碑文は摩耗し、今では読みづらい状態ですが、地震は予測不可能な激烈なものであり、濃尾地震では尾張美濃の2州などが大きな揺れに見舞われて土地が陥没、田園も荒廃し、家屋倒壊し多くの死傷者が出たといった罹災の実情が記されています。

「天地之変異」で始まる碑文は摩耗し、今では読みづらい状態ですが、地震は予測不可能な激烈なものであり、濃尾地震では尾張美濃の2州などが大きな揺れに見舞われて土地が陥没、田園も荒廃し、家屋倒壊し多くの死傷者が出たといった罹災の実情が記されています。

日泰寺は明治37(1904)年、シャム(タイ)国王から寄贈された釈迦の遺骨(舎利)を祀るために建立された超宗派の寺院。その奉安塔前の関東大震災供養堂には、遠く離れた東京の被服廠跡で起きた悲惨な歴史と日泰寺僧侶たちの果たした役割を伝えた石碑が残ります。

日泰寺は明治37(1904)年、シャム(タイ)国王から寄贈された釈迦の遺骨(舎利)を祀るために建立された超宗派の寺院。その奉安塔前の関東大震災供養堂には、遠く離れた東京の被服廠跡で起きた悲惨な歴史と日泰寺僧侶たちの果たした役割を伝えた石碑が残ります。

漢詩の四言詩の形をとった碑文には、明治24年の晩秋の10月28日午前六時に地震が発生したとあり、天地震動し、瞬く間に家が倒れ、人が斃れ、その惨状は言葉を絶するほどだったと伝え、この村でも男女11人が即死したとあります。

漢詩の四言詩の形をとった碑文には、明治24年の晩秋の10月28日午前六時に地震が発生したとあり、天地震動し、瞬く間に家が倒れ、人が斃れ、その惨状は言葉を絶するほどだったと伝え、この村でも男女11人が即死したとあります。

明治24(1891)年に発生した濃尾地震。碑は梵字で「バン」と記され、密教における最高仏の大日如来に由来し、人の願いをかなえるとの意味が込められているそうです。

明治24(1891)年に発生した濃尾地震。碑は梵字で「バン」と記され、密教における最高仏の大日如来に由来し、人の願いをかなえるとの意味が込められているそうです。

濃尾地震は明治24(1891)年10月28日、午前6時37分頃に発生。被害は東海地方から北陸、近畿地方など広範囲におよび、特に震源に近い美濃西部から尾張北西部にかけて甚大な損害が発生しています。清須城公園の一角に建てられた濃尾地震の碑は、濃尾地震で亡くなった住民を悼み、後世へ地震の記憶を伝えています。

濃尾地震は明治24(1891)年10月28日、午前6時37分頃に発生。被害は東海地方から北陸、近畿地方など広範囲におよび、特に震源に近い美濃西部から尾張北西部にかけて甚大な損害が発生しています。清須城公園の一角に建てられた濃尾地震の碑は、濃尾地震で亡くなった住民を悼み、後世へ地震の記憶を伝えています。

雁宿公園に建てられた石碑。碑文には「太平洋戦争の苦しいさ中でした。学徒は一切の希望を勝利にかけて兵器の増産に身も心も捧げていました。それはいつの日か来る国の栄と平和への幻を抱く美しい姿でありました。(中略)この尊い清らかな霊は、永遠に生きて私たちの心に通い、私たちの魂を飾ってくれることでありましょう」と伝えています。

雁宿公園に建てられた石碑。碑文には「太平洋戦争の苦しいさ中でした。学徒は一切の希望を勝利にかけて兵器の増産に身も心も捧げていました。それはいつの日か来る国の栄と平和への幻を抱く美しい姿でありました。(中略)この尊い清らかな霊は、永遠に生きて私たちの心に通い、私たちの魂を飾ってくれることでありましょう」と伝えています。

明応地震は明応7年8月25日(1498年9月20日)に発生。推定マグニチュードは8・2~8.4とされ、紀伊半島から房総半島に大きな被害を出しました。碑文には異僧の示唆によって寺を移転したこと、その翌年に大津浪によって周辺が巨海と化したことが記されています。

明応地震は明応7年8月25日(1498年9月20日)に発生。推定マグニチュードは8・2~8.4とされ、紀伊半島から房総半島に大きな被害を出しました。碑文には異僧の示唆によって寺を移転したこと、その翌年に大津浪によって周辺が巨海と化したことが記されています。

小学校の入り口に建つ高さ4・3㍍、底辺2・85㍍の巨大な石碑。“未来の人々に”で始まる碑文には、「二〇11年三月十一日 午後二時四十六分東日本大震災が起こり 大津波が太平洋沿岸に襲来した。気仙沼市小泉地区は大被害を受け多くの命と家を失ってしまった。学んだことは『地震があったら津波がくる』 ともかく上へ上へと逃げること。『てんでんこに逃げよ』その教えを伝えたい」と記されています。

小学校の入り口に建つ高さ4・3㍍、底辺2・85㍍の巨大な石碑。“未来の人々に”で始まる碑文には、「二〇11年三月十一日 午後二時四十六分東日本大震災が起こり 大津波が太平洋沿岸に襲来した。気仙沼市小泉地区は大被害を受け多くの命と家を失ってしまった。学んだことは『地震があったら津波がくる』 ともかく上へ上へと逃げること。『てんでんこに逃げよ』その教えを伝えたい」と記されています。

1960年に発生したチリ津波は沖縄県にも被害を及ぼしました。碑文は「午前5時半ごろから数回に亘り襲来 津波高五mにも及び大浦橋が全壊 護岸も決壊 全家屋浸水し生活用品 家畜等が流失 消滅した」とあります。


1960年に発生したチリ津波は沖縄県にも被害を及ぼしました。碑文は「午前5時半ごろから数回に亘り襲来 津波高五mにも及び大浦橋が全壊 護岸も決壊 全家屋浸水し生活用品 家畜等が流失 消滅した」とあります。
