全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
関連するめっけブック
紹介スポット
- 1088件寶永の津波潮位碑 (宝永の地震・津波)
新庄の小高い丘の上、ちょうど東光寺の前、浜と浜をつなぐ峠道の横に碑が掛けられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
「昔 この位置に峠道あり」で始まる碑文は、「宝永(西暦1707年)の津波は右からの波と左からの波が、ここで打ち合ったという」とあり、2方向から来た津波が海抜12㍍ほどのこの峠で合流したことを告げています。
新庄の小高い丘の上、ちょうど東光寺の前、浜と浜をつなぐ峠道の横に碑が掛けられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
「昔 この位置に峠道あり」で始まる碑文は、「宝永(西暦1707年)の津波は右からの波と左からの波が、ここで打ち合ったという」とあり、2方向から来た津波が海抜12㍍ほどのこの峠で合流したことを告げています。
感恩碑 (宝永地震 安政南海地震)
稲むらの火で名高い濱口儀兵衛(梧陵)の功績を讃えた碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
1854年の安政南海地震津波で壊滅的被害を受けた広村。梧陵が地震後、私財を投げ打って堤防を築きました。この堤防は昭和南海地震でも背後の村を守り、現在も「広村堤防」と呼ばれて地域の住民に親しまれています。
稲むらの火で名高い濱口儀兵衛(梧陵)の功績を讃えた碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
1854年の安政南海地震津波で壊滅的被害を受けた広村。梧陵が地震後、私財を投げ打って堤防を築きました。この堤防は昭和南海地震でも背後の村を守り、現在も「広村堤防」と呼ばれて地域の住民に親しまれています。
松崎の碑(万寿地震)
金毘羅神社には平安時代の「万寿地震」で鴨島が水没した伝説を記した石碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑の説明文によれば、柿本人麻呂が高津の鴨島で没した際、人麻呂が生前に彫った木像を安置する祠が建てられたといいます。万寿地震の大津波で鴨島は水没しましたが、木像は祠の傍らにあった二股の松の大木に乗って松林に漂着。まさに松の霊力によって助けられたことから、この地を松崎(松佐起)と呼ぶようになったといいます。
金毘羅神社には平安時代の「万寿地震」で鴨島が水没した伝説を記した石碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑の説明文によれば、柿本人麻呂が高津の鴨島で没した際、人麻呂が生前に彫った木像を安置する祠が建てられたといいます。万寿地震の大津波で鴨島は水没しましたが、木像は祠の傍らにあった二股の松の大木に乗って松林に漂着。まさに松の霊力によって助けられたことから、この地を松崎(松佐起)と呼ぶようになったといいます。
沖洲蛭子神社百度石 (安政南海地震)
安政元(1854)年に起きた安政南海地震の言い伝えが記されている蛭子神社の百度石。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑の説明文によれば、「この石碑はマグニチュード8・4の安政南海地震の被災状況から得られた教訓と百年もすれば巨大地震がまた起きるということを後世に残すために建てられた」とあります。また、地震発生時には冷静に火の始末をすることなどの教訓も碑文に込められているといいます。
安政元(1854)年に起きた安政南海地震の言い伝えが記されている蛭子神社の百度石。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑の説明文によれば、「この石碑はマグニチュード8・4の安政南海地震の被災状況から得られた教訓と百年もすれば巨大地震がまた起きるということを後世に残すために建てられた」とあります。また、地震発生時には冷静に火の始末をすることなどの教訓も碑文に込められているといいます。
牟岐町における南海震災史碑(昭和南海地震)
四国23番札所「薬王寺」に近い牟岐町には、過去、四国を襲った昭和南海地震を詳細に記した碑残ります。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文には昭和南海地震で52人が犠牲となり、家屋1774棟が被害を受けたことを伝えているほか、津波については、「地震がやんでから約10分で第1波、その後数回おしよせた。2回目が一番大きかった。海水が下から膨れ上がるように見え、次第に水位がたかまり、強い流れを生じ、ごうごうとおしよせてきた」と記しています
四国23番札所「薬王寺」に近い牟岐町には、過去、四国を襲った昭和南海地震を詳細に記した碑残ります。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文には昭和南海地震で52人が犠牲となり、家屋1774棟が被害を受けたことを伝えているほか、津波については、「地震がやんでから約10分で第1波、その後数回おしよせた。2回目が一番大きかった。海水が下から膨れ上がるように見え、次第に水位がたかまり、強い流れを生じ、ごうごうとおしよせてきた」と記しています
敬諭碑(安政南海地震)
旧吉野川が流れる松茂町春日神社に残る安政南海地震の碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
石碑は激しい揺れと家屋の倒壊、火災、液状化と津波による田畑の冠水の状況が克明に記しています。その碑文には、海に浮かぶ商い船はくだけて陸に揚がり、巨大な松杉も根元から抜けて海に漂ったこと、人々は家を失い、財産を失い、寒中、多くが飢えて苦しんだとも記されています。
石碑は激しい揺れと家屋の倒壊、火災、液状化と津波による田畑の冠水の状況が克明に記しています。その碑文には、海に浮かぶ商い船はくだけて陸に揚がり、巨大な松杉も根元から抜けて海に漂ったこと、人々は家を失い、財産を失い、寒中、多くが飢えて苦しんだとも記されています。
萩谷名号碑(安政南海地震)
宇佐の海岸から歩いて10分ほど入った長閑な田園地帯に建つ安政地震・津波の碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑は高さ1㍍30㌢ほど。円筒形をしており、表面には大きく「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれていほか、碑の周りには地震の状況が記されています。この碑は宝永地震と安政元年に発生した安政地震に伴う津波による犠牲者の追善と被害の教訓を後世に伝えるため、津波の潮先に近いこの地に建立されたものだといいます。
宇佐の海岸から歩いて10分ほど入った長閑な田園地帯に建つ安政地震・津波の碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑は高さ1㍍30㌢ほど。円筒形をしており、表面には大きく「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれていほか、碑の周りには地震の状況が記されています。この碑は宝永地震と安政元年に発生した安政地震に伴う津波による犠牲者の追善と被害の教訓を後世に伝えるため、津波の潮先に近いこの地に建立されたものだといいます。
津波の碑(チリ津波)
JR須崎駅から程近い一角に、1960年に発生したチリ津波の碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は、「昭和三十五年のチリ津波は幸い死者は無かったが堀川が高潮で家屋四千余が浸水し損害は八億円に達した。度重なる津波による惨害にかんがみ須崎市はこのたび港湾に堅固な防波堤をめぐらし、さらに常に災害の誘引となった堀川を埋め立てて自今の備えと万一に際し市民の城山避難の安全を期した」と記されています。
JR須崎駅から程近い一角に、1960年に発生したチリ津波の碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は、「昭和三十五年のチリ津波は幸い死者は無かったが堀川が高潮で家屋四千余が浸水し損害は八億円に達した。度重なる津波による惨害にかんがみ須崎市はこのたび港湾に堅固な防波堤をめぐらし、さらに常に災害の誘引となった堀川を埋め立てて自今の備えと万一に際し市民の城山避難の安全を期した」と記されています。
清水中浜恵比須神社地震碑 (安政南海地震)
中浜の港に近い小高い丘に、ジョン万次郎の碑とともに江戸時代にこの地を襲った安政南海地震の碑が残ります。(防災ジャーナリスト/森隆)
安政南海地震は1854年に発生し、紀伊地方から四国南岸を大きな揺れと津波に巻き込みました。碑文は歳月がたち、海からの風や雨で風化してますが、「大地震」「二丈」といった文字が読めます。二丈とは約6㍍の意味で、津波が押し寄せたことを伝えています。
中浜の港に近い小高い丘に、ジョン万次郎の碑とともに江戸時代にこの地を襲った安政南海地震の碑が残ります。(防災ジャーナリスト/森隆)
安政南海地震は1854年に発生し、紀伊地方から四国南岸を大きな揺れと津波に巻き込みました。碑文は歳月がたち、海からの風や雨で風化してますが、「大地震」「二丈」といった文字が読めます。二丈とは約6㍍の意味で、津波が押し寄せたことを伝えています。
福岡西方沖地震伝承碑 菅原神社「折損鳥居」(福岡県西方沖地震)
平成17(2005)年に発生した福岡県西方沖地震の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は佐賀県内でも激しい揺れがあったことを伝え、「鳥栖地方も震度5強を観測するなど建物を揺さぶる大地震を経験した人々の多くは、時間の経過とともに、その恐ろしさを噛み締めた。この地震で、菅原神社境内に建立の鳥居のうち一基(昭和十二年奉納)が倒壊した」として、地震の恐ろしさを啓発しています。
平成17(2005)年に発生した福岡県西方沖地震の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は佐賀県内でも激しい揺れがあったことを伝え、「鳥栖地方も震度5強を観測するなど建物を揺さぶる大地震を経験した人々の多くは、時間の経過とともに、その恐ろしさを噛み締めた。この地震で、菅原神社境内に建立の鳥居のうち一基(昭和十二年奉納)が倒壊した」として、地震の恐ろしさを啓発しています。
宝篋印型供養塔(島原大変)
1792年に発生した眉山大崩落による津波の碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
説明文によれば「二百年前は、この辺りは水頭と呼ばれ島原内港の船着き場として城下第一の繁華街でした。寛政四年に津波の直撃を受け、被害が大きく多くの町人が亡くなりました」とあります。
説明文によれば「二百年前は、この辺りは水頭と呼ばれ島原内港の船着き場として城下第一の繁華街でした。寛政四年に津波の直撃を受け、被害が大きく多くの町人が亡くなりました」とあります。
慶応2年洪水痕跡 (慶応2年寅の大水)
徳島県徳島市/慶応2年寅の大水(1866年9月15日)/1995年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
慶応2年(1866)7月末(旧暦)から降り続いた雨により、8月7日に大洪水となった。芝原と第十の堤防が全壊し、土地の高い所でも床上約60~90cm、低い所では天井に達するほどの浸水となった。この碑のある蔵珠院に洪水の痕跡が残っており、標柱はその水位を示している。同院の過去帳には阿波の国中で37020人が溺死したことなどが記録されている。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県徳島市/慶応2年寅の大水(1866年9月15日)/1995年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
慶応2年(1866)7月末(旧暦)から降り続いた雨により、8月7日に大洪水となった。芝原と第十の堤防が全壊し、土地の高い所でも床上約60~90cm、低い所では天井に達するほどの浸水となった。この碑のある蔵珠院に洪水の痕跡が残っており、標柱はその水位を示している。同院の過去帳には阿波の国中で37020人が溺死したことなどが記録されている。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
赤石豊浦神社石碑 (安政南海地震)
徳島県小松島市/安政南海地震(1854年12月24日)/建立年不明(国土地理院自然災害伝承碑データ)
嘉永7年(1854)11月5日(旧暦)、安政南海地震による津波が襲い、数多くの死者が出た。しかし、小松島豊浦と近郊の村々の人々は小高い豊浦神社に走り集まって難を逃れた。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県小松島市/安政南海地震(1854年12月24日)/建立年不明(国土地理院自然災害伝承碑データ)
嘉永7年(1854)11月5日(旧暦)、安政南海地震による津波が襲い、数多くの死者が出た。しかし、小松島豊浦と近郊の村々の人々は小高い豊浦神社に走り集まって難を逃れた。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
金磯帽厳跡碑 (安政南海地震)
徳島県小松島市/安政南海地震(1854年12月24日)/1910年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
嘉永7年11月5日(1854年12月24日)の安政南海地震により帽岩が破壊された。「阿波志」によると、烏帽子岩は金磯にあり、高さ約7.3mで頂部が烏帽子に似ていた。ここを史跡として後世の人々に伝える。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県小松島市/安政南海地震(1854年12月24日)/1910年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
嘉永7年11月5日(1854年12月24日)の安政南海地震により帽岩が破壊された。「阿波志」によると、烏帽子岩は金磯にあり、高さ約7.3mで頂部が烏帽子に似ていた。ここを史跡として後世の人々に伝える。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
立江八幡神社農地災害復旧碑 (昭和南海地震)
徳島県小松島市/昭和南海地震(1946年12月21日)/1967年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
昭和21年(1946)、昭和南海地震に起因する地盤沈下により、立江町松塚、新開、黒岩、赤石、小田浦、炭屋、高田、松本、坂野町赤石、大林の水田約40万平方メートルは悪水が滞留して不毛の地と化した。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県小松島市/昭和南海地震(1946年12月21日)/1967年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
昭和21年(1946)、昭和南海地震に起因する地盤沈下により、立江町松塚、新開、黒岩、赤石、小田浦、炭屋、高田、松本、坂野町赤石、大林の水田約40万平方メートルは悪水が滞留して不毛の地と化した。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
鵠和光神社石碑 (昭和南海地震)
徳島県阿南市/昭和南海地震(1946年12月21日)ほか/1992年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
鵠(くぐい)地区では、およそ100年ごとに大津波に襲われている。碑には1361年から1960年まで7回の大地震の記録が記され、平時の戒めとするよう説いている。また、1946年昭和南海地震と1960年チリ地震による津波の潮位も刻まれている。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県阿南市/昭和南海地震(1946年12月21日)ほか/1992年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
鵠(くぐい)地区では、およそ100年ごとに大津波に襲われている。碑には1361年から1960年まで7回の大地震の記録が記され、平時の戒めとするよう説いている。また、1946年昭和南海地震と1960年チリ地震による津波の潮位も刻まれている。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
大原地神上棟式記念碑 (昭和南海地震)
徳島県阿南市/昭和南海地震(1946年12月21日)/1948年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
昭和21年(1946)12月21日の明け方、昭和南海地震による大津波が福井村を襲い、海岸地一帯は泥海となり、大原平野の田畑も荒れてしまった。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県阿南市/昭和南海地震(1946年12月21日)/1948年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
昭和21年(1946)12月21日の明け方、昭和南海地震による大津波が福井村を襲い、海岸地一帯は泥海となり、大原平野の田畑も荒れてしまった。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
福井住吉神社海嘯潮痕標石 (昭和南海地震)
徳島県阿南市/昭和南海地震(1946年12月21日)/1948年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
昭和南海地震(1946)による最初の津波は住吉神社の石段6段目まで、2回目の津波は石段10段目まで達した。この津波で、負傷5名、家屋12棟、船10艘、床上浸水127戸等の被害が出た。衣食もほとんど流失した。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県阿南市/昭和南海地震(1946年12月21日)/1948年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
昭和南海地震(1946)による最初の津波は住吉神社の石段6段目まで、2回目の津波は石段10段目まで達した。この津波で、負傷5名、家屋12棟、船10艘、床上浸水127戸等の被害が出た。衣食もほとんど流失した。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
椿八幡神社常夜燈 (安政南海地震)
徳島県阿南市/安政南海地震(1854年12月24日)/1856年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
嘉永7年11月4日(1854年12月23日)、安政東海地震の津波が土堤を越え、川筋の奥手まで上がったので、人々は津波の再来を恐れた。翌5日(24日)午後6時ごろ、安政南海地震による津波が来たので山の上に逃げ夜を明かした。家屋や田の被害は生じたが、犠牲者は出なかった。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県阿南市/安政南海地震(1854年12月24日)/1856年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
嘉永7年11月4日(1854年12月23日)、安政東海地震の津波が土堤を越え、川筋の奥手まで上がったので、人々は津波の再来を恐れた。翌5日(24日)午後6時ごろ、安政南海地震による津波が来たので山の上に逃げ夜を明かした。家屋や田の被害は生じたが、犠牲者は出なかった。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
椿公民館石碑 (安政南海地震)
徳島県阿南市/安政南海地震(1854年12月24日) 昭和南海地震(1946年12月21日)/2004年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
徳島県災異誌によると、3m以上の大津波が史上6回阿波の海岸に来ている。安政南海地震(1854)では約30haが冠水、昭和南海地震(1946)では保育所まで冠水した。災害は忘れた頃にやってくる、各地域で決めた高台へ避難することを説いている。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)
徳島県阿南市/安政南海地震(1854年12月24日) 昭和南海地震(1946年12月21日)/2004年建立(国土地理院自然災害伝承碑データ)
徳島県災異誌によると、3m以上の大津波が史上6回阿波の海岸に来ている。安政南海地震(1854)では約30haが冠水、昭和南海地震(1946)では保育所まで冠水した。災害は忘れた頃にやってくる、各地域で決めた高台へ避難することを説いている。 (国土地理院自然災害伝承碑データ gsi.go.jp/bousaichiri/denshouh... より)