
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

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- 1088件1741年8月に発生した寛保津波は、江差や松前をはじめ、津軽や佐渡、北陸に至る日本海側にまで影響が及びました。寛保津波は渡島大島の噴火によって発生した山体崩壊に伴う津波で、人的被害もさることながら家屋の倒壊約800戸、船の被害は1500艘以上に上ったといわれます。火山と災害にも十分な注意が必要ですね。

1741年8月に発生した寛保津波は、江差や松前をはじめ、津軽や佐渡、北陸に至る日本海側にまで影響が及びました。寛保津波は渡島大島の噴火によって発生した山体崩壊に伴う津波で、人的被害もさることながら家屋の倒壊約800戸、船の被害は1500艘以上に上ったといわれます。火山と災害にも十分な注意が必要ですね。

陸前高田「気仙大工左官伝承館」の一角に、阪神・淡路大震災で甚大な被害のあった神戸から希望の灯りが届けられました。碑には「2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災で被災された方々に少しでも希望を持っていただきたいとの思いから 国内外からのご寄付をもとに被災地のみなさんとボランティアが協力して建立しました」とあります。

陸前高田「気仙大工左官伝承館」の一角に、阪神・淡路大震災で甚大な被害のあった神戸から希望の灯りが届けられました。碑には「2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災で被災された方々に少しでも希望を持っていただきたいとの思いから 国内外からのご寄付をもとに被災地のみなさんとボランティアが協力して建立しました」とあります。

マグニチュード8.1の昭和三陸地震の碑です。「大地震の後には津波が来る」「大地震があったら高い所へ集まれ」「津浪に追われたら何処でも高い所へ」「遠くへ逃げては津浪に追いつかれる、常に逃げ場を用意しておけ」「家を建てるなら津浪の来ぬ安全地帯へ」と、いつの時代も変わらない鉄則が述べられています。

マグニチュード8.1の昭和三陸地震の碑です。「大地震の後には津波が来る」「大地震があったら高い所へ集まれ」「津浪に追われたら何処でも高い所へ」「遠くへ逃げては津浪に追いつかれる、常に逃げ場を用意しておけ」「家を建てるなら津浪の来ぬ安全地帯へ」と、いつの時代も変わらない鉄則が述べられています。

碑文は風化して読むことが難しいですが、国土交通省東北地方整備局の史料によれば「ヂシンガシタラバユダンヲスルナ」「ヂシンガアッタラタカイトコロニアヅマレ」「ツナミニオワレタラタカイトコロニアガレ」「チカクノタカイトコロヲヨウイシテオケ」「オカミノサダメタヤシキチヨリヒクイトコロニ家ヲタテルナ」(津波被害・津波石碑情報アーカイブ)と記されています。

碑文は風化して読むことが難しいですが、国土交通省東北地方整備局の史料によれば「ヂシンガシタラバユダンヲスルナ」「ヂシンガアッタラタカイトコロニアヅマレ」「ツナミニオワレタラタカイトコロニアガレ」「チカクノタカイトコロヲヨウイシテオケ」「オカミノサダメタヤシキチヨリヒクイトコロニ家ヲタテルナ」(津波被害・津波石碑情報アーカイブ)と記されています。

標高約18㍍の高台にある「田野畑駅」。宮沢賢治の童話にちなんで「カンパネルラ」の愛称が付けられています。近くの漁港から攻め入った津波は、その高さを増し、ついに駅にも達しました。現在、駅前の広場の一角には、「津波到達地」の碑が建っています。この駅から見る港は、はるか下方。まさかこの高さまで津波が来ようとは、誰が想像しえたでしょうか。

標高約18㍍の高台にある「田野畑駅」。宮沢賢治の童話にちなんで「カンパネルラ」の愛称が付けられています。近くの漁港から攻め入った津波は、その高さを増し、ついに駅にも達しました。現在、駅前の広場の一角には、「津波到達地」の碑が建っています。この駅から見る港は、はるか下方。まさかこの高さまで津波が来ようとは、誰が想像しえたでしょうか。

過去の津波の教訓から高台移転を行った吉浜の村。東日本大震災でも人的被害は最小限に抑えられました。碑文は「きせきのしゅうらく」とひらがなで記され、各々の文字が頭文字になっていて、「『き』絆を大切に希望を持って生きる、『せ』先人の教えを守り 生かされた命、『き』きっとまた来る大津波、『の』のぼれ!山へ高台へ、『しゅ』集落みんなの命のため、『う』美しい海 青い空 私の故郷、『ら』らせん階段のように みんなで語り伝え、『く』暮らしてゆこう 奇跡の集落 吉浜の里で」と結んでいます。

過去の津波の教訓から高台移転を行った吉浜の村。東日本大震災でも人的被害は最小限に抑えられました。碑文は「きせきのしゅうらく」とひらがなで記され、各々の文字が頭文字になっていて、「『き』絆を大切に希望を持って生きる、『せ』先人の教えを守り 生かされた命、『き』きっとまた来る大津波、『の』のぼれ!山へ高台へ、『しゅ』集落みんなの命のため、『う』美しい海 青い空 私の故郷、『ら』らせん階段のように みんなで語り伝え、『く』暮らしてゆこう 奇跡の集落 吉浜の里で」と結んでいます。

吉浜に明治29(1896)年、明治三陸地震津波が襲来。この地震は緩い揺れだったことから、多くの村人は24㍍もの巨大な津波の来襲を予想できず、約200人が波間に消えました。1000人ほどの村だけに、人口の2割が失われたことになります。後に石川啄木もこの地を訪れ、哀悼の意を表しています。

吉浜に明治29(1896)年、明治三陸地震津波が襲来。この地震は緩い揺れだったことから、多くの村人は24㍍もの巨大な津波の来襲を予想できず、約200人が波間に消えました。1000人ほどの村だけに、人口の2割が失われたことになります。後に石川啄木もこの地を訪れ、哀悼の意を表しています。

1933年3月3日午前2時半ごろに発生した昭和三陸地震はマグニチュード8.1の海洋型地震。津波は地震後約30分で三陸海岸に押し寄せており、「緑の真珠」と称えれる美しい大島では死者2人、負傷者2人の被害が発生しました。

1933年3月3日午前2時半ごろに発生した昭和三陸地震はマグニチュード8.1の海洋型地震。津波は地震後約30分で三陸海岸に押し寄せており、「緑の真珠」と称えれる美しい大島では死者2人、負傷者2人の被害が発生しました。

小倉百人一首の歌の中で「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは」と詠われた末の松山。男女の仲を西暦869年の貞観津波にたとえたこの一句。津波が末の松山を越えなかったように、二人の愛の誓いも永遠だったはずなのに…。貞観地震は多賀城下でも千人もの溺死者を出したといわれます。東日本大震災の津波もこの末の松山を越えることはありませんでしたとさ。

小倉百人一首の歌の中で「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは」と詠われた末の松山。男女の仲を西暦869年の貞観津波にたとえたこの一句。津波が末の松山を越えなかったように、二人の愛の誓いも永遠だったはずなのに…。貞観地震は多賀城下でも千人もの溺死者を出したといわれます。東日本大震災の津波もこの末の松山を越えることはありませんでしたとさ。

神威岬沖地震(積丹半島地震)は1940年8月2日、午前0時すぎに発生。地震の規模を示すマグニチュードは7.5。津波が北海道西岸を急襲し、沿岸に被害をもたらし、天塩の町では死者10人を数えました。日本海側の津波に関しては2014年、政府が日本海側の大規模地震の報告書を公表し、稚内市では平地で最大7・1㍍、天塩町で最大5㍍のほか、日本海沿岸の各市町村で数メートル規模の津波高が想定されています。


神威岬沖地震(積丹半島地震)は1940年8月2日、午前0時すぎに発生。地震の規模を示すマグニチュードは7.5。津波が北海道西岸を急襲し、沿岸に被害をもたらし、天塩の町では死者10人を数えました。日本海側の津波に関しては2014年、政府が日本海側の大規模地震の報告書を公表し、稚内市では平地で最大7・1㍍、天塩町で最大5㍍のほか、日本海沿岸の各市町村で数メートル規模の津波高が想定されています。
