全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
関連するめっけブック
紹介スポット
- 1088件大地震紀念碑(濃尾地震)
清須城見学の後はこの碑も訪れたいもの。明治29年に発生した濃尾地震の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
濃尾地震は明治24(1891)年10月28日、午前6時37分頃に発生。被害は東海地方から北陸、近畿地方など広範囲におよび、特に震源に近い美濃西部から尾張北西部にかけて甚大な損害が発生しています。清須城公園の一角に建てられた濃尾地震の碑は、濃尾地震で亡くなった住民を悼み、後世へ地震の記憶を伝えています。
濃尾地震は明治24(1891)年10月28日、午前6時37分頃に発生。被害は東海地方から北陸、近畿地方など広範囲におよび、特に震源に近い美濃西部から尾張北西部にかけて甚大な損害が発生しています。清須城公園の一角に建てられた濃尾地震の碑は、濃尾地震で亡くなった住民を悼み、後世へ地震の記憶を伝えています。
震災亡霊菩薩塔(濃尾地震)
愛知や岐阜に甚大な被害をもたらした濃尾地震。尾張一宮の地蔵寺には、梵字で記された碑が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
愛知や岐阜に甚大な被害をもたらした濃尾地震。尾張一宮の地蔵寺には、梵字で記された碑が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
佐久間燈籠(濃尾地震)
熱田神宮にある巨大な佐久間灯籠。濃尾地震で一度倒れたことがあるそうです。(防災ジャーナリスト/森隆)
濃尾地震の碑
「恵日寺」の境内の一角に明治24年に発生した濃尾地震の石碑が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
漢詩の四言詩の形をとった碑文には、明治24年の晩秋の10月28日午前六時に地震が発生したとあり、天地震動し、瞬く間に家が倒れ、人が斃れ、その惨状は言葉を絶するほどだったと伝え、この村でも男女11人が即死したとあります。
漢詩の四言詩の形をとった碑文には、明治24年の晩秋の10月28日午前六時に地震が発生したとあり、天地震動し、瞬く間に家が倒れ、人が斃れ、その惨状は言葉を絶するほどだったと伝え、この村でも男女11人が即死したとあります。
関東大震災の碑
なぜ、名古屋の地に関東大震災の碑が?日泰寺の碑にそのわけが残されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
日泰寺は明治37(1904)年、シャム(タイ)国王から寄贈された釈迦の遺骨(舎利)を祀るために建立された超宗派の寺院。その奉安塔前の関東大震災供養堂には、遠く離れた東京の被服廠跡で起きた悲惨な歴史と日泰寺僧侶たちの果たした役割を伝えた石碑が残ります。
日泰寺は明治37(1904)年、シャム(タイ)国王から寄贈された釈迦の遺骨(舎利)を祀るために建立された超宗派の寺院。その奉安塔前の関東大震災供養堂には、遠く離れた東京の被服廠跡で起きた悲惨な歴史と日泰寺僧侶たちの果たした役割を伝えた石碑が残ります。
濃尾地震の碑
日本三大川祭の一つ「尾張津島天王祭」が開かれる天王川公園の一角に建つ濃尾地震の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
「天地之変異」で始まる碑文は摩耗し、今では読みづらい状態ですが、地震は予測不可能な激烈なものであり、濃尾地震では尾張美濃の2州などが大きな揺れに見舞われて土地が陥没、田園も荒廃し、家屋倒壊し多くの死傷者が出たといった罹災の実情が記されています。
日本三大川祭の一つ「尾張津島天王祭」が開かれる天王川公園の一角に建つ濃尾地震の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
「天地之変異」で始まる碑文は摩耗し、今では読みづらい状態ですが、地震は予測不可能な激烈なものであり、濃尾地震では尾張美濃の2州などが大きな揺れに見舞われて土地が陥没、田園も荒廃し、家屋倒壊し多くの死傷者が出たといった罹災の実情が記されています。
帰雲城跡
1586年に発生した天正地震。帰雲城とその城下が一夜にして消滅したと言われ、今では幻の城となってます。(防災ジャーナリスト/森隆)
地震で一夜にして消えた幻の帰雲城。碑文は「十一月二十九日、東海・北陸・近畿に及ぶ広範の地域を襲った巨大地震によって帰雲山に大崩壊が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。埋没前の帰雲城の位置は確認されていないが、地勢・堆積土砂等からしてこの周辺地域と推測される」とあります。
地震で一夜にして消えた幻の帰雲城。碑文は「十一月二十九日、東海・北陸・近畿に及ぶ広範の地域を襲った巨大地震によって帰雲山に大崩壊が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。埋没前の帰雲城の位置は確認されていないが、地勢・堆積土砂等からしてこの周辺地域と推測される」とあります。
震源地の碑(福井地震)
太平洋戦争が終結して間もない昭和23年の福井地震。その震源地と目される地点に建つ石碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
県道17号線と北陸自動車道が交わる一角に「震源地の碑」と記された1本の四角い石柱が建っています。表面には「福井大地震 震源地」と刻まれ、他の面には「震央 東経一三六度一六、二分 北緯三六度八、00分」、「発震時刻 昭和二十三年六月二十八日十六時十三分二十五秒 震度七激震 震源の深さ三三、0三㎞」など地震のことが記されています。
県道17号線と北陸自動車道が交わる一角に「震源地の碑」と記された1本の四角い石柱が建っています。表面には「福井大地震 震源地」と刻まれ、他の面には「震央 東経一三六度一六、二分 北緯三六度八、00分」、「発震時刻 昭和二十三年六月二十八日十六時十三分二十五秒 震度七激震 震源の深さ三三、0三㎞」など地震のことが記されています。
震災復興記念碑(福井地震)
丸岡城近くの國神神社に福井地震からの復興を記念して建てられた石碑。神社横には震災で焼けなかったタブの木も。(防災ジャーナリスト/森隆)
福井地震は1948年6月28日に発生。丸岡町の被害は甚大で、役場をはじめ、警察、学校、病院、銀行なども全壊・焼失。丸岡町の國神神社には、地域住民たちの努力で町が復興したことを記念して、境内に石碑が建てられました。
丸岡城近くの國神神社に福井地震からの復興を記念して建てられた石碑。神社横には震災で焼けなかったタブの木も。(防災ジャーナリスト/森隆)
福井地震は1948年6月28日に発生。丸岡町の被害は甚大で、役場をはじめ、警察、学校、病院、銀行なども全壊・焼失。丸岡町の國神神社には、地域住民たちの努力で町が復興したことを記念して、境内に石碑が建てられました。
「西浜村伝承地」の碑
天正13(1586)年に起きた天正地震。琵琶湖では、ある村が地震で消えたとも伝えられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文には「ここ長浜市祇園町西方の湖中には、かつて『西浜村』がありましたが、室町時代の寛正年間(一四六0~一四六六)の大地震により村の大半が水没したと伝えられています。西浜村があったといわれる湖底には、波の穏やかなときには、湖面から石積みや井戸などの遺構をかいま見ることができます。」と刻まれています。
天正13(1586)年に起きた天正地震。琵琶湖では、ある村が地震で消えたとも伝えられています。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文には「ここ長浜市祇園町西方の湖中には、かつて『西浜村』がありましたが、室町時代の寛正年間(一四六0~一四六六)の大地震により村の大半が水没したと伝えられています。西浜村があったといわれる湖底には、波の穏やかなときには、湖面から石積みや井戸などの遺構をかいま見ることができます。」と刻まれています。
津波之紀事(安政南海地震)
御坊の西、煙樹ヶ浜近くの浜ノ瀬公民館前に建てられた安政南海地震の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
安政南海地震は1854年12月24日に発生した南海トラフを震源域とする巨大地震の一つ。碑は後世の人々を思い、大いなる地震の時には必ず津波が来ると心得て大松原の小高い場所に集まることなどを諭しています。
安政南海地震は1854年12月24日に発生した南海トラフを震源域とする巨大地震の一つ。碑は後世の人々を思い、大いなる地震の時には必ず津波が来ると心得て大松原の小高い場所に集まることなどを諭しています。
震災復興記念碑(阪神・淡路大震災)
生田神社兵庫宮御旅所にある日時計の記念碑です。阪神・淡路大震災の日時を赤く記しています。(防災ジャーナリスト/森隆)
生田神社兵庫宮の鳥居をくぐったそばに「震災復興記念碑」と刻まれた日時計が設置されています。高さは約1㍍ほど。台座には金属製の盤が設置され、太陽の影を落として時を知らせてくれます。地震発生の時刻「1月17日5時46分」が朱色で波打つように記されています。
生田神社兵庫宮御旅所にある日時計の記念碑です。阪神・淡路大震災の日時を赤く記しています。(防災ジャーナリスト/森隆)
生田神社兵庫宮の鳥居をくぐったそばに「震災復興記念碑」と刻まれた日時計が設置されています。高さは約1㍍ほど。台座には金属製の盤が設置され、太陽の影を落として時を知らせてくれます。地震発生の時刻「1月17日5時46分」が朱色で波打つように記されています。
記憶(阪神・淡路大震災)
長田神社の参道には、震度7の揺れで折れた鳥居が保存されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
「記憶」と題されたその石碑には「まちの象徴であった長田神社馬場先鳥居は、狛犬、灯籠ともども平成7年1月17日午前5時46分兵庫県南部地震により倒壊した。地震を忘れず、震災を忘れず、復興まちづくりを進めようと祈念し、ここに倒壊した旧鳥居の一部を残置しまちの記憶とする」と刻まれています。
「記憶」と題されたその石碑には「まちの象徴であった長田神社馬場先鳥居は、狛犬、灯籠ともども平成7年1月17日午前5時46分兵庫県南部地震により倒壊した。地震を忘れず、震災を忘れず、復興まちづくりを進めようと祈念し、ここに倒壊した旧鳥居の一部を残置しまちの記憶とする」と刻まれています。
求女塚(阪神・淡路大震災)
求女塚(もとめづか)東公園にある阪神・淡路大震災の慰霊碑。(防災ジャーナリスト/森隆)
落ちた地球儀(阪神・淡路大震災)
須磨浦公園の一角には震災で落下した石の地球儀が、落ちたままの状態で残されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
”春の海、ひねもすのたりのたりかな”の蕪村の句碑も残る須磨浦公園。その一角の石の地球儀は阪神地域の被害の様子とともに、「わたしたちはあの忌まわしい震災の日々の記憶を失ってしまわないために、この落下した地球儀をしっかりと見つめ直す必要があるのではないでしょうか」と伝えています。
須磨浦公園の一角には震災で落下した石の地球儀が、落ちたままの状態で残されています。(防災ジャーナリスト/森隆)
”春の海、ひねもすのたりのたりかな”の蕪村の句碑も残る須磨浦公園。その一角の石の地球儀は阪神地域の被害の様子とともに、「わたしたちはあの忌まわしい震災の日々の記憶を失ってしまわないために、この落下した地球儀をしっかりと見つめ直す必要があるのではないでしょうか」と伝えています。
復興への誓い(阪神・淡路大震災)
JR「六甲道」の駅の南口にJR西日本が設置した阪神・淡路大震災のモニュメントです。(防災ジャーナリスト/森隆)
ステンレス製のモニュメントには地震計の記録データを模したグラフが描かれており、地震計が東西南北にどの位動いたかの軌跡を表示しています。それによると、最大で南東から北西にかけて最大80㌢ほど動いた様子が分かります。モニュメント横のステンレス板には復興に向けた誓いの言葉も添えられています。
JR「六甲道」の駅の南口にJR西日本が設置した阪神・淡路大震災のモニュメントです。(防災ジャーナリスト/森隆)
ステンレス製のモニュメントには地震計の記録データを模したグラフが描かれており、地震計が東西南北にどの位動いたかの軌跡を表示しています。それによると、最大で南東から北西にかけて最大80㌢ほど動いた様子が分かります。モニュメント横のステンレス板には復興に向けた誓いの言葉も添えられています。
べっちゃないロック(阪神・淡路大震災)
野島断層を保存展示した淡路島の「北淡震災記念公園」。その一角にある「べっちゃないロック」の慰霊碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
ピラミッド型をした3基が空に向かってそそり立つべっしゃないロック。碑文は「1995年兵庫県南部地震により犠牲となった北淡町民の氏名をここに記し、慰霊の碑とすることにより、震災の記憶が永遠のものになることを願う」と綴っています。「べっちゃない」とは「大丈夫」という意味の方言だそうで、この慰霊碑で震災に負けない思いを伝えています。
野島断層を保存展示した淡路島の「北淡震災記念公園」。その一角にある「べっちゃないロック」の慰霊碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
ピラミッド型をした3基が空に向かってそそり立つべっしゃないロック。碑文は「1995年兵庫県南部地震により犠牲となった北淡町民の氏名をここに記し、慰霊の碑とすることにより、震災の記憶が永遠のものになることを願う」と綴っています。「べっちゃない」とは「大丈夫」という意味の方言だそうで、この慰霊碑で震災に負けない思いを伝えています。
海嘯記(安政南海地震)
JR海部駅から漁港に向かう途中に、1854年の安政南海地震の碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文は風化が進んでいるため読むことは難しですが、「徳島の地震津波」という書籍の中に「西山の方に当りて鳴音大砲声雷響の混するが如く魂消けるばかりなるに、海面もいとふくれきし高潮渤然と湧き騰り、向ひの山をこえ満込来るにぞ」と記され、津波の事実を伝えています。
碑文は風化が進んでいるため読むことは難しですが、「徳島の地震津波」という書籍の中に「西山の方に当りて鳴音大砲声雷響の混するが如く魂消けるばかりなるに、海面もいとふくれきし高潮渤然と湧き騰り、向ひの山をこえ満込来るにぞ」と記され、津波の事実を伝えています。
安政の津波碑(安政南海地震)
安政東海地震に引き続き起きた安政南海地震。海陽町浅川の天神社にはこの地震津波の碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑では安政南海地震の前日、安政元(1854)年11月4日に一度地震があり、人々は驚いて山に荷物を運び逃げ登ったこと。続いて、翌11月5日には再び大地震が起こり、高さ9㍍ほどの大津波が、矢を射るほどの速さで襲ってきたことを伝えています。
安政東海地震に引き続き起きた安政南海地震。海陽町浅川の天神社にはこの地震津波の碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑では安政南海地震の前日、安政元(1854)年11月4日に一度地震があり、人々は驚いて山に荷物を運び逃げ登ったこと。続いて、翌11月5日には再び大地震が起こり、高さ9㍍ほどの大津波が、矢を射るほどの速さで襲ってきたことを伝えています。
犠牲者供養塔(鳥取地震)
1943年に発生した鳥取地震。荒金鉱山で起きた土砂崩れの悲劇を伝える慰霊碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)
碑文には「肉親の目前で鉱泥に埋もれ、又、遠く祖国を離れて被災落命された当時朝鮮の方々の無念を想うと胸つまるものがある。関係地元住民の必至の救出活動にもかかわらず、余震は続き、鉱泥のため遺体収容は困難を極め、今なお二十余名の遺体を鉱泥の中に残したままである」とあります。
碑文には「肉親の目前で鉱泥に埋もれ、又、遠く祖国を離れて被災落命された当時朝鮮の方々の無念を想うと胸つまるものがある。関係地元住民の必至の救出活動にもかかわらず、余震は続き、鉱泥のため遺体収容は困難を極め、今なお二十余名の遺体を鉱泥の中に残したままである」とあります。