
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

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紹介スポット
- 1088件1855(安政2)年11月11日に起きた安政江戸地震は、江戸の町を震撼させた大地震。この地震、鹿島の神の留守中に地下のナマズが暴れて起こしたとの民の言い伝えも。鹿島神宮には、大ナマズを抑え込む霊力があるとされる要石が祀られています。

1855(安政2)年11月11日に起きた安政江戸地震は、江戸の町を震撼させた大地震。この地震、鹿島の神の留守中に地下のナマズが暴れて起こしたとの民の言い伝えも。鹿島神宮には、大ナマズを抑え込む霊力があるとされる要石が祀られています。

碑の灯りは、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の犠牲者を弔うために神戸から僧侶が分灯し、神戸市から徒歩でこの地に運ばれてきたものだといいます。碑文には「二〇一一年三月十一日午後二時四十六分東日本大震災 かけがえのない生命が数多失われ計り知れない深く苦しい悲しみを受く されども再び力の限り生き続ける 生きとし生けるものをこの灯りは包み込み静かに見守る」とあります。

碑の灯りは、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の犠牲者を弔うために神戸から僧侶が分灯し、神戸市から徒歩でこの地に運ばれてきたものだといいます。碑文には「二〇一一年三月十一日午後二時四十六分東日本大震災 かけがえのない生命が数多失われ計り知れない深く苦しい悲しみを受く されども再び力の限り生き続ける 生きとし生けるものをこの灯りは包み込み静かに見守る」とあります。

松代を中心に1965年8月3日から70年6月5日に終息するまで、実に70万回を超える松代群発地震が発生。当初、震源はなぜか皆神山地下周辺という不可思議な地震でした。碑文には「昭和四十年八月松代町付近を震源地とする地震が発生。有感地震は六万二千余回を数え」とあります。

松代を中心に1965年8月3日から70年6月5日に終息するまで、実に70万回を超える松代群発地震が発生。当初、震源はなぜか皆神山地下周辺という不可思議な地震でした。碑文には「昭和四十年八月松代町付近を震源地とする地震が発生。有感地震は六万二千余回を数え」とあります。

「五十鈴湖」の湖畔近くに鶴をかたどった「復興の折り鶴」の碑があります。この鶴。実は、同時爆発テロのあったニューヨーク世界貿易センターの跡地から回収された鋼鉄で作られているそうです。

「五十鈴湖」の湖畔近くに鶴をかたどった「復興の折り鶴」の碑があります。この鶴。実は、同時爆発テロのあったニューヨーク世界貿易センターの跡地から回収された鋼鉄で作られているそうです。

碑文は歳月と共に風化が進み読みづらいですが、説明文では、被害は長岡から新潟に及び、死者は1400人を超えたといい、長岡城は崩れ、侍屋敷、町家、村々の家も潰れ、死者442人、負傷者552人を数え、長岡藩始まって以来の大惨事だったことを伝えています。

碑文は歳月と共に風化が進み読みづらいですが、説明文では、被害は長岡から新潟に及び、死者は1400人を超えたといい、長岡城は崩れ、侍屋敷、町家、村々の家も潰れ、死者442人、負傷者552人を数え、長岡藩始まって以来の大惨事だったことを伝えています。

新潟県中越地震は平成16(2004)年10月23日の午後5時56分ごろに発生したマグニチュード6.8の直下地震。山古志村木籠地区では芋川が土砂で堰き止められ、住宅が水没しました。碑には「地震で沈んだ村 皆の力でここによみがえる」と記されています。

新潟県中越地震は平成16(2004)年10月23日の午後5時56分ごろに発生したマグニチュード6.8の直下地震。山古志村木籠地区では芋川が土砂で堰き止められ、住宅が水没しました。碑には「地震で沈んだ村 皆の力でここによみがえる」と記されています。

新潟県中越地震で、国営越後丘陵公園が山古志村の復旧復興を支援し成人式や卒業式など行事の場を提供したことに対し、村民が感謝の意と復興への誓いを込めて建てた石碑です。碑文の横には、「越後の冬は涙も凍る」で始まる越後絶唱の歌詞(歌・小林幸子)も添えられています。

新潟県中越地震で、国営越後丘陵公園が山古志村の復旧復興を支援し成人式や卒業式など行事の場を提供したことに対し、村民が感謝の意と復興への誓いを込めて建てた石碑です。碑文の横には、「越後の冬は涙も凍る」で始まる越後絶唱の歌詞(歌・小林幸子)も添えられています。

三条地震は1828年12月18日の午前8時ごろに発生した直下地震で、マグニチュードは6・9。信濃川に沿った南北25㌔では震度6以上の激しい揺れが襲い、死者約1559人、三条地震で無縁仏となった多くの焼死者を祀った地震亡霊塔と共に、良寛が友人の住職「隆全」にあてた達筆な書状の碑が残ります。

三条地震は1828年12月18日の午前8時ごろに発生した直下地震で、マグニチュードは6・9。信濃川に沿った南北25㌔では震度6以上の激しい揺れが襲い、死者約1559人、三条地震で無縁仏となった多くの焼死者を祀った地震亡霊塔と共に、良寛が友人の住職「隆全」にあてた達筆な書状の碑が残ります。

碑文は「私達は、この日を教訓として後世に伝え続けたい。誰しも予想しない大津波が襲い、愛する父、母、子、兄弟、友人、知人と多くの人を失いました。多くの家が、そして我が家も流されました。ここは『大丈夫』ではありません。常に心がけて再び悔いの残らぬようにまずは逃げる…高台へ。伝えてほしい未来に生きる人達へ」とあります。

碑文は「私達は、この日を教訓として後世に伝え続けたい。誰しも予想しない大津波が襲い、愛する父、母、子、兄弟、友人、知人と多くの人を失いました。多くの家が、そして我が家も流されました。ここは『大丈夫』ではありません。常に心がけて再び悔いの残らぬようにまずは逃げる…高台へ。伝えてほしい未来に生きる人達へ」とあります。

日和山の麓に佇む半円形の白い石碑には、空を舞い、旅立つ鳥、干潟に遊ぶ蟹、浜に生い茂る植物の姿が刻まれており、碑文は「地震の規模マグニチュード9・0 震度6強(宮城野区) 地震の約1時間後に襲来した大津波により、避難が遅れた方や、避難誘導に奮闘した蒲生、港、西原町内会役員など、多くの方がこの地で犠牲となりました」とあります。

日和山の麓に佇む半円形の白い石碑には、空を舞い、旅立つ鳥、干潟に遊ぶ蟹、浜に生い茂る植物の姿が刻まれており、碑文は「地震の規模マグニチュード9・0 震度6強(宮城野区) 地震の約1時間後に襲来した大津波により、避難が遅れた方や、避難誘導に奮闘した蒲生、港、西原町内会役員など、多くの方がこの地で犠牲となりました」とあります。
