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みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜 - メイン画像

みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

1088
2021/6 作成2021/11/11 最終更新

みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

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2021/6 作成2021/11/11 最終更新

全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。

紹介スポット

地震亡霊塔(三条地震)と良寛の碑

名僧・良寛いわれの史跡「宝塔院」。ここに三条地震で亡くなった無縁仏を弔った地震亡霊塔と良寛碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)

三条地震は1828年12月18日の午前8時ごろに発生した直下地震で、マグニチュードは6・9。信濃川に沿った南北25㌔では震度6以上の激しい揺れが襲い、死者約1559人、三条地震で無縁仏となった多くの焼死者を祀った地震亡霊塔と共に、良寛が友人の住職「隆全」にあてた達筆な書状の碑が残ります。

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地震亡霊塔(三条地震)と良寛の碑 - トップ画像
地震亡霊塔(三条地震)と良寛の碑新潟県三条市東裏舘1-6-5

名僧・良寛いわれの史跡「宝塔院」。ここに三条地震で亡くなった無縁仏を弔った地震亡霊塔と良寛碑があります。(防災ジャーナリスト/森隆)

三条地震は1828年12月18日の午前8時ごろに発生した直下地震で、マグニチュードは6・9。信濃川に沿った南北25㌔では震度6以上の激しい揺れが襲い、死者約1559人、三条地震で無縁仏となった多くの焼死者を祀った地震亡霊塔と共に、良寛が友人の住職「隆全」にあてた達筆な書状の碑が残ります。

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地震亡霊塔(三条地震)と良寛の碑新潟県三条市東裏舘1-6-5

感謝の碑(新潟県中越地震)

国営越後丘陵公園内にある新潟県中越地震の碑です。小林幸子の「越後絶唱」の歌詞も添えられています。(防災ジャーナリスト/森隆)

新潟県中越地震で、国営越後丘陵公園が山古志村の復旧復興を支援し成人式や卒業式など行事の場を提供したことに対し、村民が感謝の意と復興への誓いを込めて建てた石碑です。碑文の横には、「越後の冬は涙も凍る」で始まる越後絶唱の歌詞(歌・小林幸子)も添えられています。

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感謝の碑(新潟県中越地震) - トップ画像
感謝の碑(新潟県中越地震)新潟県長岡市宮本東方町字三ツ又1950-1

国営越後丘陵公園内にある新潟県中越地震の碑です。小林幸子の「越後絶唱」の歌詞も添えられています。(防災ジャーナリスト/森隆)

新潟県中越地震で、国営越後丘陵公園が山古志村の復旧復興を支援し成人式や卒業式など行事の場を提供したことに対し、村民が感謝の意と復興への誓いを込めて建てた石碑です。碑文の横には、「越後の冬は涙も凍る」で始まる越後絶唱の歌詞(歌・小林幸子)も添えられています。

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感謝の碑(新潟県中越地震)新潟県長岡市宮本東方町字三ツ又1950-1

日本の故郷・千年の一歩の碑(新潟県中越地震)

長岡市の旧山古志村にある新潟県中越地震の石碑。河道閉塞で水没した住宅が震災遺構として残っています。(防災ジャーナリスト/森隆)

新潟県中越地震は平成16(2004)年10月23日の午後5時56分ごろに発生したマグニチュード6.8の直下地震。山古志村木籠地区では芋川が土砂で堰き止められ、住宅が水没しました。碑には「地震で沈んだ村 皆の力でここによみがえる」と記されています。

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日本の故郷・千年の一歩の碑(新潟県中越地震) - トップ画像
日本の故郷・千年の一歩の碑(新潟県中越地震)新潟県長岡市山古志木籠地先

長岡市の旧山古志村にある新潟県中越地震の石碑。河道閉塞で水没した住宅が震災遺構として残っています。(防災ジャーナリスト/森隆)

新潟県中越地震は平成16(2004)年10月23日の午後5時56分ごろに発生したマグニチュード6.8の直下地震。山古志村木籠地区では芋川が土砂で堰き止められ、住宅が水没しました。碑には「地震で沈んだ村 皆の力でここによみがえる」と記されています。

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日本の故郷・千年の一歩の碑(新潟県中越地震) - トップ画像
日本の故郷・千年の一歩の碑(新潟県中越地震)新潟県長岡市山古志木籠地先

文政大地震供養塔(三条地震)

1828年に発生した三条地震の碑です。長岡駅から歩いて10分ほどの榮凉寺の一角にあります。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は歳月と共に風化が進み読みづらいですが、説明文では、被害は長岡から新潟に及び、死者は1400人を超えたといい、長岡城は崩れ、侍屋敷、町家、村々の家も潰れ、死者442人、負傷者552人を数え、長岡藩始まって以来の大惨事だったことを伝えています。

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文政大地震供養塔(三条地震) - トップ画像
文政大地震供養塔(三条地震)新潟県長岡市東神田3-5-6

1828年に発生した三条地震の碑です。長岡駅から歩いて10分ほどの榮凉寺の一角にあります。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は歳月と共に風化が進み読みづらいですが、説明文では、被害は長岡から新潟に及び、死者は1400人を超えたといい、長岡城は崩れ、侍屋敷、町家、村々の家も潰れ、死者442人、負傷者552人を数え、長岡藩始まって以来の大惨事だったことを伝えています。

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文政大地震供養塔(三条地震) - トップ画像
文政大地震供養塔(三条地震)新潟県長岡市東神田3-5-6

復興の折り鶴(東日本大震災)

郡山から西に行った開成山公園の一角に建つ東日本大震災の碑。この折り鶴には他の秘密も…。(防災ジャーナリスト/森隆)

「五十鈴湖」の湖畔近くに鶴をかたどった「復興の折り鶴」の碑があります。この鶴。実は、同時爆発テロのあったニューヨーク世界貿易センターの跡地から回収された鋼鉄で作られているそうです。

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復興の折り鶴(東日本大震災)福島県郡山市開成1-5

郡山から西に行った開成山公園の一角に建つ東日本大震災の碑。この折り鶴には他の秘密も…。(防災ジャーナリスト/森隆)

「五十鈴湖」の湖畔近くに鶴をかたどった「復興の折り鶴」の碑があります。この鶴。実は、同時爆発テロのあったニューヨーク世界貿易センターの跡地から回収された鋼鉄で作られているそうです。

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復興の折り鶴(東日本大震災)福島県郡山市開成1-5

東日本大震災の碑

中之作港に建てられた東日本大震災の石碑。碑は太平洋に向かい、港の被害と教訓を静かに伝えています。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は「茨城、福島、宮城、岩手、青森各県の太平洋沿岸は、見るも無残な姿に変わりはてた。死者、行方不明者二万人余、倒壊、流失家屋は十数万戸にのぼる惨状となり、その後発生した原子力発電所の事故によって、一時は数えきれない避難民を出すこととなり、中之作、折戸両地区もこの渦中に巻き込まれた」とあり、地震と津波だけでなく、原発事故による惨状をも記録しています。

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東日本大震災の碑 - トップ画像
東日本大震災の碑福島県いわき市中之作字勝見ヶ浦

中之作港に建てられた東日本大震災の石碑。碑は太平洋に向かい、港の被害と教訓を静かに伝えています。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は「茨城、福島、宮城、岩手、青森各県の太平洋沿岸は、見るも無残な姿に変わりはてた。死者、行方不明者二万人余、倒壊、流失家屋は十数万戸にのぼる惨状となり、その後発生した原子力発電所の事故によって、一時は数えきれない避難民を出すこととなり、中之作、折戸両地区もこの渦中に巻き込まれた」とあり、地震と津波だけでなく、原発事故による惨状をも記録しています。

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東日本大震災の碑福島県いわき市中之作字勝見ヶ浦

希望の灯り(東日本大震災)

いわき市役所に隣接する平中央公園の一角に東日本大震災「希望の灯り」があります。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑の灯りは、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の犠牲者を弔うために神戸から僧侶が分灯し、神戸市から徒歩でこの地に運ばれてきたものだといいます。碑文には「二〇一一年三月十一日午後二時四十六分東日本大震災 かけがえのない生命が数多失われ計り知れない深く苦しい悲しみを受く されども再び力の限り生き続ける 生きとし生けるものをこの灯りは包み込み静かに見守る」とあります。

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希望の灯り(東日本大震災) - トップ画像
希望の灯り(東日本大震災)福島県いわき市平三崎

いわき市役所に隣接する平中央公園の一角に東日本大震災「希望の灯り」があります。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑の灯りは、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の犠牲者を弔うために神戸から僧侶が分灯し、神戸市から徒歩でこの地に運ばれてきたものだといいます。碑文には「二〇一一年三月十一日午後二時四十六分東日本大震災 かけがえのない生命が数多失われ計り知れない深く苦しい悲しみを受く されども再び力の限り生き続ける 生きとし生けるものをこの灯りは包み込み静かに見守る」とあります。

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希望の灯り(東日本大震災)福島県いわき市平三崎

要石

鹿島神宮には要石や、鹿島大明神がナマズを押さえ込んでいる石碑も。(防災ジャーナリスト/森隆)

1855(安政2)年11月11日に起きた安政江戸地震は、江戸の町を震撼させた大地震。この地震、鹿島の神の留守中に地下のナマズが暴れて起こしたとの民の言い伝えも。鹿島神宮には、大ナマズを抑え込む霊力があるとされる要石が祀られています。

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要石 - トップ画像
要石茨城県鹿嶋市宮中2306-1

鹿島神宮には要石や、鹿島大明神がナマズを押さえ込んでいる石碑も。(防災ジャーナリスト/森隆)

1855(安政2)年11月11日に起きた安政江戸地震は、江戸の町を震撼させた大地震。この地震、鹿島の神の留守中に地下のナマズが暴れて起こしたとの民の言い伝えも。鹿島神宮には、大ナマズを抑え込む霊力があるとされる要石が祀られています。

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要石 - トップ画像
要石茨城県鹿嶋市宮中2306-1

東日本大震災復旧記念碑

明治維新前夜に殉死した志士の墓などが残る水戸市・回天神社内。その一角にある東日本大震災の石碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は「時 平成二十三年三月十一日午後二時過ぎ 寒冷曇天の下 突如として地軸ゆがみ激動して東日本大震災発生す この災害 尊崇厚き回天神社の象徴たる忠魂碑を初め元治元年甲子ノ変における水戸市史跡水戸殉難志士の墓等は倒壊破損 壊滅的被害を蒙りたり」との被害を伝えています。

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東日本大震災復旧記念碑 - トップ画像
東日本大震災復旧記念碑茨城県水戸市松本町13

明治維新前夜に殉死した志士の墓などが残る水戸市・回天神社内。その一角にある東日本大震災の石碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は「時 平成二十三年三月十一日午後二時過ぎ 寒冷曇天の下 突如として地軸ゆがみ激動して東日本大震災発生す この災害 尊崇厚き回天神社の象徴たる忠魂碑を初め元治元年甲子ノ変における水戸市史跡水戸殉難志士の墓等は倒壊破損 壊滅的被害を蒙りたり」との被害を伝えています。

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東日本大震災復旧記念碑 - トップ画像
東日本大震災復旧記念碑茨城県水戸市松本町13

関東大震災遭難児童弔魂像

東京都慰霊堂のある横網町公園に残る碑です。関東大震災で犠牲となった子供たちを弔っています。(防災ジャーナリスト/森隆)

横網町公園の一角に建つ「関東大震災遭難児童弔魂像」があります。震災で亡くなった5000人の児童の魂を弔う目的で建てられたもので、今にも力尽きそうな子、迫りくる火を見上げる子、心配そうにすがる裸の幼児が並び、涙を誘います。

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関東大震災遭難児童弔魂像 - トップ画像
関東大震災遭難児童弔魂像東京都墨田区横網2-3-25

東京都慰霊堂のある横網町公園に残る碑です。関東大震災で犠牲となった子供たちを弔っています。(防災ジャーナリスト/森隆)

横網町公園の一角に建つ「関東大震災遭難児童弔魂像」があります。震災で亡くなった5000人の児童の魂を弔う目的で建てられたもので、今にも力尽きそうな子、迫りくる火を見上げる子、心配そうにすがる裸の幼児が並び、涙を誘います。

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関東大震災遭難児童弔魂像 - トップ画像
関東大震災遭難児童弔魂像東京都墨田区横網2-3-25

大正地震紀念碑(関東大震災)

関東大震災で隆起し、陸と島がつながった館山の鷹の島。その一角に関東大震災の碑が残ります。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は漢文体で関東大震災における東京・横浜の惨状をはじめ、当時の安房郡の被害状況などが詳細に刻まれています。特に、高齢者の中には逃げるいとまがなく圧死した者がいたことなどを記しているほか、住宅だけでなく警察や役場などの官舎も倒壊したと伝えています。隆起した島は、現在、海水浴場に。

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大正地震紀念碑(関東大震災) - トップ画像
大正地震紀念碑(関東大震災)千葉県館山市富士見

関東大震災で隆起し、陸と島がつながった館山の鷹の島。その一角に関東大震災の碑が残ります。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は漢文体で関東大震災における東京・横浜の惨状をはじめ、当時の安房郡の被害状況などが詳細に刻まれています。特に、高齢者の中には逃げるいとまがなく圧死した者がいたことなどを記しているほか、住宅だけでなく警察や役場などの官舎も倒壊したと伝えています。隆起した島は、現在、海水浴場に。

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大正地震紀念碑(関東大震災) - トップ画像
大正地震紀念碑(関東大震災)千葉県館山市富士見

千人塚供養塔(元禄地震ほか)

元禄16(1703)年に発生した元禄地震などの碑が千人塚の一角に建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)

元禄地震は房総半島の南方約20㌔周辺の相模トラフを震源として発生。高さ約2・4mのこの塔は、過去、房総の地に幾度もの惨禍をもたらした慶長時代や寛永時代の地震などの犠牲者の供養と災害の絶無を願い建てられ、その後、最も凄惨な被害を及ぼした元禄地震の犠牲者を弔うために現在の千人塚に移設されたものといわれます。

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千人塚供養塔(元禄地震ほか) - トップ画像
千人塚供養塔(元禄地震ほか)千葉県夷隅郡御宿町新町

元禄16(1703)年に発生した元禄地震などの碑が千人塚の一角に建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)

元禄地震は房総半島の南方約20㌔周辺の相模トラフを震源として発生。高さ約2・4mのこの塔は、過去、房総の地に幾度もの惨禍をもたらした慶長時代や寛永時代の地震などの犠牲者の供養と災害の絶無を願い建てられ、その後、最も凄惨な被害を及ぼした元禄地震の犠牲者を弔うために現在の千人塚に移設されたものといわれます。

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千人塚供養塔(元禄地震ほか) - トップ画像
千人塚供養塔(元禄地震ほか)千葉県夷隅郡御宿町新町

大震災埋没者供養塔(関東大震災)

秦野駅から約3キロほどの震生湖入り口近くにある関東大震災の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)

関東大震災でできた「震生湖」近くの一角に、地震の土砂崩れで帰らぬ人となった13歳と11歳の2人の少女が眠っています。この少女たちを偲ぶ石碑です。震生湖には物理学者で随筆家の「寺田寅彦」の句碑も残っています。

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大震災埋没者供養塔(関東大震災)神奈川県秦野市

秦野駅から約3キロほどの震生湖入り口近くにある関東大震災の碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)

関東大震災でできた「震生湖」近くの一角に、地震の土砂崩れで帰らぬ人となった13歳と11歳の2人の少女が眠っています。この少女たちを偲ぶ石碑です。震生湖には物理学者で随筆家の「寺田寅彦」の句碑も残っています。

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大震災埋没者供養塔(関東大震災)神奈川県秦野市

地震峠・大震殃死諸精霊塔(関東大震災)

通称「地震峠」。なぜ、この地が地震峠と呼ばれるようになったのか。その訳とは?(防災ジャーナリスト/森隆)

関東大震災の土砂崩れでできた地震峠。ここには観音像とともに、地震で埋もれた人々を弔った供養碑が建っています。碑の説明板には「ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。」とあり、今でもこの峠のどこかに無念の死を遂げた人々が眠っていることを伝えています。

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地震峠・大震殃死諸精霊塔(関東大震災) - トップ画像
地震峠・大震殃死諸精霊塔(関東大震災)神奈川県相模原市緑区鳥屋

通称「地震峠」。なぜ、この地が地震峠と呼ばれるようになったのか。その訳とは?(防災ジャーナリスト/森隆)

関東大震災の土砂崩れでできた地震峠。ここには観音像とともに、地震で埋もれた人々を弔った供養碑が建っています。碑の説明板には「ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。」とあり、今でもこの峠のどこかに無念の死を遂げた人々が眠っていることを伝えています。

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地震峠・大震殃死諸精霊塔(関東大震災) - トップ画像
地震峠・大震殃死諸精霊塔(関東大震災)神奈川県相模原市緑区鳥屋

小田原城再興碑(元禄地震・関東大震災)

小田原城天守閣の一角に、関東大震災で発見され、保存されている「小田原城再興碑(元禄地震)」があります。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は1703年に元禄地震が起きたことと、小田原城の総石垣が宝永2(1705)年4月に再興できたことを告げています。実はこの石碑、天守台の石垣に埋め込まれていたものですが、大正12(1923)年の関東大震災で天守台石垣が崩落し、偶然に発見されました。

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小田原城再興碑(元禄地震・関東大震災) - トップ画像
小田原城再興碑(元禄地震・関東大震災)神奈川県小田原市城内3-22

小田原城天守閣の一角に、関東大震災で発見され、保存されている「小田原城再興碑(元禄地震)」があります。(防災ジャーナリスト/森隆)

碑文は1703年に元禄地震が起きたことと、小田原城の総石垣が宝永2(1705)年4月に再興できたことを告げています。実はこの石碑、天守台の石垣に埋め込まれていたものですが、大正12(1923)年の関東大震災で天守台石垣が崩落し、偶然に発見されました。

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小田原城再興碑(元禄地震・関東大震災) - トップ画像
小田原城再興碑(元禄地震・関東大震災)神奈川県小田原市城内3-22

関東大震災慰霊碑

関東大震災で甚大な被害が発生した横浜。横浜地裁の入り口横には、巨大な慰霊碑が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)

地震後、大火災に見舞われた横浜。特に酸鼻を極めたのが横浜地方裁判所です。古い煉瓦造りの建物は一瞬にして倒壊。所長以下、所員、判検事、訴訟関係者、傍聴者など百数十人が犠牲となりました。

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関東大震災慰霊碑 - トップ画像
関東大震災慰霊碑神奈川県横浜市中区日本大通9

関東大震災で甚大な被害が発生した横浜。横浜地裁の入り口横には、巨大な慰霊碑が建てられています。(防災ジャーナリスト/森隆)

地震後、大火災に見舞われた横浜。特に酸鼻を極めたのが横浜地方裁判所です。古い煉瓦造りの建物は一瞬にして倒壊。所長以下、所員、判検事、訴訟関係者、傍聴者など百数十人が犠牲となりました。

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関東大震災慰霊碑 - トップ画像
関東大震災慰霊碑神奈川県横浜市中区日本大通9

横濱公園の碑(関東大震災)

プロ野球観戦や中華街に行ったらぜひ横浜公園へ。この由来碑に関東大震災の状況が記されています。(防災ジャーナリスト/森隆)

関内駅の近く、横浜スタジアムに続く横浜公園は関東大震災時に多くの避難者が逃げ込んだ地。その入り口付近に、公園の由来を刻んだ石碑があり、碑文には、「大正十二年九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多數の市民は緑陰池邊に避難して危くも九死に一生を得たり」と続き、多くの避難者の命が救われたことが記されています。

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横濱公園の碑(関東大震災)神奈川県横浜市中区横浜公園

プロ野球観戦や中華街に行ったらぜひ横浜公園へ。この由来碑に関東大震災の状況が記されています。(防災ジャーナリスト/森隆)

関内駅の近く、横浜スタジアムに続く横浜公園は関東大震災時に多くの避難者が逃げ込んだ地。その入り口付近に、公園の由来を刻んだ石碑があり、碑文には、「大正十二年九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多數の市民は緑陰池邊に避難して危くも九死に一生を得たり」と続き、多くの避難者の命が救われたことが記されています。

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横濱公園の碑(関東大震災)神奈川県横浜市中区横浜公園

松代群発地震記念碑(真田公園内)

今では廃線となった旧長野電鉄屋代線「松代駅」。近くの真田公園には、奇異な松代群発地震の碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)

松代を中心に1965年8月3日から70年6月5日に終息するまで、実に70万回を超える松代群発地震が発生。当初、震源はなぜか皆神山地下周辺という不可思議な地震でした。碑文には「昭和四十年八月松代町付近を震源地とする地震が発生。有感地震は六万二千余回を数え」とあります。

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松代群発地震記念碑(真田公園内) - トップ画像
松代群発地震記念碑(真田公園内)長野県松代市松代

今では廃線となった旧長野電鉄屋代線「松代駅」。近くの真田公園には、奇異な松代群発地震の碑が建っています。(防災ジャーナリスト/森隆)

松代を中心に1965年8月3日から70年6月5日に終息するまで、実に70万回を超える松代群発地震が発生。当初、震源はなぜか皆神山地下周辺という不可思議な地震でした。碑文には「昭和四十年八月松代町付近を震源地とする地震が発生。有感地震は六万二千余回を数え」とあります。

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松代群発地震記念碑(真田公園内)長野県松代市松代

「林叟院草創之地」碑(明応東海地震)

小川(こがわ)港岸壁近くに建つ「林叟院草創之地」の碑。明応東海地震では、異僧が、ある予言を…。(防災ジャーナリスト/森隆)

明応地震は明応7年8月25日(1498年9月20日)に発生。推定マグニチュードは8・2~8.4とされ、紀伊半島から房総半島に大きな被害を出しました。碑文には異僧の示唆によって寺を移転したこと、その翌年に大津浪によって周辺が巨海と化したことが記されています。

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「林叟院草創之地」碑(明応東海地震) - トップ画像
「林叟院草創之地」碑(明応東海地震)静岡県焼津市小川港

小川(こがわ)港岸壁近くに建つ「林叟院草創之地」の碑。明応東海地震では、異僧が、ある予言を…。(防災ジャーナリスト/森隆)

明応地震は明応7年8月25日(1498年9月20日)に発生。推定マグニチュードは8・2~8.4とされ、紀伊半島から房総半島に大きな被害を出しました。碑文には異僧の示唆によって寺を移転したこと、その翌年に大津浪によって周辺が巨海と化したことが記されています。

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「林叟院草創之地」碑(明応東海地震) - トップ画像
「林叟院草創之地」碑(明応東海地震)静岡県焼津市小川港

殉難学徒之碑(東南海地震)

1944年の東南海地震。中島飛行機半田製作所での悲劇を伝える碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)

雁宿公園に建てられた石碑。碑文には「太平洋戦争の苦しいさ中でした。学徒は一切の希望を勝利にかけて兵器の増産に身も心も捧げていました。それはいつの日か来る国の栄と平和への幻を抱く美しい姿でありました。(中略)この尊い清らかな霊は、永遠に生きて私たちの心に通い、私たちの魂を飾ってくれることでありましょう」と伝えています。

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殉難学徒之碑(東南海地震) - トップ画像
殉難学徒之碑(東南海地震)愛知県半田市雁宿町240-1

1944年の東南海地震。中島飛行機半田製作所での悲劇を伝える碑です。(防災ジャーナリスト/森隆)

雁宿公園に建てられた石碑。碑文には「太平洋戦争の苦しいさ中でした。学徒は一切の希望を勝利にかけて兵器の増産に身も心も捧げていました。それはいつの日か来る国の栄と平和への幻を抱く美しい姿でありました。(中略)この尊い清らかな霊は、永遠に生きて私たちの心に通い、私たちの魂を飾ってくれることでありましょう」と伝えています。

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殉難学徒之碑(東南海地震) - トップ画像
殉難学徒之碑(東南海地震)愛知県半田市雁宿町240-1