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- 1088件津波を模した黒い御影石の表面には「子々孫々に語り継げ」と刻まれ、津波の恐ろしさを後世に伝えています。碑文には「東日本大震災大津波により宿浦地区には約十五mの津波が押し寄せ、神社境内には二・二m浸水。唐桑沿岸全体が被災した。この碑は全国より唐桑の早期の復興を祈願して建立された」とあります。また、車が鳥居の横まで打ち上げられた様子なども知ることができます。

津波を模した黒い御影石の表面には「子々孫々に語り継げ」と刻まれ、津波の恐ろしさを後世に伝えています。碑文には「東日本大震災大津波により宿浦地区には約十五mの津波が押し寄せ、神社境内には二・二m浸水。唐桑沿岸全体が被災した。この碑は全国より唐桑の早期の復興を祈願して建立された」とあります。また、車が鳥居の横まで打ち上げられた様子なども知ることができます。

空港横の相野釜エリアと呼ばれる一角に東日本大震災慰霊碑とモニュメントが建っています。天を指すように伸びる2本の塔は津波の遡上高と人と人が支え合う形をイメージし、中心の鐘は鎮魂と記憶、希望の意味が込められているといいます。

空港横の相野釜エリアと呼ばれる一角に東日本大震災慰霊碑とモニュメントが建っています。天を指すように伸びる2本の塔は津波の遡上高と人と人が支え合う形をイメージし、中心の鐘は鎮魂と記憶、希望の意味が込められているといいます。

石碑は「東日本大震災で、多くの人々の尊い命が失われました。地震後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。(中略)ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」と、強く訴えています。

石碑は「東日本大震災で、多くの人々の尊い命が失われました。地震後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。(中略)ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」と、強く訴えています。

壁のように屹立した石碑には、津波のイメージと共に、浸水位置の2㍍30㌢のラインが記されています。さらに、その横には津波浸水域の地図と共に、「自然の力を心に刻み 未来を見つめ塩竈に生きる」といった碑文が刻まれた石碑もあり、深刻な被害の出た東日本大震災を後世に伝えています。

壁のように屹立した石碑には、津波のイメージと共に、浸水位置の2㍍30㌢のラインが記されています。さらに、その横には津波浸水域の地図と共に、「自然の力を心に刻み 未来を見つめ塩竈に生きる」といった碑文が刻まれた石碑もあり、深刻な被害の出た東日本大震災を後世に伝えています。

碑文には「ここ長浜市祇園町西方の湖中には、かつて『西浜村』がありましたが、室町時代の寛正年間(一四六0~一四六六)の大地震により村の大半が水没したと伝えられています。西浜村があったといわれる湖底には、波の穏やかなときには、湖面から石積みや井戸などの遺構をかいま見ることができます。」と刻まれています。

碑文には「ここ長浜市祇園町西方の湖中には、かつて『西浜村』がありましたが、室町時代の寛正年間(一四六0~一四六六)の大地震により村の大半が水没したと伝えられています。西浜村があったといわれる湖底には、波の穏やかなときには、湖面から石積みや井戸などの遺構をかいま見ることができます。」と刻まれています。

碑文は「玄界島は壊滅的な被害を受けました。無残な姿で途方にくれる日々でしたが島民が一致団結し、(中略)離ればなれに生活していた家族・親族が新しく生まれ変わった『故郷玄界島』で生活を再開し、復興した喜びをかみしめながら、これからは多くの方々に訪れてもらえるような玄界島を目指し…」とあります。

碑文は「玄界島は壊滅的な被害を受けました。無残な姿で途方にくれる日々でしたが島民が一致団結し、(中略)離ればなれに生活していた家族・親族が新しく生まれ変わった『故郷玄界島』で生活を再開し、復興した喜びをかみしめながら、これからは多くの方々に訪れてもらえるような玄界島を目指し…」とあります。

碑文には「肉親の目前で鉱泥に埋もれ、又、遠く祖国を離れて被災落命された当時朝鮮の方々の無念を想うと胸つまるものがある。関係地元住民の必至の救出活動にもかかわらず、余震は続き、鉱泥のため遺体収容は困難を極め、今なお二十余名の遺体を鉱泥の中に残したままである」とあります。

碑文には「肉親の目前で鉱泥に埋もれ、又、遠く祖国を離れて被災落命された当時朝鮮の方々の無念を想うと胸つまるものがある。関係地元住民の必至の救出活動にもかかわらず、余震は続き、鉱泥のため遺体収容は困難を極め、今なお二十余名の遺体を鉱泥の中に残したままである」とあります。

碑では安政南海地震の前日、安政元(1854)年11月4日に一度地震があり、人々は驚いて山に荷物を運び逃げ登ったこと。続いて、翌11月5日には再び大地震が起こり、高さ9㍍ほどの大津波が、矢を射るほどの速さで襲ってきたことを伝えています。

碑では安政南海地震の前日、安政元(1854)年11月4日に一度地震があり、人々は驚いて山に荷物を運び逃げ登ったこと。続いて、翌11月5日には再び大地震が起こり、高さ9㍍ほどの大津波が、矢を射るほどの速さで襲ってきたことを伝えています。

碑文は風化が進んでいるため読むことは難しですが、「徳島の地震津波」という書籍の中に「西山の方に当りて鳴音大砲声雷響の混するが如く魂消けるばかりなるに、海面もいとふくれきし高潮渤然と湧き騰り、向ひの山をこえ満込来るにぞ」と記され、津波の事実を伝えています。

碑文は風化が進んでいるため読むことは難しですが、「徳島の地震津波」という書籍の中に「西山の方に当りて鳴音大砲声雷響の混するが如く魂消けるばかりなるに、海面もいとふくれきし高潮渤然と湧き騰り、向ひの山をこえ満込来るにぞ」と記され、津波の事実を伝えています。

ピラミッド型をした3基が空に向かってそそり立つべっしゃないロック。碑文は「1995年兵庫県南部地震により犠牲となった北淡町民の氏名をここに記し、慰霊の碑とすることにより、震災の記憶が永遠のものになることを願う」と綴っています。「べっちゃない」とは「大丈夫」という意味の方言だそうで、この慰霊碑で震災に負けない思いを伝えています。

ピラミッド型をした3基が空に向かってそそり立つべっしゃないロック。碑文は「1995年兵庫県南部地震により犠牲となった北淡町民の氏名をここに記し、慰霊の碑とすることにより、震災の記憶が永遠のものになることを願う」と綴っています。「べっちゃない」とは「大丈夫」という意味の方言だそうで、この慰霊碑で震災に負けない思いを伝えています。

ステンレス製のモニュメントには地震計の記録データを模したグラフが描かれており、地震計が東西南北にどの位動いたかの軌跡を表示しています。それによると、最大で南東から北西にかけて最大80㌢ほど動いた様子が分かります。モニュメント横のステンレス板には復興に向けた誓いの言葉も添えられています。

ステンレス製のモニュメントには地震計の記録データを模したグラフが描かれており、地震計が東西南北にどの位動いたかの軌跡を表示しています。それによると、最大で南東から北西にかけて最大80㌢ほど動いた様子が分かります。モニュメント横のステンレス板には復興に向けた誓いの言葉も添えられています。

”春の海、ひねもすのたりのたりかな”の蕪村の句碑も残る須磨浦公園。その一角の石の地球儀は阪神地域の被害の様子とともに、「わたしたちはあの忌まわしい震災の日々の記憶を失ってしまわないために、この落下した地球儀をしっかりと見つめ直す必要があるのではないでしょうか」と伝えています。

”春の海、ひねもすのたりのたりかな”の蕪村の句碑も残る須磨浦公園。その一角の石の地球儀は阪神地域の被害の様子とともに、「わたしたちはあの忌まわしい震災の日々の記憶を失ってしまわないために、この落下した地球儀をしっかりと見つめ直す必要があるのではないでしょうか」と伝えています。

「記憶」と題されたその石碑には「まちの象徴であった長田神社馬場先鳥居は、狛犬、灯籠ともども平成7年1月17日午前5時46分兵庫県南部地震により倒壊した。地震を忘れず、震災を忘れず、復興まちづくりを進めようと祈念し、ここに倒壊した旧鳥居の一部を残置しまちの記憶とする」と刻まれています。

「記憶」と題されたその石碑には「まちの象徴であった長田神社馬場先鳥居は、狛犬、灯籠ともども平成7年1月17日午前5時46分兵庫県南部地震により倒壊した。地震を忘れず、震災を忘れず、復興まちづくりを進めようと祈念し、ここに倒壊した旧鳥居の一部を残置しまちの記憶とする」と刻まれています。

生田神社兵庫宮の鳥居をくぐったそばに「震災復興記念碑」と刻まれた日時計が設置されています。高さは約1㍍ほど。台座には金属製の盤が設置され、太陽の影を落として時を知らせてくれます。地震発生の時刻「1月17日5時46分」が朱色で波打つように記されています。

生田神社兵庫宮の鳥居をくぐったそばに「震災復興記念碑」と刻まれた日時計が設置されています。高さは約1㍍ほど。台座には金属製の盤が設置され、太陽の影を落として時を知らせてくれます。地震発生の時刻「1月17日5時46分」が朱色で波打つように記されています。

安政南海地震は1854年12月24日に発生した南海トラフを震源域とする巨大地震の一つ。碑は後世の人々を思い、大いなる地震の時には必ず津波が来ると心得て大松原の小高い場所に集まることなどを諭しています。

安政南海地震は1854年12月24日に発生した南海トラフを震源域とする巨大地震の一つ。碑は後世の人々を思い、大いなる地震の時には必ず津波が来ると心得て大松原の小高い場所に集まることなどを諭しています。

三陸ジオパークの一角を成し、巨岩怪石が林立するリアス式海岸で知られ、過去、多くの地震津波にさらされてきた唐桑半島。昭和三陸地震は1933年3月3日午前2時半ごろに発生。マグニチュードは8・1。碑文は「地震があったら津浪の用心」と刻まれ、被害状況などが刻まれています。また、東日本大震災では、唐桑半島を襲った津波は27㍍の高さまで達したといわれます。

三陸ジオパークの一角を成し、巨岩怪石が林立するリアス式海岸で知られ、過去、多くの地震津波にさらされてきた唐桑半島。昭和三陸地震は1933年3月3日午前2時半ごろに発生。マグニチュードは8・1。碑文は「地震があったら津浪の用心」と刻まれ、被害状況などが刻まれています。また、東日本大震災では、唐桑半島を襲った津波は27㍍の高さまで達したといわれます。

福井地震は1948年6月28日に発生。丸岡町の被害は甚大で、役場をはじめ、警察、学校、病院、銀行なども全壊・焼失。丸岡町の國神神社には、地域住民たちの努力で町が復興したことを記念して、境内に石碑が建てられました。

福井地震は1948年6月28日に発生。丸岡町の被害は甚大で、役場をはじめ、警察、学校、病院、銀行なども全壊・焼失。丸岡町の國神神社には、地域住民たちの努力で町が復興したことを記念して、境内に石碑が建てられました。

県道17号線と北陸自動車道が交わる一角に「震源地の碑」と記された1本の四角い石柱が建っています。表面には「福井大地震 震源地」と刻まれ、他の面には「震央 東経一三六度一六、二分 北緯三六度八、00分」、「発震時刻 昭和二十三年六月二十八日十六時十三分二十五秒 震度七激震 震源の深さ三三、0三㎞」など地震のことが記されています。

県道17号線と北陸自動車道が交わる一角に「震源地の碑」と記された1本の四角い石柱が建っています。表面には「福井大地震 震源地」と刻まれ、他の面には「震央 東経一三六度一六、二分 北緯三六度八、00分」、「発震時刻 昭和二十三年六月二十八日十六時十三分二十五秒 震度七激震 震源の深さ三三、0三㎞」など地震のことが記されています。

地震で一夜にして消えた幻の帰雲城。碑文は「十一月二十九日、東海・北陸・近畿に及ぶ広範の地域を襲った巨大地震によって帰雲山に大崩壊が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。埋没前の帰雲城の位置は確認されていないが、地勢・堆積土砂等からしてこの周辺地域と推測される」とあります。

地震で一夜にして消えた幻の帰雲城。碑文は「十一月二十九日、東海・北陸・近畿に及ぶ広範の地域を襲った巨大地震によって帰雲山に大崩壊が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。埋没前の帰雲城の位置は確認されていないが、地勢・堆積土砂等からしてこの周辺地域と推測される」とあります。
