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- 104件高野長英隠れ家および自決の地
【江戸の洋学と接近する列強への対応】米船モリソン号砲撃事件で幕府を批判した高野長英は,その後どのような道をたどったのでしょうか?
陸奥(現,岩手県)水沢出身の高野長英は,長崎の鳴滝塾でオランダ商館付の医師シーボルトから西洋医学を学び,シーボルトが国外追放になったのち江戸で町医者となりました。 三河田原藩の家老で蘭学に通じる渡辺崋山らと交流し,西洋事情の研究を深めました。 1837(天保8)年に日本人漂流民の送還と交易を求めて来航したアメリカ船モリソン号が砲撃されるという事件が起きました。このことを知った長英は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著し幕府の外交政策を批判しました。 翌年,幕府は崋山,長英らを逮捕し厳しく処罰(この事件は「蛮社の獄」と呼ばれています),長英は永牢(無期禁固)に処せられましたが,1844(弘化元)年に脱獄,顔を焼き人相を変えて各地を転々とします。 その後江戸に戻った長英は青山百人町に隠れ住み,沢三伯と名乗って医業を営みますが,1850(嘉永3)年,幕吏に襲われ自ら命を絶ちました。 その場所にある青山スパイラルビルの柱に碑が埋め込まれています。のちに長英の名誉は回復され,善光寺別院(港区青山3-5-17)に勝海舟の撰文による顕彰碑が建てられました。 長英の肖像がレリーフされた現在の碑は,1964(昭和39)年に再建されたものです。
【江戸の洋学と接近する列強への対応】米船モリソン号砲撃事件で幕府を批判した高野長英は,その後どのような道をたどったのでしょうか?
陸奥(現,岩手県)水沢出身の高野長英は,長崎の鳴滝塾でオランダ商館付の医師シーボルトから西洋医学を学び,シーボルトが国外追放になったのち江戸で町医者となりました。 三河田原藩の家老で蘭学に通じる渡辺崋山らと交流し,西洋事情の研究を深めました。 1837(天保8)年に日本人漂流民の送還と交易を求めて来航したアメリカ船モリソン号が砲撃されるという事件が起きました。このことを知った長英は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著し幕府の外交政策を批判しました。 翌年,幕府は崋山,長英らを逮捕し厳しく処罰(この事件は「蛮社の獄」と呼ばれています),長英は永牢(無期禁固)に処せられましたが,1844(弘化元)年に脱獄,顔を焼き人相を変えて各地を転々とします。 その後江戸に戻った長英は青山百人町に隠れ住み,沢三伯と名乗って医業を営みますが,1850(嘉永3)年,幕吏に襲われ自ら命を絶ちました。 その場所にある青山スパイラルビルの柱に碑が埋め込まれています。のちに長英の名誉は回復され,善光寺別院(港区青山3-5-17)に勝海舟の撰文による顕彰碑が建てられました。 長英の肖像がレリーフされた現在の碑は,1964(昭和39)年に再建されたものです。
青山通りの交差点近く,少し奥まったところに信州善光寺の別院があり,その境内左手に高野長英の顕彰碑が建てられています。 幕府の外交政策を批判して『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著した町医者で蘭学者の高野長英は,1838(天保9)年に起きた蛮社の獄と呼ばれる蘭学者弾圧事件で捕らえられましたがその後脱獄,各地を転々としたあと江戸に潜伏します。しかし,1850(嘉永3)年,幕吏に襲われ自ら命を絶ちました。 善光寺別院は,「高野長英の隠れ家および自決の地」とされる青山スパイラルビルのある場所から500mほどのところにあります。顕彰碑は,1898(明治31)年に,開国を唱えた先覚者として長英の名誉が回復され正四位が授与されたことから勝海舟の撰文によって建てられました。 勝海舟の談話集『氷川清話』には,江戸潜伏中の長英が海舟宅を訪れ二人で議論したことが記されています。 その顕彰碑は太平洋戦争による戦災で破損してしまいましたが,1964(昭和39)年に元の碑の一部を使って高野長英の肖像がレリーフされた現在の碑が再建されました。
【江戸の洋学と接近する列強への対応】蛮社の獄で捕らえられその後脱獄,そして自死に追い込まれた高野長英。彼の顕彰碑が建てられているのはなぜでしょうか?
青山通りの交差点近く,少し奥まったところに信州善光寺の別院があり,その境内左手に高野長英の顕彰碑が建てられています。 幕府の外交政策を批判して『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著した町医者で蘭学者の高野長英は,1838(天保9)年に起きた蛮社の獄と呼ばれる蘭学者弾圧事件で捕らえられましたがその後脱獄,各地を転々としたあと江戸に潜伏します。しかし,1850(嘉永3)年,幕吏に襲われ自ら命を絶ちました。 善光寺別院は,「高野長英の隠れ家および自決の地」とされる青山スパイラルビルのある場所から500mほどのところにあります。顕彰碑は,1898(明治31)年に,開国を唱えた先覚者として長英の名誉が回復され正四位が授与されたことから勝海舟の撰文によって建てられました。 勝海舟の談話集『氷川清話』には,江戸潜伏中の長英が海舟宅を訪れ二人で議論したことが記されています。 その顕彰碑は太平洋戦争による戦災で破損してしまいましたが,1964(昭和39)年に元の碑の一部を使って高野長英の肖像がレリーフされた現在の碑が再建されました。
レインボーブリッジの足元にある台場公園がかつての第三台場です。1辺が160mの正方形,海岸沿いの高台には砲台跡,中央部には陣屋跡や火薬庫跡,かまど跡があって,北側には石組みの船着場跡もあります。 台場とは幕末に築かれた外敵に備える海上の要塞で,何門もの大砲が据えられていました。第三台場が竣工したのは1854(安政元)年。前年にはペリーが浦賀に来航し開国を求めています。 これに危機感を抱いた幕府により江戸湾の調査を命じられた人物が,伊豆韮山の代官として功のあった江川太郎左衛門英龍。台場の築造は,彼の計画によるものです。1854(嘉永7)年1月にペリーが再び来航しましたが,第一~第三台場の完成は4月のことでした。 以後も台場の築造は続き,陸続きの御殿山下台場を含め計6基が完成しています。 現存しているのは第三台場と第六台場の2基ありますが,立ち入ることができるのは公園として整備された第三台場だけとなっています。なお,台場に据えられていた青銅製のカノン砲1門が,靖国神社遊就館(ゆうしゅうかん)の屋外に展示されています。
レインボーブリッジの足元にある台場公園がかつての第三台場です。1辺が160mの正方形,海岸沿いの高台には砲台跡,中央部には陣屋跡や火薬庫跡,かまど跡があって,北側には石組みの船着場跡もあります。 台場とは幕末に築かれた外敵に備える海上の要塞で,何門もの大砲が据えられていました。第三台場が竣工したのは1854(安政元)年。前年にはペリーが浦賀に来航し開国を求めています。 これに危機感を抱いた幕府により江戸湾の調査を命じられた人物が,伊豆韮山の代官として功のあった江川太郎左衛門英龍。台場の築造は,彼の計画によるものです。1854(嘉永7)年1月にペリーが再び来航しましたが,第一~第三台場の完成は4月のことでした。 以後も台場の築造は続き,陸続きの御殿山下台場を含め計6基が完成しています。 現存しているのは第三台場と第六台場の2基ありますが,立ち入ることができるのは公園として整備された第三台場だけとなっています。なお,台場に据えられていた青銅製のカノン砲1門が,靖国神社遊就館(ゆうしゅうかん)の屋外に展示されています。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も寝られず」と狂歌にあるように,1853(嘉永6)年,蒸気船を含む軍艦4隻を率いて浦賀に来航したのがアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーでした。徳川家の菩提寺・増上寺三解脱門(さんげだつもん)の向かい側の公園にペリーの頭像(「ペルリ提督の像」)があります。 アメリカの海軍軍人ペリーは,蒸気船を主力とする米国海軍の強化や士官の教育を進め,のちに「蒸気船海軍の父」と呼ばれるようになった人物です。浦賀に来航したペリーは,フィルモア大統領の国書を浦賀奉行に提出して日本の開国を求めました。 翌年,再びペリーが来航して条約の締結を強硬に迫ると幕府はこれに屈して日米和親条約を結び,200年以上にわたった鎖国政策が終わりました。 この像は,1953(昭和28)年に日本開国百年記念祭が開催された際,東京都がペリーの出身地ロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈った答礼として,翌年に同市から贈られたものですが,なぜここに建てられているのかは不明です。像の顔立ちは,教科書などに掲載されてよく知られている写真の軍服姿のペリーと比べ,かなり若く見えます。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も寝られず」と狂歌にあるように,1853(嘉永6)年,蒸気船を含む軍艦4隻を率いて浦賀に来航したのがアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーでした。徳川家の菩提寺・増上寺三解脱門(さんげだつもん)の向かい側の公園にペリーの頭像(「ペルリ提督の像」)があります。 アメリカの海軍軍人ペリーは,蒸気船を主力とする米国海軍の強化や士官の教育を進め,のちに「蒸気船海軍の父」と呼ばれるようになった人物です。浦賀に来航したペリーは,フィルモア大統領の国書を浦賀奉行に提出して日本の開国を求めました。 翌年,再びペリーが来航して条約の締結を強硬に迫ると幕府はこれに屈して日米和親条約を結び,200年以上にわたった鎖国政策が終わりました。 この像は,1953(昭和28)年に日本開国百年記念祭が開催された際,東京都がペリーの出身地ロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈った答礼として,翌年に同市から贈られたものですが,なぜここに建てられているのかは不明です。像の顔立ちは,教科書などに掲載されてよく知られている写真の軍服姿のペリーと比べ,かなり若く見えます。
ハリス記念碑・初代アメリカ公使館跡
【鎖国から開国へ】アメリカの初代総領事として来日したハリスはどのような使命を負っていたのでしょうか?
日米和親条約の締結によって日本の鎖国政策は終わり,1856(安政3)年,アメリカから初代総領事としてタウンゼント・ハリスが来日し,領事館が開かれた伊豆下田に着任しました。 彼は,日本との間に通商条約を結ぶという大きな使命を負っていました。イギリス,フランスの脅威を背景に条約の締結を強く求めるハリスに対し,1858(安政5)年,幕府の実権を握っていた大老井伊直弼は孝明天皇の勅許を得られないまま日米修好通商条約の調印に踏み切りました。 翌年,この条約に基づいて最初のアメリカ公使館が麻布の善福寺に設けられ,ハリスは初代アメリカ公使としてここに駐在することになります。 善福寺境内にあるハリスの肖像がレリーフされた記念碑の裏面には,「初代米国公使館跡」と刻まれています。善福寺に置かれた公使館は,その後1863(文久3)年の火災で焼失し横浜の外国人居留地に移されました。 記念碑は,日米修好通商100周年にあたる1960(昭和35)年に建てられたものです。
日米和親条約の締結によって日本の鎖国政策は終わり,1856(安政3)年,アメリカから初代総領事としてタウンゼント・ハリスが来日し,領事館が開かれた伊豆下田に着任しました。 彼は,日本との間に通商条約を結ぶという大きな使命を負っていました。イギリス,フランスの脅威を背景に条約の締結を強く求めるハリスに対し,1858(安政5)年,幕府の実権を握っていた大老井伊直弼は孝明天皇の勅許を得られないまま日米修好通商条約の調印に踏み切りました。 翌年,この条約に基づいて最初のアメリカ公使館が麻布の善福寺に設けられ,ハリスは初代アメリカ公使としてここに駐在することになります。 善福寺境内にあるハリスの肖像がレリーフされた記念碑の裏面には,「初代米国公使館跡」と刻まれています。善福寺に置かれた公使館は,その後1863(文久3)年の火災で焼失し横浜の外国人居留地に移されました。 記念碑は,日米修好通商100周年にあたる1960(昭和35)年に建てられたものです。
日米和親条約・日米修好通商条約(外交史料館別館蔵)
【鎖国から開国へ】日米和親条約・日米修好通商条約の原本を見ることはできるのでしょうか?
日米和親条約と日米修好通商条約については,中学や高校の日本史の授業でその内容の一部を読んだ人も多いことと思います。 日米和親条約は,1854(嘉永7)年に横浜(現在の横浜開港資料館の所在地)で締結・調印されました。残念なことに日本側の調印書原本は,1859(安政6)年にあった江戸城の火災で焼失してしまいましたが,1855(安政2)年に日米で取り交わされた批准書交換証書が残されています。 一方,日米修好通商条約は1858(安政5)年に神奈川沖に停泊中のアメリカの軍艦ポーハタン号上で,アメリカ総領事ハリスと日本全権・井上清直,岩瀬忠震(ただなり)との間で締結・調印されました。こちらは関東大震災で被災したため傷んではいますが原本が残されています。 外務省の外交史料館別館では,常設展示として日米修好通商条約調印書の精密なレプリカが公開されていて見ることができます。
日米和親条約と日米修好通商条約については,中学や高校の日本史の授業でその内容の一部を読んだ人も多いことと思います。 日米和親条約は,1854(嘉永7)年に横浜(現在の横浜開港資料館の所在地)で締結・調印されました。残念なことに日本側の調印書原本は,1859(安政6)年にあった江戸城の火災で焼失してしまいましたが,1855(安政2)年に日米で取り交わされた批准書交換証書が残されています。 一方,日米修好通商条約は1858(安政5)年に神奈川沖に停泊中のアメリカの軍艦ポーハタン号上で,アメリカ総領事ハリスと日本全権・井上清直,岩瀬忠震(ただなり)との間で締結・調印されました。こちらは関東大震災で被災したため傷んではいますが原本が残されています。 外務省の外交史料館別館では,常設展示として日米修好通商条約調印書の精密なレプリカが公開されていて見ることができます。
万延元年遣米使節記念碑
【鎖国から開国へ】1860年にアメリカに派遣された使節団はどのような役割を担っていたのでしょうか?
1860(安政7)年の2月,日米修好通商条約の批准書交換のため,外国奉行・新見正興(しんみまさおき)を正使とする使節団がアメリカ軍艦ポーハタン号に乗船してアメリカに向かいました。この使節が「万延元年遣米使節」と呼ばれています。 このとき遣米使節団を護衛するという名目で太平洋を横断し,アメリカ(サンフランシスコ)に渡ったのが勝海舟を艦長とする咸臨丸でした。使節団一行がワシントンに到着したのは同年(万延元年)5月,新見正興らはそこでブキャナン大統領に謁見し,国務長官との間で批准書を交換しました。 記念碑は,日米修好通商条約が批准されて100年目にあたる1960(昭和35)年に「日米修好通商百年記念行事運営会」によって建てられたものです。ちょうどペリーの像と向かい合うかたちになっていますが、なぜ芝公園内に建てられたのかは不明です。 また,ブキャナン大統領から使節団に贈られた大統領の肖像入りの金時計とメダルは外交史料館に所蔵されていて,特別展などで公開展示されます。
1860(安政7)年の2月,日米修好通商条約の批准書交換のため,外国奉行・新見正興(しんみまさおき)を正使とする使節団がアメリカ軍艦ポーハタン号に乗船してアメリカに向かいました。この使節が「万延元年遣米使節」と呼ばれています。 このとき遣米使節団を護衛するという名目で太平洋を横断し,アメリカ(サンフランシスコ)に渡ったのが勝海舟を艦長とする咸臨丸でした。使節団一行がワシントンに到着したのは同年(万延元年)5月,新見正興らはそこでブキャナン大統領に謁見し,国務長官との間で批准書を交換しました。 記念碑は,日米修好通商条約が批准されて100年目にあたる1960(昭和35)年に「日米修好通商百年記念行事運営会」によって建てられたものです。ちょうどペリーの像と向かい合うかたちになっていますが、なぜ芝公園内に建てられたのかは不明です。 また,ブキャナン大統領から使節団に贈られた大統領の肖像入りの金時計とメダルは外交史料館に所蔵されていて,特別展などで公開展示されます。
幕臣・勝海舟は1859(安政6)年から1868(明治元)年までこの地に自宅を置いていました。 長崎の海軍伝習所でオランダの士官から航海術を学んだ海舟は,ここに転居した年に幕府から渡米を命じられ,翌1860(安政7)年,艦長として幕府の軍艦・咸臨丸に乗船し,サンフランシスコに向けて出港しました。渡米の目的は,日米修好通商条約批准のために派遣される幕府の遣米使節団の護衛ということでしたが,日本人の航海術を向上させるというねらいもあったようです。実際,アメリカ人乗員の手を借りながらも主に日本人船員が操船して太平洋の横断に成功しサンフランシスコに到着しましたが,勝海舟自身は航海中船酔いに苦しんでいたという記録が残されています。 このときの咸臨丸には,福沢諭吉や通訳としてジョン万次郎も乗船していました。 帰国後,軍艦奉行並となった海舟の建言により,1864(元治元)年,神戸に海軍操練所が設立されましたが,年末に海舟は免職となり翌年には海軍操練所も閉鎖されてしまいます。
幕臣・勝海舟は1859(安政6)年から1868(明治元)年までこの地に自宅を置いていました。 長崎の海軍伝習所でオランダの士官から航海術を学んだ海舟は,ここに転居した年に幕府から渡米を命じられ,翌1860(安政7)年,艦長として幕府の軍艦・咸臨丸に乗船し,サンフランシスコに向けて出港しました。渡米の目的は,日米修好通商条約批准のために派遣される幕府の遣米使節団の護衛ということでしたが,日本人の航海術を向上させるというねらいもあったようです。実際,アメリカ人乗員の手を借りながらも主に日本人船員が操船して太平洋の横断に成功しサンフランシスコに到着しましたが,勝海舟自身は航海中船酔いに苦しんでいたという記録が残されています。 このときの咸臨丸には,福沢諭吉や通訳としてジョン万次郎も乗船していました。 帰国後,軍艦奉行並となった海舟の建言により,1864(元治元)年,神戸に海軍操練所が設立されましたが,年末に海舟は免職となり翌年には海軍操練所も閉鎖されてしまいます。
ジョン万次郎(本名は仲濱萬次郎)は,土佐の中浜(現,高知県土佐清水市)で漁師の次男として生まれました。1841(天保12)年14歳の頃,漁の最中に遭難して無人島に漂着,アメリカの捕鯨船に助けられ,ハワイを経てアメリカに渡りました。8年間をアメリカ本土で過ごし,英語や測量,航海技術などを身に着けて万次郎が帰国したのは1851(嘉永4)年のことでした。 1860(安政7)年,日米修好通商条約批准のため幕府の遣米使節団がアメリカ船に乗船して渡米しますが,このとき護衛を名目として共に渡米する勝海舟を艦長とする咸臨丸に,万次郎は通訳として乗り込むことになりました。この縁で,勝海舟と親しくなった万次郎は,帰国後も海舟と連れ立って浅草にある鰻屋「やっ古」に好物のウナギを食べに行っていたと伝えられています。 万次郎が亡くなったのは1898(明治31)年,71歳のときでした。彼はキリスト教徒でしたが,墓は生前に谷中の仏心寺に用意していたもので,1920(大正9)年に雑司ヶ谷霊園に移されたとされています。
ジョン万次郎(本名は仲濱萬次郎)は,土佐の中浜(現,高知県土佐清水市)で漁師の次男として生まれました。1841(天保12)年14歳の頃,漁の最中に遭難して無人島に漂着,アメリカの捕鯨船に助けられ,ハワイを経てアメリカに渡りました。8年間をアメリカ本土で過ごし,英語や測量,航海技術などを身に着けて万次郎が帰国したのは1851(嘉永4)年のことでした。 1860(安政7)年,日米修好通商条約批准のため幕府の遣米使節団がアメリカ船に乗船して渡米しますが,このとき護衛を名目として共に渡米する勝海舟を艦長とする咸臨丸に,万次郎は通訳として乗り込むことになりました。この縁で,勝海舟と親しくなった万次郎は,帰国後も海舟と連れ立って浅草にある鰻屋「やっ古」に好物のウナギを食べに行っていたと伝えられています。 万次郎が亡くなったのは1898(明治31)年,71歳のときでした。彼はキリスト教徒でしたが,墓は生前に谷中の仏心寺に用意していたもので,1920(大正9)年に雑司ヶ谷霊園に移されたとされています。
ヒュースケン殺害事件現場
【鎖国から開国へ】幕末に起きた外国人殺害事件の最初の犠牲者となったヒュースケンとはどのような人物だったのでしょうか?
日本が開国して以降,明治維新直後までの間に外国人が攘夷派の武士たちによって襲撃される事件,殺傷される事件が度々起こっています。 オランダ生まれのアメリカ人ヘンリー・ヒュースケンが殺害されたのは1860(万延元)年の12月,場所は古川に架かる一之橋と赤羽橋の間にあった中之橋のあたりでした。ヒュースケンは,アメリカの初代総領事ハリスの通訳兼書記官として,1856(安政3)年に,領事館が開かれた伊豆下田に着任し,日米修好通商条約の締結に尽力しました。1859(安政6)年,麻布の善福寺に公使館が設けられたことで江戸に入ります。 事件が起きた当日,ヒュースケンは幕府とプロイセン(現在のドイツ北部からボーランド西部一帯を領土としていた王国)との修好通商条約締結の斡旋にあたっていましたが,プロイセン使節の宿舎だった芝の赤羽接遇所から公使館に騎馬で帰る途中,中之橋にさしかかったあたりで浪士の一団に襲われ,治療の甲斐無く翌日死亡しました。享年28歳。 これが幕末に外国人が殺害された初めての事件となりました。
日本が開国して以降,明治維新直後までの間に外国人が攘夷派の武士たちによって襲撃される事件,殺傷される事件が度々起こっています。 オランダ生まれのアメリカ人ヘンリー・ヒュースケンが殺害されたのは1860(万延元)年の12月,場所は古川に架かる一之橋と赤羽橋の間にあった中之橋のあたりでした。ヒュースケンは,アメリカの初代総領事ハリスの通訳兼書記官として,1856(安政3)年に,領事館が開かれた伊豆下田に着任し,日米修好通商条約の締結に尽力しました。1859(安政6)年,麻布の善福寺に公使館が設けられたことで江戸に入ります。 事件が起きた当日,ヒュースケンは幕府とプロイセン(現在のドイツ北部からボーランド西部一帯を領土としていた王国)との修好通商条約締結の斡旋にあたっていましたが,プロイセン使節の宿舎だった芝の赤羽接遇所から公使館に騎馬で帰る途中,中之橋にさしかかったあたりで浪士の一団に襲われ,治療の甲斐無く翌日死亡しました。享年28歳。 これが幕末に外国人が殺害された初めての事件となりました。
アーネスト・サトウゆかりの屋敷跡
【鎖国から開国へ】アーネスト・サトウが書いた『一外交官の見た明治維新』は貴重な歴史史料とされています。それはなぜでしょうか?
アーネスト・サトウは,幕末・維新期の激動する政情を自らの体験を踏まえて記録した『一外交官の見た明治維新』の著者として知られています。 ロンドンで生まれたサトウは,1862(文久2)年に英国駐日公使館の通訳(当初は見習い)として19歳で来日し,英国公使オールコック,ついでパークスを補佐しました。サトウは,来日直後に起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)の交渉のため通訳として鹿児島に行き,交渉決裂後に起きた薩英戦争を目撃しています。翌年の列強4国と長州藩との戦争(下関戦争)のときにも英国艦隊に同行していました。 サトウは正式ではありませんが武田兼(かね)という日本人女性を妻とし二男一女をもうけています。1884(明治17)年にいったん日本を離れ、シャム(現在のタイ)やウルグアイなどに外交官として駐在しますが,離日に際して当時の麹町区富士見町にあった旧旗本屋敷を購入し,家族と日本滞在時の居宅としました。 碑は1981(昭和56)年に法政大学が建てたもので,そこがサトウの屋敷跡であることが記されています。サトウは,1895(明治28)年に英国公使として帰任し,1900(明治33)年まで滞在しました。
【鎖国から開国へ】アーネスト・サトウが書いた『一外交官の見た明治維新』は貴重な歴史史料とされています。それはなぜでしょうか?
アーネスト・サトウは,幕末・維新期の激動する政情を自らの体験を踏まえて記録した『一外交官の見た明治維新』の著者として知られています。 ロンドンで生まれたサトウは,1862(文久2)年に英国駐日公使館の通訳(当初は見習い)として19歳で来日し,英国公使オールコック,ついでパークスを補佐しました。サトウは,来日直後に起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)の交渉のため通訳として鹿児島に行き,交渉決裂後に起きた薩英戦争を目撃しています。翌年の列強4国と長州藩との戦争(下関戦争)のときにも英国艦隊に同行していました。 サトウは正式ではありませんが武田兼(かね)という日本人女性を妻とし二男一女をもうけています。1884(明治17)年にいったん日本を離れ、シャム(現在のタイ)やウルグアイなどに外交官として駐在しますが,離日に際して当時の麹町区富士見町にあった旧旗本屋敷を購入し,家族と日本滞在時の居宅としました。 碑は1981(昭和56)年に法政大学が建てたもので,そこがサトウの屋敷跡であることが記されています。サトウは,1895(明治28)年に英国公使として帰任し,1900(明治33)年まで滞在しました。
最初のイギリス公使館跡
【鎖国から開国へ】高輪東禅寺に設けられた最初のイギリス公使館は,なぜ2度も襲撃されたのでしょうか?
イギリスとの間に修好通商条約が結ばれたのは1858(安政5)年のことでした。これを受けて翌年高輪の東禅寺に最初のイギリス公使館が設けられ,初代公使としてラザフォード・オールコックが着任しました。山門前には「最初のイギリス公使宿館跡」の碑が建てられています。 東禅寺にあったイギリス公使館は2度襲撃に遭っています。1861(文久元)年に起きた第一次東禅寺事件は,オールコックが長崎から江戸への帰路に海路ではなく陸路(東海道)を通ったことで「神州日本が穢された」と憤慨した水戸の脱藩士14名がオールコックの殺害を目的に襲撃したものです。この企ては失敗に終わり,彼らは殺害・逮捕されましたが,そのときの弾痕や刀傷は今も玄関の柱などに残っています。 翌年の第二次東禅寺事件は,警備にあたっていた松本藩士が館内に侵入してイギリス人水兵2名を殺害,自身も自刃したもので,藩による警備の解除と日本人同士の戦いを防ごうとしたことが理由とされています。
イギリスとの間に修好通商条約が結ばれたのは1858(安政5)年のことでした。これを受けて翌年高輪の東禅寺に最初のイギリス公使館が設けられ,初代公使としてラザフォード・オールコックが着任しました。山門前には「最初のイギリス公使宿館跡」の碑が建てられています。 東禅寺にあったイギリス公使館は2度襲撃に遭っています。1861(文久元)年に起きた第一次東禅寺事件は,オールコックが長崎から江戸への帰路に海路ではなく陸路(東海道)を通ったことで「神州日本が穢された」と憤慨した水戸の脱藩士14名がオールコックの殺害を目的に襲撃したものです。この企ては失敗に終わり,彼らは殺害・逮捕されましたが,そのときの弾痕や刀傷は今も玄関の柱などに残っています。 翌年の第二次東禅寺事件は,警備にあたっていた松本藩士が館内に侵入してイギリス人水兵2名を殺害,自身も自刃したもので,藩による警備の解除と日本人同士の戦いを防ごうとしたことが理由とされています。
最初のオランダ公使館跡
【鎖国から開国へ】西応寺に初めて設けられたオランダ公使館が,わずか10年で移転することになったのはなぜでしょうか?
鎖国下で欧州の国として唯一通商関係にあったオランダでしたが,幕府との間に正式に修好通商条約を結んだのは1858(安政5)年のことで,アメリカに一ヶ月ほどおくれをとってしまいました。 最初の公使館は,三田の浄土宗寺院・西応寺に設けられています。公使館として使用されたのは書院と庫裡の2階でしたが, 1868(慶応3)年に三田の薩摩藩邸が庄内藩などによって焼き討ちされたときの兵火で西応寺が全焼したため,公使館は伊皿子坂(いさらござか)近くの長応寺(現存していません)に移りました。 西応寺に併設されている幼稚園のある場所が,最初のオランダ公使館が設けられていたところと推定されていて,西応寺門前には「最初のオランダ公使宿館跡」の碑が建てられています。なお西応寺は,オランダ公使館が設置される前の1858年,日英修好通商条約締結のために来日したイギリスの使節の宿舎とされたところでもあります。
鎖国下で欧州の国として唯一通商関係にあったオランダでしたが,幕府との間に正式に修好通商条約を結んだのは1858(安政5)年のことで,アメリカに一ヶ月ほどおくれをとってしまいました。 最初の公使館は,三田の浄土宗寺院・西応寺に設けられています。公使館として使用されたのは書院と庫裡の2階でしたが, 1868(慶応3)年に三田の薩摩藩邸が庄内藩などによって焼き討ちされたときの兵火で西応寺が全焼したため,公使館は伊皿子坂(いさらござか)近くの長応寺(現存していません)に移りました。 西応寺に併設されている幼稚園のある場所が,最初のオランダ公使館が設けられていたところと推定されていて,西応寺門前には「最初のオランダ公使宿館跡」の碑が建てられています。なお西応寺は,オランダ公使館が設置される前の1858年,日英修好通商条約締結のために来日したイギリスの使節の宿舎とされたところでもあります。
最初のフランス公使館跡
【鎖国から開国へ】フランスの2代目公使として着任したロッシュは,どのような活動をしたのでしょうか?
幕府は1858(安政5)年に欧米の5ヶ国(米・蘭・露・英・仏)との間に相次いで修好通商条約を結びました。まとめて「安政の五カ国条約」と呼ばれていますが,各国に一歩遅れたフランスは,通常は修好通商条約に先立って結ばれる和親条約の段階を経ていません。 翌年,フランス最初の公使館が三田の済海寺に設けられ,初代公使ド・ベルクールが着任しました。この頃は,外国人襲撃事件・殺傷事件が頻繁に起きていましたが,済海寺でも1860(万延元)年に公使館の旗番だったイタリア人ナタールが2人の武士に斬られるという事件が起きています。 1863(文久3)年に2代目公使として着任したレオン・ロッシュは,薩摩藩・長州藩など倒幕勢力を支援するイギリス公使パークスに対抗し,幕府を積極的に支援して軍制改革などに協力しました。公使館として使用されたのは済海寺の書院や庫裏で,のちに玄関や門などが増築されましたが,1870(明治3)年に引き払いとなりました。 済海寺の門を入った左手に「最初のフランス公使宿館跡」の碑が建てられています。
幕府は1858(安政5)年に欧米の5ヶ国(米・蘭・露・英・仏)との間に相次いで修好通商条約を結びました。まとめて「安政の五カ国条約」と呼ばれていますが,各国に一歩遅れたフランスは,通常は修好通商条約に先立って結ばれる和親条約の段階を経ていません。 翌年,フランス最初の公使館が三田の済海寺に設けられ,初代公使ド・ベルクールが着任しました。この頃は,外国人襲撃事件・殺傷事件が頻繁に起きていましたが,済海寺でも1860(万延元)年に公使館の旗番だったイタリア人ナタールが2人の武士に斬られるという事件が起きています。 1863(文久3)年に2代目公使として着任したレオン・ロッシュは,薩摩藩・長州藩など倒幕勢力を支援するイギリス公使パークスに対抗し,幕府を積極的に支援して軍制改革などに協力しました。公使館として使用されたのは済海寺の書院や庫裏で,のちに玄関や門などが増築されましたが,1870(明治3)年に引き払いとなりました。 済海寺の門を入った左手に「最初のフランス公使宿館跡」の碑が建てられています。
老舗料亭「つきじ治作」のあるところにかつて東京運上所がありました。運上所は現在の税関の前身にあたります。 築地に運上所が開設されたのは,元号が明治に変わる直前の1867(慶応3)年10月。江戸幕府は,1858(安政5)年に結ばれた安政の五カ国条約に基づき,開港場とされた神奈川(横浜),長崎などに貿易のため来日する外国人の居住地区として外国人居留地を設けました。条約には江戸の開市も定められていたので,幕府は築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地とすることとし,その一角に運上所が設けられたのです。 明治維新により江戸は東京と改称され,1869年1月1日(明治元年11月19日)に開市・開港されましたが,築地での貿易は港近くの水深が浅く整備が進まなかったため振いませんでした。ただ,横浜の外国人居留地と船で往来できる便の良い場所でしたので外国公使館や領事館が置かれ,教会や学校が数多く作られました。 条約改正によって1899(明治32)年に領事裁判権が撤廃されると築地の外国人居留地は廃止され,1872(明治5)年から横浜税関の東京税関支署となっていたかつての東京運上所も移転することになりました。
老舗料亭「つきじ治作」のあるところにかつて東京運上所がありました。運上所は現在の税関の前身にあたります。 築地に運上所が開設されたのは,元号が明治に変わる直前の1867(慶応3)年10月。江戸幕府は,1858(安政5)年に結ばれた安政の五カ国条約に基づき,開港場とされた神奈川(横浜),長崎などに貿易のため来日する外国人の居住地区として外国人居留地を設けました。条約には江戸の開市も定められていたので,幕府は築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地とすることとし,その一角に運上所が設けられたのです。 明治維新により江戸は東京と改称され,1869年1月1日(明治元年11月19日)に開市・開港されましたが,築地での貿易は港近くの水深が浅く整備が進まなかったため振いませんでした。ただ,横浜の外国人居留地と船で往来できる便の良い場所でしたので外国公使館や領事館が置かれ,教会や学校が数多く作られました。 条約改正によって1899(明治32)年に領事裁判権が撤廃されると築地の外国人居留地は廃止され,1872(明治5)年から横浜税関の東京税関支署となっていたかつての東京運上所も移転することになりました。
アメリカの最初の公使館は,初代公使タウンゼント・ハリスによって1859(安政6)年に麻布の善福寺に開設されました。築地の外国人居留地内に移されたのは1875(明治8)年のこと。公使館は新築された建物でようやくその形容を整えたといえます。その後,1890(明治23)年に赤坂葵町に移転し,アメリカ大使館として現在に至っています。 公使館の移転後に残された石標は,この地でアメリカ独立100周年を迎えた際につくられたもので,現在,中央区にはそのうちの5個が居留地時代を伝えるモニュメントとして残されています。聖路加国際大学のトイスラー記念館前に置かれた3個には,それぞれアメリカの国章で初期の13州を示す星が配された盾,アメリカの国鳥である白頭鷲と星と盾,そして星が刻まれています。
アメリカの最初の公使館は,初代公使タウンゼント・ハリスによって1859(安政6)年に麻布の善福寺に開設されました。築地の外国人居留地内に移されたのは1875(明治8)年のこと。公使館は新築された建物でようやくその形容を整えたといえます。その後,1890(明治23)年に赤坂葵町に移転し,アメリカ大使館として現在に至っています。 公使館の移転後に残された石標は,この地でアメリカ独立100周年を迎えた際につくられたもので,現在,中央区にはそのうちの5個が居留地時代を伝えるモニュメントとして残されています。聖路加国際大学のトイスラー記念館前に置かれた3個には,それぞれアメリカの国章で初期の13州を示す星が配された盾,アメリカの国鳥である白頭鷲と星と盾,そして星が刻まれています。
聖路加国際病院のすぐ近くにある古代ギリシアの神殿風の建物が,東京最古のカトリック教会といわれるカトリック築地教会です。 ここに初めて教会が建てられたのは,1878(明治11)年のこと。フランスのパリ外国宣教会に所属する宣教師マラン神父とミドン神父によって,外国人居留地内だった現在地に赤レンガ,ゴシック様式の「築地司教座聖堂」が建てられました。当時の聖堂は,長崎の大浦天主堂に匹敵する建物だったと伝えられています。 以後,築地教会は東京以北の宣教の中心となっていましたが,1923(大正12)年の関東大震災で聖堂が倒壊してしまいます。現在の聖堂は1926(大正15)年に再建されたもので,一見すると石造りに見えますが実は木造モルタル造,震災後の厳しい状況の下で苦心して建てられたことが窺われます。 太平洋戦争では,聖路加国際病院の近くにあったため空襲の被害を免れたといわれます。旧聖堂の時代から使われてきた銅製の洋鐘は,1876(明治9)年にフランスでつくられたもので,現在も教会の敷地内に保存されています。
聖路加国際病院のすぐ近くにある古代ギリシアの神殿風の建物が,東京最古のカトリック教会といわれるカトリック築地教会です。 ここに初めて教会が建てられたのは,1878(明治11)年のこと。フランスのパリ外国宣教会に所属する宣教師マラン神父とミドン神父によって,外国人居留地内だった現在地に赤レンガ,ゴシック様式の「築地司教座聖堂」が建てられました。当時の聖堂は,長崎の大浦天主堂に匹敵する建物だったと伝えられています。 以後,築地教会は東京以北の宣教の中心となっていましたが,1923(大正12)年の関東大震災で聖堂が倒壊してしまいます。現在の聖堂は1926(大正15)年に再建されたもので,一見すると石造りに見えますが実は木造モルタル造,震災後の厳しい状況の下で苦心して建てられたことが窺われます。 太平洋戦争では,聖路加国際病院の近くにあったため空襲の被害を免れたといわれます。旧聖堂の時代から使われてきた銅製の洋鐘は,1876(明治9)年にフランスでつくられたもので,現在も教会の敷地内に保存されています。
かつての築地市場があった辺り,もと外国人居留地の南に接するところに軍艦操練所がありました。これは,洋式軍艦の操縦法を教授するため江戸幕府が設けた施設です。 その跡地に建てられたのが日本初の本格的な洋風ホテル,築地ホテル館。設計にあたったのはアメリカ人技師R.P.ブリジェンスと横浜で洋風建築の技術を学んだ清水組(現在の清水建設)二代目の清水喜助でした。 竣工したのは1868(慶応4)年,幕府はすでに崩壊していました。ホテル館は,中央に塔屋がそびえる擬洋風の木造2階建て。瓦屋根で外側はなまこ壁,内壁には漆喰が塗られていました。客室は全102室で水洗トイレが付き,シャワー室やビリヤード室,バーも備えられていたといいます。 築地ホテル館は東京の新名所として評判となり,多くの人々が見物に訪れ,錦絵にも描かれました。しかし,築地での貿易が振わなかったため宿泊客は多くなく,1872(明治5)に起きた京橋一帯の大火によって焼失してしまいました。 タイムドーム明石(中央区明石町12-1 中央区保健所等複合施設6階)に築地ホテル館の立体模型が展示されています。
かつての築地市場があった辺り,もと外国人居留地の南に接するところに軍艦操練所がありました。これは,洋式軍艦の操縦法を教授するため江戸幕府が設けた施設です。 その跡地に建てられたのが日本初の本格的な洋風ホテル,築地ホテル館。設計にあたったのはアメリカ人技師R.P.ブリジェンスと横浜で洋風建築の技術を学んだ清水組(現在の清水建設)二代目の清水喜助でした。 竣工したのは1868(慶応4)年,幕府はすでに崩壊していました。ホテル館は,中央に塔屋がそびえる擬洋風の木造2階建て。瓦屋根で外側はなまこ壁,内壁には漆喰が塗られていました。客室は全102室で水洗トイレが付き,シャワー室やビリヤード室,バーも備えられていたといいます。 築地ホテル館は東京の新名所として評判となり,多くの人々が見物に訪れ,錦絵にも描かれました。しかし,築地での貿易が振わなかったため宿泊客は多くなく,1872(明治5)に起きた京橋一帯の大火によって焼失してしまいました。 タイムドーム明石(中央区明石町12-1 中央区保健所等複合施設6階)に築地ホテル館の立体模型が展示されています。
立教大学など立教学院のルーツは,アメリカ聖公会の宣教師チャニング・M・ウィリアムズが,1974(明治7)年に築地の外国人居留地に開いた「立教学校」という名の私塾にあります。立教学校は,その後の大火事による移転や閉鎖を経て,1883(明治16)年には,ハーバード大学で建築学を修めたガーディナー校長のもと,築地外国人居留地37番に尖塔や礼拝堂,寄宿舎などを備えた本格的なレンガ校舎が完成し「立教大学校」と称するようになります。しかしこの校舎は1894(明治27)年の大地震で倒壊し,記念碑のある場所に移転することになりました。なお築地居留地37番には,後に聖路加病院が開設されます。 記念碑は立教大学卒業の彫刻家が制作したもので,立教学院創立125周年を記念して2000(平成12)年に建てられました。碑の前面には「すべての人に仕える者になりなさい」との聖マルコによる福音書の一説が刻まれています。なお,立教大学が現在の池袋に移ったのは1918(大正7)年のことです。
立教大学など立教学院のルーツは,アメリカ聖公会の宣教師チャニング・M・ウィリアムズが,1974(明治7)年に築地の外国人居留地に開いた「立教学校」という名の私塾にあります。立教学校は,その後の大火事による移転や閉鎖を経て,1883(明治16)年には,ハーバード大学で建築学を修めたガーディナー校長のもと,築地外国人居留地37番に尖塔や礼拝堂,寄宿舎などを備えた本格的なレンガ校舎が完成し「立教大学校」と称するようになります。しかしこの校舎は1894(明治27)年の大地震で倒壊し,記念碑のある場所に移転することになりました。なお築地居留地37番には,後に聖路加病院が開設されます。 記念碑は立教大学卒業の彫刻家が制作したもので,立教学院創立125周年を記念して2000(平成12)年に建てられました。碑の前面には「すべての人に仕える者になりなさい」との聖マルコによる福音書の一説が刻まれています。なお,立教大学が現在の池袋に移ったのは1918(大正7)年のことです。
女子学院の歴史は1870(明治3)年に,築地外国人居留地6番に設立された「A6番女学校」から始まります。 創立者のジュリア・カロゾロス(カロザース)は,1869(明治2)年に夫とともに来日したプロテスタント,アメリカ長老派教会の宣教師でした。その後,A6番女学校は同じ築地にあったB6番女学校(後の新栄女学校)や原女学校と合流し,1890(明治23)年に桜井女学校と合併して「女子学院」と改称,現在の千代田区一番町に新校舎を建てて新たにスタートしました。 記念碑は,創立130周年を迎える前年の1999(平成11)に建てられたものですが,本来の発祥の地には建物があるため,そこから少し離れた現在地にあります。
女子学院の歴史は1870(明治3)年に,築地外国人居留地6番に設立された「A6番女学校」から始まります。 創立者のジュリア・カロゾロス(カロザース)は,1869(明治2)年に夫とともに来日したプロテスタント,アメリカ長老派教会の宣教師でした。その後,A6番女学校は同じ築地にあったB6番女学校(後の新栄女学校)や原女学校と合流し,1890(明治23)年に桜井女学校と合併して「女子学院」と改称,現在の千代田区一番町に新校舎を建てて新たにスタートしました。 記念碑は,創立130周年を迎える前年の1999(平成11)に建てられたものですが,本来の発祥の地には建物があるため,そこから少し離れた現在地にあります。