東京にある,世界とのつながりが感じられる史跡や文化財を紹介しています。東京を散歩しながら,時空を飛び越えてみませんか!
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紹介スポット
- 104件卒業生に芸能人が多いことで知られる暁星学園は,数少ないカトリック系の男子校です。開校されたのは1888(明治21)年の2月,場所は現在の明石町にあるカトリック築地教会の敷地の一角でした。 築地カトリック教会はパリから来日した宣教師たちによって建てられましたが,暁星学園もやはり,日本に派遣されたパリのカトリック教育修道会・マリア会の宣教師たちが設立した神学校を母体としています。当初,学校の名はつけられていませんでしたが,7月に麹町に移転した際,明けの明星を意味する「暁星」という学校名になりました。現在地に移ったのは1890(明治23)年のことです。 発祥の地を記念した碑は築地教会の前にあります。碑の上部には開かれた本(聖書?)のモニュメントが載せられていますが,そこには「あなたがたは地の塩,世の光である」と刻まれています。
卒業生に芸能人が多いことで知られる暁星学園は,数少ないカトリック系の男子校です。開校されたのは1888(明治21)年の2月,場所は現在の明石町にあるカトリック築地教会の敷地の一角でした。 築地カトリック教会はパリから来日した宣教師たちによって建てられましたが,暁星学園もやはり,日本に派遣されたパリのカトリック教育修道会・マリア会の宣教師たちが設立した神学校を母体としています。当初,学校の名はつけられていませんでしたが,7月に麹町に移転した際,明けの明星を意味する「暁星」という学校名になりました。現在地に移ったのは1890(明治23)年のことです。 発祥の地を記念した碑は築地教会の前にあります。碑の上部には開かれた本(聖書?)のモニュメントが載せられていますが,そこには「あなたがたは地の塩,世の光である」と刻まれています。
ヘンリー・フォールズ住居跡・指紋研究発祥の地
【築地にあった外国人居留地】犯罪捜査の在り方を飛躍的に進歩させたフォールズの功績とは何でしょうか。
犯罪捜査で有力な証拠となるのが現場に残された指紋です。指紋によって個人の識別が可能であることを発見し,世界に向けて初めて発表したのがイギリス人ヘンリー・フォールズです。 フォールズは,スコットランド一致長老会の医療伝道団の一員として1874(明治7)年に来日し,キリスト教布教と医療活動に従事しました。医師としてのフォールズは,楽善会訓盲院(現,筑波大学附属視覚特別支援学校(付属盲学校))を設立して視覚障碍者教育を推進したことで知られています。 大森貝塚を発見したアメリカ人動物学者モースと親交を持ったフォースは,土器にも興味を持つようになりました。そして偶然に,土器に残されていた古代人の指紋を見つけ,このことなどをきっかけに指紋の科学的な研究に取り組むようになります。その成果がイギリスの総合科学雑誌「Nature」に発表されたのが1880(明治13)年の10月,世界最初の科学的指紋法に関する論文となりました。 碑は,フォールズが1874(明治7)年から1886(明治19)年まで居住していた築地外国人居留地18号,現在の聖路加ガーデンと聖路加国際病院の間にある歩道上の植え込みの中に置かれています。
犯罪捜査で有力な証拠となるのが現場に残された指紋です。指紋によって個人の識別が可能であることを発見し,世界に向けて初めて発表したのがイギリス人ヘンリー・フォールズです。 フォールズは,スコットランド一致長老会の医療伝道団の一員として1874(明治7)年に来日し,キリスト教布教と医療活動に従事しました。医師としてのフォールズは,楽善会訓盲院(現,筑波大学附属視覚特別支援学校(付属盲学校))を設立して視覚障碍者教育を推進したことで知られています。 大森貝塚を発見したアメリカ人動物学者モースと親交を持ったフォースは,土器にも興味を持つようになりました。そして偶然に,土器に残されていた古代人の指紋を見つけ,このことなどをきっかけに指紋の科学的な研究に取り組むようになります。その成果がイギリスの総合科学雑誌「Nature」に発表されたのが1880(明治13)年の10月,世界最初の科学的指紋法に関する論文となりました。 碑は,フォールズが1874(明治7)年から1886(明治19)年まで居住していた築地外国人居留地18号,現在の聖路加ガーデンと聖路加国際病院の間にある歩道上の植え込みの中に置かれています。
聖路加国際病院は,1917(大正6)年に改称される以前は「聖路加病院」といいました。開院されたのは1901(明治34)年,場所はかつての築地外国人居留地37番にあたります。 ここには,もともと健康社築地病院というキリスト教系の病院があり,指紋研究で知られるヘンリー・フォールズも勤務していました。フォールズが1886(明治19)年に帰国すると病院はしだいに廃れ,1899(明治32)年に築地の外国人居留地が廃止されると病院も閉鎖されます。 その建物を買い取り,そこに新たに聖路加病院を開院したのが,アメリカ聖公会が日本に派遣した宣教師で医師のルドルフ・B・トイスラーです。病院の建物は,はじめは小さな木造家屋でしたが,その後皇室や大隈重信らの後援,三井・三菱などからの献金を受けて発展し,敷地は旧居留地のほぼ南半分を占めるまでになりました。 聖路加国際大学の旧館は,1923(大正12)年の関東大震災で病院の建物が倒壊した後,駐日アメリカ大使公邸を設計したチェコ出身の建築家アントニン・レイモンドの設計により1933(昭和8)年に再建されたものです。
聖路加国際病院は,1917(大正6)年に改称される以前は「聖路加病院」といいました。開院されたのは1901(明治34)年,場所はかつての築地外国人居留地37番にあたります。 ここには,もともと健康社築地病院というキリスト教系の病院があり,指紋研究で知られるヘンリー・フォールズも勤務していました。フォールズが1886(明治19)年に帰国すると病院はしだいに廃れ,1899(明治32)年に築地の外国人居留地が廃止されると病院も閉鎖されます。 その建物を買い取り,そこに新たに聖路加病院を開院したのが,アメリカ聖公会が日本に派遣した宣教師で医師のルドルフ・B・トイスラーです。病院の建物は,はじめは小さな木造家屋でしたが,その後皇室や大隈重信らの後援,三井・三菱などからの献金を受けて発展し,敷地は旧居留地のほぼ南半分を占めるまでになりました。 聖路加国際大学の旧館は,1923(大正12)年の関東大震災で病院の建物が倒壊した後,駐日アメリカ大使公邸を設計したチェコ出身の建築家アントニン・レイモンドの設計により1933(昭和8)年に再建されたものです。
聖路加国際大学の構内にあるトイスラー記念館は,もとは1933(昭和8)年に隅田川川畔の明石町19番地に建てられた聖路加国際病院の宣教師館でした。聖路加開発計画によって1989(平成元)年に解体され,1998(平成10)年に現在地に移築・復元されてトイスラー記念館となりました。 ルドルフ・B・トイスラーは,1901(明治34)年に来日したアメリカ聖公会の宣教師・医師で,その年,かつての築地外国人居留地に聖路加病院(現在の聖路加国際病院)を開院し,1920(大正9)年には附属高等看護婦学校(現,聖路加国際大学)を設立しています。 宣教師館は,アメリカ人建築家J・V・W・バーガミニィの設計による鉄筋コンクリート造一部木造の二階建て建築で,外部に柱や梁などを露出させたハーフティンバー風の外観をもつヨーロッパの山荘を思わせる瀟洒な住宅でした。移築するにあたっては,再利用可能な部材をできる限り用いて創建当時の姿を忠実に再現したとされています。
聖路加国際大学の構内にあるトイスラー記念館は,もとは1933(昭和8)年に隅田川川畔の明石町19番地に建てられた聖路加国際病院の宣教師館でした。聖路加開発計画によって1989(平成元)年に解体され,1998(平成10)年に現在地に移築・復元されてトイスラー記念館となりました。 ルドルフ・B・トイスラーは,1901(明治34)年に来日したアメリカ聖公会の宣教師・医師で,その年,かつての築地外国人居留地に聖路加病院(現在の聖路加国際病院)を開院し,1920(大正9)年には附属高等看護婦学校(現,聖路加国際大学)を設立しています。 宣教師館は,アメリカ人建築家J・V・W・バーガミニィの設計による鉄筋コンクリート造一部木造の二階建て建築で,外部に柱や梁などを露出させたハーフティンバー風の外観をもつヨーロッパの山荘を思わせる瀟洒な住宅でした。移築するにあたっては,再利用可能な部材をできる限り用いて創建当時の姿を忠実に再現したとされています。