
グローバルな歴史をたどる東京おさんぽマップ

東京にある,世界とのつながりが感じられる史跡や文化財を紹介しています。東京を散歩しながら,時空を飛び越えてみませんか!
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紹介スポット
- 104件JR錦糸町駅から徒歩15分ほど,墨田区にあるカトリック東京大司教区本所教会の聖堂は「日本26聖人殉教者聖堂」と呼ばれています。 日本でのキリスト教に対する弾圧は,1587(天正15)年に豊臣秀吉が出したバテレン追放令からはじまります。バテレンとはカトリックの宣教師のことです。 1597(慶長元)年には,捕らえられたカトリック教会フランシスコ会の司祭・修道士・信徒26人が,秀吉の命令によって長崎西坂の丘で磔の刑に処せられました。これが日本で初めての殉教事件です。のちに,カトリック教会がこの26人を聖人に列したことから,彼らは「日本26聖人」と呼ばれるようになりました。 カトリック本所教会の聖堂は,1880(明治13)年に建てられ日本26聖人に捧げられました。今も彼らが殉教した2月に「日本26聖人殉教祭」のミサが行われています。 また聖堂内には,殉教したフランシスコ会のスペイン人司祭ペドロ・バブチスタとメキシコ人修道士フェリペ・デ・ヘススの肖像画が掲げられています。

JR錦糸町駅から徒歩15分ほど,墨田区にあるカトリック東京大司教区本所教会の聖堂は「日本26聖人殉教者聖堂」と呼ばれています。 日本でのキリスト教に対する弾圧は,1587(天正15)年に豊臣秀吉が出したバテレン追放令からはじまります。バテレンとはカトリックの宣教師のことです。 1597(慶長元)年には,捕らえられたカトリック教会フランシスコ会の司祭・修道士・信徒26人が,秀吉の命令によって長崎西坂の丘で磔の刑に処せられました。これが日本で初めての殉教事件です。のちに,カトリック教会がこの26人を聖人に列したことから,彼らは「日本26聖人」と呼ばれるようになりました。 カトリック本所教会の聖堂は,1880(明治13)年に建てられ日本26聖人に捧げられました。今も彼らが殉教した2月に「日本26聖人殉教祭」のミサが行われています。 また聖堂内には,殉教したフランシスコ会のスペイン人司祭ペドロ・バブチスタとメキシコ人修道士フェリペ・デ・ヘススの肖像画が掲げられています。
1623(元和9)年,江戸幕府3代将軍徳川家光の命により,イエズス会のデ・アンジェリス神父,フランシスコ会のガルベス神父をはじめ50人のキリスト教徒(キリシタン)が江戸市中引き回しの上,東海道の入口付近の丘で処刑されました。 このときキリシタンの中心人物として処刑された原主水(はらもんど)は,かつて家康に小姓として仕えていた人物です。 幕府は,初めキリスト教を黙認していましたが,1613(慶長18)年に禁教令を全国におよぼして以降,キリシタンに対する迫害を強めるようになったのです。1622(元和8)年には長崎で55人ものキリシタンが処刑されるという,日本のキリスト教迫害史上最大の殉教事件(「元和の大殉教」と呼ばれています)が起きていますが,この江戸での殉教事件はそれを受けてのことと考えられています。 現在,キリシタンの遺跡の碑があるのは,殉教地と推定されている場所です。

1623(元和9)年,江戸幕府3代将軍徳川家光の命により,イエズス会のデ・アンジェリス神父,フランシスコ会のガルベス神父をはじめ50人のキリスト教徒(キリシタン)が江戸市中引き回しの上,東海道の入口付近の丘で処刑されました。 このときキリシタンの中心人物として処刑された原主水(はらもんど)は,かつて家康に小姓として仕えていた人物です。 幕府は,初めキリスト教を黙認していましたが,1613(慶長18)年に禁教令を全国におよぼして以降,キリシタンに対する迫害を強めるようになったのです。1622(元和8)年には長崎で55人ものキリシタンが処刑されるという,日本のキリスト教迫害史上最大の殉教事件(「元和の大殉教」と呼ばれています)が起きていますが,この江戸での殉教事件はそれを受けてのことと考えられています。 現在,キリシタンの遺跡の碑があるのは,殉教地と推定されている場所です。
1632(元和9)年に,キリシタン50人が処刑された「江戸の大殉教」と呼ばれる事件が起きました。 殉教地近くにあるカトリック高輪教会の聖堂前庭に江戸の殉教者顕彰碑が建てられています。 この殉教地では「江戸の大殉教」事件のあと数年にわたって,女性や子ども,キリシタンをかくまった人々などおよそ1000人が処刑され,江戸全体では2000人近くの人々が殉教したといいます。 この顕彰碑はこれらの殉教者をたたえるため,「江戸の大殉教」があった地に建立された智福寺の境内に,カトリック信徒によって1956(昭和31)年に建てられたものですが,のちにカトリック高輪教会に移されました。 教会では毎年11月下旬に,江戸の殉教者を記念するミサが執り行われています。また,地階にある部屋には踏絵のレプリカや明治政府が出した「切支丹禁止令」の高札などが展示されています。

1632(元和9)年に,キリシタン50人が処刑された「江戸の大殉教」と呼ばれる事件が起きました。 殉教地近くにあるカトリック高輪教会の聖堂前庭に江戸の殉教者顕彰碑が建てられています。 この殉教地では「江戸の大殉教」事件のあと数年にわたって,女性や子ども,キリシタンをかくまった人々などおよそ1000人が処刑され,江戸全体では2000人近くの人々が殉教したといいます。 この顕彰碑はこれらの殉教者をたたえるため,「江戸の大殉教」があった地に建立された智福寺の境内に,カトリック信徒によって1956(昭和31)年に建てられたものですが,のちにカトリック高輪教会に移されました。 教会では毎年11月下旬に,江戸の殉教者を記念するミサが執り行われています。また,地階にある部屋には踏絵のレプリカや明治政府が出した「切支丹禁止令」の高札などが展示されています。
キリシタンを取り締まるため,信仰の対象であるイエス・キリストや聖母マリアの像が描かれた「踏絵」を踏ませる行為が絵踏です。もとは紙製でしたが,紙だとすぐに破れてしまうので,しだいに木製や金属製のものが利用されるようになりました。 絵踏は,1626(寛永3)年ころに長崎で行われたのが最初とされています。このころは,1622(元和8)年に長崎で55人ものキリシタンが処刑された元和の大殉教があり,1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されるなど,キリスト教に対する弾圧と警戒が強化されていく時期にあたっています。 九州諸藩で絵踏が厳しく行われるようになると,長崎奉行所では真鍮製の踏絵をつくらせて諸藩に貸し出しました。 その踏絵のほとんどが,現在は東京国立博物館に所蔵されていて年に数回本館で展示されています。それらを見ると表面がすっかり摩滅していて,多くの人々がこれを踏んだことがわかります。 実物はなかなか見られませんが,精巧につくられたレプリカがカトリック高輪教会(港区高輪4-7-1)の資料室で常設展示されています。

キリシタンを取り締まるため,信仰の対象であるイエス・キリストや聖母マリアの像が描かれた「踏絵」を踏ませる行為が絵踏です。もとは紙製でしたが,紙だとすぐに破れてしまうので,しだいに木製や金属製のものが利用されるようになりました。 絵踏は,1626(寛永3)年ころに長崎で行われたのが最初とされています。このころは,1622(元和8)年に長崎で55人ものキリシタンが処刑された元和の大殉教があり,1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されるなど,キリスト教に対する弾圧と警戒が強化されていく時期にあたっています。 九州諸藩で絵踏が厳しく行われるようになると,長崎奉行所では真鍮製の踏絵をつくらせて諸藩に貸し出しました。 その踏絵のほとんどが,現在は東京国立博物館に所蔵されていて年に数回本館で展示されています。それらを見ると表面がすっかり摩滅していて,多くの人々がこれを踏んだことがわかります。 実物はなかなか見られませんが,精巧につくられたレプリカがカトリック高輪教会(港区高輪4-7-1)の資料室で常設展示されています。
切支丹屋敷は,改宗したキリスト教宣教師(「転びバテレン」と呼ばれました)の収容所で,宗門改役として辣腕を振るった井上政重の下屋敷に1646(正保3)年に設けられました。 1724(享保9)年に焼失し,その後再建されないまま1792(寛政4)年に廃止されています。 収容者としては,イタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラや同ヨハン・シドッチが知られています。 1646(正保3)年に収容されたキアラは,棄教して岡本三右衛門と名乗りました。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルになった人物です。 シドッチは1708(宝永5)年に屋久島に潜入しましたが,すぐに捕らえられ切支丹屋敷に収容されました。新井白石はここでシドッチを審問し,その内容を『西洋紀聞』などに記しています。 2014(平成26)年の発掘調査でここから3体の人骨が出土しましたが,そのうちの1体はシドッチの可能性が高いとされています。 碑の左側には「八兵衛の夜泣石」が置かれています。この石には,改宗を拒んだ八兵衛を生き埋めにした場所に魂が昇天しないよう石を置いたが,夜になるとそこから泣き声が聞こえ,「八兵衛さん悲しかろう」と言うと返事をしたという言い伝えがあります。

切支丹屋敷は,改宗したキリスト教宣教師(「転びバテレン」と呼ばれました)の収容所で,宗門改役として辣腕を振るった井上政重の下屋敷に1646(正保3)年に設けられました。 1724(享保9)年に焼失し,その後再建されないまま1792(寛政4)年に廃止されています。 収容者としては,イタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラや同ヨハン・シドッチが知られています。 1646(正保3)年に収容されたキアラは,棄教して岡本三右衛門と名乗りました。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルになった人物です。 シドッチは1708(宝永5)年に屋久島に潜入しましたが,すぐに捕らえられ切支丹屋敷に収容されました。新井白石はここでシドッチを審問し,その内容を『西洋紀聞』などに記しています。 2014(平成26)年の発掘調査でここから3体の人骨が出土しましたが,そのうちの1体はシドッチの可能性が高いとされています。 碑の左側には「八兵衛の夜泣石」が置かれています。この石には,改宗を拒んだ八兵衛を生き埋めにした場所に魂が昇天しないよう石を置いたが,夜になるとそこから泣き声が聞こえ,「八兵衛さん悲しかろう」と言うと返事をしたという言い伝えがあります。
拓殖大学東門前の参道を上って行くと浄土宗の寺院・深光寺があります。 『南総里見八犬伝』を書いた曲亭馬琴の墓所として知られていますが,本堂に向かって右側には「キリシタン灯籠」がひっそりと立っています。火袋を支える竿石(胴または脚の部分)の上部が横に張り出した特徴ある形は,江戸時代初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したものとされ,普通には織部型灯籠と呼ばれています。 深光寺の灯籠は,竿石の形が十字架のようになっていて,アルファベットを組み合わせたような刻印があり,下部に刻まれた像もキリスト教の聖人に見えることから,隠れキリシタンたちが崇拝したキリシタン灯籠ではないかと考えられています。深光寺の近くに切支丹屋敷があったこともこれに関係しているかも知れません。

拓殖大学東門前の参道を上って行くと浄土宗の寺院・深光寺があります。 『南総里見八犬伝』を書いた曲亭馬琴の墓所として知られていますが,本堂に向かって右側には「キリシタン灯籠」がひっそりと立っています。火袋を支える竿石(胴または脚の部分)の上部が横に張り出した特徴ある形は,江戸時代初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したものとされ,普通には織部型灯籠と呼ばれています。 深光寺の灯籠は,竿石の形が十字架のようになっていて,アルファベットを組み合わせたような刻印があり,下部に刻まれた像もキリスト教の聖人に見えることから,隠れキリシタンたちが崇拝したキリシタン灯籠ではないかと考えられています。深光寺の近くに切支丹屋敷があったこともこれに関係しているかも知れません。
新宿御苑のすぐ近くに「江戸六地蔵」の一つ,銅造の地蔵菩薩像が鎮座する浄土宗大宗寺があります。 新宿御苑は江戸時代に信州高遠藩内藤家の下屋敷があったところで,甲州道中の宿場町だったこの一帯は内藤新宿と呼ばれていました。 大宗寺は内藤家の菩提寺でしたが,その内藤家の墓所から1952(昭和27)年に灯籠の竿石(笠や火袋を支える胴または脚)の部分が出土しました。 灯籠の形は,江戸初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したとされる竿石の上部が横に張り出した織部型で,下部には菩薩のような像が刻まれていました。この灯籠は,竿石が十字架を表し,彫像はマリア像を象徴したものと解釈されて「マリア観音」とも呼ばれ,隠れキリシタンが密かに礼拝したキリシタ灯籠であると見なされています。 信州高遠が,キリシタン大名として知られた京極高知(きょうごくたかとも)のかつての所領であったことと関係があるのかも知れません。 現在,灯籠は笠や火袋が復元されて庫裏の前に置かれています。

新宿御苑のすぐ近くに「江戸六地蔵」の一つ,銅造の地蔵菩薩像が鎮座する浄土宗大宗寺があります。 新宿御苑は江戸時代に信州高遠藩内藤家の下屋敷があったところで,甲州道中の宿場町だったこの一帯は内藤新宿と呼ばれていました。 大宗寺は内藤家の菩提寺でしたが,その内藤家の墓所から1952(昭和27)年に灯籠の竿石(笠や火袋を支える胴または脚)の部分が出土しました。 灯籠の形は,江戸初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したとされる竿石の上部が横に張り出した織部型で,下部には菩薩のような像が刻まれていました。この灯籠は,竿石が十字架を表し,彫像はマリア像を象徴したものと解釈されて「マリア観音」とも呼ばれ,隠れキリシタンが密かに礼拝したキリシタ灯籠であると見なされています。 信州高遠が,キリシタン大名として知られた京極高知(きょうごくたかとも)のかつての所領であったことと関係があるのかも知れません。 現在,灯籠は笠や火袋が復元されて庫裏の前に置かれています。
カトリック碑文谷教会の聖堂脇の入口から入ると,正面の祭壇の上に聖母マリアを描いた小さな聖画が飾られています。この聖画は,カルロ・ドルチ作の「親指の聖母」(悲しみの聖母)で,「江戸のサンタ・マリア」と呼ばれているもののレプリカです。 本物は,1708(宝永5)年,日本へのカトリック布教を目的に屋久島に潜入したイタリア人宣教師ヨハン・シドッチがイタリアから携えてきたものです。 シドッチはすぐに捕らえられ,江戸の切支丹屋敷に幽閉されて1714(正徳4)年にそこで病死しました。この間に儒学者新井白石の審問を受けています。 碑文谷教会の聖堂は1954(昭和29)年に完成しましたが,この年に,紛失したとされていた「親指の聖母」が東京国立博物館で発見されたことから聖堂はこの聖母に捧げられ,「江戸のサンタマリア聖堂」と呼ばれるようになりました。 本物の聖画は国の重要文化財として,東京国立博物館に所蔵されています。

カトリック碑文谷教会の聖堂脇の入口から入ると,正面の祭壇の上に聖母マリアを描いた小さな聖画が飾られています。この聖画は,カルロ・ドルチ作の「親指の聖母」(悲しみの聖母)で,「江戸のサンタ・マリア」と呼ばれているもののレプリカです。 本物は,1708(宝永5)年,日本へのカトリック布教を目的に屋久島に潜入したイタリア人宣教師ヨハン・シドッチがイタリアから携えてきたものです。 シドッチはすぐに捕らえられ,江戸の切支丹屋敷に幽閉されて1714(正徳4)年にそこで病死しました。この間に儒学者新井白石の審問を受けています。 碑文谷教会の聖堂は1954(昭和29)年に完成しましたが,この年に,紛失したとされていた「親指の聖母」が東京国立博物館で発見されたことから聖堂はこの聖母に捧げられ,「江戸のサンタマリア聖堂」と呼ばれるようになりました。 本物の聖画は国の重要文化財として,東京国立博物館に所蔵されています。
調布サレジオ神学院の構内に,笠がまるでキリスト教司祭の帽子のように見える変わった形の墓碑が建っています。高さ160㎝もあるこの墓碑は,イタリア・シチリア島生まれのイエズス会宣教師ジュゼッペ・キアラのものです。 キアラは,長崎で棄教したイエズス会のフェレイラ神父救出を目的として1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが,上陸直後に捕らえられ,1646(正保3)年,江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後キアラも棄教して岡本三右衛門と名乗り,キリシタンの吟味に協力したといわれます。妻や召使いまで与えられましたが幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死し,小石川無量院に葬られました。 この墓碑は,はじめ無量院に建てられていましたが,いくつかの所在地を転々としたのち現在地に安置されました。墓碑に刻まれている戒名は「入専(じゅせん)浄真信士」ですが,「入専」はジュゼッペからとったものとされています。 遠藤周作の歴史小説『沈黙』の主人公ロドリゴ神父は,このキアラ神父をモデルにして描かれています。
【東京に残るキリシタンゆかりの地】神学院の構内にある墓碑には「入専浄真信士」という戒名が刻まれています。キアラ神父とどのような関係があるのでしょうか?
調布サレジオ神学院の構内に,笠がまるでキリスト教司祭の帽子のように見える変わった形の墓碑が建っています。高さ160㎝もあるこの墓碑は,イタリア・シチリア島生まれのイエズス会宣教師ジュゼッペ・キアラのものです。 キアラは,長崎で棄教したイエズス会のフェレイラ神父救出を目的として1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが,上陸直後に捕らえられ,1646(正保3)年,江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後キアラも棄教して岡本三右衛門と名乗り,キリシタンの吟味に協力したといわれます。妻や召使いまで与えられましたが幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死し,小石川無量院に葬られました。 この墓碑は,はじめ無量院に建てられていましたが,いくつかの所在地を転々としたのち現在地に安置されました。墓碑に刻まれている戒名は「入専(じゅせん)浄真信士」ですが,「入専」はジュゼッペからとったものとされています。 遠藤周作の歴史小説『沈黙』の主人公ロドリゴ神父は,このキアラ神父をモデルにして描かれています。
小石川の伝通院は,徳川家康の生母・於大(おだい)の方や豊臣秀頼の正室だった孫娘・千姫の墓所であり,徳川将軍家の菩提寺としても知られる名刹です。この寺院の墓地の少し奥まったところにジュゼッペ・キアラ神父の供養碑が建てられています。 イエズス会のイタリア人宣教師キアラは,1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが捕らえられ,1646(正保3)年に江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後,棄教して岡本三右衛門と名乗り妻や召使いまで与えられましたが,幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死しました。 遺体は,キリスト教にはありえない火葬にされ,伝通院の北にあった小石川無量院に葬られました。この無量院が廃寺になったため,1977(昭和52)年に地元有志によって無量院に隣接していた伝通院に本来の墓碑に似せた供養碑が建立されたとみられます。 供養碑には,墓碑と同じく「入専浄真信士」という戒名が刻まれた碑と,その傍らに立つ「ジョセフ岡本三右衛門神父供養碑」という銘と当時の駐日イタリア大使の言葉が刻まれた碑の二つがあります。

小石川の伝通院は,徳川家康の生母・於大(おだい)の方や豊臣秀頼の正室だった孫娘・千姫の墓所であり,徳川将軍家の菩提寺としても知られる名刹です。この寺院の墓地の少し奥まったところにジュゼッペ・キアラ神父の供養碑が建てられています。 イエズス会のイタリア人宣教師キアラは,1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが捕らえられ,1646(正保3)年に江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後,棄教して岡本三右衛門と名乗り妻や召使いまで与えられましたが,幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死しました。 遺体は,キリスト教にはありえない火葬にされ,伝通院の北にあった小石川無量院に葬られました。この無量院が廃寺になったため,1977(昭和52)年に地元有志によって無量院に隣接していた伝通院に本来の墓碑に似せた供養碑が建立されたとみられます。 供養碑には,墓碑と同じく「入専浄真信士」という戒名が刻まれた碑と,その傍らに立つ「ジョセフ岡本三右衛門神父供養碑」という銘と当時の駐日イタリア大使の言葉が刻まれた碑の二つがあります。