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江戸幕府の鎖国政策の下,日本が交流をもったヨーロッパの国はオランダ一国だけでした。ただし,オランダが許されていたのは貿易だけでしたので「通商の国」と呼ばれていました。 オランダは,長崎の出島に東インド会社の支店として商館を置き貿易の拠点としました。その最高責任者がカピタンと呼ばれた商館長です。 カピタンは,御礼言上のため年に一度(のちに4年に一度)江戸に参府して海外情勢を記した『オランダ風説書』を幕府に提出し,あわせて将軍に拝謁することになっていました。この江戸参府の際に,カピタン一行の定宿(阿蘭陀宿)とされていたのが長崎屋です。長崎屋は,現在の日本橋室町,当時の日本橋石町(こくちょう)に大店を構えていた薬種問屋でした。 カピタン一行には,通訳や医師,学者などが随行してきていたので,彼らの滞在中は,ヨーロッパの進んだ技術や知識を得ようとして幕府の天文方をはじめ江戸の医者や蘭学者たちが長崎屋につめかけました。平賀源内や杉田玄白もその中の一人です。 また,物見高い江戸の庶民も大勢集まってきたといいます。長崎屋は,江戸唯一のヨーロッパ人との交流の場となっていたのです。

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