
ここがあの場所!身近な場所の歴史

実は、街なかには隠れた歴史的名所がたくさん!旅先だけでなく、近所の散歩でも意外な名所が見つかるかも?!歴史の勉強や小学生の自由研究にもおすすめです。紹介されていないスポットを見つけたら、みんなで登録して共有しよう!
関連するめっけブック
関連するめっけブック
紹介スポット
- 8106件上智大学は,キリスト教カトリック教会の男子修道会の一つイエズス会を設立母体としています。 イエズス会は,1534年にイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによってパリで結成され,1540年にローマ教皇の認可を受けました。ロヨラは,スペインのバスク地方出身で,イエズス会の初代総長を務めた人物です。 当時は宗教改革のさなかでしたが,イエズス会はこれに抗して世界各地へのカトリック布教を進めました。ザビエルが初めて日本にキリスト教を伝えたのも,こうした動きの一つに位置付けられます。 イエズス会は,日本でもコレジオ(宣教師養成学校)やセミナリオ(神学校)を開設して布教に努めるとともに,東西の文化交流の一翼を担いました。 ロヨラの像は,上智大学構内にある明治時代後期に竣工したクルトゥルハイム聖堂の前に建てられています。

上智大学は,キリスト教カトリック教会の男子修道会の一つイエズス会を設立母体としています。 イエズス会は,1534年にイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによってパリで結成され,1540年にローマ教皇の認可を受けました。ロヨラは,スペインのバスク地方出身で,イエズス会の初代総長を務めた人物です。 当時は宗教改革のさなかでしたが,イエズス会はこれに抗して世界各地へのカトリック布教を進めました。ザビエルが初めて日本にキリスト教を伝えたのも,こうした動きの一つに位置付けられます。 イエズス会は,日本でもコレジオ(宣教師養成学校)やセミナリオ(神学校)を開設して布教に努めるとともに,東西の文化交流の一翼を担いました。 ロヨラの像は,上智大学構内にある明治時代後期に竣工したクルトゥルハイム聖堂の前に建てられています。
JR錦糸町駅から徒歩15分ほど,墨田区にあるカトリック東京大司教区本所教会の聖堂は「日本26聖人殉教者聖堂」と呼ばれています。 日本でのキリスト教に対する弾圧は,1587(天正15)年に豊臣秀吉が出したバテレン追放令からはじまります。バテレンとはカトリックの宣教師のことです。 1597(慶長元)年には,捕らえられたカトリック教会フランシスコ会の司祭・修道士・信徒26人が,秀吉の命令によって長崎西坂の丘で磔の刑に処せられました。これが日本で初めての殉教事件です。のちに,カトリック教会がこの26人を聖人に列したことから,彼らは「日本26聖人」と呼ばれるようになりました。 カトリック本所教会の聖堂は,1880(明治13)年に建てられ日本26聖人に捧げられました。今も彼らが殉教した2月に「日本26聖人殉教祭」のミサが行われています。 また聖堂内には,殉教したフランシスコ会のスペイン人司祭ペドロ・バブチスタとメキシコ人修道士フェリペ・デ・ヘススの肖像画が掲げられています。

JR錦糸町駅から徒歩15分ほど,墨田区にあるカトリック東京大司教区本所教会の聖堂は「日本26聖人殉教者聖堂」と呼ばれています。 日本でのキリスト教に対する弾圧は,1587(天正15)年に豊臣秀吉が出したバテレン追放令からはじまります。バテレンとはカトリックの宣教師のことです。 1597(慶長元)年には,捕らえられたカトリック教会フランシスコ会の司祭・修道士・信徒26人が,秀吉の命令によって長崎西坂の丘で磔の刑に処せられました。これが日本で初めての殉教事件です。のちに,カトリック教会がこの26人を聖人に列したことから,彼らは「日本26聖人」と呼ばれるようになりました。 カトリック本所教会の聖堂は,1880(明治13)年に建てられ日本26聖人に捧げられました。今も彼らが殉教した2月に「日本26聖人殉教祭」のミサが行われています。 また聖堂内には,殉教したフランシスコ会のスペイン人司祭ペドロ・バブチスタとメキシコ人修道士フェリペ・デ・ヘススの肖像画が掲げられています。
キリシタンを取り締まるため,信仰の対象であるイエス・キリストや聖母マリアの像が描かれた「踏絵」を踏ませる行為が絵踏です。もとは紙製でしたが,紙だとすぐに破れてしまうので,しだいに木製や金属製のものが利用されるようになりました。 絵踏は,1626(寛永3)年ころに長崎で行われたのが最初とされています。このころは,1622(元和8)年に長崎で55人ものキリシタンが処刑された元和の大殉教があり,1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されるなど,キリスト教に対する弾圧と警戒が強化されていく時期にあたっています。 九州諸藩で絵踏が厳しく行われるようになると,長崎奉行所では真鍮製の踏絵をつくらせて諸藩に貸し出しました。 その踏絵のほとんどが,現在は東京国立博物館に所蔵されていて年に数回本館で展示されています。それらを見ると表面がすっかり摩滅していて,多くの人々がこれを踏んだことがわかります。 実物はなかなか見られませんが,精巧につくられたレプリカがカトリック高輪教会(港区高輪4-7-1)の資料室で常設展示されています。

キリシタンを取り締まるため,信仰の対象であるイエス・キリストや聖母マリアの像が描かれた「踏絵」を踏ませる行為が絵踏です。もとは紙製でしたが,紙だとすぐに破れてしまうので,しだいに木製や金属製のものが利用されるようになりました。 絵踏は,1626(寛永3)年ころに長崎で行われたのが最初とされています。このころは,1622(元和8)年に長崎で55人ものキリシタンが処刑された元和の大殉教があり,1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されるなど,キリスト教に対する弾圧と警戒が強化されていく時期にあたっています。 九州諸藩で絵踏が厳しく行われるようになると,長崎奉行所では真鍮製の踏絵をつくらせて諸藩に貸し出しました。 その踏絵のほとんどが,現在は東京国立博物館に所蔵されていて年に数回本館で展示されています。それらを見ると表面がすっかり摩滅していて,多くの人々がこれを踏んだことがわかります。 実物はなかなか見られませんが,精巧につくられたレプリカがカトリック高輪教会(港区高輪4-7-1)の資料室で常設展示されています。
切支丹屋敷は,改宗したキリスト教宣教師(「転びバテレン」と呼ばれました)の収容所で,宗門改役として辣腕を振るった井上政重の下屋敷に1646(正保3)年に設けられました。 1724(享保9)年に焼失し,その後再建されないまま1792(寛政4)年に廃止されています。 収容者としては,イタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラや同ヨハン・シドッチが知られています。 1646(正保3)年に収容されたキアラは,棄教して岡本三右衛門と名乗りました。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルになった人物です。 シドッチは1708(宝永5)年に屋久島に潜入しましたが,すぐに捕らえられ切支丹屋敷に収容されました。新井白石はここでシドッチを審問し,その内容を『西洋紀聞』などに記しています。 2014(平成26)年の発掘調査でここから3体の人骨が出土しましたが,そのうちの1体はシドッチの可能性が高いとされています。 碑の左側には「八兵衛の夜泣石」が置かれています。この石には,改宗を拒んだ八兵衛を生き埋めにした場所に魂が昇天しないよう石を置いたが,夜になるとそこから泣き声が聞こえ,「八兵衛さん悲しかろう」と言うと返事をしたという言い伝えがあります。

切支丹屋敷は,改宗したキリスト教宣教師(「転びバテレン」と呼ばれました)の収容所で,宗門改役として辣腕を振るった井上政重の下屋敷に1646(正保3)年に設けられました。 1724(享保9)年に焼失し,その後再建されないまま1792(寛政4)年に廃止されています。 収容者としては,イタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラや同ヨハン・シドッチが知られています。 1646(正保3)年に収容されたキアラは,棄教して岡本三右衛門と名乗りました。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルになった人物です。 シドッチは1708(宝永5)年に屋久島に潜入しましたが,すぐに捕らえられ切支丹屋敷に収容されました。新井白石はここでシドッチを審問し,その内容を『西洋紀聞』などに記しています。 2014(平成26)年の発掘調査でここから3体の人骨が出土しましたが,そのうちの1体はシドッチの可能性が高いとされています。 碑の左側には「八兵衛の夜泣石」が置かれています。この石には,改宗を拒んだ八兵衛を生き埋めにした場所に魂が昇天しないよう石を置いたが,夜になるとそこから泣き声が聞こえ,「八兵衛さん悲しかろう」と言うと返事をしたという言い伝えがあります。
拓殖大学東門前の参道を上って行くと浄土宗の寺院・深光寺があります。 『南総里見八犬伝』を書いた曲亭馬琴の墓所として知られていますが,本堂に向かって右側には「キリシタン灯籠」がひっそりと立っています。火袋を支える竿石(胴または脚の部分)の上部が横に張り出した特徴ある形は,江戸時代初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したものとされ,普通には織部型灯籠と呼ばれています。 深光寺の灯籠は,竿石の形が十字架のようになっていて,アルファベットを組み合わせたような刻印があり,下部に刻まれた像もキリスト教の聖人に見えることから,隠れキリシタンたちが崇拝したキリシタン灯籠ではないかと考えられています。深光寺の近くに切支丹屋敷があったこともこれに関係しているかも知れません。

拓殖大学東門前の参道を上って行くと浄土宗の寺院・深光寺があります。 『南総里見八犬伝』を書いた曲亭馬琴の墓所として知られていますが,本堂に向かって右側には「キリシタン灯籠」がひっそりと立っています。火袋を支える竿石(胴または脚の部分)の上部が横に張り出した特徴ある形は,江戸時代初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したものとされ,普通には織部型灯籠と呼ばれています。 深光寺の灯籠は,竿石の形が十字架のようになっていて,アルファベットを組み合わせたような刻印があり,下部に刻まれた像もキリスト教の聖人に見えることから,隠れキリシタンたちが崇拝したキリシタン灯籠ではないかと考えられています。深光寺の近くに切支丹屋敷があったこともこれに関係しているかも知れません。
新宿御苑のすぐ近くに「江戸六地蔵」の一つ,銅造の地蔵菩薩像が鎮座する浄土宗大宗寺があります。 新宿御苑は江戸時代に信州高遠藩内藤家の下屋敷があったところで,甲州道中の宿場町だったこの一帯は内藤新宿と呼ばれていました。 大宗寺は内藤家の菩提寺でしたが,その内藤家の墓所から1952(昭和27)年に灯籠の竿石(笠や火袋を支える胴または脚)の部分が出土しました。 灯籠の形は,江戸初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したとされる竿石の上部が横に張り出した織部型で,下部には菩薩のような像が刻まれていました。この灯籠は,竿石が十字架を表し,彫像はマリア像を象徴したものと解釈されて「マリア観音」とも呼ばれ,隠れキリシタンが密かに礼拝したキリシタ灯籠であると見なされています。 信州高遠が,キリシタン大名として知られた京極高知(きょうごくたかとも)のかつての所領であったことと関係があるのかも知れません。 現在,灯籠は笠や火袋が復元されて庫裏の前に置かれています。

新宿御苑のすぐ近くに「江戸六地蔵」の一つ,銅造の地蔵菩薩像が鎮座する浄土宗大宗寺があります。 新宿御苑は江戸時代に信州高遠藩内藤家の下屋敷があったところで,甲州道中の宿場町だったこの一帯は内藤新宿と呼ばれていました。 大宗寺は内藤家の菩提寺でしたが,その内藤家の墓所から1952(昭和27)年に灯籠の竿石(笠や火袋を支える胴または脚)の部分が出土しました。 灯籠の形は,江戸初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したとされる竿石の上部が横に張り出した織部型で,下部には菩薩のような像が刻まれていました。この灯籠は,竿石が十字架を表し,彫像はマリア像を象徴したものと解釈されて「マリア観音」とも呼ばれ,隠れキリシタンが密かに礼拝したキリシタ灯籠であると見なされています。 信州高遠が,キリシタン大名として知られた京極高知(きょうごくたかとも)のかつての所領であったことと関係があるのかも知れません。 現在,灯籠は笠や火袋が復元されて庫裏の前に置かれています。
東京メトロ永田町駅から0分の東京ガーデンテラス紀尾井町。 そこにある「赤坂プリンスクラシックハウス」は,朝鮮の李(り)王家東京邸として1930(昭和5)に建てられたものです。 大韓帝国(1897・明治30年から朝鮮は「大韓帝国」を国号としています)最後の皇帝純宗(じゅんそう)の皇太子だった李垠は,その妻方子(まさこ)とこの邸宅で暮らしていました。 李垠は,1907(明治40)年,10歳のときに留学の名目で来日しました。 1910(明治43)年の日韓併合によって父・純宗らとともに,朝鮮王族として日本の皇族に準じる待遇を受けるようになります。 その後,陸軍中央幼年学校や陸軍士官学校で学び,太平洋戦争中には陸軍中将,軍事参議官にもなっています。 梨本宮守正(なしもとのみやもりまさ)の第一王女方子と結婚したのは1920(大正9)年のことで,「日鮮融和」「内鮮一体」を標榜する日本政府の政略によるものといいます。 塔屋付の鉄筋コンクリート造一部木造2階建ての邸宅は,宮内省内匠寮(たくみりょう)の設計で,外観は窓や正面車寄せにみられるアーチを特徴とするイギリスのチュダー様式を基調としています。

東京メトロ永田町駅から0分の東京ガーデンテラス紀尾井町。 そこにある「赤坂プリンスクラシックハウス」は,朝鮮の李(り)王家東京邸として1930(昭和5)に建てられたものです。 大韓帝国(1897・明治30年から朝鮮は「大韓帝国」を国号としています)最後の皇帝純宗(じゅんそう)の皇太子だった李垠は,その妻方子(まさこ)とこの邸宅で暮らしていました。 李垠は,1907(明治40)年,10歳のときに留学の名目で来日しました。 1910(明治43)年の日韓併合によって父・純宗らとともに,朝鮮王族として日本の皇族に準じる待遇を受けるようになります。 その後,陸軍中央幼年学校や陸軍士官学校で学び,太平洋戦争中には陸軍中将,軍事参議官にもなっています。 梨本宮守正(なしもとのみやもりまさ)の第一王女方子と結婚したのは1920(大正9)年のことで,「日鮮融和」「内鮮一体」を標榜する日本政府の政略によるものといいます。 塔屋付の鉄筋コンクリート造一部木造2階建ての邸宅は,宮内省内匠寮(たくみりょう)の設計で,外観は窓や正面車寄せにみられるアーチを特徴とするイギリスのチュダー様式を基調としています。
儒教の経典として知られる『論語』,子どもに漢字を教えたり,書の手本とするために1000の異なる文字を使ってつくられた漢詩『千字文(せんじもん)』。『古事記』・『日本書紀』には,これらを初めて日本に伝えたのは王仁博士だと記されています。 王仁は,5世紀の初め,応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から渡来した学者で,朝廷の文書作成などを担当した書(文)首(ふみのおびと)らの祖となった人物と伝えられています。「博士王仁碑」は,1940(昭和15)年に建てられたもので,王仁の業績を顕彰する文が刻まれています。 この場所に石碑が建てられたのは,江戸時代に徳川家康をはじめ4代の将軍に仕えた儒学者林羅山が,現在の上野公園一帯にあたる上野忍岡に私塾と孔子廟を設けたということを踏まえてのことと推測されます。建立の発起人は朝鮮人趙洛奎(ジョナクギュ)ですが,主唱者・協賛者には哲学者井上哲次郎,元首相近衛文麿らそうそうたる人物が名を連ねています。 碑の傍らにある王仁の肖像碑(「王仁博士青銅刻画碑」)は,社団法人韓日文化親善協会が創立40周年記念事業の一環として2016(平成28)年に建てたものです。

儒教の経典として知られる『論語』,子どもに漢字を教えたり,書の手本とするために1000の異なる文字を使ってつくられた漢詩『千字文(せんじもん)』。『古事記』・『日本書紀』には,これらを初めて日本に伝えたのは王仁博士だと記されています。 王仁は,5世紀の初め,応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から渡来した学者で,朝廷の文書作成などを担当した書(文)首(ふみのおびと)らの祖となった人物と伝えられています。「博士王仁碑」は,1940(昭和15)年に建てられたもので,王仁の業績を顕彰する文が刻まれています。 この場所に石碑が建てられたのは,江戸時代に徳川家康をはじめ4代の将軍に仕えた儒学者林羅山が,現在の上野公園一帯にあたる上野忍岡に私塾と孔子廟を設けたということを踏まえてのことと推測されます。建立の発起人は朝鮮人趙洛奎(ジョナクギュ)ですが,主唱者・協賛者には哲学者井上哲次郎,元首相近衛文麿らそうそうたる人物が名を連ねています。 碑の傍らにある王仁の肖像碑(「王仁博士青銅刻画碑」)は,社団法人韓日文化親善協会が創立40周年記念事業の一環として2016(平成28)年に建てたものです。
1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で挙兵した源頼朝。10月2日に三万騎を率いて太井川(現在の江戸川)・隅田川を渡って武蔵国に入った。その折、浅草寺を参拝し、平家討滅祈願を行ったのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/asakusa/sen...


1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で挙兵した源頼朝。10月2日に三万騎を率いて太井川(現在の江戸川)・隅田川を渡って武蔵国に入った。その折、浅草寺を参拝し、平家討滅祈願を行ったのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/asakusa/sen...

法隆寺宝物館には,法隆寺に伝来した300件あまりの宝物が収蔵・展示されています。 入館すると最初に出会うのが,1階フロアに整然と展示された小型の金銅製仏像群。これらが「四十八体仏」と呼ばれる,7世紀前半から8世紀前半に制作された典型的な飛鳥・白鳳文化期の仏像です。 なかには,鞍作鳥(くらつくりのとり)=止利仏師の工房でつくられたとみられる飛鳥時代の仏像もあります。鞍作鳥は渡来人系の仏師で,6世紀に朝鮮半島から渡来したと考えられている司馬達等(しばたつと)の孫と伝えられています。推古天皇の時代に活躍し,法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊像などを制作しました。 鞍作鳥の工房でつくられた仏像には,正面から観ることを重視した姿や面長な顔立ちにアーモンド形(または杏仁形)の目,アルカイックスマイルといわれる微笑んでいるような口元といった特徴があります。このような特徴をもつ仏像は,古代中国の南北朝文化の影響を受けた北魏(ほくぎ)様式の仏像とされています。また,それ以外の多くの仏像の制作にも渡来人系の仏師が関わっていたと考えられています。

法隆寺宝物館には,法隆寺に伝来した300件あまりの宝物が収蔵・展示されています。 入館すると最初に出会うのが,1階フロアに整然と展示された小型の金銅製仏像群。これらが「四十八体仏」と呼ばれる,7世紀前半から8世紀前半に制作された典型的な飛鳥・白鳳文化期の仏像です。 なかには,鞍作鳥(くらつくりのとり)=止利仏師の工房でつくられたとみられる飛鳥時代の仏像もあります。鞍作鳥は渡来人系の仏師で,6世紀に朝鮮半島から渡来したと考えられている司馬達等(しばたつと)の孫と伝えられています。推古天皇の時代に活躍し,法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊像などを制作しました。 鞍作鳥の工房でつくられた仏像には,正面から観ることを重視した姿や面長な顔立ちにアーモンド形(または杏仁形)の目,アルカイックスマイルといわれる微笑んでいるような口元といった特徴があります。このような特徴をもつ仏像は,古代中国の南北朝文化の影響を受けた北魏(ほくぎ)様式の仏像とされています。また,それ以外の多くの仏像の制作にも渡来人系の仏師が関わっていたと考えられています。