
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

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- 1088件碑の説明文によれば、柿本人麻呂が高津の鴨島で没した際、人麻呂が生前に彫った木像を安置する祠が建てられたといいます。万寿地震の大津波で鴨島は水没しましたが、木像は祠の傍らにあった二股の松の大木に乗って松林に漂着。まさに松の霊力によって助けられたことから、この地を松崎(松佐起)と呼ぶようになったといいます。


碑の説明文によれば、柿本人麻呂が高津の鴨島で没した際、人麻呂が生前に彫った木像を安置する祠が建てられたといいます。万寿地震の大津波で鴨島は水没しましたが、木像は祠の傍らにあった二股の松の大木に乗って松林に漂着。まさに松の霊力によって助けられたことから、この地を松崎(松佐起)と呼ぶようになったといいます。

碑の説明文によれば、「この石碑はマグニチュード8・4の安政南海地震の被災状況から得られた教訓と百年もすれば巨大地震がまた起きるということを後世に残すために建てられた」とあります。また、地震発生時には冷静に火の始末をすることなどの教訓も碑文に込められているといいます。


碑の説明文によれば、「この石碑はマグニチュード8・4の安政南海地震の被災状況から得られた教訓と百年もすれば巨大地震がまた起きるということを後世に残すために建てられた」とあります。また、地震発生時には冷静に火の始末をすることなどの教訓も碑文に込められているといいます。

碑文には昭和南海地震で52人が犠牲となり、家屋1774棟が被害を受けたことを伝えているほか、津波については、「地震がやんでから約10分で第1波、その後数回おしよせた。2回目が一番大きかった。海水が下から膨れ上がるように見え、次第に水位がたかまり、強い流れを生じ、ごうごうとおしよせてきた」と記しています


碑文には昭和南海地震で52人が犠牲となり、家屋1774棟が被害を受けたことを伝えているほか、津波については、「地震がやんでから約10分で第1波、その後数回おしよせた。2回目が一番大きかった。海水が下から膨れ上がるように見え、次第に水位がたかまり、強い流れを生じ、ごうごうとおしよせてきた」と記しています

石碑は激しい揺れと家屋の倒壊、火災、液状化と津波による田畑の冠水の状況が克明に記しています。その碑文には、海に浮かぶ商い船はくだけて陸に揚がり、巨大な松杉も根元から抜けて海に漂ったこと、人々は家を失い、財産を失い、寒中、多くが飢えて苦しんだとも記されています。


石碑は激しい揺れと家屋の倒壊、火災、液状化と津波による田畑の冠水の状況が克明に記しています。その碑文には、海に浮かぶ商い船はくだけて陸に揚がり、巨大な松杉も根元から抜けて海に漂ったこと、人々は家を失い、財産を失い、寒中、多くが飢えて苦しんだとも記されています。

碑は高さ1㍍30㌢ほど。円筒形をしており、表面には大きく「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれていほか、碑の周りには地震の状況が記されています。この碑は宝永地震と安政元年に発生した安政地震に伴う津波による犠牲者の追善と被害の教訓を後世に伝えるため、津波の潮先に近いこの地に建立されたものだといいます。


碑は高さ1㍍30㌢ほど。円筒形をしており、表面には大きく「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれていほか、碑の周りには地震の状況が記されています。この碑は宝永地震と安政元年に発生した安政地震に伴う津波による犠牲者の追善と被害の教訓を後世に伝えるため、津波の潮先に近いこの地に建立されたものだといいます。

碑文は、「昭和三十五年のチリ津波は幸い死者は無かったが堀川が高潮で家屋四千余が浸水し損害は八億円に達した。度重なる津波による惨害にかんがみ須崎市はこのたび港湾に堅固な防波堤をめぐらし、さらに常に災害の誘引となった堀川を埋め立てて自今の備えと万一に際し市民の城山避難の安全を期した」と記されています。


碑文は、「昭和三十五年のチリ津波は幸い死者は無かったが堀川が高潮で家屋四千余が浸水し損害は八億円に達した。度重なる津波による惨害にかんがみ須崎市はこのたび港湾に堅固な防波堤をめぐらし、さらに常に災害の誘引となった堀川を埋め立てて自今の備えと万一に際し市民の城山避難の安全を期した」と記されています。

安政南海地震は1854年に発生し、紀伊地方から四国南岸を大きな揺れと津波に巻き込みました。碑文は歳月がたち、海からの風や雨で風化してますが、「大地震」「二丈」といった文字が読めます。二丈とは約6㍍の意味で、津波が押し寄せたことを伝えています。


安政南海地震は1854年に発生し、紀伊地方から四国南岸を大きな揺れと津波に巻き込みました。碑文は歳月がたち、海からの風や雨で風化してますが、「大地震」「二丈」といった文字が読めます。二丈とは約6㍍の意味で、津波が押し寄せたことを伝えています。

碑文は佐賀県内でも激しい揺れがあったことを伝え、「鳥栖地方も震度5強を観測するなど建物を揺さぶる大地震を経験した人々の多くは、時間の経過とともに、その恐ろしさを噛み締めた。この地震で、菅原神社境内に建立の鳥居のうち一基(昭和十二年奉納)が倒壊した」として、地震の恐ろしさを啓発しています。

碑文は佐賀県内でも激しい揺れがあったことを伝え、「鳥栖地方も震度5強を観測するなど建物を揺さぶる大地震を経験した人々の多くは、時間の経過とともに、その恐ろしさを噛み締めた。この地震で、菅原神社境内に建立の鳥居のうち一基(昭和十二年奉納)が倒壊した」として、地震の恐ろしさを啓発しています。

説明文によれば「二百年前は、この辺りは水頭と呼ばれ島原内港の船着き場として城下第一の繁華街でした。寛政四年に津波の直撃を受け、被害が大きく多くの町人が亡くなりました」とあります。


説明文によれば「二百年前は、この辺りは水頭と呼ばれ島原内港の船着き場として城下第一の繁華街でした。寛政四年に津波の直撃を受け、被害が大きく多くの町人が亡くなりました」とあります。
