
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
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- 1088件碑文には「飯岡地区沿岸部一帯においては、大津波が数回にわたり来襲し、未曽有の被害がもたらされました。(中略)、この津波被災を将来にわたり忘れ去られることのない教訓として後世に伝えるために、来襲した津波の高さを示すモニュメントを設置し保存する」とあります。石碑の基底部はタイムカプセルも設置されています。


碑文には「飯岡地区沿岸部一帯においては、大津波が数回にわたり来襲し、未曽有の被害がもたらされました。(中略)、この津波被災を将来にわたり忘れ去られることのない教訓として後世に伝えるために、来襲した津波の高さを示すモニュメントを設置し保存する」とあります。石碑の基底部はタイムカプセルも設置されています。

碑文は過去の地震で村が流失したことから高台移転したとの前文で始まっています。一方、そうした話は昔話に過ぎないと油断していたことで溺死者11人、家屋411戸などの被害が出たとも。


碑文は過去の地震で村が流失したことから高台移転したとの前文で始まっています。一方、そうした話は昔話に過ぎないと油断していたことで溺死者11人、家屋411戸などの被害が出たとも。

安政南海地震は1854年12月24日、南海トラフを震源とするマグニチュード8・4の巨大地震。碑は犠牲者を供養し、津波災害の状況を後世に伝え警告するために町人一同によって建立されたもので、無縁仏を弔った塔の最上部に建てられています。

安政南海地震は1854年12月24日、南海トラフを震源とするマグニチュード8・4の巨大地震。碑は犠牲者を供養し、津波災害の状況を後世に伝え警告するために町人一同によって建立されたもので、無縁仏を弔った塔の最上部に建てられています。

碑文は阪神・淡路大震災のもので、「神戸港の被災状況やその復興の過程を中心に大震災の教訓と港の重要性、さらに国内外の多くの人が一体となって港の復旧、復興に努めた様子を後世に伝える」と記されています。


碑文は阪神・淡路大震災のもので、「神戸港の被災状況やその復興の過程を中心に大震災の教訓と港の重要性、さらに国内外の多くの人が一体となって港の復旧、復興に努めた様子を後世に伝える」と記されています。

碑文は、「科学万能の思想に安定を委ねてきた物質社会は予想せざる自然の脅威に抗しきれなかった。釈尊の『常あるものなし』の教えが現代に於ても真実あることを知らされたのである。」とあり、物故者の追悼を祈念しています。


碑文は、「科学万能の思想に安定を委ねてきた物質社会は予想せざる自然の脅威に抗しきれなかった。釈尊の『常あるものなし』の教えが現代に於ても真実あることを知らされたのである。」とあり、物故者の追悼を祈念しています。

この石碑の高さは2㍍9㌢。これ、実は故ジャイアント馬場さんの背の高さで、全日本プロレスが寄贈したもの。石碑横には神戸の詩人、安永稔和氏の「これは」という詩が付されています。


この石碑の高さは2㍍9㌢。これ、実は故ジャイアント馬場さんの背の高さで、全日本プロレスが寄贈したもの。石碑横には神戸の詩人、安永稔和氏の「これは」という詩が付されています。

このモニュメントは、横たわった石の先端が兵庫県南部地震の震源地を指し、つぶれた部分が地震の力の大きさを、垂直に立つ石が明日への希望を表しています。碑文の下にはタイムカプセルが埋められ小学生のメッセージなどが納められているそうです。


このモニュメントは、横たわった石の先端が兵庫県南部地震の震源地を指し、つぶれた部分が地震の力の大きさを、垂直に立つ石が明日への希望を表しています。碑文の下にはタイムカプセルが埋められ小学生のメッセージなどが納められているそうです。

球体を囲むように天に向かって伸びる4本の柱と、その内側には長さの異なる9本の黒い石柱。4本の柱は大空に向けた両親の手をイメージしたもので大宇宙に届けとの願いを、また、9本の柱は人としての成長の過程を表しているのと同時に不幸にして亡くなった人々を表現しているといいます。


球体を囲むように天に向かって伸びる4本の柱と、その内側には長さの異なる9本の黒い石柱。4本の柱は大空に向けた両親の手をイメージしたもので大宇宙に届けとの願いを、また、9本の柱は人としての成長の過程を表しているのと同時に不幸にして亡くなった人々を表現しているといいます。

「昔 この位置に峠道あり」で始まる碑文は、「宝永(西暦1707年)の津波は右からの波と左からの波が、ここで打ち合ったという」とあり、2方向から来た津波が海抜12㍍ほどのこの峠で合流したことを告げています。


「昔 この位置に峠道あり」で始まる碑文は、「宝永(西暦1707年)の津波は右からの波と左からの波が、ここで打ち合ったという」とあり、2方向から来た津波が海抜12㍍ほどのこの峠で合流したことを告げています。

1854年の安政南海地震津波で壊滅的被害を受けた広村。梧陵が地震後、私財を投げ打って堤防を築きました。この堤防は昭和南海地震でも背後の村を守り、現在も「広村堤防」と呼ばれて地域の住民に親しまれています。


1854年の安政南海地震津波で壊滅的被害を受けた広村。梧陵が地震後、私財を投げ打って堤防を築きました。この堤防は昭和南海地震でも背後の村を守り、現在も「広村堤防」と呼ばれて地域の住民に親しまれています。
