
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
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紹介スポット
- 1088件門構えに水の字をあてて閖上(ゆりあげ)と読みます。ここに昭和8年(1933年)の昭和三陸地震津波の石碑が残っています。「昭和八年三月三日午前二時三十分突如強震アリ」で始まる碑文には、地震が収まった約40分後、海鳴りとともに津波が襲来。漁船が畑に押し上げられたことなどが記されています。平時からの用心、怠るべからず。(「石碑は語る」より)

門構えに水の字をあてて閖上(ゆりあげ)と読みます。ここに昭和8年(1933年)の昭和三陸地震津波の石碑が残っています。「昭和八年三月三日午前二時三十分突如強震アリ」で始まる碑文には、地震が収まった約40分後、海鳴りとともに津波が襲来。漁船が畑に押し上げられたことなどが記されています。平時からの用心、怠るべからず。(「石碑は語る」より)

江戸時代の天保4年(1833年)の冬に発生した庄内沖地震の碑。古文書によれば、この地震で家は潰れ、田や道筋は裂けて水が噴き出し、新潟辺りでも津波が押し寄せたといいます。堅苔沢での津波は高さ3丈(約9㍍)に達し、沿岸の村と人々をのみ込んでいきました。古い碑の横には、東日本大震災を機に地震津波の恐ろしさを伝えるために新たな碑が建立されました。(「石碑は語る」より)

江戸時代の天保4年(1833年)の冬に発生した庄内沖地震の碑。古文書によれば、この地震で家は潰れ、田や道筋は裂けて水が噴き出し、新潟辺りでも津波が押し寄せたといいます。堅苔沢での津波は高さ3丈(約9㍍)に達し、沿岸の村と人々をのみ込んでいきました。古い碑の横には、東日本大震災を機に地震津波の恐ろしさを伝えるために新たな碑が建立されました。(「石碑は語る」より)

「阿波の鳴戸か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」と、昔から海の難所と言われてきた銚子。河口付近では荒れた波が立ちやすく、熟練の漁師たちを悩ませてきました。慶長19年(1614年)、対岸の鹿島灘へ漁に出た彼らを大津波が襲ったのです。一説には、相模や紀伊にかけての地震による津波ともいわれ、1000人に及ぶ被害が出たと伝えられています。小高い丘の頂には「海難漁民慰霊塔」が建っています。(「石碑は語る」より)

「阿波の鳴戸か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」と、昔から海の難所と言われてきた銚子。河口付近では荒れた波が立ちやすく、熟練の漁師たちを悩ませてきました。慶長19年(1614年)、対岸の鹿島灘へ漁に出た彼らを大津波が襲ったのです。一説には、相模や紀伊にかけての地震による津波ともいわれ、1000人に及ぶ被害が出たと伝えられています。小高い丘の頂には「海難漁民慰霊塔」が建っています。(「石碑は語る」より)

本興寺門前横に残る元禄地震の碑。この地震は当時の相模から武蔵、安房、上総までを直撃、甚大な被害をもたらしました。元禄16年(1703年)の真冬のことです。「雷の如く」大地震が起こり、この一松村では津波によって死者384名に及んだと伝えています。また、もう一つの石碑には子どもの戒名も。暗く凍るような水の中で息絶えた子がいたのでしょう。(「石碑は語る」より)

本興寺門前横に残る元禄地震の碑。この地震は当時の相模から武蔵、安房、上総までを直撃、甚大な被害をもたらしました。元禄16年(1703年)の真冬のことです。「雷の如く」大地震が起こり、この一松村では津波によって死者384名に及んだと伝えています。また、もう一つの石碑には子どもの戒名も。暗く凍るような水の中で息絶えた子がいたのでしょう。(「石碑は語る」より)

「盗みはすれど非道はせず」。ご存知、江戸の怪盗・鼠小僧次郎吉の墓がある両国の回向院。ここには安政2年(1855年)に江戸の町を襲った安政江戸地震の横死者を弔った供養塔が残ります。江戸っ子たちの肝を潰したこの地震。下町を中心に住家の倒壊とその後の火災により町人や武士を含め、7000人から1万人が亡くなったといわれます。(「石碑は語る」より)


「盗みはすれど非道はせず」。ご存知、江戸の怪盗・鼠小僧次郎吉の墓がある両国の回向院。ここには安政2年(1855年)に江戸の町を襲った安政江戸地震の横死者を弔った供養塔が残ります。江戸っ子たちの肝を潰したこの地震。下町を中心に住家の倒壊とその後の火災により町人や武士を含め、7000人から1万人が亡くなったといわれます。(「石碑は語る」より)

人気の宝くじ売り場がある銀座数寄屋橋公園。その一角に、今では人知れず関東大震災の記念塔が建っています。関東大震災では銀座も折からの風にあおられて、猛火に包まれました。碑は関東大震災後10年目に建てられたもので、「不意の地震に不断の用意」と記されています。(「石碑は語る」より)


人気の宝くじ売り場がある銀座数寄屋橋公園。その一角に、今では人知れず関東大震災の記念塔が建っています。関東大震災では銀座も折からの風にあおられて、猛火に包まれました。碑は関東大震災後10年目に建てられたもので、「不意の地震に不断の用意」と記されています。(「石碑は語る」より)

大正12年(1923年)に起きた関東大震災で猛火に包まれた下町。まさに四面楚”火”ともいえる焼け野原の中で、この一角だけは焼けませんでした。なぜ、ここだけが地獄の劫火から逃れられたのか…。それは、住民たちの命を懸けた劫火との闘いがあったからでした。小説家の吉村昭はその一角を「広大な砂漠の中に出現したオアシスのようだ」と表現しました。(「石碑は語る」より)

大正12年(1923年)に起きた関東大震災で猛火に包まれた下町。まさに四面楚”火”ともいえる焼け野原の中で、この一角だけは焼けませんでした。なぜ、ここだけが地獄の劫火から逃れられたのか…。それは、住民たちの命を懸けた劫火との闘いがあったからでした。小説家の吉村昭はその一角を「広大な砂漠の中に出現したオアシスのようだ」と表現しました。(「石碑は語る」より)

震災避難記念碑(関東大震災)
関東大震災(1923年)で大川(隅田川)に逃げた人々。すでに対岸も火の壁。進むも地獄、戻るも地獄。その時、官吏のある決断が人々を救います。(石碑は語る・森)

大正12年(1923年)9月1日、午前11時58分。東京の市街地は強い揺れに襲われました。ちょうど昼時と重なって火災が発生。火は強い風にあおられて瞬く間に広がっていったのです。火から逃れようと、多くの人々は大川(隅田川)の新大橋に向かいましたが、時すでに遅し。対岸の両国も火の壁。絶体絶命の人々を救うために、ある官吏が命じた一言とは…。(「石碑は語る」より)


関東大震災(1923年)で大川(隅田川)に逃げた人々。すでに対岸も火の壁。進むも地獄、戻るも地獄。その時、官吏のある決断が人々を救います。(石碑は語る・森)

大正12年(1923年)9月1日、午前11時58分。東京の市街地は強い揺れに襲われました。ちょうど昼時と重なって火災が発生。火は強い風にあおられて瞬く間に広がっていったのです。火から逃れようと、多くの人々は大川(隅田川)の新大橋に向かいましたが、時すでに遅し。対岸の両国も火の壁。絶体絶命の人々を救うために、ある官吏が命じた一言とは…。(「石碑は語る」より)

鎌倉大仏
関東大震災の激しい揺れは、鎌倉時代に造立された国宝・鎌倉大仏をも容赦なく襲いました。激しい揺れに驚いたのか、大仏は約30㌢も前に動いたのです。(石碑は語る・森)

関東大震災の激しい揺れで121トンある大仏が約30㌢も動きました。昭和30年代に入り、大仏の永久保存を目的に大地震時には大仏が滑るように底部にステンレス板が敷かれ、日本の文化財としては初の免震構造が施されました。また、北鎌倉の建長寺にある「震災追悼供養碑」には、特別保護建造物の仏殿や唐門、書院、舎利殿、半増坊本殿や、国宝北条時頼木像などが被害を受けたことが記されています。(「石碑は語る」より)


関東大震災の激しい揺れは、鎌倉時代に造立された国宝・鎌倉大仏をも容赦なく襲いました。激しい揺れに驚いたのか、大仏は約30㌢も前に動いたのです。(石碑は語る・森)

関東大震災の激しい揺れで121トンある大仏が約30㌢も動きました。昭和30年代に入り、大仏の永久保存を目的に大地震時には大仏が滑るように底部にステンレス板が敷かれ、日本の文化財としては初の免震構造が施されました。また、北鎌倉の建長寺にある「震災追悼供養碑」には、特別保護建造物の仏殿や唐門、書院、舎利殿、半増坊本殿や、国宝北条時頼木像などが被害を受けたことが記されています。(「石碑は語る」より)

桃山の碑(新潟地震)
昭和39年(1964年)の新潟地震では石油製油所で火災が発生。太陽の光さえも遮るほどの黒煙から子どもたちを守り抜いた教師たちがいました。(石碑は語る・森)

昭和39年(1964年)、東京オリンピックの4カ月前、新潟県を中心に突如発生した新潟地震。頑丈なコンクリート製の建物が倒壊。石油製油所では火災が発生しました。タンクから立ち上る黒煙は太陽の光さえも遮るほど。その黒い悪魔から逃れ、子どもたちを守り抜いた教師がいました…。石碑は校庭内にあるため、見学の際は桃山小学校の許可をお取りください。(「石碑は語る」より)


昭和39年(1964年)の新潟地震では石油製油所で火災が発生。太陽の光さえも遮るほどの黒煙から子どもたちを守り抜いた教師たちがいました。(石碑は語る・森)

昭和39年(1964年)、東京オリンピックの4カ月前、新潟県を中心に突如発生した新潟地震。頑丈なコンクリート製の建物が倒壊。石油製油所では火災が発生しました。タンクから立ち上る黒煙は太陽の光さえも遮るほど。その黒い悪魔から逃れ、子どもたちを守り抜いた教師がいました…。石碑は校庭内にあるため、見学の際は桃山小学校の許可をお取りください。(「石碑は語る」より)
