
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
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紹介スポット
- 1088件妙見メモリアルパーク(中越地震)
中越地震(2004年)で信濃川沿い県道の山腹が崩落。 そこに1台の車。巨大な岩もろとも谷に転がり落ちた車内には母親と2人の子どもが…。(石碑は語る・森)

平成16年(2004年)10月23日、中越地震が発生した日、信濃川沿いの県道に1台の車が走っていました。車内には母親と2人の子ども。次の瞬間、山腹が崩落、車は巨大な岩もろとも谷に転がり落ち、岩と岩の間に埋もれてしまったのです。不気味な余震続く中、必死の救助作業が始まりました。奇跡的に一人の子どもが救出されましたが、残る2人はまだ車の中に。震災後、現場には「祈りの道」と呼ばれる回廊が設けられました。(「石碑は語る」より)

中越地震(2004年)で信濃川沿い県道の山腹が崩落。 そこに1台の車。巨大な岩もろとも谷に転がり落ちた車内には母親と2人の子どもが…。(石碑は語る・森)

平成16年(2004年)10月23日、中越地震が発生した日、信濃川沿いの県道に1台の車が走っていました。車内には母親と2人の子ども。次の瞬間、山腹が崩落、車は巨大な岩もろとも谷に転がり落ち、岩と岩の間に埋もれてしまったのです。不気味な余震続く中、必死の救助作業が始まりました。奇跡的に一人の子どもが救出されましたが、残る2人はまだ車の中に。震災後、現場には「祈りの道」と呼ばれる回廊が設けられました。(「石碑は語る」より)

弘化4年(1847年)、開帳の年を迎えた善光寺の町で悲劇は起こりました。当時、全国から7千人とも8千人ともいわれる多くの参詣者が訪れていました。倒壊した宿坊の下敷きになる者、逃げ場を失った者は劫火に焼かれ、多くの旅人が無縁仏になりました。(「石碑は語る」より)

弘化4年(1847年)、開帳の年を迎えた善光寺の町で悲劇は起こりました。当時、全国から7千人とも8千人ともいわれる多くの参詣者が訪れていました。倒壊した宿坊の下敷きになる者、逃げ場を失った者は劫火に焼かれ、多くの旅人が無縁仏になりました。(「石碑は語る」より)

鎮め観音(長野県西部地震)
昭和59年(1984年)に発生した長野県西部地震では御嶽山が8合目から大崩落。道路や民家を巻き込み谷底へと押し流し、15人が帰えらぬ人に。(石碑は語る・森)

昭和59年(1984年)9月14日に発生した長野県西部地震は3000㍍級の山が大崩落する恐怖を人々に与えました。霊峰御嶽山が8合目から大崩落し、土石流とともに道路や民家を押し流したのです。鎮め観音の碑はこれを悼んで、「一瞬にして山紫水明の境は泥流と化し、十五名の諸子は襲来せる崩土に圧せられ…」と記しています。また、御岳湖畔にも「震災慰霊碑」があり、地震の惨状を伝えています。(「石碑は語る」より)

昭和59年(1984年)に発生した長野県西部地震では御嶽山が8合目から大崩落。道路や民家を巻き込み谷底へと押し流し、15人が帰えらぬ人に。(石碑は語る・森)

昭和59年(1984年)9月14日に発生した長野県西部地震は3000㍍級の山が大崩落する恐怖を人々に与えました。霊峰御嶽山が8合目から大崩落し、土石流とともに道路や民家を押し流したのです。鎮め観音の碑はこれを悼んで、「一瞬にして山紫水明の境は泥流と化し、十五名の諸子は襲来せる崩土に圧せられ…」と記しています。また、御岳湖畔にも「震災慰霊碑」があり、地震の惨状を伝えています。(「石碑は語る」より)

熱海と三島を結ぶ東海道本線、伊豆半島の丹那トンネル工事が進む昭和5年(1930年)11月26日、丹那断層を震源に北伊豆地震は発生しました。この地震でトンネルの途中では2㍍40㌢もずれが生じ、坑道が天の岩戸のようにふさがれてしまったのです。この地震では、当時の尋常小学校に寄贈された魚雷の台座の石が針となって、胴体部分に地震動の擦痕を残したのです。(「石碑は語る」より)

熱海と三島を結ぶ東海道本線、伊豆半島の丹那トンネル工事が進む昭和5年(1930年)11月26日、丹那断層を震源に北伊豆地震は発生しました。この地震でトンネルの途中では2㍍40㌢もずれが生じ、坑道が天の岩戸のようにふさがれてしまったのです。この地震では、当時の尋常小学校に寄贈された魚雷の台座の石が針となって、胴体部分に地震動の擦痕を残したのです。(「石碑は語る」より)

鎮めの石碑(安政東海地震)
眼下に遠州灘が広がる「ささゆりの里」にある石碑。安政東海地震(1854年)では、村の大羽根山が800㍍海中へ押し出されて島になったとか。(石碑は語る・森)

初夏には美しい花が咲く「ささゆりの里」。眼下に遠州灘が広がり、潮風が薫る眺めの良い高台に石碑があります。碑は安政元年(1854年)に起きた安政東海地震を憂いたもので、案内文によれば「伊古部村の大羽根山が800㍍海中へ押し出されて島になった」といいます。(「石碑は語る」より)

眼下に遠州灘が広がる「ささゆりの里」にある石碑。安政東海地震(1854年)では、村の大羽根山が800㍍海中へ押し出されて島になったとか。(石碑は語る・森)

初夏には美しい花が咲く「ささゆりの里」。眼下に遠州灘が広がり、潮風が薫る眺めの良い高台に石碑があります。碑は安政元年(1854年)に起きた安政東海地震を憂いたもので、案内文によれば「伊古部村の大羽根山が800㍍海中へ押し出されて島になった」といいます。(「石碑は語る」より)

マグニチュード8.0。濃尾地震では、当時の岐阜地方気象台の地震計の針が振り切れるほどの激しい揺れ。震源地近くでは上下に6㍍、横に3㍍ほどずれた断層が出現しました。石碑の近くには「地震断層観察館」があり、ずれた断層の凄さに驚かされます。(「石碑は語る」より)

マグニチュード8.0。濃尾地震では、当時の岐阜地方気象台の地震計の針が振り切れるほどの激しい揺れ。震源地近くでは上下に6㍍、横に3㍍ほどずれた断層が出現しました。石碑の近くには「地震断層観察館」があり、ずれた断層の凄さに驚かされます。(「石碑は語る」より)

安政5年(1855年)、飛騨から越中を中心に発生した飛越地震。崩落した膨大な土砂が小鳥川を越え、寝静まった村を一瞬にしてのみ込んで壊滅させたのです。全員が絶望視される中、奇跡的に「おな」という娘一人だけが助かったと伝えられます。(「石碑は語る」より)

安政5年(1855年)、飛騨から越中を中心に発生した飛越地震。崩落した膨大な土砂が小鳥川を越え、寝静まった村を一瞬にしてのみ込んで壊滅させたのです。全員が絶望視される中、奇跡的に「おな」という娘一人だけが助かったと伝えられます。(「石碑は語る」より)

西大森の転石(飛越地震)
安政5年(1855年)の飛越地震では「立山の鳶崩れ」が発生。鉄砲水が常願寺川を下り、2階建ての家ほどある巨石が流れ着いたのですが…。(石碑は語る・森)

「立山の鳶崩れ」では、土石流が川をせき止めました。その後、雪解けとともに決壊。鉄砲水が高さ7.2㍍、周囲約32.4㍍の2階建ての家ほどある巨石を運んできました。この大岩によって水の流れが変わり、村が救われたことから、地元ではこの石を「水上様」として崇めるようになったといわれます。(「石碑は語る」より)

安政5年(1855年)の飛越地震では「立山の鳶崩れ」が発生。鉄砲水が常願寺川を下り、2階建ての家ほどある巨石が流れ着いたのですが…。(石碑は語る・森)

「立山の鳶崩れ」では、土石流が川をせき止めました。その後、雪解けとともに決壊。鉄砲水が高さ7.2㍍、周囲約32.4㍍の2階建ての家ほどある巨石を運んできました。この大岩によって水の流れが変わり、村が救われたことから、地元ではこの石を「水上様」として崇めるようになったといわれます。(「石碑は語る」より)

平成19年(2007年)、能登半島の静かな門前町を大きな揺れが襲いました。この地震は日本海へ延びる活断層の空白域で発生。輪島市にある総持寺祖院では法堂や僧堂が傾き、仏殿や経蔵のしっくい壁がはがれる被害が出ました。この総持寺と道を隔てた興禅寺でも本堂が全壊。その後、再建を果たし、「地湧百満遍」と刻まれた復興記念碑が建てられました。(「石碑は語る」より)


平成19年(2007年)、能登半島の静かな門前町を大きな揺れが襲いました。この地震は日本海へ延びる活断層の空白域で発生。輪島市にある総持寺祖院では法堂や僧堂が傾き、仏殿や経蔵のしっくい壁がはがれる被害が出ました。この総持寺と道を隔てた興禅寺でも本堂が全壊。その後、再建を果たし、「地湧百満遍」と刻まれた復興記念碑が建てられました。(「石碑は語る」より)

太平洋戦争後、復興の道を歩み始めた福井の町をマグニチュード7.1の直下地震が襲いました。人々は逃げる間もなく、崩れた屋根や柱の下敷きとなり手足を挟まれて動けなくなった者も。そこに劫火が迫ります…。福井城址でも堅牢な石垣が崩落。城址近くの公園には、悲惨な福井地震の歴史を後世に語り継ぐために石碑が建てられました。(「石碑は語る」より)


太平洋戦争後、復興の道を歩み始めた福井の町をマグニチュード7.1の直下地震が襲いました。人々は逃げる間もなく、崩れた屋根や柱の下敷きとなり手足を挟まれて動けなくなった者も。そこに劫火が迫ります…。福井城址でも堅牢な石垣が崩落。城址近くの公園には、悲惨な福井地震の歴史を後世に語り継ぐために石碑が建てられました。(「石碑は語る」より)
