
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
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紹介スポット
- 1088件北丹後地震は、網野町郷村を中心に延長18㌔におよぶ郷村断層を出現させました。断層の破壊力は何とも強烈で、直線の道路も曲げてしまうほど凄まじいものでした。現在、断層の痕跡を残すために、断層の一部が碑とともに観察棟に保存され、ガラス越しに見ることができます。(「石碑は語る」より)

北丹後地震は、網野町郷村を中心に延長18㌔におよぶ郷村断層を出現させました。断層の破壊力は何とも強烈で、直線の道路も曲げてしまうほど凄まじいものでした。現在、断層の痕跡を残すために、断層の一部が碑とともに観察棟に保存され、ガラス越しに見ることができます。(「石碑は語る」より)

鴨川の「京の川整備事業」の河川工事で川底から見つかった大石。一つの石の大きさは横約1.8㍍、縦約0.9㍍、高さ約0.7㍍。重さは数トンあると見積もられています。いつ、誰が何の目的で運んだものか、なぜ川底にあったのか、謎が謎を呼びました。一説では、寛文2年(1662年)の地震で被害を受けた二条城の石垣修理のためではないかと。さて、真実はいかに。(「石碑は語る」より)

鴨川の「京の川整備事業」の河川工事で川底から見つかった大石。一つの石の大きさは横約1.8㍍、縦約0.9㍍、高さ約0.7㍍。重さは数トンあると見積もられています。いつ、誰が何の目的で運んだものか、なぜ川底にあったのか、謎が謎を呼びました。一説では、寛文2年(1662年)の地震で被害を受けた二条城の石垣修理のためではないかと。さて、真実はいかに。(「石碑は語る」より)

奈良県の場合、地下には8つの活断層が眠るといわれます。昭和11年(1936年)には、その活断層によりマグニチュード6.4の河内大和地震が発生。ここ春日神社の石碑には、この地震により社殿や造営物に大きな損害が出たことが記されています。古都、奈良には法隆寺や興福寺など歴史的な建造物が数多く残されています。中でも法隆寺の五重塔は高さ約31㍍、興福寺の塔は50㍍超。不思議に地震では倒壊したことがないといわれています。(「石碑は語る」より)

奈良県の場合、地下には8つの活断層が眠るといわれます。昭和11年(1936年)には、その活断層によりマグニチュード6.4の河内大和地震が発生。ここ春日神社の石碑には、この地震により社殿や造営物に大きな損害が出たことが記されています。古都、奈良には法隆寺や興福寺など歴史的な建造物が数多く残されています。中でも法隆寺の五重塔は高さ約31㍍、興福寺の塔は50㍍超。不思議に地震では倒壊したことがないといわれています。(「石碑は語る」より)

安政元年(1854年)、安政南海地震の大津波は大阪湾から木津川などを遡上。「山の如き大浪」が襲ったといいます。橋は崩れ落ち、大きな船が川の逆流で横転。おびただしい数の人が溺死したといいます。石碑は過去の過ちを繰り返すことのないよう諭しています。(「石碑は語る」より)


安政元年(1854年)、安政南海地震の大津波は大阪湾から木津川などを遡上。「山の如き大浪」が襲ったといいます。橋は崩れ落ち、大きな船が川の逆流で横転。おびただしい数の人が溺死したといいます。石碑は過去の過ちを繰り返すことのないよう諭しています。(「石碑は語る」より)

堺市の大浜公園の中にある蘇鉄山の麓に擁護璽(ようごじ)という石碑があります。安政元年(1854年)の安政南海地震の際、この地では住民たちは過去の言い伝えを守り、迫りくる大津波から逃れたと伝えています。また、小舟に乗って逃げようとした人は流されてきた船の下敷きで亡くなったといい、舟での避難を避けるよう注意を呼び掛けています。(「石碑は語る」より)

堺市の大浜公園の中にある蘇鉄山の麓に擁護璽(ようごじ)という石碑があります。安政元年(1854年)の安政南海地震の際、この地では住民たちは過去の言い伝えを守り、迫りくる大津波から逃れたと伝えています。また、小舟に乗って逃げようとした人は流されてきた船の下敷きで亡くなったといい、舟での避難を避けるよう注意を呼び掛けています。(「石碑は語る」より)

醤油発祥の地として、また豪商・紀伊国屋文左衛門の生誕地としても知られる湯浅町。ここには、その昔、法皇や上皇が行幸を行った熊野古道が通っています。その一角、深専寺の門前に安政南海地震(1954年)大地震津波心得の記碑があります。この碑では、地震を逃れるために浜に逃げたり、舟に乗って逃げようとした人々が津波で被害に遭ったことを教訓としています。(「石碑は語る」より)

醤油発祥の地として、また豪商・紀伊国屋文左衛門の生誕地としても知られる湯浅町。ここには、その昔、法皇や上皇が行幸を行った熊野古道が通っています。その一角、深専寺の門前に安政南海地震(1954年)大地震津波心得の記碑があります。この碑では、地震を逃れるために浜に逃げたり、舟に乗って逃げようとした人々が津波で被害に遭ったことを教訓としています。(「石碑は語る」より)

西宮震災記念碑(阪神・淡路大震災)
平成17年(1995年)の阪神・淡路大震災で1000人の死者・行方不明者を出した西宮市。碑には亡くなった人々の名が記されています。(石碑は語る・森)

阪神・淡路大震災で、震度7を記録した西宮市。木造住宅だけでなく、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の建物でも倒壊したものがあります。死者・行方不明者は1000人。震災記念碑公園の一角に建立された横長の石碑は亡くなった人々を弔っています。碑の前方には環状列石を思わせる小さな石柱が並び、当時の悲惨な状況などを伝えてくれます。(「石碑は語る」より)

平成17年(1995年)の阪神・淡路大震災で1000人の死者・行方不明者を出した西宮市。碑には亡くなった人々の名が記されています。(石碑は語る・森)

阪神・淡路大震災で、震度7を記録した西宮市。木造住宅だけでなく、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の建物でも倒壊したものがあります。死者・行方不明者は1000人。震災記念碑公園の一角に建立された横長の石碑は亡くなった人々を弔っています。碑の前方には環状列石を思わせる小さな石柱が並び、当時の悲惨な状況などを伝えてくれます。(「石碑は語る」より)

6434人の死者を出した阪神・淡路大震災。東遊園地では震災後、「希望の灯り」が建てられ、亡くなった人の冥福を祈っています。ガラスケースに覆われたガス灯の灯りは、辺りが暗くなるにつれ、穏やかな輝きを醸し出します。す。碑文は「震災が奪ったもの 命 仕事 団欒 街並み 思い出 たった一秒先が予知できない人間の限界…」と綴り、絆の大切さを伝えています。(「石碑は語る」より)

6434人の死者を出した阪神・淡路大震災。東遊園地では震災後、「希望の灯り」が建てられ、亡くなった人の冥福を祈っています。ガラスケースに覆われたガス灯の灯りは、辺りが暗くなるにつれ、穏やかな輝きを醸し出します。す。碑文は「震災が奪ったもの 命 仕事 団欒 街並み 思い出 たった一秒先が予知できない人間の限界…」と綴り、絆の大切さを伝えています。(「石碑は語る」より)

新川に架かる大輪田橋は、天に伸びる飾り柱の頂に星座が散りばめられています。よく見ると、北斗七星、カシオペア座、オリオン座…、阪神・淡路大震災が起きた冬の星座です。震災では、強い揺れで親柱の1柱が倒壊。橋の横には柱が横たわり、地震の強さを垣間見させてくれます。(「石碑は語る」より)


新川に架かる大輪田橋は、天に伸びる飾り柱の頂に星座が散りばめられています。よく見ると、北斗七星、カシオペア座、オリオン座…、阪神・淡路大震災が起きた冬の星座です。震災では、強い揺れで親柱の1柱が倒壊。橋の横には柱が横たわり、地震の強さを垣間見させてくれます。(「石碑は語る」より)

石碑は正平16年(1361年)に徳島沿岸を襲った正平地震津波のものとか。碑は小高い山腹にあり、道というよりは溝のような細い坂を100㍍ほど上った所にあります。碑文はすでに読めませんが、被害に遭った人々を弔う納経供養碑と推測されています。(「石碑は語る」より)


石碑は正平16年(1361年)に徳島沿岸を襲った正平地震津波のものとか。碑は小高い山腹にあり、道というよりは溝のような細い坂を100㍍ほど上った所にあります。碑文はすでに読めませんが、被害に遭った人々を弔う納経供養碑と推測されています。(「石碑は語る」より)
