
みんなでつくる〜防災の原点!石碑マップ〜

全国の過去の災害を石碑が教えてくれます。
関連するめっけブック
関連するめっけブック
紹介スポット
- 1088件別名「津波田老」との異名を持つ田老。昭和8年(1933年)に発生した昭和三陸地震では6㍍の津波により548名の犠牲者を出しました。碑文には「津波に襲われたら高所へ逃げろ」「遠くへ逃げては津波に追い付かれる」「常に近くの高い所を用意しておけ」といった心得が記されています。東日本大震災では田老のシンボルともいえる防潮堤「田老の万里の長城」が津波で跡形もなく破壊され、多くの犠牲者を出しました。(「石碑は語る」より)

別名「津波田老」との異名を持つ田老。昭和8年(1933年)に発生した昭和三陸地震では6㍍の津波により548名の犠牲者を出しました。碑文には「津波に襲われたら高所へ逃げろ」「遠くへ逃げては津波に追い付かれる」「常に近くの高い所を用意しておけ」といった心得が記されています。東日本大震災では田老のシンボルともいえる防潮堤「田老の万里の長城」が津波で跡形もなく破壊され、多くの犠牲者を出しました。(「石碑は語る」より)

「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と記された石碑。姉吉地区は明治三陸地震津波や昭和三陸地震の津波で、村が壊滅するほど大きな被害を受けました。多くの犠牲者が出たことで、高台への移転が進められた結果、東日本大震災では高さ40㍍ほどの津波が遡上したものの、この石碑を超えることはありませんでした。(「石碑は語る」より)


「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と記された石碑。姉吉地区は明治三陸地震津波や昭和三陸地震の津波で、村が壊滅するほど大きな被害を受けました。多くの犠牲者が出たことで、高台への移転が進められた結果、東日本大震災では高さ40㍍ほどの津波が遡上したものの、この石碑を超えることはありませんでした。(「石碑は語る」より)

津波記憶石「二千十一」(東日本大震災)
東日本大震災で大津波が押し寄せた根浜海岸の碑です。石碑には津波から命を守る東北地方の言い伝え「てんでんこで逃げよ」と刻まれています。(石碑は語る・森)

釜石市の根浜海岸に建てられた東日本大震災の石碑。碑文には震災が起きた年の「二千十一」の文字が大きく刻まれ、「ともかく上へ逃げよ。てんでんこで逃げよ。自分を助けよ。この地まで津波がきたこと そして、裏山へ逃げ 多くの人が助かったことを後世に伝えてほしい」とあります。東日本大震災では、この石碑の10㍍上まで津波が来ました。津波から逃れるために私たちができること。それは何も欲張らずにただひたすら生き延びること。津波では生きたか、死んだかの二つに一つしかないのです。(「石碑は語る」より)


東日本大震災で大津波が押し寄せた根浜海岸の碑です。石碑には津波から命を守る東北地方の言い伝え「てんでんこで逃げよ」と刻まれています。(石碑は語る・森)

釜石市の根浜海岸に建てられた東日本大震災の石碑。碑文には震災が起きた年の「二千十一」の文字が大きく刻まれ、「ともかく上へ逃げよ。てんでんこで逃げよ。自分を助けよ。この地まで津波がきたこと そして、裏山へ逃げ 多くの人が助かったことを後世に伝えてほしい」とあります。東日本大震災では、この石碑の10㍍上まで津波が来ました。津波から逃れるために私たちができること。それは何も欲張らずにただひたすら生き延びること。津波では生きたか、死んだかの二つに一つしかないのです。(「石碑は語る」より)

2011年の東日本大震災では、想定を超えた津波によって多数の死者・行方不明者が出ました。その原因の一つが避難の遅れ。震災後、建てられた5柱の石碑には小中学生など95人のメッセージが刻まれ、「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて(中2)」「こんな辛い思いをもうしたくない。だから、次の世代、また次の世代に伝えていく(小6)」など、子どもならではの素直な思いが綴られています。(「石碑は語る」より)

2011年の東日本大震災では、想定を超えた津波によって多数の死者・行方不明者が出ました。その原因の一つが避難の遅れ。震災後、建てられた5柱の石碑には小中学生など95人のメッセージが刻まれ、「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて(中2)」「こんな辛い思いをもうしたくない。だから、次の世代、また次の世代に伝えていく(小6)」など、子どもならではの素直な思いが綴られています。(「石碑は語る」より)

明治三陸大津波伝承碑(明治三陸地震)
明治三陸地震(1896年)では津波遡上高38.2㍍に達しました。碑文は「その屍たるや道路に満ち…」と生々しい惨状を伝えています。(石碑は語る・森)

その昔、綾織りの上手な娘がいたことから名付けられたという「綾里」。東日本大震災の前までは、本州で最も高い津波遡上高の38.2㍍の記録がありました。碑文は「その屍(しかばね)たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず…親の屍にすがりて悲しむものあり、子の骸(むくろ)を抱き慟哭するものあり…頭足、所を異にするに至りては惨のもっとも惨たるものなり」と生々しい状況を伝えています。(「石碑は語る」より)

明治三陸地震(1896年)では津波遡上高38.2㍍に達しました。碑文は「その屍たるや道路に満ち…」と生々しい惨状を伝えています。(石碑は語る・森)

その昔、綾織りの上手な娘がいたことから名付けられたという「綾里」。東日本大震災の前までは、本州で最も高い津波遡上高の38.2㍍の記録がありました。碑文は「その屍(しかばね)たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず…親の屍にすがりて悲しむものあり、子の骸(むくろ)を抱き慟哭するものあり…頭足、所を異にするに至りては惨のもっとも惨たるものなり」と生々しい状況を伝えています。(「石碑は語る」より)

紺碧の海と柔らかい春の潮風の中、社会科見学で訪れた子どもたちは楽しいお弁当の時間を迎えます。その時、男鹿半島加茂青砂の海岸に日本海中部地震の大きな津波が押し寄せたのです。子どもたちは逃げる間もなく次々とのみ込まれていきます。その様子を見た村人は、必死に助けようとするのですが…。(「石碑は語る」より)

紺碧の海と柔らかい春の潮風の中、社会科見学で訪れた子どもたちは楽しいお弁当の時間を迎えます。その時、男鹿半島加茂青砂の海岸に日本海中部地震の大きな津波が押し寄せたのです。子どもたちは逃げる間もなく次々とのみ込まれていきます。その様子を見た村人は、必死に助けようとするのですが…。(「石碑は語る」より)

九十九島の碑(象潟地震)
「奥の細道」最北の地として知られる象潟。文化元年(1804年)の地震で松島と並び称された景勝地が一夜にして陸に変わってしまいました。(石碑は語る・森)

その昔、この象潟は海に浮かぶ島々が宮城県松島と並び称される景勝地でした。しかし、文化元年(1804年)、景色が一変。マグニチュード7.1の象潟地震が海を隆起させ、一夜にして陸に変えてしまったのです。蚶満寺の石碑には九十九島の美しい情景や文人墨客が訪れた歴史とともに地震の状況が記されています。今では水田のあちらこちらに浮かぶ島が昔の情景を偲ばせます。(「石碑は語る」より)


「奥の細道」最北の地として知られる象潟。文化元年(1804年)の地震で松島と並び称された景勝地が一夜にして陸に変わってしまいました。(石碑は語る・森)

その昔、この象潟は海に浮かぶ島々が宮城県松島と並び称される景勝地でした。しかし、文化元年(1804年)、景色が一変。マグニチュード7.1の象潟地震が海を隆起させ、一夜にして陸に変えてしまったのです。蚶満寺の石碑には九十九島の美しい情景や文人墨客が訪れた歴史とともに地震の状況が記されています。今では水田のあちらこちらに浮かぶ島が昔の情景を偲ばせます。(「石碑は語る」より)

追波湾から4㌔ほど上流の石巻市の旧大川小学校。ここで悲劇が起こりました。津波は北上川を遡上し、子どもたちの待機していた校庭へと流れ込んだのです。津波は2階建ての校舎を越え、コンクリート製の外廊下も飴のように曲げて砕きました。東日本大震災後に建てられた「子まもり」の母子像。その優しいまなざしだけが、唯一の救いでした。(「石碑は語る」より)


追波湾から4㌔ほど上流の石巻市の旧大川小学校。ここで悲劇が起こりました。津波は北上川を遡上し、子どもたちの待機していた校庭へと流れ込んだのです。津波は2階建ての校舎を越え、コンクリート製の外廊下も飴のように曲げて砕きました。東日本大震災後に建てられた「子まもり」の母子像。その優しいまなざしだけが、唯一の救いでした。(「石碑は語る」より)

昭和35年(1960年)、世界最大級の地震がチリで発生しました。津波は太平洋を越え、20時間以上かけて日本各地に襲来。場所によっては6㍍に達した所もありました。石巻市の日和山公園には「チリ地震津波碑」が設置され、碑文は津波の恐ろしさと三陸一帯に住む者の心構えを伝えています。(「石碑は語る」より)

昭和35年(1960年)、世界最大級の地震がチリで発生しました。津波は太平洋を越え、20時間以上かけて日本各地に襲来。場所によっては6㍍に達した所もありました。石巻市の日和山公園には「チリ地震津波碑」が設置され、碑文は津波の恐ろしさと三陸一帯に住む者の心構えを伝えています。(「石碑は語る」より)

宮戸島の石碑(貞観地震?)
この石碑、貞観地震(869年)のものではないかという説も。島では千年前の教訓が受け継がれ、東日本大震災でも多くの島民が難を逃れています。(石碑は語る・森)

東日本大震災で巨大な津波にさらされた奥松島の宮戸島。ここには西暦869年に東北地方を襲った貞観地震の時のものではないかと伝わる石碑が残っています。古びて小さな石で、石碑とは気付かず通り過ぎてしまうほど。表面には何か文字のようなものも…。実際に建てられた年代は不明だそうですが、島では千年前の地震の教訓が脈々と受け継がれ、東日本大震災でもほぼ全員が難を逃れたそうです。(「石碑は語る」より)

この石碑、貞観地震(869年)のものではないかという説も。島では千年前の教訓が受け継がれ、東日本大震災でも多くの島民が難を逃れています。(石碑は語る・森)

東日本大震災で巨大な津波にさらされた奥松島の宮戸島。ここには西暦869年に東北地方を襲った貞観地震の時のものではないかと伝わる石碑が残っています。古びて小さな石で、石碑とは気付かず通り過ぎてしまうほど。表面には何か文字のようなものも…。実際に建てられた年代は不明だそうですが、島では千年前の地震の教訓が脈々と受け継がれ、東日本大震災でもほぼ全員が難を逃れたそうです。(「石碑は語る」より)
