
ここがあの場所!身近な場所の歴史

実は、街なかには隠れた歴史的名所がたくさん!旅先だけでなく、近所の散歩でも意外な名所が見つかるかも?!歴史の勉強や小学生の自由研究にもおすすめです。紹介されていないスポットを見つけたら、みんなで登録して共有しよう!
関連するめっけブック
関連するめっけブック
紹介スポット
- 8106件ジョン万次郎(本名は仲濱萬次郎)は,土佐の中浜(現,高知県土佐清水市)で漁師の次男として生まれました。1841(天保12)年14歳の頃,漁の最中に遭難して無人島に漂着,アメリカの捕鯨船に助けられ,ハワイを経てアメリカに渡りました。8年間をアメリカ本土で過ごし,英語や測量,航海技術などを身に着けて万次郎が帰国したのは1851(嘉永4)年のことでした。 1860(安政7)年,日米修好通商条約批准のため幕府の遣米使節団がアメリカ船に乗船して渡米しますが,このとき護衛を名目として共に渡米する勝海舟を艦長とする咸臨丸に,万次郎は通訳として乗り込むことになりました。この縁で,勝海舟と親しくなった万次郎は,帰国後も海舟と連れ立って浅草にある鰻屋「やっ古」に好物のウナギを食べに行っていたと伝えられています。 万次郎が亡くなったのは1898(明治31)年,71歳のときでした。彼はキリスト教徒でしたが,墓は生前に谷中の仏心寺に用意していたもので,1920(大正9)年に雑司ヶ谷霊園に移されたとされています。

ジョン万次郎(本名は仲濱萬次郎)は,土佐の中浜(現,高知県土佐清水市)で漁師の次男として生まれました。1841(天保12)年14歳の頃,漁の最中に遭難して無人島に漂着,アメリカの捕鯨船に助けられ,ハワイを経てアメリカに渡りました。8年間をアメリカ本土で過ごし,英語や測量,航海技術などを身に着けて万次郎が帰国したのは1851(嘉永4)年のことでした。 1860(安政7)年,日米修好通商条約批准のため幕府の遣米使節団がアメリカ船に乗船して渡米しますが,このとき護衛を名目として共に渡米する勝海舟を艦長とする咸臨丸に,万次郎は通訳として乗り込むことになりました。この縁で,勝海舟と親しくなった万次郎は,帰国後も海舟と連れ立って浅草にある鰻屋「やっ古」に好物のウナギを食べに行っていたと伝えられています。 万次郎が亡くなったのは1898(明治31)年,71歳のときでした。彼はキリスト教徒でしたが,墓は生前に谷中の仏心寺に用意していたもので,1920(大正9)年に雑司ヶ谷霊園に移されたとされています。
日本が開国して以降,明治維新直後までの間に外国人が攘夷派の武士たちによって襲撃される事件,殺傷される事件が度々起こっています。 オランダ生まれのアメリカ人ヘンリー・ヒュースケンが殺害されたのは1860(万延元)年の12月,場所は古川に架かる一之橋と赤羽橋の間にあった中之橋のあたりでした。ヒュースケンは,アメリカの初代総領事ハリスの通訳兼書記官として,1856(安政3)年に,領事館が開かれた伊豆下田に着任し,日米修好通商条約の締結に尽力しました。1859(安政6)年,麻布の善福寺に公使館が設けられたことで江戸に入ります。 事件が起きた当日,ヒュースケンは幕府とプロイセン(現在のドイツ北部からボーランド西部一帯を領土としていた王国)との修好通商条約締結の斡旋にあたっていましたが,プロイセン使節の宿舎だった芝の赤羽接遇所から公使館に騎馬で帰る途中,中之橋にさしかかったあたりで浪士の一団に襲われ,治療の甲斐無く翌日死亡しました。享年28歳。 これが幕末に外国人が殺害された初めての事件となりました。

日本が開国して以降,明治維新直後までの間に外国人が攘夷派の武士たちによって襲撃される事件,殺傷される事件が度々起こっています。 オランダ生まれのアメリカ人ヘンリー・ヒュースケンが殺害されたのは1860(万延元)年の12月,場所は古川に架かる一之橋と赤羽橋の間にあった中之橋のあたりでした。ヒュースケンは,アメリカの初代総領事ハリスの通訳兼書記官として,1856(安政3)年に,領事館が開かれた伊豆下田に着任し,日米修好通商条約の締結に尽力しました。1859(安政6)年,麻布の善福寺に公使館が設けられたことで江戸に入ります。 事件が起きた当日,ヒュースケンは幕府とプロイセン(現在のドイツ北部からボーランド西部一帯を領土としていた王国)との修好通商条約締結の斡旋にあたっていましたが,プロイセン使節の宿舎だった芝の赤羽接遇所から公使館に騎馬で帰る途中,中之橋にさしかかったあたりで浪士の一団に襲われ,治療の甲斐無く翌日死亡しました。享年28歳。 これが幕末に外国人が殺害された初めての事件となりました。
アーネスト・サトウは,幕末・維新期の激動する政情を自らの体験を踏まえて記録した『一外交官の見た明治維新』の著者として知られています。 ロンドンで生まれたサトウは,1862(文久2)年に英国駐日公使館の通訳(当初は見習い)として19歳で来日し,英国公使オールコック,ついでパークスを補佐しました。サトウは,来日直後に起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)の交渉のため通訳として鹿児島に行き,交渉決裂後に起きた薩英戦争を目撃しています。翌年の列強4国と長州藩との戦争(下関戦争)のときにも英国艦隊に同行していました。 サトウは正式ではありませんが武田兼(かね)という日本人女性を妻とし二男一女をもうけています。1884(明治17)年にいったん日本を離れ、シャム(現在のタイ)やウルグアイなどに外交官として駐在しますが,離日に際して当時の麹町区富士見町にあった旧旗本屋敷を購入し,家族と日本滞在時の居宅としました。 碑は1981(昭和56)年に法政大学が建てたもので,そこがサトウの屋敷跡であることが記されています。サトウは,1895(明治28)年に英国公使として帰任し,1900(明治33)年まで滞在しました。

アーネスト・サトウは,幕末・維新期の激動する政情を自らの体験を踏まえて記録した『一外交官の見た明治維新』の著者として知られています。 ロンドンで生まれたサトウは,1862(文久2)年に英国駐日公使館の通訳(当初は見習い)として19歳で来日し,英国公使オールコック,ついでパークスを補佐しました。サトウは,来日直後に起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)の交渉のため通訳として鹿児島に行き,交渉決裂後に起きた薩英戦争を目撃しています。翌年の列強4国と長州藩との戦争(下関戦争)のときにも英国艦隊に同行していました。 サトウは正式ではありませんが武田兼(かね)という日本人女性を妻とし二男一女をもうけています。1884(明治17)年にいったん日本を離れ、シャム(現在のタイ)やウルグアイなどに外交官として駐在しますが,離日に際して当時の麹町区富士見町にあった旧旗本屋敷を購入し,家族と日本滞在時の居宅としました。 碑は1981(昭和56)年に法政大学が建てたもので,そこがサトウの屋敷跡であることが記されています。サトウは,1895(明治28)年に英国公使として帰任し,1900(明治33)年まで滞在しました。
イギリスとの間に修好通商条約が結ばれたのは1858(安政5)年のことでした。これを受けて翌年高輪の東禅寺に最初のイギリス公使館が設けられ,初代公使としてラザフォード・オールコックが着任しました。山門前には「最初のイギリス公使宿館跡」の碑が建てられています。 東禅寺にあったイギリス公使館は2度襲撃に遭っています。1861(文久元)年に起きた第一次東禅寺事件は,オールコックが長崎から江戸への帰路に海路ではなく陸路(東海道)を通ったことで「神州日本が穢された」と憤慨した水戸の脱藩士14名がオールコックの殺害を目的に襲撃したものです。この企ては失敗に終わり,彼らは殺害・逮捕されましたが,そのときの弾痕や刀傷は今も玄関の柱などに残っています。 翌年の第二次東禅寺事件は,警備にあたっていた松本藩士が館内に侵入してイギリス人水兵2名を殺害,自身も自刃したもので,藩による警備の解除と日本人同士の戦いを防ごうとしたことが理由とされています。

イギリスとの間に修好通商条約が結ばれたのは1858(安政5)年のことでした。これを受けて翌年高輪の東禅寺に最初のイギリス公使館が設けられ,初代公使としてラザフォード・オールコックが着任しました。山門前には「最初のイギリス公使宿館跡」の碑が建てられています。 東禅寺にあったイギリス公使館は2度襲撃に遭っています。1861(文久元)年に起きた第一次東禅寺事件は,オールコックが長崎から江戸への帰路に海路ではなく陸路(東海道)を通ったことで「神州日本が穢された」と憤慨した水戸の脱藩士14名がオールコックの殺害を目的に襲撃したものです。この企ては失敗に終わり,彼らは殺害・逮捕されましたが,そのときの弾痕や刀傷は今も玄関の柱などに残っています。 翌年の第二次東禅寺事件は,警備にあたっていた松本藩士が館内に侵入してイギリス人水兵2名を殺害,自身も自刃したもので,藩による警備の解除と日本人同士の戦いを防ごうとしたことが理由とされています。
鎖国下で欧州の国として唯一通商関係にあったオランダでしたが,幕府との間に正式に修好通商条約を結んだのは1858(安政5)年のことで,アメリカに一ヶ月ほどおくれをとってしまいました。 最初の公使館は,三田の浄土宗寺院・西応寺に設けられています。公使館として使用されたのは書院と庫裡の2階でしたが, 1868(慶応3)年に三田の薩摩藩邸が庄内藩などによって焼き討ちされたときの兵火で西応寺が全焼したため,公使館は伊皿子坂(いさらござか)近くの長応寺(現存していません)に移りました。 西応寺に併設されている幼稚園のある場所が,最初のオランダ公使館が設けられていたところと推定されていて,西応寺門前には「最初のオランダ公使宿館跡」の碑が建てられています。なお西応寺は,オランダ公使館が設置される前の1858年,日英修好通商条約締結のために来日したイギリスの使節の宿舎とされたところでもあります。

鎖国下で欧州の国として唯一通商関係にあったオランダでしたが,幕府との間に正式に修好通商条約を結んだのは1858(安政5)年のことで,アメリカに一ヶ月ほどおくれをとってしまいました。 最初の公使館は,三田の浄土宗寺院・西応寺に設けられています。公使館として使用されたのは書院と庫裡の2階でしたが, 1868(慶応3)年に三田の薩摩藩邸が庄内藩などによって焼き討ちされたときの兵火で西応寺が全焼したため,公使館は伊皿子坂(いさらござか)近くの長応寺(現存していません)に移りました。 西応寺に併設されている幼稚園のある場所が,最初のオランダ公使館が設けられていたところと推定されていて,西応寺門前には「最初のオランダ公使宿館跡」の碑が建てられています。なお西応寺は,オランダ公使館が設置される前の1858年,日英修好通商条約締結のために来日したイギリスの使節の宿舎とされたところでもあります。
老舗料亭「つきじ治作」のあるところにかつて東京運上所がありました。運上所は現在の税関の前身にあたります。 築地に運上所が開設されたのは,元号が明治に変わる直前の1867(慶応3)年10月。江戸幕府は,1858(安政5)年に結ばれた安政の五カ国条約に基づき,開港場とされた神奈川(横浜),長崎などに貿易のため来日する外国人の居住地区として外国人居留地を設けました。条約には江戸の開市も定められていたので,幕府は築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地とすることとし,その一角に運上所が設けられたのです。 明治維新により江戸は東京と改称され,1869年1月1日(明治元年11月19日)に開市・開港されましたが,築地での貿易は港近くの水深が浅く整備が進まなかったため振いませんでした。ただ,横浜の外国人居留地と船で往来できる便の良い場所でしたので外国公使館や領事館が置かれ,教会や学校が数多く作られました。 条約改正によって1899(明治32)年に領事裁判権が撤廃されると築地の外国人居留地は廃止され,1872(明治5)年から横浜税関の東京税関支署となっていたかつての東京運上所も移転することになりました。

老舗料亭「つきじ治作」のあるところにかつて東京運上所がありました。運上所は現在の税関の前身にあたります。 築地に運上所が開設されたのは,元号が明治に変わる直前の1867(慶応3)年10月。江戸幕府は,1858(安政5)年に結ばれた安政の五カ国条約に基づき,開港場とされた神奈川(横浜),長崎などに貿易のため来日する外国人の居住地区として外国人居留地を設けました。条約には江戸の開市も定められていたので,幕府は築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地とすることとし,その一角に運上所が設けられたのです。 明治維新により江戸は東京と改称され,1869年1月1日(明治元年11月19日)に開市・開港されましたが,築地での貿易は港近くの水深が浅く整備が進まなかったため振いませんでした。ただ,横浜の外国人居留地と船で往来できる便の良い場所でしたので外国公使館や領事館が置かれ,教会や学校が数多く作られました。 条約改正によって1899(明治32)年に領事裁判権が撤廃されると築地の外国人居留地は廃止され,1872(明治5)年から横浜税関の東京税関支署となっていたかつての東京運上所も移転することになりました。
アメリカの最初の公使館は,初代公使タウンゼント・ハリスによって1859(安政6)年に麻布の善福寺に開設されました。築地の外国人居留地内に移されたのは1875(明治8)年のこと。公使館は新築された建物でようやくその形容を整えたといえます。その後,1890(明治23)年に赤坂葵町に移転し,アメリカ大使館として現在に至っています。 公使館の移転後に残された石標は,この地でアメリカ独立100周年を迎えた際につくられたもので,現在,中央区にはそのうちの5個が居留地時代を伝えるモニュメントとして残されています。聖路加国際大学のトイスラー記念館前に置かれた3個には,それぞれアメリカの国章で初期の13州を示す星が配された盾,アメリカの国鳥である白頭鷲と星と盾,そして星が刻まれています。

アメリカの最初の公使館は,初代公使タウンゼント・ハリスによって1859(安政6)年に麻布の善福寺に開設されました。築地の外国人居留地内に移されたのは1875(明治8)年のこと。公使館は新築された建物でようやくその形容を整えたといえます。その後,1890(明治23)年に赤坂葵町に移転し,アメリカ大使館として現在に至っています。 公使館の移転後に残された石標は,この地でアメリカ独立100周年を迎えた際につくられたもので,現在,中央区にはそのうちの5個が居留地時代を伝えるモニュメントとして残されています。聖路加国際大学のトイスラー記念館前に置かれた3個には,それぞれアメリカの国章で初期の13州を示す星が配された盾,アメリカの国鳥である白頭鷲と星と盾,そして星が刻まれています。
小石川の伝通院は,徳川家康の生母・於大(おだい)の方や豊臣秀頼の正室だった孫娘・千姫の墓所であり,徳川将軍家の菩提寺としても知られる名刹です。この寺院の墓地の少し奥まったところにジュゼッペ・キアラ神父の供養碑が建てられています。 イエズス会のイタリア人宣教師キアラは,1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが捕らえられ,1646(正保3)年に江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後,棄教して岡本三右衛門と名乗り妻や召使いまで与えられましたが,幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死しました。 遺体は,キリスト教にはありえない火葬にされ,伝通院の北にあった小石川無量院に葬られました。この無量院が廃寺になったため,1977(昭和52)年に地元有志によって無量院に隣接していた伝通院に本来の墓碑に似せた供養碑が建立されたとみられます。 供養碑には,墓碑と同じく「入専浄真信士」という戒名が刻まれた碑と,その傍らに立つ「ジョセフ岡本三右衛門神父供養碑」という銘と当時の駐日イタリア大使の言葉が刻まれた碑の二つがあります。

小石川の伝通院は,徳川家康の生母・於大(おだい)の方や豊臣秀頼の正室だった孫娘・千姫の墓所であり,徳川将軍家の菩提寺としても知られる名刹です。この寺院の墓地の少し奥まったところにジュゼッペ・キアラ神父の供養碑が建てられています。 イエズス会のイタリア人宣教師キアラは,1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが捕らえられ,1646(正保3)年に江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後,棄教して岡本三右衛門と名乗り妻や召使いまで与えられましたが,幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死しました。 遺体は,キリスト教にはありえない火葬にされ,伝通院の北にあった小石川無量院に葬られました。この無量院が廃寺になったため,1977(昭和52)年に地元有志によって無量院に隣接していた伝通院に本来の墓碑に似せた供養碑が建立されたとみられます。 供養碑には,墓碑と同じく「入専浄真信士」という戒名が刻まれた碑と,その傍らに立つ「ジョセフ岡本三右衛門神父供養碑」という銘と当時の駐日イタリア大使の言葉が刻まれた碑の二つがあります。
若狭(現,福井県)小浜藩の藩医・杉田玄白が著した『蘭学事始』には,オランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』を4年がかりで翻訳し,1774(安永3)年に『解体新書』を刊行するまでの苦心の様子が描かれています。 その翻訳作業は碑が建てられているこの地にあった豊前(現,大分県)中津藩中屋敷の一室で行われました。 翻訳作業の中心となった前野良沢は中津藩の藩医で,小浜藩の藩医中川淳庵(じゅんあん)や幕府奥医師の桂川甫周(ほしゅう)らもこの作業に加わっていました。公刊された『解体新書』は日本の医学の発展に大いに寄与し,また蘭学勃興の発端となりました。 碑の右側,赤い石には『解体新書』にある人体の図が,左側の黒っぽい石には標題として「蘭学の泉はここに」という文字が刻まれています。また撰文は,蘭学者緒方洪庵(こうあん)の曾孫にあたる元東京大学教授・緒方富雄によるものです。

若狭(現,福井県)小浜藩の藩医・杉田玄白が著した『蘭学事始』には,オランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』を4年がかりで翻訳し,1774(安永3)年に『解体新書』を刊行するまでの苦心の様子が描かれています。 その翻訳作業は碑が建てられているこの地にあった豊前(現,大分県)中津藩中屋敷の一室で行われました。 翻訳作業の中心となった前野良沢は中津藩の藩医で,小浜藩の藩医中川淳庵(じゅんあん)や幕府奥医師の桂川甫周(ほしゅう)らもこの作業に加わっていました。公刊された『解体新書』は日本の医学の発展に大いに寄与し,また蘭学勃興の発端となりました。 碑の右側,赤い石には『解体新書』にある人体の図が,左側の黒っぽい石には標題として「蘭学の泉はここに」という文字が刻まれています。また撰文は,蘭学者緒方洪庵(こうあん)の曾孫にあたる元東京大学教授・緒方富雄によるものです。
記念碑は,小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)の本堂に入って右側の壁面にあります。 この回向院のあるあたりは,江戸時代には「仕置場」と呼ばれた刑場でした。小塚原回向院は,牢死者や刑死者等の供養のため本所にある回向院が1667(寛文7)年に開いた寺院です。 1771(明和8)年,ここで行われた刑死者の腑分け(解剖)に立ち会った前野良沢・杉田玄白らは,オランダ語で書かれた解剖学書『ターヘル・アナトミア』にあった解剖図の正確さに大きな衝撃を受けました。このことが,やがて『解体新書』として結実する『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をはじめるきっかけとなったのです。 記念碑は,腑分けのあった年から150年が過ぎた1922(大正11)年に回向院の本堂裏に建てられましたが,戦災で破損したことから1959(昭和34)年に日本医史学会・日本医学会・日本医師会によって『解体新書』の表紙を模した青銅板だけが現在の場所に移されました。

記念碑は,小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)の本堂に入って右側の壁面にあります。 この回向院のあるあたりは,江戸時代には「仕置場」と呼ばれた刑場でした。小塚原回向院は,牢死者や刑死者等の供養のため本所にある回向院が1667(寛文7)年に開いた寺院です。 1771(明和8)年,ここで行われた刑死者の腑分け(解剖)に立ち会った前野良沢・杉田玄白らは,オランダ語で書かれた解剖学書『ターヘル・アナトミア』にあった解剖図の正確さに大きな衝撃を受けました。このことが,やがて『解体新書』として結実する『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をはじめるきっかけとなったのです。 記念碑は,腑分けのあった年から150年が過ぎた1922(大正11)年に回向院の本堂裏に建てられましたが,戦災で破損したことから1959(昭和34)年に日本医史学会・日本医学会・日本医師会によって『解体新書』の表紙を模した青銅板だけが現在の場所に移されました。