京都市の中心にある中京(なかぎょう)区には、100年以上続く老舗企業があり、京都の文化・まちを支えています。古くから続く文化を継承しながら、新しい文化を取り入れて、常に進化を遂げています。また、老舗企業だけではなく、京都の文化を取り入れて、お店を営業されている方も多く、様々な事業者が自治会、町内会をはじめ地域と一体となり、京都・中京を盛り上げています。 そんな魅力あふれる中京区の事業者や団体、人を区民ライターが取材し、その取材内容を記事にした、中京区応援サイト「なかなか中京」を中京区役所ホームページ内に開設しています。 記事とスポットが掲載されたアプリを片手に、中京区の魅力を再発見していただければ幸いです。 ※めっけブックに掲載している記事は中京区ホームページで掲載しているものの一部です。すべての記事は以下のURLからご覧いただけます。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/...
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紹介スポット
- 69件mui Lab(ムイ ラボ)株式会社
【福祉・医療・生活】中京区応援サイト「なかなか中京」にて掲載中の「mui Lab株式会社」様の記事です。
「mui Lab(ムイ ラボ)株式会社」は家具のまち「夷川」にて拠点を置いています。「mui」とは、老子の説いた生き方「無為自然」からきており、「mui Lab」では「人の手を加えず、あるがままにまかせること」という考え方を現代のライフスタイルに取り入れ、情報テクノロジーが生活の中に溶け込むような製品開発(Calm Technology(カーム・テクノロジー))を行っています。今回は、カーム・テクノロジーの発展により、人々の日常生活を豊かにしたいと語る「mui Lab」代表取締役の大木和典さんにお話を伺いました。 デジタル化が進み、便利な機器が次々と登場する今、私たちの生活はそれにとらわれてしまいがちですが、それではもったいないと、「mui Lab」では、必要以上に存在感を出さず、生活空間に溶け込むような「muiボード」という商品を開発されました・・・・ 気になる記事の続き及びmui Lab株式会社 代表取締役 大木和典様、金谷翔真様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年10月15日時点の内容です。
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「mui Lab(ムイ ラボ)株式会社」は家具のまち「夷川」にて拠点を置いています。「mui」とは、老子の説いた生き方「無為自然」からきており、「mui Lab」では「人の手を加えず、あるがままにまかせること」という考え方を現代のライフスタイルに取り入れ、情報テクノロジーが生活の中に溶け込むような製品開発(Calm Technology(カーム・テクノロジー))を行っています。今回は、カーム・テクノロジーの発展により、人々の日常生活を豊かにしたいと語る「mui Lab」代表取締役の大木和典さんにお話を伺いました。 デジタル化が進み、便利な機器が次々と登場する今、私たちの生活はそれにとらわれてしまいがちですが、それではもったいないと、「mui Lab」では、必要以上に存在感を出さず、生活空間に溶け込むような「muiボード」という商品を開発されました・・・・ 気になる記事の続き及びmui Lab株式会社 代表取締役 大木和典様、金谷翔真様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年10月15日時点の内容です。
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有限会社 辻倉 (つじくら)
【伝統産業】中京区応援サイト「なかなか中京」にて掲載中の「京都和傘屋 辻倉」様の記事です。
元禄3年(1690年)創業の京都和傘屋「辻倉」は、四条河原町上る東側のビルにあります。7階に店舗、5階には体験工房を備えており、落ち着いた趣で、和傘を手に取ることができます。今回は、代表取締役社長の木下基廣(きのした もとひろ)さんにお話を伺いしました。 初代の辻倉甚助(じんすけ)氏は、関ヶ原の戦いで敗れた浅井長政(あざい ながまさ)の家臣であり、戦いののちに、現在の建仁寺付近(東山区大和大路通四条下る)で「山城屋(やましろや)」の屋号で、傘の製造販売を始めたと言い伝えられています。明治時代になり、四条河原町の現在地に移転されました・・・・ 気になる記事の続き及び有限会社 辻倉 代表取締役 木下基廣様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年11月8日時点の内容です。
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元禄3年(1690年)創業の京都和傘屋「辻倉」は、四条河原町上る東側のビルにあります。7階に店舗、5階には体験工房を備えており、落ち着いた趣で、和傘を手に取ることができます。今回は、代表取締役社長の木下基廣(きのした もとひろ)さんにお話を伺いしました。 初代の辻倉甚助(じんすけ)氏は、関ヶ原の戦いで敗れた浅井長政(あざい ながまさ)の家臣であり、戦いののちに、現在の建仁寺付近(東山区大和大路通四条下る)で「山城屋(やましろや)」の屋号で、傘の製造販売を始めたと言い伝えられています。明治時代になり、四条河原町の現在地に移転されました・・・・ 気になる記事の続き及び有限会社 辻倉 代表取締役 木下基廣様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年11月8日時点の内容です。
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「河政印房」は丸太町通釜座にあり、昭和21年に創業された印章店です。現在は、3代目店主の河合良彦さんと祥子さんのご夫妻で経営されています。ご夫婦ともに、「一級印章彫刻技能士」であり、厚生労働省の「ものづくりマイスター」や、京都府の「京もの認定工芸士」、京都市の「未来の名匠」など、様々なところでその技術が認められています。今回はそんなお二人に取材させていだきました。 まず、印章店には3つの形態があります。1つ目は自分の店ではんこを彫り、販売する形態で、2つ目は職人さんに依頼(外注)したはんこを自分の店で販売する形態、3つ目は自身ではんこを彫るが店は持たない形態です。もともと河政印房は、2つ目の職人さんに外注する形態を取っており、はんこ作りに関する技術などは教わったことがなかったそうです。しかし、良彦さんと祥子さんは高齢化による職人さんの減少から、はんこ作りの技術が失われることを危惧し、京都府印章業協同組合によるはんこ作りの講習会に参加しました。その後、良彦さんと祥子さんは職人の道を歩き始められ、お店は1つ目の形態のような自分の店ではんこを彫り、販売する今の河政印房の形になりました。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年9月17日時点の内容です。
「河政印房」は丸太町通釜座にあり、昭和21年に創業された印章店です。現在は、3代目店主の河合良彦さんと祥子さんのご夫妻で経営されています。ご夫婦ともに、「一級印章彫刻技能士」であり、厚生労働省の「ものづくりマイスター」や、京都府の「京もの認定工芸士」、京都市の「未来の名匠」など、様々なところでその技術が認められています。今回はそんなお二人に取材させていだきました。 まず、印章店には3つの形態があります。1つ目は自分の店ではんこを彫り、販売する形態で、2つ目は職人さんに依頼(外注)したはんこを自分の店で販売する形態、3つ目は自身ではんこを彫るが店は持たない形態です。もともと河政印房は、2つ目の職人さんに外注する形態を取っており、はんこ作りに関する技術などは教わったことがなかったそうです。しかし、良彦さんと祥子さんは高齢化による職人さんの減少から、はんこ作りの技術が失われることを危惧し、京都府印章業協同組合によるはんこ作りの講習会に参加しました。その後、良彦さんと祥子さんは職人の道を歩き始められ、お店は1つ目の形態のような自分の店ではんこを彫り、販売する今の河政印房の形になりました。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年9月17日時点の内容です。
奇竹堂は、江戸時代から続く千家十職の一つ「竹細工・柄杓師」である、黒田正玄(現在14代目)の分家として、竹細工の製造・販売を行っています。明治29年に分家、創業から約130年の歴史を刻み、現在は4代目の黒田宗傳さんが継いでおられます。 茶杓や柄杓、花生け、香合(こうごう)などの作品をオーダーメイドで制作されていますが、中でも、柄杓は使われる釜の大きさによって柄の角度や長さが変わるため、120もの種類があるそうです。また、接着剤を一切使わずに組み立てられる作品は、細工に高い技術が必要とされ、ひとつひとつ丁寧に手作業で制作されています。 気になる記事の続きは、以下より中京区役所ホームページ内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※ 令和6年8月9日時点の内容です。
奇竹堂は、江戸時代から続く千家十職の一つ「竹細工・柄杓師」である、黒田正玄(現在14代目)の分家として、竹細工の製造・販売を行っています。明治29年に分家、創業から約130年の歴史を刻み、現在は4代目の黒田宗傳さんが継いでおられます。 茶杓や柄杓、花生け、香合(こうごう)などの作品をオーダーメイドで制作されていますが、中でも、柄杓は使われる釜の大きさによって柄の角度や長さが変わるため、120もの種類があるそうです。また、接着剤を一切使わずに組み立てられる作品は、細工に高い技術が必要とされ、ひとつひとつ丁寧に手作業で制作されています。 気になる記事の続きは、以下より中京区役所ホームページ内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※ 令和6年8月9日時点の内容です。
清々しい初夏を迎え、心地よい風を感じる季節となりました。今回は、これからの季節に需要が高まる「うちわ」に注目し、京うちわ「阿以波(あいば)」の女将 饗庭 麻弥(あいば まや)様にお話を伺いました。 うちわの歴史は古く、中国の周時代(紀元前3世紀頃)には存在しており、エジプトの壁面にも描かれていました。日本には飛鳥時代(593年前後~710年)に伝わり、高貴な方々が顔にかざすように使っていましたが、庶民の間でも広がりを見せ、アクセサリーのような感覚で愛用されました。また、邪気を払う縁起物としても親しまれていました。その中でも「京うちわ」は、竹で細かく裂いて作った骨を一本ずつ放射状に並べた団扇面と、持ち手の柄(え)を別々に作成し、のちに組み合わせる手法で、繊細優雅なうちわという特徴を誇っています。 気になる記事の続き及び京うちわ 阿以波 饗庭様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年6月28日時点の内容です。
清々しい初夏を迎え、心地よい風を感じる季節となりました。今回は、これからの季節に需要が高まる「うちわ」に注目し、京うちわ「阿以波(あいば)」の女将 饗庭 麻弥(あいば まや)様にお話を伺いました。 うちわの歴史は古く、中国の周時代(紀元前3世紀頃)には存在しており、エジプトの壁面にも描かれていました。日本には飛鳥時代(593年前後~710年)に伝わり、高貴な方々が顔にかざすように使っていましたが、庶民の間でも広がりを見せ、アクセサリーのような感覚で愛用されました。また、邪気を払う縁起物としても親しまれていました。その中でも「京うちわ」は、竹で細かく裂いて作った骨を一本ずつ放射状に並べた団扇面と、持ち手の柄(え)を別々に作成し、のちに組み合わせる手法で、繊細優雅なうちわという特徴を誇っています。 気になる記事の続き及び京うちわ 阿以波 饗庭様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年6月28日時点の内容です。
二条城と二条駅の間にある神泉苑。「龍神」がいるとされる大きな池やアヒルがいることで、ご存知の方も多いと思います。その歴史は古く、今年で建立1230年目を迎えます。今年は辰年ということにちなみ、「龍神」のお話や歴史について、副住職の鳥越 智翔(とりごえ ちしょう)さんにお話を伺いました。 平安京ができた延暦13年(794年)、大内裏の南側に隣接して造営された神泉苑は、「禁苑」(宮中附属の天皇のための庭園として造られたものであり、一般の方は入苑を許されない場所)として整備されました。 苑内は、大きな池や青々とした木々など、自然豊かな空間が広がっていて、当時の宮中の方々は舟遊びや魚釣り、春にはお花見、秋には菊の節句で菊の酒を飲んで長生きを祈願されるなど、季節ごとに趣のある時間を過ごされていたそうです。また、「弘法大師」の空海は、大内裏への参詣の後、その道すがら神泉苑で「豊かな自然が昔からあるところなので帰りたくない」などの漢詩を残しています。 気になる記事の続き及び神泉苑 鳥越様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年5月20日時点の内容です。
二条城と二条駅の間にある神泉苑。「龍神」がいるとされる大きな池やアヒルがいることで、ご存知の方も多いと思います。その歴史は古く、今年で建立1230年目を迎えます。今年は辰年ということにちなみ、「龍神」のお話や歴史について、副住職の鳥越 智翔(とりごえ ちしょう)さんにお話を伺いました。 平安京ができた延暦13年(794年)、大内裏の南側に隣接して造営された神泉苑は、「禁苑」(宮中附属の天皇のための庭園として造られたものであり、一般の方は入苑を許されない場所)として整備されました。 苑内は、大きな池や青々とした木々など、自然豊かな空間が広がっていて、当時の宮中の方々は舟遊びや魚釣り、春にはお花見、秋には菊の節句で菊の酒を飲んで長生きを祈願されるなど、季節ごとに趣のある時間を過ごされていたそうです。また、「弘法大師」の空海は、大内裏への参詣の後、その道すがら神泉苑で「豊かな自然が昔からあるところなので帰りたくない」などの漢詩を残しています。 気になる記事の続き及び神泉苑 鳥越様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年5月20日時点の内容です。
「祇園小石」は、1936年に創業された京飴専門店です。「祇園小石」の社名について、取締役会長の山田健介さんに伺うと、京の「祇園」と鴨川の「小石」に掛けて命名されたそうです。また、祇園の風情を唄った「祇園小唄」の一節に「祇園恋しや だらりの帯よ」とあり、「親しみを感じてもらえたら」と話され、社名のこだわりを感じました。 こだわりの飴は個包装にかかれている「一粒のくつろぎ」からも感じられます。「祇園小石の特徴は、滑らかな舌触りと繊細な色味」と話されるように、造り方も工夫されています。そもそも飴は、砂糖と水飴をまぜ、高温で炊き、冷やし、固めて仕上げます。火力が不足すると、炊くのに時間がかかってしまい、歯にくっつくようなベタベタした舌触りになってしまうそうです。そのため、「祇園小石」では高温で一気に炊き上げる「直火釜炊き製法」がとられています。また、飴を伸ばす工程は機械によって生まれてしまう飴の表面のザラつきをなくすため、数名の職人さんの手作業で行われています。そして、安全性の観点からも合成着色料は使用していません。その中でも「目で見て食べる」ことも楽しんでもらうため、味にあったお色味を天然着色料で出せるよう、味ごとに色合いにもこだわりを持って製造されています。 気になる記事の続き及び祇園小石 山田様からのメッセージは、以下より中京区応援サイト「なかなか中京」HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年6月10日時点の内容です。
「祇園小石」は、1936年に創業された京飴専門店です。「祇園小石」の社名について、取締役会長の山田健介さんに伺うと、京の「祇園」と鴨川の「小石」に掛けて命名されたそうです。また、祇園の風情を唄った「祇園小唄」の一節に「祇園恋しや だらりの帯よ」とあり、「親しみを感じてもらえたら」と話され、社名のこだわりを感じました。 こだわりの飴は個包装にかかれている「一粒のくつろぎ」からも感じられます。「祇園小石の特徴は、滑らかな舌触りと繊細な色味」と話されるように、造り方も工夫されています。そもそも飴は、砂糖と水飴をまぜ、高温で炊き、冷やし、固めて仕上げます。火力が不足すると、炊くのに時間がかかってしまい、歯にくっつくようなベタベタした舌触りになってしまうそうです。そのため、「祇園小石」では高温で一気に炊き上げる「直火釜炊き製法」がとられています。また、飴を伸ばす工程は機械によって生まれてしまう飴の表面のザラつきをなくすため、数名の職人さんの手作業で行われています。そして、安全性の観点からも合成着色料は使用していません。その中でも「目で見て食べる」ことも楽しんでもらうため、味にあったお色味を天然着色料で出せるよう、味ごとに色合いにもこだわりを持って製造されています。 気になる記事の続き及び祇園小石 山田様からのメッセージは、以下より中京区応援サイト「なかなか中京」HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年6月10日時点の内容です。
丸太町通烏丸西入にある「すはま屋」。「すはま」は浅煎りの大豆粉と砂糖、大麦や米からとった麦芽で作った蜜を練り合わせた和菓子で、宝暦の時代(1751~1764年頃)には「日本四大菓子」の一つとされ、葵祭では下鴨神社の御神饌(しんせん)として数百年にわたって「すはま」が献上されていました。今もなお、京都の銘菓として多くの方に親しまれ続けています。 「すはま屋」の前身は、2016年に閉店した「御洲濱司(おんすはまつかさ)植村義次」さん。1657年に創業し、約360年の歴史をもつ和菓子の老舗です。「すはま」の名前の由来となった「洲浜形」を考案したお店です(「浜辺の入り込み」が縁起がよいとされ、豆飴をそのような形にかたどったことから、「すはま」と呼ばれるようになったそう)。 気になる記事の続き及びすはま屋 芳野様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年4月19日時点の内容です。
丸太町通烏丸西入にある「すはま屋」。「すはま」は浅煎りの大豆粉と砂糖、大麦や米からとった麦芽で作った蜜を練り合わせた和菓子で、宝暦の時代(1751~1764年頃)には「日本四大菓子」の一つとされ、葵祭では下鴨神社の御神饌(しんせん)として数百年にわたって「すはま」が献上されていました。今もなお、京都の銘菓として多くの方に親しまれ続けています。 「すはま屋」の前身は、2016年に閉店した「御洲濱司(おんすはまつかさ)植村義次」さん。1657年に創業し、約360年の歴史をもつ和菓子の老舗です。「すはま」の名前の由来となった「洲浜形」を考案したお店です(「浜辺の入り込み」が縁起がよいとされ、豆飴をそのような形にかたどったことから、「すはま」と呼ばれるようになったそう)。 気になる記事の続き及びすはま屋 芳野様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年4月19日時点の内容です。
壬生川高辻の交差点を西に進んだところにある「食一」は、「食を通じて社会を愉快に」をモットーに掲げ、店頭であまり見かけない珍しい鮮魚の仕入れに力を入れ、100箇所を越える全国各地の漁港から、直接、飲食店などの取引先に届けています。同志社大学の4回生だった田中淳士社長が平成20(2008)年に起業し、今年で創業16年目を迎えます。 ⚫︎「食一」創業の経緯と魚との出会い 田中社長のご実家は九州で明治時代から140年以上続く魚の仲買業を営んでおり、幼少の頃から新鮮でおいしい魚に囲まれて生まれ育ったという田中社長は、将来、家業を継ぐ予定でしたが、学内の「起業家コンテスト」で優勝したことをきっかけに起業の道が始まりました。 創業当初は、京都の漁港から鯛やアジ、サバといった有名な魚を仕入れていましたが、「価格競争ではなく、新規参入の魚屋だからこそ何か強みを持ち、食一だからできることを見つけたい」と、全国の漁港を回り始めました・・・ 気になる記事の続き及び食一 田中 淳士様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年2月15日時点の内容です。
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壬生川高辻の交差点を西に進んだところにある「食一」は、「食を通じて社会を愉快に」をモットーに掲げ、店頭であまり見かけない珍しい鮮魚の仕入れに力を入れ、100箇所を越える全国各地の漁港から、直接、飲食店などの取引先に届けています。同志社大学の4回生だった田中淳士社長が平成20(2008)年に起業し、今年で創業16年目を迎えます。 ⚫︎「食一」創業の経緯と魚との出会い 田中社長のご実家は九州で明治時代から140年以上続く魚の仲買業を営んでおり、幼少の頃から新鮮でおいしい魚に囲まれて生まれ育ったという田中社長は、将来、家業を継ぐ予定でしたが、学内の「起業家コンテスト」で優勝したことをきっかけに起業の道が始まりました。 創業当初は、京都の漁港から鯛やアジ、サバといった有名な魚を仕入れていましたが、「価格競争ではなく、新規参入の魚屋だからこそ何か強みを持ち、食一だからできることを見つけたい」と、全国の漁港を回り始めました・・・ 気になる記事の続き及び食一 田中 淳士様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年2月15日時点の内容です。
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江戸時代から続く、創業200年余のお酢の老舗「齋(いつき)造酢店」。お酢は昔、食用のほかにも、京友禅の色止めを目的に使用されていたこともあり、そのお酢を中心に製造されていました。その後、色止めに薬品が用いられるようになったことで、7代目の嘉造(かぞう)氏は、当時需要が高まっていた食用酢に注目します。そして、現在も看板商品となっている純米酢「花菱酢」を生み出し、食用酢を中心とした製造・販売が今もなお続いています。 商品を販売するうえで「目の届く範囲で」の販売を重んじられています。そのため、お店で試飲していただき、お客様から直接感想を聞くことで、買い手の声を反映したお酢造りを実現しようとされています。また齋造酢店では、防腐剤を使用しなかったり、夏のお酢は冬よりも塩分を多めにするなど季節によって製造工程を変えたりしておられ、手づくりのお酢ならではのこだわりが伺えます。そのため、オンラインでの購入が可能な「ぽん酢」とは異なり、「純米酢」については店頭のみの取扱いとなっています。 さらに、お酢の魅力について伺うと「しっかり酸味を感じるのにまろやかであることや、食欲増進や夏バテの効果が期待できることがお酢の魅力であり、料理の味を決める調味料としてさまざまな場面で使用できます」と9代目店主の齋 正浩(まさひろ)さん。今はお鍋の他にも、ピクルスや餃子のたれ、ドレッシングなど、お酢の活躍の場が増えているそうで「楽しみ方は変化していきますが、お酢の役割には変わりはなく、『縁の下の力持ち』として、ベースとなる味を変えないように努めたいです」と話されました・・・ 気になる記事の続き及び齋造酢店 齋 正浩様、亜美様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年4月5日時点の内容です。
江戸時代から続く、創業200年余のお酢の老舗「齋(いつき)造酢店」。お酢は昔、食用のほかにも、京友禅の色止めを目的に使用されていたこともあり、そのお酢を中心に製造されていました。その後、色止めに薬品が用いられるようになったことで、7代目の嘉造(かぞう)氏は、当時需要が高まっていた食用酢に注目します。そして、現在も看板商品となっている純米酢「花菱酢」を生み出し、食用酢を中心とした製造・販売が今もなお続いています。 商品を販売するうえで「目の届く範囲で」の販売を重んじられています。そのため、お店で試飲していただき、お客様から直接感想を聞くことで、買い手の声を反映したお酢造りを実現しようとされています。また齋造酢店では、防腐剤を使用しなかったり、夏のお酢は冬よりも塩分を多めにするなど季節によって製造工程を変えたりしておられ、手づくりのお酢ならではのこだわりが伺えます。そのため、オンラインでの購入が可能な「ぽん酢」とは異なり、「純米酢」については店頭のみの取扱いとなっています。 さらに、お酢の魅力について伺うと「しっかり酸味を感じるのにまろやかであることや、食欲増進や夏バテの効果が期待できることがお酢の魅力であり、料理の味を決める調味料としてさまざまな場面で使用できます」と9代目店主の齋 正浩(まさひろ)さん。今はお鍋の他にも、ピクルスや餃子のたれ、ドレッシングなど、お酢の活躍の場が増えているそうで「楽しみ方は変化していきますが、お酢の役割には変わりはなく、『縁の下の力持ち』として、ベースとなる味を変えないように努めたいです」と話されました・・・ 気になる記事の続き及び齋造酢店 齋 正浩様、亜美様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年4月5日時点の内容です。
地元の方々や観光客でにぎわう京都の中心地、三条寺町にある矢田寺。平安時代に大和国(奈良県大和郡山)の矢田寺の別院として、官僚であった小野篁(おののたかむら、小野小町の祖父といわれている)と住僧の満米上人(まんまいしょうにん)により、五条坊門(※)に建立されました。 それ以降、火災に見舞われ、天正18(1590)年に現在の地へと移りました。本尊の地蔵菩薩は高さ5尺2寸(170cmほど)の立像で、優しく穏やかな表情をされています。「満米上人が地獄に招かれた際、成仏できなかった者を救っている生身の地蔵菩薩を目にした」といわれており、その生身の地蔵菩薩と等身大の地蔵が「矢田地蔵」といわれています。これらの背景により、人の苦しみを代わりに受けてくださる「代受苦地蔵」と呼ばれています。多くの地蔵菩薩は右手に杖、左手に如意宝珠を持っておられますが、矢田寺の地蔵菩薩は、右手の親指と人差し指を結び、左手は二指で輪を作り宝珠を持っているという独特のスタイルで、「矢田型地蔵」とも呼ばれています・・・ ※平安京では東西路と朱雀大路との交差点の左京側・右京側にそれぞれ1箇所ずつ「坊門」が設けられたといわれていて、五条坊門は壬生寺の南側とされている。 気になる記事の続き及び矢田寺 前住職 西尾 道博様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年3月15日時点の内容です。
地元の方々や観光客でにぎわう京都の中心地、三条寺町にある矢田寺。平安時代に大和国(奈良県大和郡山)の矢田寺の別院として、官僚であった小野篁(おののたかむら、小野小町の祖父といわれている)と住僧の満米上人(まんまいしょうにん)により、五条坊門(※)に建立されました。 それ以降、火災に見舞われ、天正18(1590)年に現在の地へと移りました。本尊の地蔵菩薩は高さ5尺2寸(170cmほど)の立像で、優しく穏やかな表情をされています。「満米上人が地獄に招かれた際、成仏できなかった者を救っている生身の地蔵菩薩を目にした」といわれており、その生身の地蔵菩薩と等身大の地蔵が「矢田地蔵」といわれています。これらの背景により、人の苦しみを代わりに受けてくださる「代受苦地蔵」と呼ばれています。多くの地蔵菩薩は右手に杖、左手に如意宝珠を持っておられますが、矢田寺の地蔵菩薩は、右手の親指と人差し指を結び、左手は二指で輪を作り宝珠を持っているという独特のスタイルで、「矢田型地蔵」とも呼ばれています・・・ ※平安京では東西路と朱雀大路との交差点の左京側・右京側にそれぞれ1箇所ずつ「坊門」が設けられたといわれていて、五条坊門は壬生寺の南側とされている。 気になる記事の続き及び矢田寺 前住職 西尾 道博様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年3月15日時点の内容です。
NPO法人 Reframe
【福祉・医療・生活】中京区応援サイト「なかなか中京」にて掲載中の「NPO法人 Reframe」様の記事です。
Reframe(リフレーム)は、子どもから高齢者までが「自分らしく生きられる」社会、そして笑顔あふれる地域づくりを目指して、中京区を拠点に活動している非営利団体です。Reframeは、学校に行きづらい子どもたちのための居場所「くらら庵」を運営しており、学校や家庭以外に子どもが安心して過ごすことができ、学びの機会も得られる場を作りたいと、2021年5月にオープンしました。 「くらら庵」では、自由に過ごせることをベースに、こども食堂や勉強会のほか、週に一度、「とびだせ!くらら庵」と題した屋外に出かける企画も行っています。科学実験やものづくり、芋掘り、わかさぎ釣り、1泊2日のキャンプなど、屋外でさまざまなプログラムを子どもたちに体験していただき、地域や社会との交流を持つことの大切さを伝えています。現在十数名の小学生が利用していて、学校や家庭以外で社会性を学べるサードプレイスとしての役割を担っています。 気になる記事の続き及び代表理事 朝倉 美保(あさくら みほ)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年1月25日時点の内容です。
Reframe(リフレーム)は、子どもから高齢者までが「自分らしく生きられる」社会、そして笑顔あふれる地域づくりを目指して、中京区を拠点に活動している非営利団体です。Reframeは、学校に行きづらい子どもたちのための居場所「くらら庵」を運営しており、学校や家庭以外に子どもが安心して過ごすことができ、学びの機会も得られる場を作りたいと、2021年5月にオープンしました。 「くらら庵」では、自由に過ごせることをベースに、こども食堂や勉強会のほか、週に一度、「とびだせ!くらら庵」と題した屋外に出かける企画も行っています。科学実験やものづくり、芋掘り、わかさぎ釣り、1泊2日のキャンプなど、屋外でさまざまなプログラムを子どもたちに体験していただき、地域や社会との交流を持つことの大切さを伝えています。現在十数名の小学生が利用していて、学校や家庭以外で社会性を学べるサードプレイスとしての役割を担っています。 気になる記事の続き及び代表理事 朝倉 美保(あさくら みほ)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年1月25日時点の内容です。
RAKURO 京都by THE SHARE HOTELS
【旅館・ホテル】中京区応援サイト「なかなか中京」にて掲載中の「RAKURO 京都by THE SHARE HOTELS」様の記事です。
烏丸丸太町を西に行ったところに、「RAKURO 京都 by THE SHARE HOTELS」はあります。 「THE SHARE HOTELS(ザ・シェア・ホテルズ)」とは、リノベーション事業等を手掛ける株式会社リビタのホテルブランドであり、「地域との共生」をコンセプトに全国9店舗で展開されています。京都では、烏丸丸太町の「RAKURO(ラクロ)京都」、三条柳馬場の「TSUGU(ツグ)京都三条」の2つのホテルを手掛けておられます。 今回はこの4月にリニューアルオープンした「RAKURO京都」のコンセプトや、区民の方も楽しめる内容について、株式会社リビタの西村さんに伺ってきました。 - ホテルが目指す「地域との共生」 - 「RAKURO京都」は御所の南西にあり、京都の出版社の本社ビルをリノベーションし、平成30(2018)年に開業されました。この4月には、ゲストに御所の広大な「自然」と「癒し」を感じていただき、ゆったりとくつろいでほしいという思いから、レストランとゲストラウンジをリニューアルしました。中に入ると、御所の豊かな自然をイメージした内装となっていて、ボタニカルな香りに包まれ、非日常の空間が広がっています・・・ 気になる記事の続き及び株式会社リビタ 「TSUGU京都三条」リーダー 西村 望実様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年1月9日時点の内容です。
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烏丸丸太町を西に行ったところに、「RAKURO 京都 by THE SHARE HOTELS」はあります。 「THE SHARE HOTELS(ザ・シェア・ホテルズ)」とは、リノベーション事業等を手掛ける株式会社リビタのホテルブランドであり、「地域との共生」をコンセプトに全国9店舗で展開されています。京都では、烏丸丸太町の「RAKURO(ラクロ)京都」、三条柳馬場の「TSUGU(ツグ)京都三条」の2つのホテルを手掛けておられます。 今回はこの4月にリニューアルオープンした「RAKURO京都」のコンセプトや、区民の方も楽しめる内容について、株式会社リビタの西村さんに伺ってきました。 - ホテルが目指す「地域との共生」 - 「RAKURO京都」は御所の南西にあり、京都の出版社の本社ビルをリノベーションし、平成30(2018)年に開業されました。この4月には、ゲストに御所の広大な「自然」と「癒し」を感じていただき、ゆったりとくつろいでほしいという思いから、レストランとゲストラウンジをリニューアルしました。中に入ると、御所の豊かな自然をイメージした内装となっていて、ボタニカルな香りに包まれ、非日常の空間が広がっています・・・ 気になる記事の続き及び株式会社リビタ 「TSUGU京都三条」リーダー 西村 望実様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年1月9日時点の内容です。
創業約250年の歴史を誇る、京都で一番古い漬物屋「総本家 近清」。元々は滋賀県の草津で農業を営み、近江の産物を販売する直営店「近江屋」を構え、野菜や米、味噌などを販売していましたが、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」が財政立て直しのために行った「享保の改革」によって、お店を京都の魚の棚通(六条通)に移しました。 「享保の改革」では、農民が自身でつくった作物を加工して販売(家内工業)できるようになりました。それにより、お店で売れ残った近江の野菜を捨てるのはもったいないと考えていた初代清右衛門は、野菜を味噌やぬかに漬けて保存し、それを販売することにしました。瞬く間に大人気商品となり、これが漬物のはじまりとなりました。 その後、1764年に農業から漬物屋へと転身し、屋号も「近清」に変更し、漬物屋として一歩を踏み出したのです。当時、魚の棚通は本願寺門前町として本願寺を訪れた人々や観光客がにぎわう商店街であったため、漬物屋として広く親しまれるようになっていきました・・・ 気になる記事の続き及び代表取締役 櫻井 慎也(さくらい しんや)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年12月15日時点の内容です。
創業約250年の歴史を誇る、京都で一番古い漬物屋「総本家 近清」。元々は滋賀県の草津で農業を営み、近江の産物を販売する直営店「近江屋」を構え、野菜や米、味噌などを販売していましたが、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」が財政立て直しのために行った「享保の改革」によって、お店を京都の魚の棚通(六条通)に移しました。 「享保の改革」では、農民が自身でつくった作物を加工して販売(家内工業)できるようになりました。それにより、お店で売れ残った近江の野菜を捨てるのはもったいないと考えていた初代清右衛門は、野菜を味噌やぬかに漬けて保存し、それを販売することにしました。瞬く間に大人気商品となり、これが漬物のはじまりとなりました。 その後、1764年に農業から漬物屋へと転身し、屋号も「近清」に変更し、漬物屋として一歩を踏み出したのです。当時、魚の棚通は本願寺門前町として本願寺を訪れた人々や観光客がにぎわう商店街であったため、漬物屋として広く親しまれるようになっていきました・・・ 気になる記事の続き及び代表取締役 櫻井 慎也(さくらい しんや)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年12月15日時点の内容です。
三条柳馬場通りを東に進んだところに、「西村吉象堂」はあります。西村吉象堂は、祖父の西村吉蔵(きちぞう)さんが大正13(1924)年に京都の老舗漆器店「象彦」から独立し、店名を「象彦」の「象」と吉蔵氏の「吉」から名付けたことに始まります。主に漆器や工芸品を扱い、販売だけでなく漆器のオーダーメイドや修理も行っています。 現在3代目の西村祐一さんは、平成5(1993)年からお店を受け継がれ、30年ほどになります。西村さんは後継者となる以前は横浜の百貨店に就職されていたため、様々な商品を目にし、商売やものづくりについて学ぶ機会がありました。その後、「家業を本格的に継ぐ前に、漆器についてより知りたい」という思いから、京都市産業技術研究所の後継者育成制度を活用し、漆を塗る前の下地から漆に描く蒔絵までの工程を学ばれました。この経験について西村さんは「漆器について学んだことで、職人さんの苦労を理解しつつ、的確にお客様の要望を伝えることができる」と話され、作り手・買い手の両方からの信頼を大切にされています。 西村吉象堂が扱う「漆(うるし)」とは、木から採れる樹液のことで、天然塗料の1つです。この漆は、1度にとれる量が少量であるため、国内産も少なく、とても貴重なものとされています。西村さんは「漆塗りでしか出せない雰囲気と艶(つや)」があり、長く使うことで色味や質感の変化、味が楽しめるところが漆の魅力だと語られました。そして、「伝統産業品は、環境に優しい作り方をしていて、修理すれば1つのものを何度でも長く利用できるところがSDGsに適している」と考えておられます・・・ 気になる記事の続き及び店主 西村 祐一(にしむら ゆういち)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年11月22日時点の内容です。
三条柳馬場通りを東に進んだところに、「西村吉象堂」はあります。西村吉象堂は、祖父の西村吉蔵(きちぞう)さんが大正13(1924)年に京都の老舗漆器店「象彦」から独立し、店名を「象彦」の「象」と吉蔵氏の「吉」から名付けたことに始まります。主に漆器や工芸品を扱い、販売だけでなく漆器のオーダーメイドや修理も行っています。 現在3代目の西村祐一さんは、平成5(1993)年からお店を受け継がれ、30年ほどになります。西村さんは後継者となる以前は横浜の百貨店に就職されていたため、様々な商品を目にし、商売やものづくりについて学ぶ機会がありました。その後、「家業を本格的に継ぐ前に、漆器についてより知りたい」という思いから、京都市産業技術研究所の後継者育成制度を活用し、漆を塗る前の下地から漆に描く蒔絵までの工程を学ばれました。この経験について西村さんは「漆器について学んだことで、職人さんの苦労を理解しつつ、的確にお客様の要望を伝えることができる」と話され、作り手・買い手の両方からの信頼を大切にされています。 西村吉象堂が扱う「漆(うるし)」とは、木から採れる樹液のことで、天然塗料の1つです。この漆は、1度にとれる量が少量であるため、国内産も少なく、とても貴重なものとされています。西村さんは「漆塗りでしか出せない雰囲気と艶(つや)」があり、長く使うことで色味や質感の変化、味が楽しめるところが漆の魅力だと語られました。そして、「伝統産業品は、環境に優しい作り方をしていて、修理すれば1つのものを何度でも長く利用できるところがSDGsに適している」と考えておられます・・・ 気になる記事の続き及び店主 西村 祐一(にしむら ゆういち)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年11月22日時点の内容です。
御所の南にある「中里(なかさと)」は、筆の製造・販売を行う京都の老舗企業です。創業当初から御祖母様の御実家である京都で、友禅で用いられる筆や小刷毛を製造されていました。京都は京都市立芸術大学をはじめとした芸術大学や画家が多いことから、絵筆の需要が高く、水彩画や陶器に描くことができる筆の製造も行うようになりました。「時代やその土地のニーズに合わせた筆作りを心がけています」と、代表取締役社長の中里文彦さん。現在は、コーヒーミルの掃除用の刷毛や釣り具の装飾用筆などを開発され、幅広く対応されています。 幼い頃から筆が身近にあった中里さん。筆作りに対する思いを伺うと、「先代の頃から続いている筆作りは、お客様の期待や信頼があってこそ。その期待や信頼に応えたいという思いがまずあります」と話され、コロナ前は、中国の工場まで実際に足を運び、原材料の状態を確認したり、現地の筆作り職人とのコミュニケーションを取り、日本では補えない部分をお願いしたりと、ニーズに応えるために安定したものづくりに尽力されています・・・ 気になる記事の続き及び代表取締役社長 中里 文彦(なかさと ふみひこ)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年11月1日時点の内容です。
御所の南にある「中里(なかさと)」は、筆の製造・販売を行う京都の老舗企業です。創業当初から御祖母様の御実家である京都で、友禅で用いられる筆や小刷毛を製造されていました。京都は京都市立芸術大学をはじめとした芸術大学や画家が多いことから、絵筆の需要が高く、水彩画や陶器に描くことができる筆の製造も行うようになりました。「時代やその土地のニーズに合わせた筆作りを心がけています」と、代表取締役社長の中里文彦さん。現在は、コーヒーミルの掃除用の刷毛や釣り具の装飾用筆などを開発され、幅広く対応されています。 幼い頃から筆が身近にあった中里さん。筆作りに対する思いを伺うと、「先代の頃から続いている筆作りは、お客様の期待や信頼があってこそ。その期待や信頼に応えたいという思いがまずあります」と話され、コロナ前は、中国の工場まで実際に足を運び、原材料の状態を確認したり、現地の筆作り職人とのコミュニケーションを取り、日本では補えない部分をお願いしたりと、ニーズに応えるために安定したものづくりに尽力されています・・・ 気になる記事の続き及び代表取締役社長 中里 文彦(なかさと ふみひこ)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年11月1日時点の内容です。
六角東洞院の東にお店を構える「六角ちきりや茶舗」は、大正10年頃に創業されたお茶屋さんです。「ちきりや(千切屋)」は、1550年代に西村与三右衛門貞喜が三条室町西入で法衣商を開いたのが始まりとされ、その後、「千治(ちじ)」、「千總(ちそう)」、「千吉(ちきち)」に分家し、京都の商業を発展させた一門で江戸時代には百軒ほどの家々があったとされております。 「六角ちきりや茶舗」は、「千吉」に奉公していた秋山覚兵衛が分家し、その150年ほど後に「七代目・秋山覚兵衛」へ丁稚奉公をしていた初代 若林栄二郎氏が、秋山氏からのれん分けをいただき、1910~1920年代頃に創業したのが始まりです。 そこから100年ほど事業は引き継がれ、4年前に3代目の若林孝二郎さんから、4代目の若林大督(だいすけ)さんに店主が引き継がれました。若林大督さんは、店主になられる前は住宅関係のお仕事をされていましたが、「ここで生まれ育ち、店舗は生活の一部であり、現在自治連合会長を務める父と、地域の方の憩いの場となっているお店をずっと見てきました。そのため、簡単にお店をたたむべきではないと思いましたし、自分の子どもにも、生活と働くことがつながっているということを知ってもらいたい」と話され、曾祖父から続くお店への思いを語られました・・・ 気になる記事の続き及び4代目店主 若林 大督(わかばやし だいすけ)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年10月16日時点の内容です。
六角東洞院の東にお店を構える「六角ちきりや茶舗」は、大正10年頃に創業されたお茶屋さんです。「ちきりや(千切屋)」は、1550年代に西村与三右衛門貞喜が三条室町西入で法衣商を開いたのが始まりとされ、その後、「千治(ちじ)」、「千總(ちそう)」、「千吉(ちきち)」に分家し、京都の商業を発展させた一門で江戸時代には百軒ほどの家々があったとされております。 「六角ちきりや茶舗」は、「千吉」に奉公していた秋山覚兵衛が分家し、その150年ほど後に「七代目・秋山覚兵衛」へ丁稚奉公をしていた初代 若林栄二郎氏が、秋山氏からのれん分けをいただき、1910~1920年代頃に創業したのが始まりです。 そこから100年ほど事業は引き継がれ、4年前に3代目の若林孝二郎さんから、4代目の若林大督(だいすけ)さんに店主が引き継がれました。若林大督さんは、店主になられる前は住宅関係のお仕事をされていましたが、「ここで生まれ育ち、店舗は生活の一部であり、現在自治連合会長を務める父と、地域の方の憩いの場となっているお店をずっと見てきました。そのため、簡単にお店をたたむべきではないと思いましたし、自分の子どもにも、生活と働くことがつながっているということを知ってもらいたい」と話され、曾祖父から続くお店への思いを語られました・・・ 気になる記事の続き及び4代目店主 若林 大督(わかばやし だいすけ)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年10月16日時点の内容です。
スタジオコロリド 京都スタジオ
【文化・教養・スポーツ】中京区応援サイト「なかなか中京」にて掲載中の「スタジオコロリド 京都スタジオ」様の記事です。
今年3月に、朱雀第四小学校の北側に「スタジオコロリド 京都スタジオ」を開設されたアニメ制作会社「スタジオコロリド」。映画を中心に、ミュージックビデオやショートムービー、コマーシャル映像等の多数の作品を手がけられ、アニメ業界をけん引されています。今回は、京都スタジオ室長で制作進行の江部さん、リレーションシップ・マネージャーの迫田さんに、「スタジオコロリド 京都スタジオ」の取組や、京都のクリエイティブ産業の展望について、お話を伺いました。 スタジオ開設の一つのきっかけは、スタジオコロリドのアニメーターの方が京都の大学で講師として働かれることになったことでした。大学の授業後、本社のある東京に戻ることになりますが、京都で作業できるスタジオがあれば、移動時間の短縮や、移動時間が作業時間に変えられるため、働き方の改善が期待できます。 また、コロナ禍でリモートでの作業が増え、効率性の向上という良い面もありましたが、「後進の育成」という観点において、対面の重要性も再認識され、「もう一度、対面をコンセプトに制作に取り組みたい」という思いが強まったことも、京都スタジオ開設に至ったきっかけの一つです。設立が決まってからは、社内でその思いに共感してくれる社員の方々とともに準備を行い、今年(2023年)3月に京都スタジオとしてスタートされました・・・ 気になる記事の続き及びスタジオコロリド 京都スタジオ 迫田様、江部様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年9月13日時点の内容です。
今年3月に、朱雀第四小学校の北側に「スタジオコロリド 京都スタジオ」を開設されたアニメ制作会社「スタジオコロリド」。映画を中心に、ミュージックビデオやショートムービー、コマーシャル映像等の多数の作品を手がけられ、アニメ業界をけん引されています。今回は、京都スタジオ室長で制作進行の江部さん、リレーションシップ・マネージャーの迫田さんに、「スタジオコロリド 京都スタジオ」の取組や、京都のクリエイティブ産業の展望について、お話を伺いました。 スタジオ開設の一つのきっかけは、スタジオコロリドのアニメーターの方が京都の大学で講師として働かれることになったことでした。大学の授業後、本社のある東京に戻ることになりますが、京都で作業できるスタジオがあれば、移動時間の短縮や、移動時間が作業時間に変えられるため、働き方の改善が期待できます。 また、コロナ禍でリモートでの作業が増え、効率性の向上という良い面もありましたが、「後進の育成」という観点において、対面の重要性も再認識され、「もう一度、対面をコンセプトに制作に取り組みたい」という思いが強まったことも、京都スタジオ開設に至ったきっかけの一つです。設立が決まってからは、社内でその思いに共感してくれる社員の方々とともに準備を行い、今年(2023年)3月に京都スタジオとしてスタートされました・・・ 気になる記事の続き及びスタジオコロリド 京都スタジオ 迫田様、江部様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年9月13日時点の内容です。
アメリカを中心に展開している「エースホテル」。1999年にアメリカのシアトルに第一号のホテルをオープンされてから、アメリカ国内にとどまらず、日本やカナダ、オーストラリアにも展開され、現在は世界10都市でホテルを運営されています。日本では、2020年のコロナ禍に、初の日本及びアジア進出となる「エースホテル京都」をオープンされました。今回は、初の日本及びアジア進出の場として京都を選んだ理由や、「エースホテル京都」のコンセプト、地元の方々との関わり方など、広報を担当される林 亜希子さんにお話を伺いました。 エースホテルとして、「既存の建物を活用し(utilizing existing structures) 、地域との共生 (connecting with local communities)を目指す」というコンセプトを掲げています。そのコンセプトのとおり、エースホテル京都は、歴史的建築物である旧京都中央電話局を改修してつくられた「新風館」の中にあり、これまでの建物を活かし、まちに溶け込むことを意識されています。「京都は、豊かなアートや自然、歴史が根付いていて、まち全体が美術館のよう」と林さん。「そのため京都は、その土地の文化と共生することができる日本で唯一の場所であると感じました」と進出の理由を教えていただきました・・・ 気になる記事の続き及びACE HOTEL KYOTO セールス&マーケティング部長 林 亜希子(はやし あきこ)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年8月31日時点の内容です。
アメリカを中心に展開している「エースホテル」。1999年にアメリカのシアトルに第一号のホテルをオープンされてから、アメリカ国内にとどまらず、日本やカナダ、オーストラリアにも展開され、現在は世界10都市でホテルを運営されています。日本では、2020年のコロナ禍に、初の日本及びアジア進出となる「エースホテル京都」をオープンされました。今回は、初の日本及びアジア進出の場として京都を選んだ理由や、「エースホテル京都」のコンセプト、地元の方々との関わり方など、広報を担当される林 亜希子さんにお話を伺いました。 エースホテルとして、「既存の建物を活用し(utilizing existing structures) 、地域との共生 (connecting with local communities)を目指す」というコンセプトを掲げています。そのコンセプトのとおり、エースホテル京都は、歴史的建築物である旧京都中央電話局を改修してつくられた「新風館」の中にあり、これまでの建物を活かし、まちに溶け込むことを意識されています。「京都は、豊かなアートや自然、歴史が根付いていて、まち全体が美術館のよう」と林さん。「そのため京都は、その土地の文化と共生することができる日本で唯一の場所であると感じました」と進出の理由を教えていただきました・・・ 気になる記事の続き及びACE HOTEL KYOTO セールス&マーケティング部長 林 亜希子(はやし あきこ)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年8月31日時点の内容です。
坂ノ途中(本と野菜 OyOy(オイオイ))
【飲食店・ショップ】中京区応援サイト「なかなか中京」にて掲載中の「坂ノ途中」様の記事です。
株式会社坂ノ途中は、「旬のお野菜セット 定期便」の販売を中心に全国展開されている企業です。お野菜セットには、化学合成農薬や化学肥料を使わずに育てられた野菜がバランスよく詰め合わせられていて、ご家庭で旬の野菜の味を楽しむことができます。また、烏丸御池にある新風館には、坂ノ途中のコンセプトを伝えるお店「本と野菜 OyOy(オイオイ)」を構えています。今回は取り扱うお野菜に込められた思いや創業の経緯などについて、メディア担当の横浜さん、本と野菜 OyOyの店長 竹島さんに伺ってきました。 坂ノ途中の代表の小野さんは、大学生の頃にバックパッカーでチベットを訪れた際、自然の循環の中に人の営みがある様子を見てとても美しいと感じ、人と自然のつなぎ目である「農業」の環境負荷を小さくすることを目指して化学合成農薬や化学肥料を使用せずに栽培された農産物の販売を行うようになりました。 いわゆる有機やオーガニックの野菜を栽培することの多い新規参入者(農業を自ら志して新しくはじめた人)は、コネクションがなく良い土地をなかなか見つけることができなかったり、少量多品種の生産になることから一般的な流通に乗せられなかったりと、売上につなげられないことで、安定した営農ができていない状況にありました・・・ 気になる記事の続き及び坂ノ途中 「本や野菜OyOy」店長 竹島 千賀(たけしま ちか)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年8月16日時点の内容です。
株式会社坂ノ途中は、「旬のお野菜セット 定期便」の販売を中心に全国展開されている企業です。お野菜セットには、化学合成農薬や化学肥料を使わずに育てられた野菜がバランスよく詰め合わせられていて、ご家庭で旬の野菜の味を楽しむことができます。また、烏丸御池にある新風館には、坂ノ途中のコンセプトを伝えるお店「本と野菜 OyOy(オイオイ)」を構えています。今回は取り扱うお野菜に込められた思いや創業の経緯などについて、メディア担当の横浜さん、本と野菜 OyOyの店長 竹島さんに伺ってきました。 坂ノ途中の代表の小野さんは、大学生の頃にバックパッカーでチベットを訪れた際、自然の循環の中に人の営みがある様子を見てとても美しいと感じ、人と自然のつなぎ目である「農業」の環境負荷を小さくすることを目指して化学合成農薬や化学肥料を使用せずに栽培された農産物の販売を行うようになりました。 いわゆる有機やオーガニックの野菜を栽培することの多い新規参入者(農業を自ら志して新しくはじめた人)は、コネクションがなく良い土地をなかなか見つけることができなかったり、少量多品種の生産になることから一般的な流通に乗せられなかったりと、売上につなげられないことで、安定した営農ができていない状況にありました・・・ 気になる記事の続き及び坂ノ途中 「本や野菜OyOy」店長 竹島 千賀(たけしま ちか)様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年8月16日時点の内容です。