
なかなか中京 区民ライターがゆく!頑張る中京人・魅力再発見

京都市の中心にある中京(なかぎょう)区には、100年以上続く老舗企業があり、京都の文化・まちを支えています。古くから続く文化を継承しながら、新しい文化を取り入れて、常に進化を遂げています。また、老舗企業だけではなく、京都の文化を取り入れて、お店を営業されている方も多く、様々な事業者が自治会、町内会をはじめ地域と一体となり、京都・中京を盛り上げています。 そんな魅力あふれる中京区の事業者や団体、人を区民ライターが取材し、その取材内容を記事にした、中京区応援サイト「なかなか中京」を中京区役所ホームページ内に開設しています。 記事とスポットが掲載されたアプリを片手に、中京区の魅力を再発見していただければ幸いです。 ※めっけブックに掲載している記事は中京区ホームページで掲載しているものの一部です。すべての記事は以下のURLからご覧いただけます。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/...
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紹介スポット
- 69件「mui Lab(ムイ ラボ)株式会社」は家具のまち「夷川」にて拠点を置いています。「mui」とは、老子の説いた生き方「無為自然」からきており、「mui Lab」では「人の手を加えず、あるがままにまかせること」という考え方を現代のライフスタイルに取り入れ、情報テクノロジーが生活の中に溶け込むような製品開発(Calm Technology(カーム・テクノロジー))を行っています。今回は、カーム・テクノロジーの発展により、人々の日常生活を豊かにしたいと語る「mui Lab」代表取締役の大木和典さんにお話を伺いました。 デジタル化が進み、便利な機器が次々と登場する今、私たちの生活はそれにとらわれてしまいがちですが、それではもったいないと、「mui Lab」では、必要以上に存在感を出さず、生活空間に溶け込むような「muiボード」という商品を開発されました・・・・ 気になる記事の続き及びmui Lab株式会社 代表取締役 大木和典様、金谷翔真様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年10月15日時点の内容です。
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「mui Lab(ムイ ラボ)株式会社」は家具のまち「夷川」にて拠点を置いています。「mui」とは、老子の説いた生き方「無為自然」からきており、「mui Lab」では「人の手を加えず、あるがままにまかせること」という考え方を現代のライフスタイルに取り入れ、情報テクノロジーが生活の中に溶け込むような製品開発(Calm Technology(カーム・テクノロジー))を行っています。今回は、カーム・テクノロジーの発展により、人々の日常生活を豊かにしたいと語る「mui Lab」代表取締役の大木和典さんにお話を伺いました。 デジタル化が進み、便利な機器が次々と登場する今、私たちの生活はそれにとらわれてしまいがちですが、それではもったいないと、「mui Lab」では、必要以上に存在感を出さず、生活空間に溶け込むような「muiボード」という商品を開発されました・・・・ 気になる記事の続き及びmui Lab株式会社 代表取締役 大木和典様、金谷翔真様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年10月15日時点の内容です。
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元禄3年(1690年)創業の京都和傘屋「辻倉」は、四条河原町上る東側のビルにあります。7階に店舗、5階には体験工房を備えており、落ち着いた趣で、和傘を手に取ることができます。今回は、代表取締役社長の木下基廣(きのした もとひろ)さんにお話を伺いしました。 初代の辻倉甚助(じんすけ)氏は、関ヶ原の戦いで敗れた浅井長政(あざい ながまさ)の家臣であり、戦いののちに、現在の建仁寺付近(東山区大和大路通四条下る)で「山城屋(やましろや)」の屋号で、傘の製造販売を始めたと言い伝えられています。明治時代になり、四条河原町の現在地に移転されました・・・・ 気になる記事の続き及び有限会社 辻倉 代表取締役 木下基廣様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年11月8日時点の内容です。
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元禄3年(1690年)創業の京都和傘屋「辻倉」は、四条河原町上る東側のビルにあります。7階に店舗、5階には体験工房を備えており、落ち着いた趣で、和傘を手に取ることができます。今回は、代表取締役社長の木下基廣(きのした もとひろ)さんにお話を伺いしました。 初代の辻倉甚助(じんすけ)氏は、関ヶ原の戦いで敗れた浅井長政(あざい ながまさ)の家臣であり、戦いののちに、現在の建仁寺付近(東山区大和大路通四条下る)で「山城屋(やましろや)」の屋号で、傘の製造販売を始めたと言い伝えられています。明治時代になり、四条河原町の現在地に移転されました・・・・ 気になる記事の続き及び有限会社 辻倉 代表取締役 木下基廣様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年11月8日時点の内容です。
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「河政印房」は丸太町通釜座にあり、昭和21年に創業された印章店です。現在は、3代目店主の河合良彦さんと祥子さんのご夫妻で経営されています。ご夫婦ともに、「一級印章彫刻技能士」であり、厚生労働省の「ものづくりマイスター」や、京都府の「京もの認定工芸士」、京都市の「未来の名匠」など、様々なところでその技術が認められています。今回はそんなお二人に取材させていだきました。 まず、印章店には3つの形態があります。1つ目は自分の店ではんこを彫り、販売する形態で、2つ目は職人さんに依頼(外注)したはんこを自分の店で販売する形態、3つ目は自身ではんこを彫るが店は持たない形態です。もともと河政印房は、2つ目の職人さんに外注する形態を取っており、はんこ作りに関する技術などは教わったことがなかったそうです。しかし、良彦さんと祥子さんは高齢化による職人さんの減少から、はんこ作りの技術が失われることを危惧し、京都府印章業協同組合によるはんこ作りの講習会に参加しました。その後、良彦さんと祥子さんは職人の道を歩き始められ、お店は1つ目の形態のような自分の店ではんこを彫り、販売する今の河政印房の形になりました。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年9月17日時点の内容です。


「河政印房」は丸太町通釜座にあり、昭和21年に創業された印章店です。現在は、3代目店主の河合良彦さんと祥子さんのご夫妻で経営されています。ご夫婦ともに、「一級印章彫刻技能士」であり、厚生労働省の「ものづくりマイスター」や、京都府の「京もの認定工芸士」、京都市の「未来の名匠」など、様々なところでその技術が認められています。今回はそんなお二人に取材させていだきました。 まず、印章店には3つの形態があります。1つ目は自分の店ではんこを彫り、販売する形態で、2つ目は職人さんに依頼(外注)したはんこを自分の店で販売する形態、3つ目は自身ではんこを彫るが店は持たない形態です。もともと河政印房は、2つ目の職人さんに外注する形態を取っており、はんこ作りに関する技術などは教わったことがなかったそうです。しかし、良彦さんと祥子さんは高齢化による職人さんの減少から、はんこ作りの技術が失われることを危惧し、京都府印章業協同組合によるはんこ作りの講習会に参加しました。その後、良彦さんと祥子さんは職人の道を歩き始められ、お店は1つ目の形態のような自分の店ではんこを彫り、販売する今の河政印房の形になりました。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年9月17日時点の内容です。

奇竹堂は、江戸時代から続く千家十職の一つ「竹細工・柄杓師」である、黒田正玄(現在14代目)の分家として、竹細工の製造・販売を行っています。明治29年に分家、創業から約130年の歴史を刻み、現在は4代目の黒田宗傳さんが継いでおられます。 茶杓や柄杓、花生け、香合(こうごう)などの作品をオーダーメイドで制作されていますが、中でも、柄杓は使われる釜の大きさによって柄の角度や長さが変わるため、120もの種類があるそうです。また、接着剤を一切使わずに組み立てられる作品は、細工に高い技術が必要とされ、ひとつひとつ丁寧に手作業で制作されています。 気になる記事の続きは、以下より中京区役所ホームページ内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※ 令和6年8月9日時点の内容です。


奇竹堂は、江戸時代から続く千家十職の一つ「竹細工・柄杓師」である、黒田正玄(現在14代目)の分家として、竹細工の製造・販売を行っています。明治29年に分家、創業から約130年の歴史を刻み、現在は4代目の黒田宗傳さんが継いでおられます。 茶杓や柄杓、花生け、香合(こうごう)などの作品をオーダーメイドで制作されていますが、中でも、柄杓は使われる釜の大きさによって柄の角度や長さが変わるため、120もの種類があるそうです。また、接着剤を一切使わずに組み立てられる作品は、細工に高い技術が必要とされ、ひとつひとつ丁寧に手作業で制作されています。 気になる記事の続きは、以下より中京区役所ホームページ内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※ 令和6年8月9日時点の内容です。

清々しい初夏を迎え、心地よい風を感じる季節となりました。今回は、これからの季節に需要が高まる「うちわ」に注目し、京うちわ「阿以波(あいば)」の女将 饗庭 麻弥(あいば まや)様にお話を伺いました。 うちわの歴史は古く、中国の周時代(紀元前3世紀頃)には存在しており、エジプトの壁面にも描かれていました。日本には飛鳥時代(593年前後~710年)に伝わり、高貴な方々が顔にかざすように使っていましたが、庶民の間でも広がりを見せ、アクセサリーのような感覚で愛用されました。また、邪気を払う縁起物としても親しまれていました。その中でも「京うちわ」は、竹で細かく裂いて作った骨を一本ずつ放射状に並べた団扇面と、持ち手の柄(え)を別々に作成し、のちに組み合わせる手法で、繊細優雅なうちわという特徴を誇っています。 気になる記事の続き及び京うちわ 阿以波 饗庭様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年6月28日時点の内容です。


清々しい初夏を迎え、心地よい風を感じる季節となりました。今回は、これからの季節に需要が高まる「うちわ」に注目し、京うちわ「阿以波(あいば)」の女将 饗庭 麻弥(あいば まや)様にお話を伺いました。 うちわの歴史は古く、中国の周時代(紀元前3世紀頃)には存在しており、エジプトの壁面にも描かれていました。日本には飛鳥時代(593年前後~710年)に伝わり、高貴な方々が顔にかざすように使っていましたが、庶民の間でも広がりを見せ、アクセサリーのような感覚で愛用されました。また、邪気を払う縁起物としても親しまれていました。その中でも「京うちわ」は、竹で細かく裂いて作った骨を一本ずつ放射状に並べた団扇面と、持ち手の柄(え)を別々に作成し、のちに組み合わせる手法で、繊細優雅なうちわという特徴を誇っています。 気になる記事の続き及び京うちわ 阿以波 饗庭様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年6月28日時点の内容です。

二条城と二条駅の間にある神泉苑。「龍神」がいるとされる大きな池やアヒルがいることで、ご存知の方も多いと思います。その歴史は古く、今年で建立1230年目を迎えます。今年は辰年ということにちなみ、「龍神」のお話や歴史について、副住職の鳥越 智翔(とりごえ ちしょう)さんにお話を伺いました。 平安京ができた延暦13年(794年)、大内裏の南側に隣接して造営された神泉苑は、「禁苑」(宮中附属の天皇のための庭園として造られたものであり、一般の方は入苑を許されない場所)として整備されました。 苑内は、大きな池や青々とした木々など、自然豊かな空間が広がっていて、当時の宮中の方々は舟遊びや魚釣り、春にはお花見、秋には菊の節句で菊の酒を飲んで長生きを祈願されるなど、季節ごとに趣のある時間を過ごされていたそうです。また、「弘法大師」の空海は、大内裏への参詣の後、その道すがら神泉苑で「豊かな自然が昔からあるところなので帰りたくない」などの漢詩を残しています。 気になる記事の続き及び神泉苑 鳥越様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年5月20日時点の内容です。


二条城と二条駅の間にある神泉苑。「龍神」がいるとされる大きな池やアヒルがいることで、ご存知の方も多いと思います。その歴史は古く、今年で建立1230年目を迎えます。今年は辰年ということにちなみ、「龍神」のお話や歴史について、副住職の鳥越 智翔(とりごえ ちしょう)さんにお話を伺いました。 平安京ができた延暦13年(794年)、大内裏の南側に隣接して造営された神泉苑は、「禁苑」(宮中附属の天皇のための庭園として造られたものであり、一般の方は入苑を許されない場所)として整備されました。 苑内は、大きな池や青々とした木々など、自然豊かな空間が広がっていて、当時の宮中の方々は舟遊びや魚釣り、春にはお花見、秋には菊の節句で菊の酒を飲んで長生きを祈願されるなど、季節ごとに趣のある時間を過ごされていたそうです。また、「弘法大師」の空海は、大内裏への参詣の後、その道すがら神泉苑で「豊かな自然が昔からあるところなので帰りたくない」などの漢詩を残しています。 気になる記事の続き及び神泉苑 鳥越様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年5月20日時点の内容です。

「祇園小石」は、1936年に創業された京飴専門店です。「祇園小石」の社名について、取締役会長の山田健介さんに伺うと、京の「祇園」と鴨川の「小石」に掛けて命名されたそうです。また、祇園の風情を唄った「祇園小唄」の一節に「祇園恋しや だらりの帯よ」とあり、「親しみを感じてもらえたら」と話され、社名のこだわりを感じました。 こだわりの飴は個包装にかかれている「一粒のくつろぎ」からも感じられます。「祇園小石の特徴は、滑らかな舌触りと繊細な色味」と話されるように、造り方も工夫されています。そもそも飴は、砂糖と水飴をまぜ、高温で炊き、冷やし、固めて仕上げます。火力が不足すると、炊くのに時間がかかってしまい、歯にくっつくようなベタベタした舌触りになってしまうそうです。そのため、「祇園小石」では高温で一気に炊き上げる「直火釜炊き製法」がとられています。また、飴を伸ばす工程は機械によって生まれてしまう飴の表面のザラつきをなくすため、数名の職人さんの手作業で行われています。そして、安全性の観点からも合成着色料は使用していません。その中でも「目で見て食べる」ことも楽しんでもらうため、味にあったお色味を天然着色料で出せるよう、味ごとに色合いにもこだわりを持って製造されています。 気になる記事の続き及び祇園小石 山田様からのメッセージは、以下より中京区応援サイト「なかなか中京」HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年6月10日時点の内容です。


「祇園小石」は、1936年に創業された京飴専門店です。「祇園小石」の社名について、取締役会長の山田健介さんに伺うと、京の「祇園」と鴨川の「小石」に掛けて命名されたそうです。また、祇園の風情を唄った「祇園小唄」の一節に「祇園恋しや だらりの帯よ」とあり、「親しみを感じてもらえたら」と話され、社名のこだわりを感じました。 こだわりの飴は個包装にかかれている「一粒のくつろぎ」からも感じられます。「祇園小石の特徴は、滑らかな舌触りと繊細な色味」と話されるように、造り方も工夫されています。そもそも飴は、砂糖と水飴をまぜ、高温で炊き、冷やし、固めて仕上げます。火力が不足すると、炊くのに時間がかかってしまい、歯にくっつくようなベタベタした舌触りになってしまうそうです。そのため、「祇園小石」では高温で一気に炊き上げる「直火釜炊き製法」がとられています。また、飴を伸ばす工程は機械によって生まれてしまう飴の表面のザラつきをなくすため、数名の職人さんの手作業で行われています。そして、安全性の観点からも合成着色料は使用していません。その中でも「目で見て食べる」ことも楽しんでもらうため、味にあったお色味を天然着色料で出せるよう、味ごとに色合いにもこだわりを持って製造されています。 気になる記事の続き及び祇園小石 山田様からのメッセージは、以下より中京区応援サイト「なかなか中京」HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年6月10日時点の内容です。

丸太町通烏丸西入にある「すはま屋」。「すはま」は浅煎りの大豆粉と砂糖、大麦や米からとった麦芽で作った蜜を練り合わせた和菓子で、宝暦の時代(1751~1764年頃)には「日本四大菓子」の一つとされ、葵祭では下鴨神社の御神饌(しんせん)として数百年にわたって「すはま」が献上されていました。今もなお、京都の銘菓として多くの方に親しまれ続けています。 「すはま屋」の前身は、2016年に閉店した「御洲濱司(おんすはまつかさ)植村義次」さん。1657年に創業し、約360年の歴史をもつ和菓子の老舗です。「すはま」の名前の由来となった「洲浜形」を考案したお店です(「浜辺の入り込み」が縁起がよいとされ、豆飴をそのような形にかたどったことから、「すはま」と呼ばれるようになったそう)。 気になる記事の続き及びすはま屋 芳野様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年4月19日時点の内容です。


丸太町通烏丸西入にある「すはま屋」。「すはま」は浅煎りの大豆粉と砂糖、大麦や米からとった麦芽で作った蜜を練り合わせた和菓子で、宝暦の時代(1751~1764年頃)には「日本四大菓子」の一つとされ、葵祭では下鴨神社の御神饌(しんせん)として数百年にわたって「すはま」が献上されていました。今もなお、京都の銘菓として多くの方に親しまれ続けています。 「すはま屋」の前身は、2016年に閉店した「御洲濱司(おんすはまつかさ)植村義次」さん。1657年に創業し、約360年の歴史をもつ和菓子の老舗です。「すはま」の名前の由来となった「洲浜形」を考案したお店です(「浜辺の入り込み」が縁起がよいとされ、豆飴をそのような形にかたどったことから、「すはま」と呼ばれるようになったそう)。 気になる記事の続き及びすはま屋 芳野様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年4月19日時点の内容です。

壬生川高辻の交差点を西に進んだところにある「食一」は、「食を通じて社会を愉快に」をモットーに掲げ、店頭であまり見かけない珍しい鮮魚の仕入れに力を入れ、100箇所を越える全国各地の漁港から、直接、飲食店などの取引先に届けています。同志社大学の4回生だった田中淳士社長が平成20(2008)年に起業し、今年で創業16年目を迎えます。 ⚫︎「食一」創業の経緯と魚との出会い 田中社長のご実家は九州で明治時代から140年以上続く魚の仲買業を営んでおり、幼少の頃から新鮮でおいしい魚に囲まれて生まれ育ったという田中社長は、将来、家業を継ぐ予定でしたが、学内の「起業家コンテスト」で優勝したことをきっかけに起業の道が始まりました。 創業当初は、京都の漁港から鯛やアジ、サバといった有名な魚を仕入れていましたが、「価格競争ではなく、新規参入の魚屋だからこそ何か強みを持ち、食一だからできることを見つけたい」と、全国の漁港を回り始めました・・・ 気になる記事の続き及び食一 田中 淳士様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年2月15日時点の内容です。
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壬生川高辻の交差点を西に進んだところにある「食一」は、「食を通じて社会を愉快に」をモットーに掲げ、店頭であまり見かけない珍しい鮮魚の仕入れに力を入れ、100箇所を越える全国各地の漁港から、直接、飲食店などの取引先に届けています。同志社大学の4回生だった田中淳士社長が平成20(2008)年に起業し、今年で創業16年目を迎えます。 ⚫︎「食一」創業の経緯と魚との出会い 田中社長のご実家は九州で明治時代から140年以上続く魚の仲買業を営んでおり、幼少の頃から新鮮でおいしい魚に囲まれて生まれ育ったという田中社長は、将来、家業を継ぐ予定でしたが、学内の「起業家コンテスト」で優勝したことをきっかけに起業の道が始まりました。 創業当初は、京都の漁港から鯛やアジ、サバといった有名な魚を仕入れていましたが、「価格競争ではなく、新規参入の魚屋だからこそ何か強みを持ち、食一だからできることを見つけたい」と、全国の漁港を回り始めました・・・ 気になる記事の続き及び食一 田中 淳士様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和6年2月15日時点の内容です。
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江戸時代から続く、創業200年余のお酢の老舗「齋(いつき)造酢店」。お酢は昔、食用のほかにも、京友禅の色止めを目的に使用されていたこともあり、そのお酢を中心に製造されていました。その後、色止めに薬品が用いられるようになったことで、7代目の嘉造(かぞう)氏は、当時需要が高まっていた食用酢に注目します。そして、現在も看板商品となっている純米酢「花菱酢」を生み出し、食用酢を中心とした製造・販売が今もなお続いています。 商品を販売するうえで「目の届く範囲で」の販売を重んじられています。そのため、お店で試飲していただき、お客様から直接感想を聞くことで、買い手の声を反映したお酢造りを実現しようとされています。また齋造酢店では、防腐剤を使用しなかったり、夏のお酢は冬よりも塩分を多めにするなど季節によって製造工程を変えたりしておられ、手づくりのお酢ならではのこだわりが伺えます。そのため、オンラインでの購入が可能な「ぽん酢」とは異なり、「純米酢」については店頭のみの取扱いとなっています。 さらに、お酢の魅力について伺うと「しっかり酸味を感じるのにまろやかであることや、食欲増進や夏バテの効果が期待できることがお酢の魅力であり、料理の味を決める調味料としてさまざまな場面で使用できます」と9代目店主の齋 正浩(まさひろ)さん。今はお鍋の他にも、ピクルスや餃子のたれ、ドレッシングなど、お酢の活躍の場が増えているそうで「楽しみ方は変化していきますが、お酢の役割には変わりはなく、『縁の下の力持ち』として、ベースとなる味を変えないように努めたいです」と話されました・・・ 気になる記事の続き及び齋造酢店 齋 正浩様、亜美様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年4月5日時点の内容です。


江戸時代から続く、創業200年余のお酢の老舗「齋(いつき)造酢店」。お酢は昔、食用のほかにも、京友禅の色止めを目的に使用されていたこともあり、そのお酢を中心に製造されていました。その後、色止めに薬品が用いられるようになったことで、7代目の嘉造(かぞう)氏は、当時需要が高まっていた食用酢に注目します。そして、現在も看板商品となっている純米酢「花菱酢」を生み出し、食用酢を中心とした製造・販売が今もなお続いています。 商品を販売するうえで「目の届く範囲で」の販売を重んじられています。そのため、お店で試飲していただき、お客様から直接感想を聞くことで、買い手の声を反映したお酢造りを実現しようとされています。また齋造酢店では、防腐剤を使用しなかったり、夏のお酢は冬よりも塩分を多めにするなど季節によって製造工程を変えたりしておられ、手づくりのお酢ならではのこだわりが伺えます。そのため、オンラインでの購入が可能な「ぽん酢」とは異なり、「純米酢」については店頭のみの取扱いとなっています。 さらに、お酢の魅力について伺うと「しっかり酸味を感じるのにまろやかであることや、食欲増進や夏バテの効果が期待できることがお酢の魅力であり、料理の味を決める調味料としてさまざまな場面で使用できます」と9代目店主の齋 正浩(まさひろ)さん。今はお鍋の他にも、ピクルスや餃子のたれ、ドレッシングなど、お酢の活躍の場が増えているそうで「楽しみ方は変化していきますが、お酢の役割には変わりはなく、『縁の下の力持ち』として、ベースとなる味を変えないように努めたいです」と話されました・・・ 気になる記事の続き及び齋造酢店 齋 正浩様、亜美様からのメッセージは、以下より中京区役所HP内の中京区応援サイト「なかなか中京」をご覧ください。 city.kyoto.lg.jp/nakagyo/page/... ※令和5年4月5日時点の内容です。
