歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
関連するめっけブック
紹介スポット
- 451件名古屋市緑区の桶狭間神明社は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦前に今川軍の瀬名氏俊が戦勝祈願をし、酒樽を奉納した神社です。永禄三年(1560)5月19日に今川義元は桶狭間に着陣しましたが、その2日前に先鋒隊の瀬名氏俊が桶狭間に陣を張り、桶狭間神明社に戦勝祈願をしたといわれています。 桶狭間は南朝の落ち武者が開拓した村といわれ、その村の氏神として信仰されていた神社なのでしょう。かつての古戦場だった名古屋市緑区桶狭間は現在では閑静な住宅地になっています。しかし桶狭間神明社には森になっており、かつての桶狭間もこの様な木々に覆われていた場所なのでは?と思うほどです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355
名古屋市緑区の桶狭間神明社は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦前に今川軍の瀬名氏俊が戦勝祈願をし、酒樽を奉納した神社です。永禄三年(1560)5月19日に今川義元は桶狭間に着陣しましたが、その2日前に先鋒隊の瀬名氏俊が桶狭間に陣を張り、桶狭間神明社に戦勝祈願をしたといわれています。 桶狭間は南朝の落ち武者が開拓した村といわれ、その村の氏神として信仰されていた神社なのでしょう。かつての古戦場だった名古屋市緑区桶狭間は現在では閑静な住宅地になっています。しかし桶狭間神明社には森になっており、かつての桶狭間もこの様な木々に覆われていた場所なのでは?と思うほどです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355
名古屋市名東区陸前町の明徳寺は、かつての下社城址です。ここは織田信長の家臣・柴田勝家が生まれた場所、つまり生誕地といわれています。柴田勝家は大永二年(1522年)に生まれたといわれますが、生誕地は下社城ではなく、近くの一色城という説もあります。 柴田氏は斯波氏の一族で、斯波高経四代の子孫・重勝(義勝とも)が越後国柴田の城主であった事から【柴田】姓を名乗り、尾張にやってきてこの地を拠点としました。この柴田重勝という人が、勝家の祖父(もしくは父)といわれている人物です。 下社城にはかつて、勝家が初陣の時に手植えした松があり、出陣する時に次の句を詠んで母に渡したという話が残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=857
名古屋市名東区陸前町の明徳寺は、かつての下社城址です。ここは織田信長の家臣・柴田勝家が生まれた場所、つまり生誕地といわれています。柴田勝家は大永二年(1522年)に生まれたといわれますが、生誕地は下社城ではなく、近くの一色城という説もあります。 柴田氏は斯波氏の一族で、斯波高経四代の子孫・重勝(義勝とも)が越後国柴田の城主であった事から【柴田】姓を名乗り、尾張にやってきてこの地を拠点としました。この柴田重勝という人が、勝家の祖父(もしくは父)といわれている人物です。 下社城にはかつて、勝家が初陣の時に手植えした松があり、出陣する時に次の句を詠んで母に渡したという話が残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=857
賤ヶ岳七本槍のひとりとして知られる加藤嘉明は、現在の愛知県西尾市上永良町の出身といわれています。神明社の中にある、愛知県が建てた加藤嘉明生誕地の石碑。嘉明は上永良村の出身ということで寛永二年(1625)に神明社の本殿を再建したと伝えられています。 ちなみに嘉明の生誕地については、現在の愛知県西尾市上永良町(かつての三河国幡豆郡永良郷)といわれており、この神明社がある場所で生まれたという訳ではありません。 またこの石碑もかつては同じ上永良町の別の場所にあったそうです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=628
賤ヶ岳七本槍のひとりとして知られる加藤嘉明は、現在の愛知県西尾市上永良町の出身といわれています。神明社の中にある、愛知県が建てた加藤嘉明生誕地の石碑。嘉明は上永良村の出身ということで寛永二年(1625)に神明社の本殿を再建したと伝えられています。 ちなみに嘉明の生誕地については、現在の愛知県西尾市上永良町(かつての三河国幡豆郡永良郷)といわれており、この神明社がある場所で生まれたという訳ではありません。 またこの石碑もかつては同じ上永良町の別の場所にあったそうです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=628
華陽院(けよういん)
日本100名城にも認定されている静岡市葵区の駿府城から、車で約5分くらいの場所に華陽院というお寺があります。ここには徳川家康の祖母・源応尼の墓があります。
日本100名城にも認定されている静岡市葵区の駿府城から、車で約5分くらいの場所に華陽院(けよういん)というお寺があります。ここには徳川家康の祖母・源応尼(げんおうに)の墓があります。源応尼の生涯については謎が多く、出生も詳しく分かっていません。そんな中、愛知県知多郡東浦町教育委員会発行の於大の方と水野氏によれば、彼女は三河寺津城主・大河内元綱の養女としています。名前は於富(おとみ)。華陽院は徳川家の崇拝も厚く、東海道を上下する大名たちはこの寺を拝礼するのを忘れなかったといいます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2871
日本100名城にも認定されている静岡市葵区の駿府城から、車で約5分くらいの場所に華陽院というお寺があります。ここには徳川家康の祖母・源応尼の墓があります。
日本100名城にも認定されている静岡市葵区の駿府城から、車で約5分くらいの場所に華陽院(けよういん)というお寺があります。ここには徳川家康の祖母・源応尼(げんおうに)の墓があります。源応尼の生涯については謎が多く、出生も詳しく分かっていません。そんな中、愛知県知多郡東浦町教育委員会発行の於大の方と水野氏によれば、彼女は三河寺津城主・大河内元綱の養女としています。名前は於富(おとみ)。華陽院は徳川家の崇拝も厚く、東海道を上下する大名たちはこの寺を拝礼するのを忘れなかったといいます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2871
円頓寺商店街 織田信長像
銅像は円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。織田信長は南蛮同具足に火縄銃といった定番スタイルです。
円頓寺商店街ですが、肝心の銅像はというと、円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。織田信長は南蛮同具足に火縄銃といった定番スタイルです。銅像なのですがなぜかしら金色になっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
円頓寺商店街ですが、肝心の銅像はというと、円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。織田信長は南蛮同具足に火縄銃といった定番スタイルです。銅像なのですがなぜかしら金色になっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
円頓寺商店街 水戸黄門像
銅像は円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。なぜここに時代が違う水戸黄門がいるのは謎です。
円頓寺商店街ですが、肝心の銅像はというと、円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。なぜここに時代が違う水戸黄門がいるのは謎ですが、まあ、これはこれで楽しめる銅像だと思いました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
円頓寺商店街ですが、肝心の銅像はというと、円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。なぜここに時代が違う水戸黄門がいるのは謎ですが、まあ、これはこれで楽しめる銅像だと思いました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
円頓寺商店街 豊臣秀吉像
銅像は円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。秀吉は大阪で人気なので大阪出身と思われがちですが、実は出身は名古屋市中村区出身です。
円頓寺商店街ですが、肝心の銅像はというと、円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。こちらは関白・豊臣秀吉。秀吉は大阪で人気なので大阪出身と思われがちですが、実は出身は名古屋市中村区なんです。この姿は尾張時代の農民ではなく、すでに関白になった後の姿ですね。ちなみに色はシルバー(銀)です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
銅像は円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。秀吉は大阪で人気なので大阪出身と思われがちですが、実は出身は名古屋市中村区出身です。
円頓寺商店街ですが、肝心の銅像はというと、円頓寺の西にある交差点の角に集中して建っています。こちらは関白・豊臣秀吉。秀吉は大阪で人気なので大阪出身と思われがちですが、実は出身は名古屋市中村区なんです。この姿は尾張時代の農民ではなく、すでに関白になった後の姿ですね。ちなみに色はシルバー(銀)です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
織田信長、信雄、秀信に仕えた梶川高盛の居城。元亀四年(1573)足利義昭の籠る牧島城を攻撃。小牧・長久手合戦では、織田・徳川連合軍の拠点のひとつになっており、信長の弟・信照を迎えて籠城するが落城します。現在は一宮市奥町西保育園になっていますが、保育園の中に奥城址の石碑があります。 また近くの貴船神社には、漫画・花の慶次の主人公・前田慶次の親友として描かれた奥村助衛門(永福)生誕地の石碑もあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2005
織田信長、信雄、秀信に仕えた梶川高盛の居城。元亀四年(1573)足利義昭の籠る牧島城を攻撃。小牧・長久手合戦では、織田・徳川連合軍の拠点のひとつになっており、信長の弟・信照を迎えて籠城するが落城します。現在は一宮市奥町西保育園になっていますが、保育園の中に奥城址の石碑があります。 また近くの貴船神社には、漫画・花の慶次の主人公・前田慶次の親友として描かれた奥村助衛門(永福)生誕地の石碑もあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2005
黄金堤は、江戸時代に忠臣蔵で敵役として描かれている吉良上野介義央が築いた堤防で、それ以前の戦国時代には、善明堤の戦いが起こった鎧ヶ淵古戦場という場所です。永禄三年(1560)の桶狭間合戦後、岡崎城で今川氏から独立した松平元康(後の徳川家康)は、織田信長と同盟を結び三河統一を目指しますが、そのためには三河の名族・吉良義昭を倒さなければなりませんでした。 吉良氏も新興勢力の松平氏に従うはずもなく、両者は激突します。 時代は流れ江戸時代。貞享三年(1686)、洪水に苦しむ領民たちを助けるために吉良義央(上野介)が私財を投じて、堤を築くことを考えました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=585
黄金堤は、江戸時代に忠臣蔵で敵役として描かれている吉良上野介義央が築いた堤防で、それ以前の戦国時代には、善明堤の戦いが起こった鎧ヶ淵古戦場という場所です。永禄三年(1560)の桶狭間合戦後、岡崎城で今川氏から独立した松平元康(後の徳川家康)は、織田信長と同盟を結び三河統一を目指しますが、そのためには三河の名族・吉良義昭を倒さなければなりませんでした。 吉良氏も新興勢力の松平氏に従うはずもなく、両者は激突します。 時代は流れ江戸時代。貞享三年(1686)、洪水に苦しむ領民たちを助けるために吉良義央(上野介)が私財を投じて、堤を築くことを考えました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=585
羽豆崎城は南北朝時代に熱田大宮司家の千秋氏によって築かれた城で、江戸時代には千賀氏が治め尾張藩の水軍の拠点になった城です。知多半島の師崎港の裏山が羽豆崎城址です。 篠島や日間賀島に渡る観光旅行者が、フェリ-が出る時間までヒマつぶしに登る山ですが、実は城址だったという事はあまり知られていません。ここは数少ない水軍の城ということで、城巡りをしている人にはオススメの城だと思います。羽豆崎城の醍醐味は、やはり展望台です。戦国時代にも、もしかすると物見櫓みたいなものがあり、海を監視できるようになっていたのかもしれません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1481
羽豆崎城は南北朝時代に熱田大宮司家の千秋氏によって築かれた城で、江戸時代には千賀氏が治め尾張藩の水軍の拠点になった城です。知多半島の師崎港の裏山が羽豆崎城址です。 篠島や日間賀島に渡る観光旅行者が、フェリ-が出る時間までヒマつぶしに登る山ですが、実は城址だったという事はあまり知られていません。ここは数少ない水軍の城ということで、城巡りをしている人にはオススメの城だと思います。羽豆崎城の醍醐味は、やはり展望台です。戦国時代にも、もしかすると物見櫓みたいなものがあり、海を監視できるようになっていたのかもしれません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1481
羽豆崎城の醍醐味は、やはり展望台です。戦国時代にも、もしかすると物見櫓みたいなものがあり、海を監視できるようになっていたのかもしれません。展望台に登ってみると師崎港が見えますね。天気が良い日は最高の景色です。ちなみに港から離れた場所の島が見えますが、これは日間賀島です。 日間賀島はタコやフグで有名な城です。戦国好きの人は篠島に行きます。その理由は篠島城や清正の枕石、そして清正の石切り場があるからです。日間賀島は残念ながら戦国史跡はありませんが、師崎港から出ているフェリ-で、篠島&日間賀島の二島めぐりができるお得プランがあるので、篠島とセットで巡るのも良いですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=14811
羽豆崎城の醍醐味は、やはり展望台です。戦国時代にも、もしかすると物見櫓みたいなものがあり、海を監視できるようになっていたのかもしれません。展望台に登ってみると師崎港が見えますね。天気が良い日は最高の景色です。ちなみに港から離れた場所の島が見えますが、これは日間賀島です。 日間賀島はタコやフグで有名な城です。戦国好きの人は篠島に行きます。その理由は篠島城や清正の枕石、そして清正の石切り場があるからです。日間賀島は残念ながら戦国史跡はありませんが、師崎港から出ているフェリ-で、篠島&日間賀島の二島めぐりができるお得プランがあるので、篠島とセットで巡るのも良いですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=14811
円頓寺(えんどうじ)商店街
名古屋市西区に歴史が深い商店街があります。それが円頓寺(えんどうじ)商店街です。円頓寺商店街は歴史ファンにオススメな商店街です。
名古屋市西区に歴史が深い商店街があります。それが円頓寺(えんどうじ)商店街です。名古屋城が築かれる前、尾張の中心地は清洲城がある清洲でした。しかし名古屋城が築かれた慶長十五年(1610)には清洲の首都機能はもちろん、城下町をそっくりそのまま名古屋城に移転したのです。これを清洲越しといいます。この時の引っ越しは徹底していて、寺社はもちろん、商人の屋敷や地名、そして橋までも移転させられました。現在、円頓寺商店街の東には五條(五条)橋が架けられていますが、これは清洲にあった五条川に架けられていた五条橋を移転させたものなのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
名古屋市西区に歴史が深い商店街があります。それが円頓寺(えんどうじ)商店街です。名古屋城が築かれる前、尾張の中心地は清洲城がある清洲でした。しかし名古屋城が築かれた慶長十五年(1610)には清洲の首都機能はもちろん、城下町をそっくりそのまま名古屋城に移転したのです。これを清洲越しといいます。この時の引っ越しは徹底していて、寺社はもちろん、商人の屋敷や地名、そして橋までも移転させられました。現在、円頓寺商店街の東には五條(五条)橋が架けられていますが、これは清洲にあった五条川に架けられていた五条橋を移転させたものなのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
名古屋市中村区の稲葉地城跡は、織田信秀の弟で織田信長の叔父だった津田豊後守信光(織田信光)の居城跡です。稲葉地城は現在、中村区城屋敷町4丁目の神明社になっており、神社の入り口に稲葉地城跡の石碑が建っています。その側面を見ると、織田伯父津田豊後守居城と刻まれています。神明社の鳥居横にある石には稲葉地村古城主 津田豊後守城跡之石と刻まれています。城のどこかで使われていた石なのでしょうか。尾張稲葉地城の遺構は残っていないのですが、神明社周辺に城屋敷という地名が残っています。土豪の屋敷だった場所、つまり館城の跡地に城屋敷という地名が付く例は他にもあり、この地名が城跡を偲ばせていますね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4060
名古屋市中村区の稲葉地城跡は、織田信秀の弟で織田信長の叔父だった津田豊後守信光(織田信光)の居城跡です。稲葉地城は現在、中村区城屋敷町4丁目の神明社になっており、神社の入り口に稲葉地城跡の石碑が建っています。その側面を見ると、織田伯父津田豊後守居城と刻まれています。神明社の鳥居横にある石には稲葉地村古城主 津田豊後守城跡之石と刻まれています。城のどこかで使われていた石なのでしょうか。尾張稲葉地城の遺構は残っていないのですが、神明社周辺に城屋敷という地名が残っています。土豪の屋敷だった場所、つまり館城の跡地に城屋敷という地名が付く例は他にもあり、この地名が城跡を偲ばせていますね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4060
梶原景時を開祖とする梶原氏の菩提寺である興禅寺の裏には羽黒城の土塁が残ります。天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦の羽黒合戦で興禅寺は焼失しましたが、慶長七年(1602)に当時の犬山城主だった小笠原吉次によって羽黒城址に移転し再興されました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4329
梶原景時を開祖とする梶原氏の菩提寺である興禅寺の裏には羽黒城の土塁が残ります。天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦の羽黒合戦で興禅寺は焼失しましたが、慶長七年(1602)に当時の犬山城主だった小笠原吉次によって羽黒城址に移転し再興されました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4329
愛知県犬山市の尾張羽黒城城址は、鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた重臣・梶原景時の孫、梶原景親が築いた城です。戦国時代も梶原氏の居城でしたが、小牧長久手の戦いで羽柴秀吉軍の山内一豊、堀尾吉晴、伊藤祐時らが廃城になっていた羽黒城を砦として再利用したという記録があります。城の中心部分と考えられる場所は高台になっており、そこに羽黒城址の石碑が建立されています。 周辺にある梶原氏の菩提寺・興禅寺、そして名馬で有名な磨墨(するすみ)を祀った磨墨塚もセットにすると歴史史跡巡りの満足度もアップすると思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4313
愛知県犬山市の尾張羽黒城城址は、鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた重臣・梶原景時の孫、梶原景親が築いた城です。戦国時代も梶原氏の居城でしたが、小牧長久手の戦いで羽柴秀吉軍の山内一豊、堀尾吉晴、伊藤祐時らが廃城になっていた羽黒城を砦として再利用したという記録があります。城の中心部分と考えられる場所は高台になっており、そこに羽黒城址の石碑が建立されています。 周辺にある梶原氏の菩提寺・興禅寺、そして名馬で有名な磨墨(するすみ)を祀った磨墨塚もセットにすると歴史史跡巡りの満足度もアップすると思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4313
井田野之合戦 千人塚
西光寺から50m離れた場所に千人塚という墓があります。応仁元年(1467)、明応二年(1493)の2度にわたる井田野合戦の戦死者を埋葬した塚といわれています。
岡崎市鴨田町向山の西光寺は、井田野合戦、桶狭間合戦の戦死者が眠る千人塚、大衆塚が残る寺です。西光寺は高台にあり、そのふもとに平地が広がっていますが、この平地がかつての井田野(いだの)という場所で、戦国時代に数度、合戦が起こった場所です。西光寺から50m離れた場所に千人塚という墓があります。これは応仁元年(1467)、明応二年(1493)の2度にわたる井田野合戦の戦死者を埋葬した塚といわれています。千人塚の中にはいくつかの墓標が建っています。この千人塚自体、周辺から見るとこんもりしたものになっており、かなり大きな墓という事が分かります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2662
西光寺から50m離れた場所に千人塚という墓があります。応仁元年(1467)、明応二年(1493)の2度にわたる井田野合戦の戦死者を埋葬した塚といわれています。
岡崎市鴨田町向山の西光寺は、井田野合戦、桶狭間合戦の戦死者が眠る千人塚、大衆塚が残る寺です。西光寺は高台にあり、そのふもとに平地が広がっていますが、この平地がかつての井田野(いだの)という場所で、戦国時代に数度、合戦が起こった場所です。西光寺から50m離れた場所に千人塚という墓があります。これは応仁元年(1467)、明応二年(1493)の2度にわたる井田野合戦の戦死者を埋葬した塚といわれています。千人塚の中にはいくつかの墓標が建っています。この千人塚自体、周辺から見るとこんもりしたものになっており、かなり大きな墓という事が分かります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2662
現在の一宮市本町にある三菱東京UFJ銀行前に一宮城跡という石碑があります。戦国時代にはこの周辺に城があり、その城主が関氏だったという事です。蘭奢待を村井貞勝から授かり、自分が神官を務めていた真清田神社に残した関氏ですが、その居城跡は現在でも残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=409
現在の一宮市本町にある三菱東京UFJ銀行前に一宮城跡という石碑があります。戦国時代にはこの周辺に城があり、その城主が関氏だったという事です。蘭奢待を村井貞勝から授かり、自分が神官を務めていた真清田神社に残した関氏ですが、その居城跡は現在でも残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=409
稲生原(いのうがはら)古戦場
稲生原(いのうがはら)古戦場跡は、名塚砦の近く名古屋市西区名塚町1丁目124の庚申塚に案内看板が建っています。
稲生原(いのうがはら)古戦場跡は、名塚砦の近く名古屋市西区名塚町1丁目124の庚申塚に案内看板が建っています。信長公記に記載されている内容ですと、両軍合わせて約1700名が戦った合戦だったので、庚申塚周辺の広い範囲が古戦場という事ですね。そして公園内には、稲生原の戦いで亡くなった人達を供養する、お堂や供養塔も建てられています。 現在この場所は、名古屋の都心部にも近く、マンションやらビルが立ち並んでいますが、かつては於多井川(庄内川)近くの広い野原だったのでしょうね。 この合戦に勝利した信長は、尾張統一に向けて大きく前進します。 桶狭間合戦の4年前の出来事です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=720
稲生原(いのうがはら)古戦場跡は、名塚砦の近く名古屋市西区名塚町1丁目124の庚申塚に案内看板が建っています。信長公記に記載されている内容ですと、両軍合わせて約1700名が戦った合戦だったので、庚申塚周辺の広い範囲が古戦場という事ですね。そして公園内には、稲生原の戦いで亡くなった人達を供養する、お堂や供養塔も建てられています。 現在この場所は、名古屋の都心部にも近く、マンションやらビルが立ち並んでいますが、かつては於多井川(庄内川)近くの広い野原だったのでしょうね。 この合戦に勝利した信長は、尾張統一に向けて大きく前進します。 桶狭間合戦の4年前の出来事です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=720
稲置街道(いなきかいどう)
羽黒城址の東を走る県道27号線は、江戸時代に名古屋~犬山を結んだ稲置街道(いなきかいどう)です。
羽黒城址の東を走る県道27号線は、江戸時代に名古屋~犬山を結んだ稲置街道(いなきかいどう)です。江戸時代の街道なので羽黒城が廃城になった後?と思いがちですが、江戸時代の街道はそれまでそこにあった街道を再整備して作られているケースがほとんど。だからこの稲置街道もベース(元)になる何かの街道を整備して作られたと思います。北に行くと国宝・犬山城の城下町。南に行くと名古屋城の城下町に着きます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4313
羽黒城址の東を走る県道27号線は、江戸時代に名古屋~犬山を結んだ稲置街道(いなきかいどう)です。江戸時代の街道なので羽黒城が廃城になった後?と思いがちですが、江戸時代の街道はそれまでそこにあった街道を再整備して作られているケースがほとんど。だからこの稲置街道もベース(元)になる何かの街道を整備して作られたと思います。北に行くと国宝・犬山城の城下町。南に行くと名古屋城の城下町に着きます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4313
八橋葦香城跡公園にある葦香(あしか)城阯の石碑。現地案内看板によると、この葦香城阯の石碑はここより約500mほど北にある、才兼池(さいかねいけ)の南西にあったそうです。ここでチェックしておきたいことは、八橋古城と葦香城は別の城ということ!現地案内看板にもその事が強調されています。公園がある場所が八橋古城跡で、その北側、才兼池の南西にあったのが葦香城。ちなみに葦香城があったとされる場所は住宅地になっており、城の遺構は残っていません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4000
八橋葦香城跡公園にある葦香(あしか)城阯の石碑。現地案内看板によると、この葦香城阯の石碑はここより約500mほど北にある、才兼池(さいかねいけ)の南西にあったそうです。ここでチェックしておきたいことは、八橋古城と葦香城は別の城ということ!現地案内看板にもその事が強調されています。公園がある場所が八橋古城跡で、その北側、才兼池の南西にあったのが葦香城。ちなみに葦香城があったとされる場所は住宅地になっており、城の遺構は残っていません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4000