歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件丸根砦は鷲津砦と同じく、桶狭間合戦時に今川方だった大高城を包囲していた織田方の砦のひとつです。守将は佐久間盛重でしたが、松平元康により攻め落とされました。供養碑が頂上にあり、丸根砦の石碑は少し下った場所にあるために見落としがちですが、この石碑もシッカリとチェックしましょう。 丸根砦にはこれといって遺構らしきものが残っておらず、本丸のちょっとした高低差くらいが当時を偲ぶ事ができるくらいです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1044
丸根砦は鷲津砦と同じく、桶狭間合戦時に今川方だった大高城を包囲していた織田方の砦のひとつです。守将は佐久間盛重でしたが、松平元康により攻め落とされました。供養碑が頂上にあり、丸根砦の石碑は少し下った場所にあるために見落としがちですが、この石碑もシッカリとチェックしましょう。 丸根砦にはこれといって遺構らしきものが残っておらず、本丸のちょっとした高低差くらいが当時を偲ぶ事ができるくらいです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1044
丸根城は近くに松平発祥の地である松平郷があり、縄張りの特徴から松平氏の城のひとつではといわれています。 城内には見応えがある遺構が残っています。 主郭(本丸)を中心に東北側に北曲輪、そして北側に空堀を巡らせています。西~南側は矢作川が天然の堀として機能しており、川幅も広いです。あと気になるのが主郭(本丸)の南側にある柵平地。(主郭と道がVの字になっている部分の間にある空白地)ここは現在、人工的な削平地で空き地みたいになっていますが、矢作川目前の場所なので、何かの曲輪があったのかもしれません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2326
丸根城は近くに松平発祥の地である松平郷があり、縄張りの特徴から松平氏の城のひとつではといわれています。 城内には見応えがある遺構が残っています。 主郭(本丸)を中心に東北側に北曲輪、そして北側に空堀を巡らせています。西~南側は矢作川が天然の堀として機能しており、川幅も広いです。あと気になるのが主郭(本丸)の南側にある柵平地。(主郭と道がVの字になっている部分の間にある空白地)ここは現在、人工的な削平地で空き地みたいになっていますが、矢作川目前の場所なので、何かの曲輪があったのかもしれません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2326
小牧市の岩崎山は小牧山城や名古屋城の石垣の石を切り出した採石場です。また天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで羽柴軍の砦にもなりました。 戦国時代にいろんな出来事があった岩崎山は現在熊野神社として整備されています。岩崎山を訪れたら熊野神社だけではなく、隣りにある小牧市岩崎児童遊園もチェックしておきましょう。その理由はここにも慶長年間の名古屋城の石垣の残石を見ることができるからです。場所は美鳥幼稚園の向かい側です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4389
小牧市の岩崎山は小牧山城や名古屋城の石垣の石を切り出した採石場です。また天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで羽柴軍の砦にもなりました。 戦国時代にいろんな出来事があった岩崎山は現在熊野神社として整備されています。岩崎山を訪れたら熊野神社だけではなく、隣りにある小牧市岩崎児童遊園もチェックしておきましょう。その理由はここにも慶長年間の名古屋城の石垣の残石を見ることができるからです。場所は美鳥幼稚園の向かい側です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4389
苅安賀城は近江小谷城の浅井氏の支流といわれる浅井新八郎高政の築城で、高政・長時二代の居城。高政は岩倉織田氏の家老・山内盛豊の従弟で、永禄二年(1559)の岩倉城落城時、盛豊の息子・一豊が縁を頼り、苅安賀城へ落ち延びています。現状は苅安賀自動車学校で城の遺構は残っていませんが、愛知県の苅安賀城址の石碑が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=20055
苅安賀城は近江小谷城の浅井氏の支流といわれる浅井新八郎高政の築城で、高政・長時二代の居城。高政は岩倉織田氏の家老・山内盛豊の従弟で、永禄二年(1559)の岩倉城落城時、盛豊の息子・一豊が縁を頼り、苅安賀城へ落ち延びています。現状は苅安賀自動車学校で城の遺構は残っていませんが、愛知県の苅安賀城址の石碑が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=20055
長久手市にある勘解由(かげゆ)塚は、天正十二年(1584)の小牧長久手合戦で、三好(羽柴)秀次を守った木下利匡,祐久兄弟が討死したといわれる場所です。2005年の愛・地球博前後から、長久手市は急速な開発が進み、かつては静かだった勘解由塚周辺にもマンションが立ち並んでいます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2465
長久手市にある勘解由(かげゆ)塚は、天正十二年(1584)の小牧長久手合戦で、三好(羽柴)秀次を守った木下利匡,祐久兄弟が討死したといわれる場所です。
長久手市にある勘解由(かげゆ)塚は、天正十二年(1584)の小牧長久手合戦で、三好(羽柴)秀次を守った木下利匡,祐久兄弟が討死したといわれる場所です。2005年の愛・地球博前後から、長久手市は急速な開発が進み、かつては静かだった勘解由塚周辺にもマンションが立ち並んでいます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2465
巻山(井伊直盛陣跡)
井伊直虎の父・井伊直盛は、永禄三年の桶狭間合戦に出陣し、討死したといわれています。この時直盛が陣を置いたといわれる場所は、名古屋市緑区桶狭間の巻山と伝わります
井伊直虎の父である井伊直盛(なおもり)は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦に出陣し、討死したといわれています。 この時、井伊直盛が陣を置いたといわれる場所は、名古屋市緑区桶狭間の巻山(まきやま)という場所と伝わります。現在、名古屋市立桶狭間小学校が建つ場所が、井伊直盛の陣があった巻山といわれています。現在は陣跡の遺構はありませんが、桶狭間古戦場保存会による案内看板が建つほか、高台にあり、東南側から長福寺方面がよく見えます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=386
井伊直虎の父・井伊直盛は、永禄三年の桶狭間合戦に出陣し、討死したといわれています。この時直盛が陣を置いたといわれる場所は、名古屋市緑区桶狭間の巻山と伝わります
井伊直虎の父である井伊直盛(なおもり)は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦に出陣し、討死したといわれています。 この時、井伊直盛が陣を置いたといわれる場所は、名古屋市緑区桶狭間の巻山(まきやま)という場所と伝わります。現在、名古屋市立桶狭間小学校が建つ場所が、井伊直盛の陣があった巻山といわれています。現在は陣跡の遺構はありませんが、桶狭間古戦場保存会による案内看板が建つほか、高台にあり、東南側から長福寺方面がよく見えます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=386
刈谷城の二の丸があった場所は、現在刈谷城址の石碑がある場所です。よく見ると刈谷城二の丸跡の石碑も建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1112
刈谷城の二の丸があった場所は、現在刈谷城址の石碑がある場所です。よく見ると刈谷城二の丸跡の石碑も建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1112
東海道から刈谷城に向かう街道がありました。それが刈谷道です。当時はこの道をまっすぐ進むと、刈谷城に行けました。現在では県道になっており、かつての街道も住宅地になっていて刈谷城に行くまでには建物にぶつかりますが、信号名の【刈谷道】が、かつての街道を偲ばせています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1251
東海道から刈谷城に向かう街道がありました。それが刈谷道です。当時はこの道をまっすぐ進むと、刈谷城に行けました。現在では県道になっており、かつての街道も住宅地になっていて刈谷城に行くまでには建物にぶつかりますが、信号名の【刈谷道】が、かつての街道を偲ばせています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1251
刈谷市東陽町3丁目にある刈谷道広場は、江戸時代の東海道と刈谷城を結んだ旧街道・刈谷道(かりやみち)をそれなりにわかりやすく説明した公園です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3547
刈谷市東陽町3丁目にある刈谷道広場は、江戸時代の東海道と刈谷城を結んだ旧街道・刈谷道(かりやみち)をそれなりにわかりやすく説明した公園です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3547
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。楽田城の裏門があった場所を示す石碑が、字裏之門に建っています。ここの石碑は電柱の側にあって分かりにくいです。裏門というので、搦手口(からめてぐち)があった場所なのでしょう。ここは民間の駐車場の片隅に有るので非常にわかりにくいのですが、電柱のふもとにあるので注意深く探すと発見することができます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2383
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。楽田城の裏門があった場所を示す石碑が、字裏之門に建っています。ここの石碑は電柱の側にあって分かりにくいです。裏門というので、搦手口(からめてぐち)があった場所なのでしょう。ここは民間の駐車場の片隅に有るので非常にわかりにくいのですが、電柱のふもとにあるので注意深く探すと発見することができます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2383
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。現在は犬山市立楽田小学校になっている楽田城跡。小学校は周辺より2~3mほど高くなっています。これはもともとの高低差といわれ、楽田城の名残でもありますね。ここでのポイントは、小学校周辺をぐるっと周ってみることです。すると高台の規模、つまり楽田城の主郭の規模も分かるということです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2383
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。現在は犬山市立楽田小学校になっている楽田城跡。小学校は周辺より2~3mほど高くなっています。これはもともとの高低差といわれ、楽田城の名残でもありますね。ここでのポイントは、小学校周辺をぐるっと周ってみることです。すると高台の規模、つまり楽田城の主郭の規模も分かるということです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2383
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。楽田城の北門跡が犬山市横町にあります。現在では門跡はありませんが、北門跡を示す石碑が2つ建っています。現在は住宅地の中にポツンとある空き地の中に石碑が建っていますが、この画像の石碑は新しいものです。 鉄柵があって、その中に入ってみると…なんと古い石碑も有ります。2つの石碑がある場所の目の前の道路は、旧木曽街道です。これは江戸時代に整備された街道ですが、その原型となる旧街道を楽田城が押さえていたのでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2383
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。
愛知県犬山市の尾張楽田城跡は、永正年間(1504~21)に当時の尾張守護代・織田久長が築城したと伝わる城で、小牧長久手合戦では羽柴秀吉が本陣を置いた城です。楽田城の北門跡が犬山市横町にあります。現在では門跡はありませんが、北門跡を示す石碑が2つ建っています。現在は住宅地の中にポツンとある空き地の中に石碑が建っていますが、この画像の石碑は新しいものです。 鉄柵があって、その中に入ってみると…なんと古い石碑も有ります。2つの石碑がある場所の目の前の道路は、旧木曽街道です。これは江戸時代に整備された街道ですが、その原型となる旧街道を楽田城が押さえていたのでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2383
鎌倉街道御手洗池伝承地
祖母神社から外へ出る場所に鎌倉街道御手洗池伝承地という石碑があります。御手洗池(みたらいいけ)とは、寺社に参拝する時に手を洗う池のこと。
祖母神社から外へ出る場所に鎌倉街道御手洗池伝承地という石碑があります。御手洗池(みたらいいけ)とは、寺社に参拝する時に手を洗う池のこと。祖母神社に参拝する時、手を洗った池なのでしょう。私が参拝した時、数日間雨は降っておらず、天気予報も晴れ続きでしたが、ここには水が溜まってました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3733
祖母神社から外へ出る場所に鎌倉街道御手洗池伝承地という石碑があります。御手洗池(みたらいいけ)とは、寺社に参拝する時に手を洗う池のこと。祖母神社に参拝する時、手を洗った池なのでしょう。私が参拝した時、数日間雨は降っておらず、天気予報も晴れ続きでしたが、ここには水が溜まってました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3733
刈谷市民交流センター
刈谷偉人伝のDVDを無料で視聴できる施設があります。それが刈谷市役所の道路を挟んで隣にある、刈谷市民交流センターです。
刈谷偉人伝のDVDを無料で視聴できる施設があります。それが刈谷市役所の道路を挟んで隣にある、刈谷市民交流センターです。刈谷偉人伝とは、現在の刈谷市にゆかりのある歴史上の有名人物を紹介したアニメDVDです。全部で6人おり、これらの人物の顕彰と刈谷市民の郷土への愛着心高揚を図り作られました。DVDは刈谷市役所や観光案内所でも販売(1,000円くらい)しているのですが、DVD買うほどでもないけど見てみたい!という方、是非、刈谷市民交流センターをチェックしてみましょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1809
刈谷偉人伝のDVDを無料で視聴できる施設があります。それが刈谷市役所の道路を挟んで隣にある、刈谷市民交流センターです。刈谷偉人伝とは、現在の刈谷市にゆかりのある歴史上の有名人物を紹介したアニメDVDです。全部で6人おり、これらの人物の顕彰と刈谷市民の郷土への愛着心高揚を図り作られました。DVDは刈谷市役所や観光案内所でも販売(1,000円くらい)しているのですが、DVD買うほどでもないけど見てみたい!という方、是非、刈谷市民交流センターをチェックしてみましょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1809
刈谷城二の丸の石碑の目の前にある信号の向こう側が、三の丸跡です。歩いてみると分かるのですが、三の丸に向けて上り坂になっています。 つまり二の丸より、三の丸の方が高くなっているということですね。この微妙な高低差も歩いて城巡りすると気が付くポイントのひとつです。 そして刈谷城三の丸の跡には、現在刈谷市郷土資料館が建っています。そしてその隣には刈谷市立亀城小学校がありますが、ここがかつての刈谷城の三ノ丸なのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1112
刈谷城二の丸の石碑の目の前にある信号の向こう側が、三の丸跡です。歩いてみると分かるのですが、三の丸に向けて上り坂になっています。 つまり二の丸より、三の丸の方が高くなっているということですね。この微妙な高低差も歩いて城巡りすると気が付くポイントのひとつです。 そして刈谷城三の丸の跡には、現在刈谷市郷土資料館が建っています。そしてその隣には刈谷市立亀城小学校がありますが、ここがかつての刈谷城の三ノ丸なのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1112
愛知県豊橋市にある吉田城を水害から守るために池田輝政が築いたといわれる堤防があります。それが霞提です。別名よろい堤とも。なぜ吉田城は水害に遭う可能性が高かったのか?実は吉田城の立地に関係があるのです。吉田城の北側は豊川が流れています。有事の際は敵を食い止める天然の堀になり、戦が無い時は水の道ということで水運を利用して、物資を吉田城内に運んでいました。 堀にもなり水の道にもなる、良いことずくめに思える豊川ですが、大雨で洪水となった時、大量の水が吉田城にブチ当たるという危険な側面もあったのです。そこで増水した時、ワザと誘水し吉田城側に流れる水を減らすために築かれたほが霞提なんですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1673
愛知県豊橋市にある吉田城を水害から守るために池田輝政が築いたといわれる堤防があります。それが霞提です。別名よろい堤とも。なぜ吉田城は水害に遭う可能性が高かったのか?実は吉田城の立地に関係があるのです。吉田城の北側は豊川が流れています。有事の際は敵を食い止める天然の堀になり、戦が無い時は水の道ということで水運を利用して、物資を吉田城内に運んでいました。 堀にもなり水の道にもなる、良いことずくめに思える豊川ですが、大雨で洪水となった時、大量の水が吉田城にブチ当たるという危険な側面もあったのです。そこで増水した時、ワザと誘水し吉田城側に流れる水を減らすために築かれたほが霞提なんですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1673
愛知県海部(かいふ)郡蟹江町の尾張蟹江城址は、天正十二年(1584)年の小牧長久手合戦における蟹江合戦で、羽柴秀吉に味方した滝川一益が入城するも、織田徳川連合軍によって落城した城です。かつての尾張蟹江城は、天正十三年(1585)の天正地震で壊滅してしまい、江戸時代にはすでに畑になっていた様です。現在、城の中心部は住宅地の中の城址公園になっています。蟹江城の遺構は残っていませんが、唯一当時を偲ぶことができるのが、この本丸井戸です。江戸時代の蟹江本町の古地図にも古井戸として記入があることから、ずっと存続していた井戸だということが分かります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1718
尾張蟹江城址は、天正十二年(1584)年の小牧長久手合戦における蟹江合戦で、羽柴秀吉に味方した滝川一益が入城するも、織田徳川連合軍によって落城した城です。
愛知県海部(かいふ)郡蟹江町の尾張蟹江城址は、天正十二年(1584)年の小牧長久手合戦における蟹江合戦で、羽柴秀吉に味方した滝川一益が入城するも、織田徳川連合軍によって落城した城です。かつての尾張蟹江城は、天正十三年(1585)の天正地震で壊滅してしまい、江戸時代にはすでに畑になっていた様です。現在、城の中心部は住宅地の中の城址公園になっています。蟹江城の遺構は残っていませんが、唯一当時を偲ぶことができるのが、この本丸井戸です。江戸時代の蟹江本町の古地図にも古井戸として記入があることから、ずっと存続していた井戸だということが分かります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1718
古戦場となった場所の淵から、戦で亡くなった将兵の甲冑(鎧)や武具が多く引き上げられたため、鎧ヶ淵古戦場と呼ばれるようになった場所です。この合戦で松平好景配下の武士が甲冑を掛けた鎧掛けの松と、好景が腰かけた蛇枕石というのがありましたが、明治時代以降の新道工事で枯れかけていた鎧掛けの松は取り除かれました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=5855
古戦場となった場所の淵から、戦で亡くなった将兵の甲冑(鎧)や武具が多く引き上げられたため、鎧ヶ淵古戦場と呼ばれるようになった場所です。この合戦で松平好景配下の武士が甲冑を掛けた鎧掛けの松と、好景が腰かけた蛇枕石というのがありましたが、明治時代以降の新道工事で枯れかけていた鎧掛けの松は取り除かれました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=5855
柿本城は2017年大河ドラマでほんの少し有名になった井伊谷三人衆の一人・鈴木重時の居城跡です。満光寺の近くにあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1017
柿本城は2017年大河ドラマでほんの少し有名になった井伊谷三人衆の一人・鈴木重時の居城跡です。満光寺の近くにあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1017
安土城の造営に携わった熱田の宮大工・岡部又右衛門の屋敷跡です。 映画・火天の城では西田敏行さんが岡部又右衛門に扮し、話題になりましたよね。 その岡部さんの屋敷跡は熱田神宮近くにあったということで、現在のファミリーマート熱田白鳥三丁目店がその場所です。 ファミマの前に名古屋市教育委員会の案内看板が建っています。 なみに火天の城は、熱田の宮大工である岡部又右衛門が、信長の無茶っぷりで安土城を築くという、宮大工レベルの苦悩から見た戦国史です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=771
安土城の造営に携わった熱田の宮大工・岡部又右衛門の屋敷跡です。熱田神宮近くにあったということで、現在のファミリーマート熱田白鳥三丁目店がその場所です。
安土城の造営に携わった熱田の宮大工・岡部又右衛門の屋敷跡です。 映画・火天の城では西田敏行さんが岡部又右衛門に扮し、話題になりましたよね。 その岡部さんの屋敷跡は熱田神宮近くにあったということで、現在のファミリーマート熱田白鳥三丁目店がその場所です。 ファミマの前に名古屋市教育委員会の案内看板が建っています。 なみに火天の城は、熱田の宮大工である岡部又右衛門が、信長の無茶っぷりで安土城を築くという、宮大工レベルの苦悩から見た戦国史です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=771