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ゼロからはじめる愛知・戦国史跡巡り講座

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2022/5 作成2023/1/11 最終更新

ゼロからはじめる愛知・戦国史跡巡り講座

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2022/5 作成2023/1/11 最終更新

歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。

紹介スポット

- 451件
鳴海城本丸 - おすすめ画像
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鳴海城本丸

鳴海城の本丸跡は、現在の鳴海城跡公園。二の丸と本丸の間に県道242号線が走っており、城址を分断している。

鳴海城の本丸跡は、鳴海城跡公園になっています。二の丸と本丸の間に県道242号線が走っており、城址を分断しているんです。 ちなみにこの公園は、二の丸がある東方向以外、つまり北、西、南は低くなっており、この高低差も鳴海城を偲ぶ事もできます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=427

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鳴海城本丸 - トップ画像
鳴海城本丸愛知県名古屋市緑区鳴海町城3
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鳴海城の本丸跡は、現在の鳴海城跡公園。二の丸と本丸の間に県道242号線が走っており、城址を分断している。

鳴海城の本丸跡は、鳴海城跡公園になっています。二の丸と本丸の間に県道242号線が走っており、城址を分断しているんです。 ちなみにこの公園は、二の丸がある東方向以外、つまり北、西、南は低くなっており、この高低差も鳴海城を偲ぶ事もできます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=427

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毛受家照(勝照)の銅像 - おすすめ画像
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毛受家照(勝照)の銅像

尾張旭市東大道町にある、尾張旭市文化会館の前に戦国武将の銅像が建っている。

尾張旭市東大道町にある、尾張旭市文化会館の前に戦国武将の銅像が建っています。この人は柴田勝家の家臣・毛受家照(勝照)です。 勝照の出身が尾張国春日井郡稲葉村(現在の尾張旭市稲場町)ということで、市民が利用する文化会館の前に銅像が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2490

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毛受家照(勝照)の銅像 - トップ画像
毛受家照(勝照)の銅像愛知県尾張旭市東大道町山の内2410
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尾張旭市東大道町にある、尾張旭市文化会館の前に戦国武将の銅像が建っている。

尾張旭市東大道町にある、尾張旭市文化会館の前に戦国武将の銅像が建っています。この人は柴田勝家の家臣・毛受家照(勝照)です。 勝照の出身が尾張国春日井郡稲葉村(現在の尾張旭市稲場町)ということで、市民が利用する文化会館の前に銅像が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2490

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鳴海(鳴海宿) - おすすめ画像
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鳴海(鳴海宿)

有松宿の隣が東海道鳴海宿。ここは東海道五十三次(五十七次)の宿場で、庶民が泊まる旅籠、大名や幕府要人、公家が泊まる本陣、脇本陣もあった。

有松宿の隣が東海道鳴海宿。ここは東海道五十三次(五十七次)の宿場で、庶民が泊まる旅籠、大名や幕府要人、公家が泊まる本陣、脇本陣もありました。 現在では観光地ではなく、静かな住宅地になっていますが、東海道鳴海宿時代の名残が残っており、街道ウォーカーには人気のスポットです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3942

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鳴海(鳴海宿)愛知県名古屋市緑区鳴海町根古屋
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有松宿の隣が東海道鳴海宿。ここは東海道五十三次(五十七次)の宿場で、庶民が泊まる旅籠、大名や幕府要人、公家が泊まる本陣、脇本陣もあった。

有松宿の隣が東海道鳴海宿。ここは東海道五十三次(五十七次)の宿場で、庶民が泊まる旅籠、大名や幕府要人、公家が泊まる本陣、脇本陣もありました。 現在では観光地ではなく、静かな住宅地になっていますが、東海道鳴海宿時代の名残が残っており、街道ウォーカーには人気のスポットです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3942

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鳴海城二の丸 - おすすめ画像
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鳴海城二の丸

鳴海駅を出て北に歩き、坂を登ったところに鳴海城址があり、天神社という神社が鳴海城二の丸。

鳴海駅を出て北に歩き、坂を登ったところに鳴海城址がありますが、まずは天神社という神社、ここが鳴海城二の丸なんです。 もともとここには成海神社(なるみじんじゃ)があったのですが、応永年間(1349~1428)に安原宗範が鳴海城の前身の城となる根古屋(ねこや)城を築く時、ここの鳴海神社を強制的に移動させ、その址に築城しました。 ということで、この場所はもともと神社の跡地なんです 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=427

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鳴海城二の丸 - トップ画像
鳴海城二の丸愛知県名古屋市緑区鳴海町矢切127−1
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鳴海駅を出て北に歩き、坂を登ったところに鳴海城址があり、天神社という神社が鳴海城二の丸。

鳴海駅を出て北に歩き、坂を登ったところに鳴海城址がありますが、まずは天神社という神社、ここが鳴海城二の丸なんです。 もともとここには成海神社(なるみじんじゃ)があったのですが、応永年間(1349~1428)に安原宗範が鳴海城の前身の城となる根古屋(ねこや)城を築く時、ここの鳴海神社を強制的に移動させ、その址に築城しました。 ということで、この場所はもともと神社の跡地なんです 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=427

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牛田城址 - おすすめ画像
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牛田城址

知立市の三河牛田城跡は戦国時代の天文年間(1532~1555)に刈谷城主・水野忠政の家臣だった牛田玄蕃頭政興(うしだ げんばのかみ まさおき)が築いた城です。

知立市の三河牛田城跡は戦国時代の天文年間(1532~1555)に刈谷城主・水野忠政の家臣だった牛田玄蕃頭政興(うしだ げんばのかみ まさおき)が築いた城です。知立市牛田町の西教寺には牛田政興の位牌が祀られています。牛田城の遺構は残っておらず、石碑と看板だけですが、城巡りの時に気になるポイントがあります。それが高低差です。 牛田城は石碑があるところを起点にして、東~南側に猿渡川(さわたりがわ)が流れており、それに向けて地形が低くなっています。猿渡川は天然の堀だったのでしょう。 つまり逆に言えば猿渡川から牛田城跡を見ると高くなっているのです。ちょうど台地の先端にある城だった事がわかります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3957

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牛田城址 - トップ画像
牛田城址愛知県知立市南陽2丁目
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知立市の三河牛田城跡は戦国時代の天文年間(1532~1555)に刈谷城主・水野忠政の家臣だった牛田玄蕃頭政興(うしだ げんばのかみ まさおき)が築いた城です。

知立市の三河牛田城跡は戦国時代の天文年間(1532~1555)に刈谷城主・水野忠政の家臣だった牛田玄蕃頭政興(うしだ げんばのかみ まさおき)が築いた城です。知立市牛田町の西教寺には牛田政興の位牌が祀られています。牛田城の遺構は残っておらず、石碑と看板だけですが、城巡りの時に気になるポイントがあります。それが高低差です。 牛田城は石碑があるところを起点にして、東~南側に猿渡川(さわたりがわ)が流れており、それに向けて地形が低くなっています。猿渡川は天然の堀だったのでしょう。 つまり逆に言えば猿渡川から牛田城跡を見ると高くなっているのです。ちょうど台地の先端にある城だった事がわかります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3957

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境橋 - おすすめ画像
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境橋

尾張三河境という横に黒い線が描かれています。これが境川。その境川に架かっているのが境橋。江戸時代、かつてここに尾張と三河の境川を渡る境橋がありました。

尾張三河境という横に黒い線が描かれています。これが境川。その境川に架かっているのが境橋。江戸時代、かつてここに尾張と三河の境川を渡る境橋がありました。現在では国道1号線より1本東側を通る県道に架かる橋です。橋の中間あたりはグーグルマップで見ても尾張(豊明市)と三河(刈谷市)の境界線です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4482

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境橋 - トップ画像
境橋愛知県豊明市阿野町惣作36
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尾張三河境という横に黒い線が描かれています。これが境川。その境川に架かっているのが境橋。江戸時代、かつてここに尾張と三河の境川を渡る境橋がありました。

尾張三河境という横に黒い線が描かれています。これが境川。その境川に架かっているのが境橋。江戸時代、かつてここに尾張と三河の境川を渡る境橋がありました。現在では国道1号線より1本東側を通る県道に架かる橋です。橋の中間あたりはグーグルマップで見ても尾張(豊明市)と三河(刈谷市)の境界線です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4482

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名古屋城土塁跡 - おすすめ画像
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名古屋城土塁跡

名古屋城の近くにある愛知県図書館の横には、名古屋城の堀と土塁の遺構が残っている。

名古屋城の近くにある愛知県図書館の横には、名古屋城の堀と土塁の遺構が残っています。 現在、名古屋城として知られえいる場所は、かつての名古屋城の中心地の一部で、本当の規模は、もっと広範囲に及んでいました。 その名残の堀、土塁が愛知県図書館の横に残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=77

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名古屋城土塁跡 - トップ画像
名古屋城土塁跡愛知県名古屋市中区三の丸1丁目9
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名古屋城の近くにある愛知県図書館の横には、名古屋城の堀と土塁の遺構が残っている。

名古屋城の近くにある愛知県図書館の横には、名古屋城の堀と土塁の遺構が残っています。 現在、名古屋城として知られえいる場所は、かつての名古屋城の中心地の一部で、本当の規模は、もっと広範囲に及んでいました。 その名残の堀、土塁が愛知県図書館の横に残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=77

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名塚砦 - おすすめ画像
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名塚砦

戦国時代の弘治二年に尾張で起った稲生の戦いは、織田信長と弟・信行(信勝)の合戦で、この時、信長方によって築かれたのが名塚砦。

戦国時代の弘治二年(1556)に尾張で起った稲生(いのう)の戦いは、織田信長と弟・信行(信勝)の合戦で、この時、信長方によって築かれたのが名塚砦(なつかとりで)です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=720

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名塚砦 - トップ画像
名塚砦愛知県名古屋市西区西区名塚町4丁目22−1
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戦国時代の弘治二年に尾張で起った稲生の戦いは、織田信長と弟・信行(信勝)の合戦で、この時、信長方によって築かれたのが名塚砦。

戦国時代の弘治二年(1556)に尾張で起った稲生(いのう)の戦いは、織田信長と弟・信行(信勝)の合戦で、この時、信長方によって築かれたのが名塚砦(なつかとりで)です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=720

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宮後八幡社 - おすすめ画像
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宮後八幡社

宮後城跡の南にある宮後八幡社まで城の範囲でした。宮後八幡社にある石塁は宮後城時代の石塁とのこと。敵の侵入を防ぐ土塁を石で固めた様なものですね。

宮後城跡の南にある宮後八幡社まで城の範囲でした。宮後八幡社にある石塁は宮後城時代の石塁とのこと。敵の侵入を防ぐ土塁を石で固めた様なものですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=42988

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宮後八幡社 - トップ画像
宮後八幡社愛知県江南市宮後町八幡79
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宮後城跡の南にある宮後八幡社まで城の範囲でした。宮後八幡社にある石塁は宮後城時代の石塁とのこと。敵の侵入を防ぐ土塁を石で固めた様なものですね。

宮後城跡の南にある宮後八幡社まで城の範囲でした。宮後八幡社にある石塁は宮後城時代の石塁とのこと。敵の侵入を防ぐ土塁を石で固めた様なものですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=42988

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牛久保城跡 - おすすめ画像
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牛久保城跡

牛久保城は東三河に勢力を持っていた豪族・牧野氏の居城。JR牛久保駅の近くの空き地に牛久保城趾の石碑が建立されています。

牛久保城は東三河に勢力を持っていた豪族・牧野氏の居城。JR牛久保駅の近くの空き地に牛久保城趾の石碑が建立されています。城主・牧野古白は今橋城(後の吉田城)を築いた人物。牧野氏は今川氏に従っていましたが、永禄三年(1560)桶狭間合戦後は徳川氏に仕えます。 長篠合戦時には、設楽原へ向かう織田信長が入城(信長公記)する等、この頃には東三河の有力な拠点の城でした。 牧野氏は天正十八年(1590)家康の関東移封に伴い上野国大胡に二万石を賜り、また越後長岡藩の祖となります。 その後牛久保城は吉田城主・池田輝政の家臣・荒尾平左衛門が入りますが、元禄十三年(1700)に廃城。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129

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牛久保城跡 - トップ画像
牛久保城跡愛知県豊川市牛久保町城跡
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牛久保城は東三河に勢力を持っていた豪族・牧野氏の居城。JR牛久保駅の近くの空き地に牛久保城趾の石碑が建立されています。

牛久保城は東三河に勢力を持っていた豪族・牧野氏の居城。JR牛久保駅の近くの空き地に牛久保城趾の石碑が建立されています。城主・牧野古白は今橋城(後の吉田城)を築いた人物。牧野氏は今川氏に従っていましたが、永禄三年(1560)桶狭間合戦後は徳川氏に仕えます。 長篠合戦時には、設楽原へ向かう織田信長が入城(信長公記)する等、この頃には東三河の有力な拠点の城でした。 牧野氏は天正十八年(1590)家康の関東移封に伴い上野国大胡に二万石を賜り、また越後長岡藩の祖となります。 その後牛久保城は吉田城主・池田輝政の家臣・荒尾平左衛門が入りますが、元禄十三年(1700)に廃城。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129

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菊泉禅院 - おすすめ画像
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菊泉禅院

菊泉禅院の創建は鎌倉時代と古く、文禄元年(1592)に禅宗(曹洞宗)として開山されました。

菊泉禅院の創建は鎌倉時代と古く、文禄元年(1592)に禅宗(曹洞宗)として開山されました。 福島正則は文禄四年(1495)に尾張国清洲城主になりますが、その時に五十石の所領を寄進し、それがキッカケで正則の菩提寺となりました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1333

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菊泉禅院愛知県あま市二ツ寺屋敷69 菊泉院
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菊泉禅院の創建は鎌倉時代と古く、文禄元年(1592)に禅宗(曹洞宗)として開山されました。

菊泉禅院の創建は鎌倉時代と古く、文禄元年(1592)に禅宗(曹洞宗)として開山されました。 福島正則は文禄四年(1495)に尾張国清洲城主になりますが、その時に五十石の所領を寄進し、それがキッカケで正則の菩提寺となりました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1333

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吉良道

東海道から三河吉良方面に行ける街道が吉良道です。現在の愛知県西尾市ですね。 西尾城、そして三河吉良方面に抜ける街道です。

東海道から三河吉良方面に行ける街道が吉良道です。現在の愛知県西尾市ですね。 西尾城、そして三河吉良方面に抜ける街道です。 この吉良道も開発が進んで道幅は普通に県道ですが、刈谷道よりもまっすぐで道筋も長く残っており、当時の街道を偲ぶ道になっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1251

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吉良道愛知県岡崎市藤川町境松13
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東海道から三河吉良方面に行ける街道が吉良道です。現在の愛知県西尾市ですね。 西尾城、そして三河吉良方面に抜ける街道です。

東海道から三河吉良方面に行ける街道が吉良道です。現在の愛知県西尾市ですね。 西尾城、そして三河吉良方面に抜ける街道です。 この吉良道も開発が進んで道幅は普通に県道ですが、刈谷道よりもまっすぐで道筋も長く残っており、当時の街道を偲ぶ道になっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1251

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久昌寺

久昌寺は生駒氏の菩提寺で、織田信長の側室で織田信忠、織田信雄、そして徳川信康(岡崎三郎信康)の妻・五徳の母である生駒吉乃の墓が残る寺です。

久昌寺は生駒氏の菩提寺で、織田信長の側室で織田信忠、織田信雄、そして徳川信康(岡崎三郎信康)の妻・五徳の母である生駒吉乃の墓が残る寺です。吉乃の荼毘地(火葬場)から東に約800m離れた場所にあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3792

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久昌寺愛知県江南市田代町郷中51
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久昌寺は生駒氏の菩提寺で、織田信長の側室で織田信忠、織田信雄、そして徳川信康(岡崎三郎信康)の妻・五徳の母である生駒吉乃の墓が残る寺です。

久昌寺は生駒氏の菩提寺で、織田信長の側室で織田信忠、織田信雄、そして徳川信康(岡崎三郎信康)の妻・五徳の母である生駒吉乃の墓が残る寺です。吉乃の荼毘地(火葬場)から東に約800m離れた場所にあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3792

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宮後(みやうしろ)城址

江南市の宮後(みやうしろ)城址は、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉/羽柴秀吉)に仕えた蜂須賀小六正勝の息子・蜂須賀家政の生誕地です。

江南市の宮後(みやうしろ)城址は、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉/羽柴秀吉)に仕えた蜂須賀小六正勝の息子・蜂須賀家政の生誕地です。宮後城址は県道64号線(一宮犬山線)で分断されています。天守など無い地方の土豪クラスの館城ではありますが、有名な蜂須賀家政の生誕地ということで、チェックしておいたほうが良いと思いました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4298

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宮後(みやうしろ)城址愛知県江南市宮後町八幡58
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江南市の宮後(みやうしろ)城址は、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉/羽柴秀吉)に仕えた蜂須賀小六正勝の息子・蜂須賀家政の生誕地です。

江南市の宮後(みやうしろ)城址は、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉/羽柴秀吉)に仕えた蜂須賀小六正勝の息子・蜂須賀家政の生誕地です。宮後城址は県道64号線(一宮犬山線)で分断されています。天守など無い地方の土豪クラスの館城ではありますが、有名な蜂須賀家政の生誕地ということで、チェックしておいたほうが良いと思いました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4298

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岩津城跡 - おすすめ画像
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岩津城跡

岡崎市の三河岩津城跡は、松平氏の本拠となった城のひとつです。入り口ですが、住宅地の片隅にあります。岡崎観光文化百選の看板がある場所から森の中に入ります。

岡崎市の三河岩津城跡は、松平氏の本拠となった城のひとつです。入り口ですが、住宅地の片隅にあります。岡崎観光文化百選の看板がある場所から森の中に入ります。岩津城址の石碑が建っている場所を注意深く見てみると、土塁の上に石碑が建っている事が分かります。この本丸土塁の対面にも土塁があって、虎口を形成しています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2142

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岩津城跡愛知県岡崎市岩津町東山
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岡崎市の三河岩津城跡は、松平氏の本拠となった城のひとつです。入り口ですが、住宅地の片隅にあります。岡崎観光文化百選の看板がある場所から森の中に入ります。

岡崎市の三河岩津城跡は、松平氏の本拠となった城のひとつです。入り口ですが、住宅地の片隅にあります。岡崎観光文化百選の看板がある場所から森の中に入ります。岩津城址の石碑が建っている場所を注意深く見てみると、土塁の上に石碑が建っている事が分かります。この本丸土塁の対面にも土塁があって、虎口を形成しています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2142

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岩略寺城跡 - おすすめ画像
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岩略寺城跡

豊川市(旧音羽町)に城巡りファンが喜びそうな山城があります。それが岩略寺城です。

豊川市(旧音羽町)に城巡りファンが喜びそうな山城があります。それが岩略寺城です。 岩略寺城の歴史について。まず築城時期はハッキリ分かっていませんが、一説によると 文安年間(1444~49)駿河の今川氏の一族・関口氏によって築かれた城といわれています。数百年前の遺構がよく残り、また現地に案内看板や碑が建っているのでわかりやすく楽しめる城だと思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2086

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岩略寺城跡愛知県豊川市長沢町
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豊川市(旧音羽町)に城巡りファンが喜びそうな山城があります。それが岩略寺城です。

豊川市(旧音羽町)に城巡りファンが喜びそうな山城があります。それが岩略寺城です。 岩略寺城の歴史について。まず築城時期はハッキリ分かっていませんが、一説によると 文安年間(1444~49)駿河の今川氏の一族・関口氏によって築かれた城といわれています。数百年前の遺構がよく残り、また現地に案内看板や碑が建っているのでわかりやすく楽しめる城だと思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2086

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亀山城址

新城市作手清岳の亀山城は、長篠設楽原合戦の時、長篠城を守っていた奥平氏の元居城だった城です。

新城市作手清岳の亀山城は、長篠設楽原合戦の時、長篠城を守っていた奥平氏の元居城だった城です。 奥平氏は関東発祥の豪族で、いつの頃か作手にやってきて戦国時代には作手の領主になっていました。いくつか居城を移したものの、その時の居城のひとつが亀山城です。城内は曲輪、堀、土橋、土塁など分かりやすい遺構が残っています。城の入り口には案内板も立っているので分かりやすいですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2775#i-7...

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亀山城址愛知県新城市作手清岳大バロ
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新城市作手清岳の亀山城は、長篠設楽原合戦の時、長篠城を守っていた奥平氏の元居城だった城です。

新城市作手清岳の亀山城は、長篠設楽原合戦の時、長篠城を守っていた奥平氏の元居城だった城です。 奥平氏は関東発祥の豪族で、いつの頃か作手にやってきて戦国時代には作手の領主になっていました。いくつか居城を移したものの、その時の居城のひとつが亀山城です。城内は曲輪、堀、土橋、土塁など分かりやすい遺構が残っています。城の入り口には案内板も立っているので分かりやすいですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2775#i-7...

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岩作(やざこ)城跡(長久手市役所) - おすすめ画像
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岩作(やざこ)城跡(長久手市役所)

徳川家康と池田恒興らの長久手合戦で有名な愛知県長久手市の市役所には、岩作城址(やざこじょうし)という石碑が建立されています。

徳川家康と池田恒興らの長久手合戦で有名な愛知県長久手市の市役所には、岩作城址(やざこじょうし)という石碑が建立されています。実は長久手市役所は城跡だったのです。岩作城の城主は今井五郎大夫、今井四郎兵衛という人物が記録に残っています。 昭和六十年の発掘調査で、岩作城は室町時代前半(十四世紀後半)に築城されたことは分かっていますが、その他は謎です。 また城と言っても石垣や天守があったのではなく、この地域の有力者・今井氏の居館周辺に堀と土塁を巡らせた、館城というタイプのものだったと思われます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2934

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岩作(やざこ)城跡(長久手市役所)愛知県長久手市岩作
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徳川家康と池田恒興らの長久手合戦で有名な愛知県長久手市の市役所には、岩作城址(やざこじょうし)という石碑が建立されています。

徳川家康と池田恒興らの長久手合戦で有名な愛知県長久手市の市役所には、岩作城址(やざこじょうし)という石碑が建立されています。実は長久手市役所は城跡だったのです。岩作城の城主は今井五郎大夫、今井四郎兵衛という人物が記録に残っています。 昭和六十年の発掘調査で、岩作城は室町時代前半(十四世紀後半)に築城されたことは分かっていますが、その他は謎です。 また城と言っても石垣や天守があったのではなく、この地域の有力者・今井氏の居館周辺に堀と土塁を巡らせた、館城というタイプのものだったと思われます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2934

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岩作西城跡

岩作城の近くには岩作西城(やざこにしじょう)という城もありました。現在の長久手市岩作籔田辺りです。

岩作城の近くには岩作西城(やざこにしじょう)という城もありました。現在の長久手市岩作籔田辺りです。この岩作西城の城主は鈴村権八という人物ですが、この人がどういった人なのか?また岩作西城はどんな歴史があるのか?ということは謎です。現在は民家と田んぼになっており、城の遺構らしきものは全く残っていません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2934

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岩作西城跡愛知県長久手市岩作
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岩作城の近くには岩作西城(やざこにしじょう)という城もありました。現在の長久手市岩作籔田辺りです。

岩作城の近くには岩作西城(やざこにしじょう)という城もありました。現在の長久手市岩作籔田辺りです。この岩作西城の城主は鈴村権八という人物ですが、この人がどういった人なのか?また岩作西城はどんな歴史があるのか?ということは謎です。現在は民家と田んぼになっており、城の遺構らしきものは全く残っていません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2934

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岩倉城址

岩倉市の岩倉城址は戦国時代、尾張の上四郡を治めていた織田伊勢守家の城です。織田信長の織田家は大和守家。岩倉城は伊勢守家で同じ織田氏でも仲が悪く敵対していました。

岩倉市の岩倉城址は戦国時代、尾張の上四郡を治めていた織田伊勢守家の城です。織田信長の織田家は大和守家。岩倉城は伊勢守家で同じ織田氏でも仲が悪く敵対していました。最後は織田信長に攻め落とされる岩倉城です。岩倉城跡の石碑の後ろには、織田伊勢守城址という石碑と不動明王像が立ってます。現地にあった復元図は現在の住宅地図を中に入れてますね。これにより現在の様子と城があった頃の比較ができます。また城跡の近くには岩蔵街道(旧柳街道)の看板も有りました。城は何らかの街道を押さえている場所にあり、いわば交通の要所でもありました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3645

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岩倉城址愛知県岩倉市下本町城址122
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岩倉市の岩倉城址は戦国時代、尾張の上四郡を治めていた織田伊勢守家の城です。織田信長の織田家は大和守家。岩倉城は伊勢守家で同じ織田氏でも仲が悪く敵対していました。

岩倉市の岩倉城址は戦国時代、尾張の上四郡を治めていた織田伊勢守家の城です。織田信長の織田家は大和守家。岩倉城は伊勢守家で同じ織田氏でも仲が悪く敵対していました。最後は織田信長に攻め落とされる岩倉城です。岩倉城跡の石碑の後ろには、織田伊勢守城址という石碑と不動明王像が立ってます。現地にあった復元図は現在の住宅地図を中に入れてますね。これにより現在の様子と城があった頃の比較ができます。また城跡の近くには岩蔵街道(旧柳街道)の看板も有りました。城は何らかの街道を押さえている場所にあり、いわば交通の要所でもありました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3645

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