2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件加藤景廉一族の墓
加藤景廉は山木館襲撃で山木兼隆を討った武将。
仁田忠常兄弟の墓
仁田忠常は、伊豆国仁田郷の武将。
北条宗時の墓(宗時神社)
北条宗時は北条時政の嫡男。
北条宗時は北条時政の嫡男。 北条政子の弟・北条義時の兄。 1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝に従うが、頼朝軍は山木兼隆を討った後、8月24日、相模国の石橋山で大庭景親軍に大敗。 頼朝は山中へ逃れた。 『吾妻鏡』によれば、北条時政と宗時、義時の父子は頼朝と別行動をとり、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとした。 しかし、早川の辺で伊東祐親の軍に包囲され小平井久重に討ち取られたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/izukannami-...
北条宗時は北条時政の嫡男。 北条政子の弟・北条義時の兄。 1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝に従うが、頼朝軍は山木兼隆を討った後、8月24日、相模国の石橋山で大庭景親軍に大敗。 頼朝は山中へ逃れた。 『吾妻鏡』によれば、北条時政と宗時、義時の父子は頼朝と別行動をとり、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとした。 しかし、早川の辺で伊東祐親の軍に包囲され小平井久重に討ち取られたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/izukannami-...
堀親家館跡
堀親家は、源頼朝が伊豆国の流人だった頃から頼朝に仕えていた武将。
堀親家(ほりちかいえ)は、源頼朝が伊豆国の流人だった頃から頼朝に仕えていた武将。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hori-tikaie...
堀親家(ほりちかいえ)は、源頼朝が伊豆国の流人だった頃から頼朝に仕えていた武将。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hori-tikaie...
間眠神社
三島大社に日参していた源頼朝が仮眠をとった場所なので間眠神社。
間眠神社(まどろみじんじゃ)は、大洪水によって韮山の長崎から流れ着いた稲荷社であるという。 伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、源氏再興を祈願するため三嶋大社に百日間の参詣をする途中、路傍の祠の松の根もとで、しばしまどろんだという伝説が残されている。 そのため、この松は「頼朝公間眠の松」と呼ばれ、社は「間眠稲荷」・「間眠宮」と称されたのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/madoromi-ji...
間眠神社(まどろみじんじゃ)は、大洪水によって韮山の長崎から流れ着いた稲荷社であるという。 伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、源氏再興を祈願するため三嶋大社に百日間の参詣をする途中、路傍の祠の松の根もとで、しばしまどろんだという伝説が残されている。 そのため、この松は「頼朝公間眠の松」と呼ばれ、社は「間眠稲荷」・「間眠宮」と称されたのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/madoromi-ji...
妻塚観音堂
大庭景親が誤って殺してしまった妻の冥福を祈るために建てた堂。
妻塚観音堂は、大庭景親の妻を祀る御堂が始まりという。 1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れて伊豆国流罪となった源頼朝。 配流地の蛭ヶ小島で尾張国野間で最期を遂げた父義朝の菩提を弔う毎日を送っていたが、やがて、源氏再興を祈願するため三嶋大社への参拝を重ねるようになる。 そんな頼朝を暗殺しようとしたのが平家方の大庭景親。 伝説によると・・・ ある時、三嶋大社の近くの暗闇で人影を見つけた景親。 頼朝だと思って斬りつけたが・・・ それは頼朝ではなく自分の妻だった。 景親の妻は、源氏に縁のある人物で、夫の頼朝暗殺を止めようとしていたのだという。 そんな景親が妻の冥福を祈って建てたのが妻塚なのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tumaduka.ht...
妻塚観音堂は、大庭景親の妻を祀る御堂が始まりという。 1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れて伊豆国流罪となった源頼朝。 配流地の蛭ヶ小島で尾張国野間で最期を遂げた父義朝の菩提を弔う毎日を送っていたが、やがて、源氏再興を祈願するため三嶋大社への参拝を重ねるようになる。 そんな頼朝を暗殺しようとしたのが平家方の大庭景親。 伝説によると・・・ ある時、三嶋大社の近くの暗闇で人影を見つけた景親。 頼朝だと思って斬りつけたが・・・ それは頼朝ではなく自分の妻だった。 景親の妻は、源氏に縁のある人物で、夫の頼朝暗殺を止めようとしていたのだという。 そんな景親が妻の冥福を祈って建てたのが妻塚なのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tumaduka.ht...
手無地蔵
源頼朝に片腕を切り落とされた地蔵尊。
伝説によると・・・ かつて、ここには神社(左内神社)があったが焼けてしまい、その跡地には地蔵尊を祀る御堂が建てられたのだという。 伝説によると・・・ 源氏再興を祈願するため三嶋大社に参詣していた源頼朝。 頼朝が地蔵尊の前を通る度に、美しい女が頼朝の後をつけてきた。 怪しいと思いながら、しばらく知らないそぶりをしていた頼朝。 ある時、その女が声をかけてきたので、頼朝は女の片腕を切り落としたが・・・。 その女は地蔵尊だった。 その時から、地蔵尊は「手無地蔵」と呼ばれるようになったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tenasijizo....
伝説によると・・・ かつて、ここには神社(左内神社)があったが焼けてしまい、その跡地には地蔵尊を祀る御堂が建てられたのだという。 伝説によると・・・ 源氏再興を祈願するため三嶋大社に参詣していた源頼朝。 頼朝が地蔵尊の前を通る度に、美しい女が頼朝の後をつけてきた。 怪しいと思いながら、しばらく知らないそぶりをしていた頼朝。 ある時、その女が声をかけてきたので、頼朝は女の片腕を切り落としたが・・・。 その女は地蔵尊だった。 その時から、地蔵尊は「手無地蔵」と呼ばれるようになったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tenasijizo....
頼朝の井戸
源頼朝が配流地の蛭ヶ小島から三嶋大社へ百日間の日参をした際にこの井戸の水を飲んだのだとか・・・
源頼朝が配流地の蛭ヶ小島から三嶋大社へ百日間の日参をした際にこの井戸の水を飲んだのだとか・・・ ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misima-tais...
源頼朝が配流地の蛭ヶ小島から三嶋大社へ百日間の日参をした際にこの井戸の水を飲んだのだとか・・・ ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misima-tais...
田代信綱の墓
田代信綱は源頼朝が蛭ヶ小島の流人の頃から仕えていた武将。
田代信綱が治めていた田代郷の「田代砦跡」には、田代信綱の墓と伝わる五輪塔が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tasiro.htm
田代信綱が治めていた田代郷の「田代砦跡」には、田代信綱の墓と伝わる五輪塔が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tasiro.htm
豆塚神社
北条義時が信仰した。
北条郷の守山八幡宮と江間郷の豆塚神社は、延喜式神名帳に記載されている石徳高神社とされている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ma...
北条郷の守山八幡宮と江間郷の豆塚神社は、延喜式神名帳に記載されている石徳高神社とされている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ma...
北条義時邸跡
江間四郎あるいは江間小四郎と呼ばれた北条義時の館跡。
北条義時は、北条郷を本拠とした豪族・北条時政の次男。 兄の宗時が石橋山の戦いで討死したことから、嫡子となったとされる一方で、分家の江間家の初代とも考えられている。何故分家を作ったのか・・・、北条本家以外にも源頼朝に仕える分家を作り、「時政の子義時」ではなく、「鎌倉御家人の義時」という形を作り上げたかったという考え方もできる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-yo...
北条義時は、北条郷を本拠とした豪族・北条時政の次男。 兄の宗時が石橋山の戦いで討死したことから、嫡子となったとされる一方で、分家の江間家の初代とも考えられている。何故分家を作ったのか・・・、北条本家以外にも源頼朝に仕える分家を作り、「時政の子義時」ではなく、「鎌倉御家人の義時」という形を作り上げたかったという考え方もできる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-yo...
珍場神社
大蛇に呑み込まれて亡くなった北条義時の嫡子・安千代丸の霊が祀られているのだとか。
北条義時の嫡子と言えば北条泰時だが、泰時には兄がいたということになる。もしかすると八重姫が産んだ子かも。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ti...
北条義時の嫡子と言えば北条泰時だが、泰時には兄がいたということになる。もしかすると八重姫が産んだ子かも。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ti...
荒木神社
源頼朝が、参拝の度に社前の社木に鞍を掛けたという言い伝えから「鞍掛明神」とも称されていたという。
荒木神社の創建年は不詳だが、延喜式の神名帳に登載されているという古社。 古くは「茨木神社」(ばらき神社)と呼ばれ、「原木」の地名の由来となったと考えられている。 伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、参拝の度に社前の社木に鞍を掛けたという言い伝えから「鞍掛明神」とも称されていたという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ar...
荒木神社の創建年は不詳だが、延喜式の神名帳に登載されているという古社。 古くは「茨木神社」(ばらき神社)と呼ばれ、「原木」の地名の由来となったと考えられている。 伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、参拝の度に社前の社木に鞍を掛けたという言い伝えから「鞍掛明神」とも称されていたという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ar...
右内神社
三島大社に日参していた源頼朝が度々立ち寄ったという神社。
右内神社(うないじんじゃ)は、梅名川(御殿川)西岸にあって、東岸の左内神社とともに三嶋大社の随神門として鎮座する社。伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、崇敬する三嶋大社に源氏再興の大願をかけ、百日参詣する道すがらに度々立ち寄ったのだという。境内には頼朝公手洗水がある。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misima-tais...
右内神社(うないじんじゃ)は、梅名川(御殿川)西岸にあって、東岸の左内神社とともに三嶋大社の随神門として鎮座する社。伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、崇敬する三嶋大社に源氏再興の大願をかけ、百日参詣する道すがらに度々立ち寄ったのだという。境内には頼朝公手洗水がある。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misima-tais...
一条戻橋
渡辺綱が鬼女の腕を源氏重代の「髭切の太刀」で切り落とした所。のちに髭切の太刀は源頼朝が帯びている。
一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、一条通の堀川に架けられた橋。 794年(延暦13年)の平安遷都とともに架けられたと伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、一条通の堀川に架けられた橋。 794年(延暦13年)の平安遷都とともに架けられたと伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
比丘尼山
源頼朝の乳母比企尼が草庵を結んだという山。
比丘尼山(びくにやま)は、源頼朝の乳母で流人時代の頼朝を援助し続けたという比企尼が、夫比企掃部允の没後に草庵を営んだという場所。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiki-bikuni...
比丘尼山(びくにやま)は、源頼朝の乳母で流人時代の頼朝を援助し続けたという比企尼が、夫比企掃部允の没後に草庵を営んだという場所。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiki-bikuni...
主馬盛久頸座
平家の家人だった平盛久が処刑されそうになった場所。
盛久は、壇ノ浦の戦い後逃亡していたが、1186年(文治2年)に捕らえられて鎌倉に送られてきた。 由比ヶ浜で斬首の刑と決まったが、盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続けた結果、処刑前夜に観世音の霊夢を見た。 そして、処刑のときになると、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を落とし、太刀も2つに折れてしまった。 これを聞いた源頼朝は、盛久を招き・・・ 「自分も同じ夢を見た。観世音のお告げである」 として助命し、盛久は所望されて舞を舞ったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page136mori...
盛久は、壇ノ浦の戦い後逃亡していたが、1186年(文治2年)に捕らえられて鎌倉に送られてきた。 由比ヶ浜で斬首の刑と決まったが、盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続けた結果、処刑前夜に観世音の霊夢を見た。 そして、処刑のときになると、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を落とし、太刀も2つに折れてしまった。 これを聞いた源頼朝は、盛久を招き・・・ 「自分も同じ夢を見た。観世音のお告げである」 として助命し、盛久は所望されて舞を舞ったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page136mori...
皇大神社
相殿に源頼朝の挙兵で最初の標的となった山木兼隆が祀られている。
皇大神社(こうたいじんじゃ)は、山木地区の鎮守。 本殿に天照大神、相殿に菅原道真・平兼隆・八牧幣座神(やまきみてぐらのかみ)を祀っている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ko...
皇大神社(こうたいじんじゃ)は、山木地区の鎮守。 本殿に天照大神、相殿に菅原道真・平兼隆・八牧幣座神(やまきみてぐらのかみ)を祀っている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ko...
熱田神宮
源頼朝の母由良御前は、熱田大宮司藤原季範の娘。
熱田神宮は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀った神社。河内源氏の棟梁源義朝は、大宮司藤原季範の娘由良御前を正室とし、源頼朝を授かっている。『義経記』によると源義経は熱田神宮大宮司を烏帽子親として元服したのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/owari/atuta...
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通法寺跡
河内源氏三代の墓がある。
河内国の壺井(現在の羽曳野市)は、源頼信、源頼義、源義家の三代が本拠とした地であることから「河内源氏発祥の地」と呼ばれている。 頼義が河内源氏の菩提寺として建立した通法寺跡には、源氏三代の墓が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oosaka/genj...
河内国の壺井(現在の羽曳野市)は、源頼信、源頼義、源義家の三代が本拠とした地であることから「河内源氏発祥の地」と呼ばれている。 頼義が河内源氏の菩提寺として建立した通法寺跡には、源氏三代の墓が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oosaka/genj...