2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件畠山館跡
鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠の誕生地。
畠山重忠公史跡公園は、重忠の館跡を整備した公園で、重忠とその家臣のものといわれる五輪塔や重忠産湯の井戸などが残されている。 「畠山重忠像」は、一ノ谷の戦いの鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの際、愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hatakeyama/...
畠山重忠公史跡公園は、重忠の館跡を整備した公園で、重忠とその家臣のものといわれる五輪塔や重忠産湯の井戸などが残されている。 「畠山重忠像」は、一ノ谷の戦いの鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの際、愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hatakeyama/...
証菩提寺
岡崎義実が佐奈田与一義忠の菩提を弔うために建立した寺。
証菩提寺は、岡崎義実が、1189年(文治5年)、佐奈田(真田)与一義忠の菩提を弔うために建立した。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/shobodaiji....
証菩提寺は、岡崎義実が、1189年(文治5年)、佐奈田(真田)与一義忠の菩提を弔うために建立した。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/shobodaiji....
安倍晴明の碑
山ノ内道のJR横須賀線踏切近くにある安倍晴明の碑。
1180年(治承4年)、源頼朝は鎌倉に入ると、山ノ内にあった首藤兼道邸を移築して当座の御所とした。 この建物は、安倍晴明の護符が貼られたもので200年もの間、1度も火事に遭わなかったという。 この碑の辺りに安倍晴明の屋敷があったといわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page138aben...
1180年(治承4年)、源頼朝は鎌倉に入ると、山ノ内にあった首藤兼道邸を移築して当座の御所とした。 この建物は、安倍晴明の護符が貼られたもので200年もの間、1度も火事に遭わなかったという。 この碑の辺りに安倍晴明の屋敷があったといわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page138aben...
神明大神宮
源頼朝に仕えた大庭景義の館跡。
神明大神宮は、大庭御厨の領主大庭景義(景能)が館の鬼門に伊勢神宮を勧請して建立した社。 周辺一帯は、景義の懐島城があった地。 社殿裏には、懐島館址碑と景義の像が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sinmei-daij...
神明大神宮は、大庭御厨の領主大庭景義(景能)が館の鬼門に伊勢神宮を勧請して建立した社。 周辺一帯は、景義の懐島城があった地。 社殿裏には、懐島館址碑と景義の像が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sinmei-daij...
三島大神
源頼朝が伊豆の三嶋大社を勧請したと伝えられる。
三島大神の創建年は不詳だが、源頼朝が伊豆の三嶋大社を勧請したと伝えられる。 約40基の神輿が終結する7月の浜降祭に参加する神社の一つ。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misima-tiga...
三島大神の創建年は不詳だが、源頼朝が伊豆の三嶋大社を勧請したと伝えられる。 約40基の神輿が終結する7月の浜降祭に参加する神社の一つ。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misima-tiga...
貴船神社
源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、社前で必勝祈願の護摩を焚いたと伝えられる。
貴船神社は、889年(寛平元年)に創建された古社。 真鶴港を見下ろす高台にある。 三ツ石の沖に現れた木像12体と書状を社家平井家の祖先の「平井翁」が発見し、社殿を建てて村の鎮守としたのが始まり。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、社前で必勝祈願の護摩を焚いたと伝えられる。 江戸時代まで「貴宮大明神」(きのみや)と呼ばれ厚い信仰を受けてきたが、明治元年に「貴船神社」に改められた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kifunejinjy...
貴船神社は、889年(寛平元年)に創建された古社。 真鶴港を見下ろす高台にある。 三ツ石の沖に現れた木像12体と書状を社家平井家の祖先の「平井翁」が発見し、社殿を建てて村の鎮守としたのが始まり。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、社前で必勝祈願の護摩を焚いたと伝えられる。 江戸時代まで「貴宮大明神」(きのみや)と呼ばれ厚い信仰を受けてきたが、明治元年に「貴船神社」に改められた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kifunejinjy...
児子神社
土肥遠平の子万寿の悲しい伝説が残された神社。
1180年(治承4年)8月28日、土肥実平の手引きによって岩海岸にたどり着いた源頼朝一行が安房へ向けて船出しようとしたときのこと。 実平の子遠平が「子の万寿に会ってから・・・」と言い出した。 万寿の母は、頼朝に敵対した伊東祐親の次女・万劫。 内通を疑った実平は、遠平を下船させたのだという。 その後、遠平は和田義盛の用意した船で頼朝一行を追うが、子の万寿には会う事はできなかった。 遠平の船が出た後に駆けつけた万寿は、父方は源氏に、母方は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。 それを憐れんだ村人は万寿を児子神社に祀ったのだと伝えられている。 近くの瀧門寺の五層塔は、万寿を葬った塔なのだとか・・・。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tigojinjya-...
1180年(治承4年)8月28日、土肥実平の手引きによって岩海岸にたどり着いた源頼朝一行が安房へ向けて船出しようとしたときのこと。 実平の子遠平が「子の万寿に会ってから・・・」と言い出した。 万寿の母は、頼朝に敵対した伊東祐親の次女・万劫。 内通を疑った実平は、遠平を下船させたのだという。 その後、遠平は和田義盛の用意した船で頼朝一行を追うが、子の万寿には会う事はできなかった。 遠平の船が出た後に駆けつけた万寿は、父方は源氏に、母方は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。 それを憐れんだ村人は万寿を児子神社に祀ったのだと伝えられている。 近くの瀧門寺の五層塔は、万寿を葬った塔なのだとか・・・。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tigojinjya-...
岡崎義実の墓
岡崎義実は源義朝・源頼朝に仕えた武将。
無量寺
無量寺は、三浦義明の弟岡崎義実の居城だった岡崎城の本丸跡に建てられた寺。
無量寺は、三浦大介義明の弟岡崎義実の居城だった岡崎城の本丸跡に建てられた寺。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/muryoji.htm...
無量寺は、三浦大介義明の弟岡崎義実の居城だった岡崎城の本丸跡に建てられた寺。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/muryoji.htm...
天徳寺真田尊
天徳寺は、佐奈田(真田)与一義忠の居城跡に建てられた曹洞宗の寺。
天徳寺は、佐奈田(真田)与一義忠の居城跡に建てられた曹洞宗の寺。 義忠は、岡崎義実の嫡男で、源頼朝が1180年(治承4年)に源氏再興の旗挙げをするとこれに従った。石橋山の戦いで俣野景久(大庭景親の弟)と戦い、いったんは景久を組み伏せたものの、血のりで刀を抜くことができず、駆けつけた長尾定景に討たれた。 境内には与一廟があり真田尊と呼ばれてきた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sanada-son....
天徳寺は、佐奈田(真田)与一義忠の居城跡に建てられた曹洞宗の寺。 義忠は、岡崎義実の嫡男で、源頼朝が1180年(治承4年)に源氏再興の旗挙げをするとこれに従った。石橋山の戦いで俣野景久(大庭景親の弟)と戦い、いったんは景久を組み伏せたものの、血のりで刀を抜くことができず、駆けつけた長尾定景に討たれた。 境内には与一廟があり真田尊と呼ばれてきた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sanada-son....
来宮神社
国の天然記念物の大楠が聳える神社。
来宮神社(きのみや)の創建年は不明。 古くより来宮大明神と称され、来福・縁起の神として信仰されてきた。 平安初期には坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、各地に分霊を祀ったのだと伝えられている。 祭神の五十猛命(いたけるのみこと)は、伊豆山の地主神・白道明神であるという説もある。 樹齢2000年を超えるともいわれる大楠(おおくす)は、国の天然記念物に指定されている(樹高約26m、幹周り約24m)。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/atami-kinom...
来宮神社(きのみや)の創建年は不明。 古くより来宮大明神と称され、来福・縁起の神として信仰されてきた。 平安初期には坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、各地に分霊を祀ったのだと伝えられている。 祭神の五十猛命(いたけるのみこと)は、伊豆山の地主神・白道明神であるという説もある。 樹齢2000年を超えるともいわれる大楠(おおくす)は、国の天然記念物に指定されている(樹高約26m、幹周り約24m)。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/atami-kinom...
五郎神社
石橋山の戦いに敗れて土肥郷に逃れた源頼朝が陣を張ったという鍛冶屋に鎮座する社。
五郎神社は、石橋山の戦いに敗れて土肥郷に逃れた源頼朝が陣を張ったという鍛冶屋に鎮座する社。 元亀年間の創建と伝えられる。 祭神の金山彦尊(かなやまひこのみこと)は、鍛冶の神。 鎮座する鍛冶屋という地名は、鍛冶職が住んだことに由来しているといわれる。 1911年(明治44年)、須賀神社を合祀(祭神:面足尊(おもだるのみこと))。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gorojinjya-...
五郎神社は、石橋山の戦いに敗れて土肥郷に逃れた源頼朝が陣を張ったという鍛冶屋に鎮座する社。 元亀年間の創建と伝えられる。 祭神の金山彦尊(かなやまひこのみこと)は、鍛冶の神。 鎮座する鍛冶屋という地名は、鍛冶職が住んだことに由来しているといわれる。 1911年(明治44年)、須賀神社を合祀(祭神:面足尊(おもだるのみこと))。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/gorojinjya-...
小道地蔵堂
石橋山の戦いに敗れた源頼朝の伝説が残された地蔵堂。
小道地蔵堂は、源頼朝の伝説が残された堂。 もとは星ヶ山の中腹にあったが焼失し、現在地に再建されたのだという。 伝説によると・・・ 1180年(治承4年)8月、源頼朝は石橋山で大庭景親と伊東祐親らに大敗。 星ヶ山の純海和尚は、助けを求めてきた頼朝一行を堂の床下に隠した。 そこへ大庭景親の軍勢が押し寄せ、頼朝の行方を聞き出すため純海和尚を拷問にかけるが、和尚は頼朝の事を話す事なく息絶えてしまったのだという。 騒ぎが静まり、床下から出てきた頼朝が眼にしたものは、哀れな純海和尚の姿。 純海和尚を膝に抱きかかえ愛憐の涙を流す頼朝。 その時、頼朝の涙が純海和尚の喉元に落ちた。 すると、純海和尚は息を吹き返したのだという。 のちに頼朝は純海和尚の忠誠に報いるために寺領を寄進。 堂の名は小道山頼朝寺とされたのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/komiti-jizo...
小道地蔵堂は、源頼朝の伝説が残された堂。 もとは星ヶ山の中腹にあったが焼失し、現在地に再建されたのだという。 伝説によると・・・ 1180年(治承4年)8月、源頼朝は石橋山で大庭景親と伊東祐親らに大敗。 星ヶ山の純海和尚は、助けを求めてきた頼朝一行を堂の床下に隠した。 そこへ大庭景親の軍勢が押し寄せ、頼朝の行方を聞き出すため純海和尚を拷問にかけるが、和尚は頼朝の事を話す事なく息絶えてしまったのだという。 騒ぎが静まり、床下から出てきた頼朝が眼にしたものは、哀れな純海和尚の姿。 純海和尚を膝に抱きかかえ愛憐の涙を流す頼朝。 その時、頼朝の涙が純海和尚の喉元に落ちた。 すると、純海和尚は息を吹き返したのだという。 のちに頼朝は純海和尚の忠誠に報いるために寺領を寄進。 堂の名は小道山頼朝寺とされたのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/komiti-jizo...
土肥実平と妻の像
石橋山の戦いに敗れ源頼朝を安房国へと船出させた土肥実平とその妻の像。
土肥実平(どいさねひら)は、桓武平氏の血をひく相模の豪族中村氏の一族。 土肥郷(現在の湯河原町、真鶴町)を本拠としていた武将。 1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵には、弟の土屋宗遠をはじめとする中村一族を率いて参陣。 石橋山の戦いで大敗した頼朝を真鶴から安房へ渡らせる手引きをし、その後も、平家討伐や奥州征伐に参陣するなど大きな功績を残している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/toi.htm
土肥実平(どいさねひら)は、桓武平氏の血をひく相模の豪族中村氏の一族。 土肥郷(現在の湯河原町、真鶴町)を本拠としていた武将。 1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵には、弟の土屋宗遠をはじめとする中村一族を率いて参陣。 石橋山の戦いで大敗した頼朝を真鶴から安房へ渡らせる手引きをし、その後も、平家討伐や奥州征伐に参陣するなど大きな功績を残している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/toi.htm
鵐窟
「鵐窟」(しとどのいわや)は、真鶴から船出する頼朝主従が身を隠していたという岩窟。
真鶴港の程近くにある「鵐窟」(しとどのいわや)。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、相模国へ軍を進めたが、8月24日、石橋山で大庭景親・伊東祐親らの平家軍に敗れてしまう。 土肥郷椙山に逃れた頼朝は、一時、箱根権現を頼るが、再び土肥郷に戻り、8月28日、真鶴より船出し、安房へ渡っている。 鵐窟は、このとき頼朝とともに逃れた安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱の主従七騎が隠れ潜んだ岩屋と伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yoritomo-si...
真鶴港の程近くにある「鵐窟」(しとどのいわや)。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、相模国へ軍を進めたが、8月24日、石橋山で大庭景親・伊東祐親らの平家軍に敗れてしまう。 土肥郷椙山に逃れた頼朝は、一時、箱根権現を頼るが、再び土肥郷に戻り、8月28日、真鶴より船出し、安房へ渡っている。 鵐窟は、このとき頼朝とともに逃れた安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱の主従七騎が隠れ潜んだ岩屋と伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yoritomo-si...
伊東祐親の五輪塔
源頼朝の挙兵に敵対した伊東祐親の墓。
富士川の戦いで捕らえられた伊東祐親は、1182年(養和2年)2月14日、相模国の三浦義澄の屋敷で自害したといわれ、伊東市大原町にある五輪塔は、鎌倉時代から南北朝期にかけて、子孫が供養のために建てたものと考えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ito-haka.ht...
富士川の戦いで捕らえられた伊東祐親は、1182年(養和2年)2月14日、相模国の三浦義澄の屋敷で自害したといわれ、伊東市大原町にある五輪塔は、鎌倉時代から南北朝期にかけて、子孫が供養のために建てたものと考えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ito-haka.ht...
河津三郎祐泰の血塚
工藤祐経に暗殺された河津祐泰の供養塚。
河津祐泰は、工藤氏の流れをくむ伊豆の豪族。 伊東祐親の嫡男。 仇討ちで知られる曽我兄弟の父。 1176年(安元2年)10月、奥野(伊東市)で催された源頼朝を慰めるのための巻狩りの帰路、工藤祐経に殺害された。 血塚は、祐泰が落命したと伝えられる場所に、後年、供養のために建立されたのだと伝えられ、宝篋印塔は南北朝期のものと考えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ito-kawadu-...
河津祐泰は、工藤氏の流れをくむ伊豆の豪族。 伊東祐親の嫡男。 仇討ちで知られる曽我兄弟の父。 1176年(安元2年)10月、奥野(伊東市)で催された源頼朝を慰めるのための巻狩りの帰路、工藤祐経に殺害された。 血塚は、祐泰が落命したと伝えられる場所に、後年、供養のために建立されたのだと伝えられ、宝篋印塔は南北朝期のものと考えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ito-kawadu-...
産衣石
伊東祐親に殺害された源頼朝と八重姫の子千鶴丸が葬られた所。
産衣石(うぶぎいし)は、伊豆国に流されていた源頼朝と、伊東祐親の三女八重姫との間に生まれた千鶴丸の伝説が残された石。 祐親が大番役で上洛している時、頼朝と八重姫は結ばれ、男子を授かり千鶴丸と名付けて大切に育てていたが・・・ 大番役から戻ってその事を知った祐親は、平清盛から咎められるのを怖れて、家来に命じ千鶴丸を八代田の川に沈めて殺害してしまう。 千鶴丸の遺体は、川を下って富戸の海岸に流れ着き、それを釣をしていた甚之右衛門が発見。 着衣から高貴な人物の子と感じた甚之右衛門は、石の上に遺体を乗せて着衣を乾かし、丁重に葬ったのだと伝えられている。 後に、それを知った頼朝は、生川(うぶかわ)の姓と立派な茶器を与えたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ito-ubugiis...
産衣石(うぶぎいし)は、伊豆国に流されていた源頼朝と、伊東祐親の三女八重姫との間に生まれた千鶴丸の伝説が残された石。 祐親が大番役で上洛している時、頼朝と八重姫は結ばれ、男子を授かり千鶴丸と名付けて大切に育てていたが・・・ 大番役から戻ってその事を知った祐親は、平清盛から咎められるのを怖れて、家来に命じ千鶴丸を八代田の川に沈めて殺害してしまう。 千鶴丸の遺体は、川を下って富戸の海岸に流れ着き、それを釣をしていた甚之右衛門が発見。 着衣から高貴な人物の子と感じた甚之右衛門は、石の上に遺体を乗せて着衣を乾かし、丁重に葬ったのだと伝えられている。 後に、それを知った頼朝は、生川(うぶかわ)の姓と立派な茶器を与えたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ito-ubugiis...
湯前神社
源頼朝が伊豆山権現(走湯権現)・箱根権現の二所詣を始めると「湯治の神」として信仰された。
熱海の温泉街に鎮座する湯前神社(ゆぜんじんじゃ)は、平安時代からの古社。 伝えられている話では、749年(天平勝宝元年)、「この温泉に浴せば諸病がことごとく治る」という小児への神託によって少彦名神(すくなひこなのかみ)が祀られたのがはじまりだと伝えられている。 鎌倉時代に入って、源頼朝が伊豆山権現(走湯権現)・箱根権現の二所詣を始めると「湯治の神」として信仰されるようになり、社殿前の「大湯」には徳川家康が湯治に訪れたのだという。 そのため「出世の湯」と呼ばれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yuzenjinjya...
熱海の温泉街に鎮座する湯前神社(ゆぜんじんじゃ)は、平安時代からの古社。 伝えられている話では、749年(天平勝宝元年)、「この温泉に浴せば諸病がことごとく治る」という小児への神託によって少彦名神(すくなひこなのかみ)が祀られたのがはじまりだと伝えられている。 鎌倉時代に入って、源頼朝が伊豆山権現(走湯権現)・箱根権現の二所詣を始めると「湯治の神」として信仰されるようになり、社殿前の「大湯」には徳川家康が湯治に訪れたのだという。 そのため「出世の湯」と呼ばれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yuzenjinjya...
みそぎの滝稲荷神社
伊豆に配流の身だった源頼朝が日金山(東光寺)や伊豆山(伊豆山神社)に参詣した際に、渓流の滝で禊(みそぎ)をした場所だとされている。
伊豆に配流の身だった源頼朝が日金山(東光寺)や伊豆山(伊豆山神社)に参詣した際に、渓流の滝で禊(みそぎ)をした場所だとされている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/atami-misog...
伊豆に配流の身だった源頼朝が日金山(東光寺)や伊豆山(伊豆山神社)に参詣した際に、渓流の滝で禊(みそぎ)をした場所だとされている。
伊豆に配流の身だった源頼朝が日金山(東光寺)や伊豆山(伊豆山神社)に参詣した際に、渓流の滝で禊(みそぎ)をした場所だとされている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/atami-misog...