2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件清水八幡宮
源頼朝に誅殺された木曽義高を祀る神社。
屋島古戦場
源義経が奇襲した屋島。
1185年(元暦2年)2月16日、源頼朝の命を受けた源義経が屋島へ出陣。2月18日丑尅(午前2時頃)、摂津国の渡部の津から風雨の中を出航した義経は、卯尅(午前6時頃)、阿波国の椿港に到着。2月19日辰尅(午前8時頃)、屋島の平家軍を奇襲して平家軍を敗走させた。この戦いで佐藤継信を失っている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yasima/yasi...
1185年(元暦2年)2月16日、源頼朝の命を受けた源義経が屋島へ出陣。2月18日丑尅(午前2時頃)、摂津国の渡部の津から風雨の中を出航した義経は、卯尅(午前6時頃)、阿波国の椿港に到着。2月19日辰尅(午前8時頃)、屋島の平家軍を奇襲して平家軍を敗走させた。この戦いで佐藤継信を失っている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yasima/yasi...
安徳天皇社
安徳天皇の行宮(あんぐう)があった場所。
1184年(寿永3年)、一の谷の戦いで源氏軍に敗れ、屋島を本拠とした平家軍。 総大将の平宗盛は、この場所に安徳天皇の行宮(あんぐう)を建てたのだという。 壇ノ浦の戦いで安徳天皇が崩御した後は、安徳天皇を祀る霊所になった。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yasima/anto...
1184年(寿永3年)、一の谷の戦いで源氏軍に敗れ、屋島を本拠とした平家軍。 総大将の平宗盛は、この場所に安徳天皇の行宮(あんぐう)を建てたのだという。 壇ノ浦の戦いで安徳天皇が崩御した後は、安徳天皇を祀る霊所になった。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yasima/anto...
宇治川先陣の碑
木曽義仲追討の宇治川の戦いでは、源頼朝から名馬を下された佐々木高綱と梶原景季が先陣を争った。
1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝は近江国まで進軍させていた源範頼・義経の弟たちに木曽義仲追討を命じ、範頼が瀬田を、義経が宇治を攻撃した。 義経は「宇治川の戦い」で志田義広を破り入京。 敗走した義仲は近江国粟津で最期を遂げた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝は近江国まで進軍させていた源範頼・義経の弟たちに木曽義仲追討を命じ、範頼が瀬田を、義経が宇治を攻撃した。 義経は「宇治川の戦い」で志田義広を破り入京。 敗走した義仲は近江国粟津で最期を遂げた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
瀬田の唐橋
「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋だった。
かつては、「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋だった。 1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝が木曽義仲を追討する際には、源範頼が瀬田から、源義経が宇治から京へ入り、義仲を粟津で滅ぼしている。 1221年(承久3年)の承久の乱では、北条時房が瀬田橋で朝廷軍との合戦に勝利し、京都に進軍した。 戦国武将・武田信玄は、臨終の際に瀬田橋に風林火山の旗をたてるよう命じたと言われ、軍事上の要害だったことが伺い知れる伝説も残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
かつては、「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋だった。 1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝が木曽義仲を追討する際には、源範頼が瀬田から、源義経が宇治から京へ入り、義仲を粟津で滅ぼしている。 1221年(承久3年)の承久の乱では、北条時房が瀬田橋で朝廷軍との合戦に勝利し、京都に進軍した。 戦国武将・武田信玄は、臨終の際に瀬田橋に風林火山の旗をたてるよう命じたと言われ、軍事上の要害だったことが伺い知れる伝説も残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
八坂の塔
東山のシンボル「八坂の塔」は源頼朝と深い関係が・・・
京都東山の法観寺は、臨済宗建仁寺の末寺。 境内の五重塔は、東山のシンボルで「八坂の塔」と呼ばれ親しまれている。 この塔は、聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その折、三粒の仏舎利を納めて法観寺としたという伝承がある。 1179年(治承3年)に焼失したが、源頼朝によって再建された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
京都東山の法観寺は、臨済宗建仁寺の末寺。 境内の五重塔は、東山のシンボルで「八坂の塔」と呼ばれ親しまれている。 この塔は、聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その折、三粒の仏舎利を納めて法観寺としたという伝承がある。 1179年(治承3年)に焼失したが、源頼朝によって再建された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
萬福寺の磨墨像
磨墨は源頼朝が梶原景季に与えた名馬。
1183年(寿永3年)、源頼朝は木曽義仲追討のため出陣する佐々木高綱と梶原景季に、それぞれ自らの愛馬である「生食」(いけづき)と「磨墨」(するすみ)を与えた。 名馬を与えられた2人は、「宇治川の合戦」で先陣を競い合ったと伝えられている。 「磨墨」は馬込の産といわれ、万福寺の山門前には磨墨像が置かれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/manfukuji-s...
1183年(寿永3年)、源頼朝は木曽義仲追討のため出陣する佐々木高綱と梶原景季に、それぞれ自らの愛馬である「生食」(いけづき)と「磨墨」(するすみ)を与えた。 名馬を与えられた2人は、「宇治川の合戦」で先陣を競い合ったと伝えられている。 「磨墨」は馬込の産といわれ、万福寺の山門前には磨墨像が置かれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/manfukuji-s...
名馬池月
「池月」(いけづき:生月)は源頼朝愛用の名馬。
琵琶橋
鎌倉十橋の一つ。
かつて、鶴岡八幡宮の一の鳥居から二の鳥居の間が「琵琶小路」と呼ばれていたことからこの名が付いたと伝えられている。 「琵琶小路」という名称は、この道が外に彎曲していたため、それが琵琶の胴の曲線に似ていたことから付けられたのだという。 道が彎曲していたのは弁財天の祠があったからといわれている。 1182年(養和2年)、源頼朝が妻北条政子の安産祈願の目的で造営させた鶴岡八幡宮の参道若宮大路(段葛)を通す際に一直線の道となった。 その時に佐助川に琵琶橋が架けられ、弁財天は鶴岡八幡宮に移されたのだと伝えられている ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page043biwa...
かつて、鶴岡八幡宮の一の鳥居から二の鳥居の間が「琵琶小路」と呼ばれていたことからこの名が付いたと伝えられている。 「琵琶小路」という名称は、この道が外に彎曲していたため、それが琵琶の胴の曲線に似ていたことから付けられたのだという。 道が彎曲していたのは弁財天の祠があったからといわれている。 1182年(養和2年)、源頼朝が妻北条政子の安産祈願の目的で造営させた鶴岡八幡宮の参道若宮大路(段葛)を通す際に一直線の道となった。 その時に佐助川に琵琶橋が架けられ、弁財天は鶴岡八幡宮に移されたのだと伝えられている ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page043biwa...
江の島弁財天
国の重要文化財の「八臂弁財天」と、裸弁財天として知られる「妙音弁財天」を祀る。
江島神社の辺津宮にある八角の堂。 国の重要文化財の「八臂弁財天」と、裸弁財天として知られる「妙音弁財天」を祀るために1970年(昭和45年)に建てられた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/enosima-ben...
江島神社の辺津宮にある八角の堂。 国の重要文化財の「八臂弁財天」と、裸弁財天として知られる「妙音弁財天」を祀るために1970年(昭和45年)に建てられた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/enosima-ben...
伝源頼朝寄進の鳥居
江島神社奥津宮の石鳥居は源頼朝寄進と伝えられる。
江島神社の奥津宮入口の石鳥居は、源頼朝寄進と伝えられている。 『吾妻鏡』によれば、源頼朝は、1182年(養和2年)に藤原秀衡調伏のため、江の島の岩屋に弁財天を勧請し、鳥居を寄進した。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/enosima-jin...
江島神社の奥津宮入口の石鳥居は、源頼朝寄進と伝えられている。 『吾妻鏡』によれば、源頼朝は、1182年(養和2年)に藤原秀衡調伏のため、江の島の岩屋に弁財天を勧請し、鳥居を寄進した。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/enosima-jin...
江の島岩屋
北条氏の家紋ミツウロコ発祥の地。
弘法大師をはじめとする高僧が修行を積んだ所。北条時政は江の島に参篭して三つの龍の鱗を得たのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/enosima-iwa...
弘法大師をはじめとする高僧が修行を積んだ所。北条時政は江の島に参篭して三つの龍の鱗を得たのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/enosima-iwa...
木曽塚
源頼朝に誅殺された木曽義高の首塚。
常楽寺の裏山(粟船山)には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。 もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、1680年(延宝8年)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。 「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page140kiso...
常楽寺の裏山(粟船山)には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。 もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、1680年(延宝8年)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。 「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page140kiso...
蓮華王院三十三間堂
後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて創建した寺院。
武蔵御嶽神社
鎌倉時代以降、幕府や有力武将に信仰された霊場。
武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、紀元前91年(崇神天皇7年)の創建と伝えられる。 「御嶽」とは、修験道の中心地である奈良県吉野の金峯山のこと。 736年(天平8年)、行基が東国鎮護を願って蔵王権現を勧請したのだといわれている。 鎌倉時代以降、幕府や有力武将に信仰され、山岳信仰の霊場として発展した。 酉年に行われる式年大祭で秘仏の蔵王権現が開帳される。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/mitake-oume...
武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、紀元前91年(崇神天皇7年)の創建と伝えられる。 「御嶽」とは、修験道の中心地である奈良県吉野の金峯山のこと。 736年(天平8年)、行基が東国鎮護を願って蔵王権現を勧請したのだといわれている。 鎌倉時代以降、幕府や有力武将に信仰され、山岳信仰の霊場として発展した。 酉年に行われる式年大祭で秘仏の蔵王権現が開帳される。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/mitake-oume...
産安社
源頼朝が創建したと伝えられている。
産安社(うぶやすしゃ)は、武蔵御嶽神社の摂社。 文治年間(1185-1189)に源頼朝が創建したと伝えられている。 祭神は、良縁・安産の神として信仰を集める三女神。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/mitake-oume...
産安社(うぶやすしゃ)は、武蔵御嶽神社の摂社。 文治年間(1185-1189)に源頼朝が創建したと伝えられている。 祭神は、良縁・安産の神として信仰を集める三女神。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/mitake-oume...
畠山重忠の菅谷館
鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠の館跡。
『吾妻鏡』に伝えられている畠山重忠の館跡と考えられている。 重忠は、誕生地とされる武蔵国男衾郡畠山に畠山館を構えていたが、のちに鎌倉街道の要衝にあたる比企郡菅谷の地に移った。 1205年(元久2年)に重忠が武蔵国二俣川で滅んだ後は、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、現存する遺構は戦国時代のもので、重忠の時代のものとされる遺構は発見されていないため不明なところが多い。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hatakeyama/...
『吾妻鏡』に伝えられている畠山重忠の館跡と考えられている。 重忠は、誕生地とされる武蔵国男衾郡畠山に畠山館を構えていたが、のちに鎌倉街道の要衝にあたる比企郡菅谷の地に移った。 1205年(元久2年)に重忠が武蔵国二俣川で滅んだ後は、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、現存する遺構は戦国時代のもので、重忠の時代のものとされる遺構は発見されていないため不明なところが多い。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hatakeyama/...
鶴岡八幡宮大鳥居
鶴岡八幡宮の「一の鳥居」。
鶴岡八幡宮から若宮大路を由比ヶ浜へと下ると、御影石で造られた鳥居がある。 この鳥居が鶴岡八幡宮の「一の鳥居」。 現在の鳥居は、1668年(寛文8年)、江戸幕府四代将軍徳川家綱によって寄進された石造明神鳥居。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041ooto...
鶴岡八幡宮から若宮大路を由比ヶ浜へと下ると、御影石で造られた鳥居がある。 この鳥居が鶴岡八幡宮の「一の鳥居」。 現在の鳥居は、1668年(寛文8年)、江戸幕府四代将軍徳川家綱によって寄進された石造明神鳥居。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041ooto...
平重衡とらわれの松跡
一ノ谷の戦いで捕らわれた平重衡が無念の涙を流した場所。
平重衡は、平清盛の五男。 1180年(治承4年)12月28日、東大寺・興福寺の反平家勢力を一掃するため、南都焼討をしたことで知られる武将。 1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いでは、生田の森を守備していたが、梶原景時らに捕えられた。 松の根に腰を下ろして無念の涙を流す重衡に村人が濁酒を差し出すと、喜んだ重衡は「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ」と詠んだのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/itinotani/s...
平重衡は、平清盛の五男。 1180年(治承4年)12月28日、東大寺・興福寺の反平家勢力を一掃するため、南都焼討をしたことで知られる武将。 1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いでは、生田の森を守備していたが、梶原景時らに捕えられた。 松の根に腰を下ろして無念の涙を流す重衡に村人が濁酒を差し出すと、喜んだ重衡は「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ」と詠んだのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/itinotani/s...
生田の森
源平合戦の古戦場。
生田の森は、源平合戦の古戦場。 平家の主力部隊・平知盛、重衡らが率いる平家軍が陣を張り、源氏の主力部隊・源範頼軍を迎え撃った場所。 かつての生田の森は、現在の生田神社から一ノ谷にまたがり、北は崖の厳しい山、南は海という天然の要害だったのだという。 1184年(寿永3年)2月7日午前6時頃、生田口には畠山重忠、梶原景時をはじめとする源氏軍5万騎が布陣。 源氏軍は、先陣を切った高直・盛直の兄弟が討死するなど死傷者が続出する中、梶原景時・景季父子が「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せたのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/itinotani/i...
生田の森は、源平合戦の古戦場。 平家の主力部隊・平知盛、重衡らが率いる平家軍が陣を張り、源氏の主力部隊・源範頼軍を迎え撃った場所。 かつての生田の森は、現在の生田神社から一ノ谷にまたがり、北は崖の厳しい山、南は海という天然の要害だったのだという。 1184年(寿永3年)2月7日午前6時頃、生田口には畠山重忠、梶原景時をはじめとする源氏軍5万騎が布陣。 源氏軍は、先陣を切った高直・盛直の兄弟が討死するなど死傷者が続出する中、梶原景時・景季父子が「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せたのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/itinotani/i...