歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件愛知県小牧(こまき)市にある小牧山城。日本続100名城にも認定されています。桶狭間合戦後の永禄六年(1563)、織田信長が美濃攻めの拠点にするために築城し、清洲城から本拠を移した城。信長が稲葉山城を落とすと廃城になりましたが、天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦で、徳川家康と織田信雄の本陣が置かれました。近年、発掘調査が進められ、信長時代の石垣が大量に出てきたりで、整備も進められています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2775
愛知県小牧(こまき)市にある小牧山城。日本続100名城にも認定されています。桶狭間合戦後の永禄六年(1563)、織田信長が美濃攻めの拠点にするために築城し、清洲城から本拠を移した城。信長が稲葉山城を落とすと廃城になりましたが、天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦で、徳川家康と織田信雄の本陣が置かれました。近年、発掘調査が進められ、信長時代の石垣が大量に出てきたりで、整備も進められています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2775
小牧市市民会館の敷地に名古屋城の石垣に石に使用する予定でしたが使用できなかった石があります。これは原川の落し石といわれています。この石は名古屋城築城時、石垣を築くのを担当した加賀前田家が岩崎山から切り出した石と考えられています。その理由は石垣に前田家の刻印が確認されたからです。 さて、なぜせっかく切り出した石なのに石垣に使えなかったのかというと、運搬中に落してしまったからです。 落ちた石は落城を連想させる縁起が悪い石なので、新築の名古屋城には使えませんでした。 だから原川に落とされたままで数百年放置されていたのですが、現在では小牧市市民会館に運ばれて展示されています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4347
小牧市市民会館の敷地に名古屋城の石垣に石に使用する予定でしたが使用できなかった石があります。これは原川の落し石といわれています。この石は名古屋城築城時、石垣を築くのを担当した加賀前田家が岩崎山から切り出した石と考えられています。その理由は石垣に前田家の刻印が確認されたからです。 さて、なぜせっかく切り出した石なのに石垣に使えなかったのかというと、運搬中に落してしまったからです。 落ちた石は落城を連想させる縁起が悪い石なので、新築の名古屋城には使えませんでした。 だから原川に落とされたままで数百年放置されていたのですが、現在では小牧市市民会館に運ばれて展示されています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4347
中条氏が文永五年(1268)に建立したといわれる勝手神社。勝手神社境内の隅に金谷城の石碑があるほか、周辺に堀、土塁の遺構、そして城主ゆかりの高木稲荷神社があります。境内の隅に金谷城址の石碑があります。勝手神社脇の看板を見ると、竹やぶの小路(こみち)という記載がありますが、ここに金谷城の堀跡と土塁跡が残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2286
中条氏が文永五年(1268)に建立したといわれる勝手神社。勝手神社境内の隅に金谷城の石碑があるほか、周辺に堀、土塁の遺構、そして城主ゆかりの高木稲荷神社があります。境内の隅に金谷城址の石碑があります。勝手神社脇の看板を見ると、竹やぶの小路(こみち)という記載がありますが、ここに金谷城の堀跡と土塁跡が残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2286
池田輝政の父・恒興が亡くなったと考えられる場所に建つ勝入塚。墓と書きましたが、ここに遺体が埋まっているワケではなく、供養塔みたいなものですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2941
池田輝政の父・恒興が亡くなったと考えられる場所に建つ勝入塚。墓と書きましたが、ここに遺体が埋まっているワケではなく、供養塔みたいなものですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2941
勝幡(しょばた)城跡
愛知県稲沢市と愛西市にまたがる勝幡(しょばた)城は、織田信長が生まれたといわれる城跡です。
愛知県稲沢市と愛西市にまたがる勝幡(しょばた)城は、織田信長が生まれたといわれる城跡です。勝幡城跡は三宅川、日光川にはさまれており、かつての城跡の大半は川の中なのでしょう。勝幡城跡の周辺。ぱっと見でも分かりますが、周辺は普通の住宅地になっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1235
愛知県稲沢市と愛西市にまたがる勝幡(しょばた)城は、織田信長が生まれたといわれる城跡です。勝幡城跡は三宅川、日光川にはさまれており、かつての城跡の大半は川の中なのでしょう。勝幡城跡の周辺。ぱっと見でも分かりますが、周辺は普通の住宅地になっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1235
小田井城址の石碑が公演の片隅に建っています。現在の国道22号線の【古城】信号辺りにかつての小田井城があり、国道22号線を作る時に小田井城の石碑を公園に移築したということです。ちなみにかつての小田井城の遺構は残っていませんが、地図を見ると北から西にかけては新川が、そして東から南にかけては現在の庄内川が天然の堀の役割を果たし、自然の堀に守られた城だったという事が分かります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1081
小田井城址の石碑が公演の片隅に建っています。現在の国道22号線の【古城】信号辺りにかつての小田井城があり、国道22号線を作る時に小田井城の石碑を公園に移築したということです。ちなみにかつての小田井城の遺構は残っていませんが、地図を見ると北から西にかけては新川が、そして東から南にかけては現在の庄内川が天然の堀の役割を果たし、自然の堀に守られた城だったという事が分かります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1081
十朋亭(じっぽうてい)
刈谷城本丸の隅にある十朋亭(じっぽうてい)。刈谷城は天守が無かったのですが、この十朋亭がある場所に江戸時代初期には三層の櫓がありました。
刈谷城本丸の隅にある十朋亭(じっぽうてい)。刈谷城は天守が無かったのですが、この十朋亭がある場所に江戸時代初期には三層の櫓がありました。それが刈谷城の天守の代わりだったのです。 だから言い換えれば、この十朋亭の場所は天守台址という事になりますね。 現在では休憩所になっているほか、建物の中にいくつか部屋があり、レンタルルームみたいになっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1112
刈谷城本丸の隅にある十朋亭(じっぽうてい)。刈谷城は天守が無かったのですが、この十朋亭がある場所に江戸時代初期には三層の櫓がありました。それが刈谷城の天守の代わりだったのです。 だから言い換えれば、この十朋亭の場所は天守台址という事になりますね。 現在では休憩所になっているほか、建物の中にいくつか部屋があり、レンタルルームみたいになっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1112
愛知県知立(ちりゅう)市の重原城跡は戦国時代の山岡氏の居城で、知多半島の水野氏を攻めようとしていた今川軍に落とされた城です。上重原公民館の建物の裏側に石碑が建っています。石碑が建っている前方に川(水路)がありますが、これがかつての重原城の堀跡といわれています。現在では見事な水路ですが、当時はもっと幅も広かったのかもしれません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1218
愛知県知立(ちりゅう)市の重原城跡は戦国時代の山岡氏の居城で、知多半島の水野氏を攻めようとしていた今川軍に落とされた城です。上重原公民館の建物の裏側に石碑が建っています。石碑が建っている前方に川(水路)がありますが、これがかつての重原城の堀跡といわれています。現在では見事な水路ですが、当時はもっと幅も広かったのかもしれません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1218
徳川十六神将の一人に数えられている渡辺守綱の寺部陣屋の隣にある守綱神社。初代藩主で槍の半蔵こと渡辺守綱を祭った神社です。現在は陣屋の隣ですが、かつてはここも陣屋の一部だった様です。 徳川家康や本多忠勝も現在では神として祭られていますが、守綱も神社があったとは驚きです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2312
徳川十六神将の一人に数えられている渡辺守綱の寺部陣屋の隣にある守綱神社。初代藩主で槍の半蔵こと渡辺守綱を祭った神社です。現在は陣屋の隣ですが、かつてはここも陣屋の一部だった様です。 徳川家康や本多忠勝も現在では神として祭られていますが、守綱も神社があったとは驚きです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2312
祖母神社を抜けた鎌倉街道は刈谷市西境町の酒井神社の北側を通っていたみたいです。この酒井神社のすぐ北に国境だった境川が流れているので、酒井(境)神社という意味なのでしょうか?ちなみに徳川家重臣とは、酒井忠次の酒井さんのことなのでしょう。酒井神社の北側土手沿いに鎌倉街道西境跡の石碑がありました。そんなに古くない石碑です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3733
鎌倉街道は刈谷市西境町の酒井神社の北側を通っていたみたいです。この酒井神社のすぐ北に国境だった境川が流れているので、酒井(境)神社という意味なのでしょうか?
祖母神社を抜けた鎌倉街道は刈谷市西境町の酒井神社の北側を通っていたみたいです。この酒井神社のすぐ北に国境だった境川が流れているので、酒井(境)神社という意味なのでしょうか?ちなみに徳川家重臣とは、酒井忠次の酒井さんのことなのでしょう。酒井神社の北側土手沿いに鎌倉街道西境跡の石碑がありました。そんなに古くない石碑です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3733
守綱寺(しゅこうじ)
寺部陣屋の主である、渡辺家の菩提寺・守綱寺(しゅこうじ)。渡辺氏の代々の墓があります。現在では史跡にもなっている寺です。
寺部陣屋の主である、渡辺家の菩提寺・守綱寺(しゅこうじ)。渡辺氏の代々の墓があります。現在では史跡にもなっている寺です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2312
寺部陣屋の主である、渡辺家の菩提寺・守綱寺(しゅこうじ)。渡辺氏の代々の墓があります。現在では史跡にもなっている寺です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2312
清洲越しで商人たちが移り住んだのが、現在の四間道(しけみち)周辺だといわれています。 ここは元禄十三年(1700)の大火で1600軒余りが焼失したのですが、その後、尾張藩四代藩主・徳川吉通が、堀川沿いにある商家の焼失を避けるため、道幅を四間(約7m)に拡張しました。 このことから四間道と呼ばれるようになったという歴史があります。 現在でも土蔵や古い商家が残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
清洲越しで商人たちが移り住んだのが、現在の四間道(しけみち)周辺だといわれています。 ここは元禄十三年(1700)の大火で1600軒余りが焼失したのですが、その後、尾張藩四代藩主・徳川吉通が、堀川沿いにある商家の焼失を避けるため、道幅を四間(約7m)に拡張しました。 このことから四間道と呼ばれるようになったという歴史があります。 現在でも土蔵や古い商家が残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
愛知県豊田市小原地区にある市場城址は、標高380mの山頂にある山城です。別名・大草城。 市場城の城主は、文亀二年(1502)~文禄元年(1592)の間、この地に勢力を持っていた鱸(すずき)氏で、現在残る遺構は、四代城主・鱸重愛が天正十一年(1583)に徳川家康から加増を受け、改修した時のものといわれています。城主の墓を経てまっすぐ歩くと谷間に出ます。実はココ、空堀の中なのです。左右に曲輪があり、正面に折れ曲がった箇所があります。虎口ですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1535
愛知県豊田市小原地区にある市場城址は、標高380mの山頂にある山城です。別名・大草城。 市場城の城主は、文亀二年(1502)~文禄元年(1592)の間、この地に勢力を持っていた鱸(すずき)氏で、現在残る遺構は、四代城主・鱸重愛が天正十一年(1583)に徳川家康から加増を受け、改修した時のものといわれています。城主の墓を経てまっすぐ歩くと谷間に出ます。実はココ、空堀の中なのです。左右に曲輪があり、正面に折れ曲がった箇所があります。虎口ですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1535
名古屋市緑区桶狭間の七つ塚(ななつづか)は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦の戦死者を葬った塚です。今川義元を討った信長は、清洲城に帰る前に村人たちに命じ、山裾に沿って等間隔に七つの穴を一列に掘らせて、大勢の戦死者を埋葬させました。もともとは7つあったみたいですが、時代の流れによって塚が無くなっていき、平成元年の区画整理の際に塚をひとつ残し、その一画に碑が建てられました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4163
名古屋市緑区桶狭間の七つ塚(ななつづか)は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦の戦死者を葬った塚です。今川義元を討った信長は、清洲城に帰る前に村人たちに命じ、山裾に沿って等間隔に七つの穴を一列に掘らせて、大勢の戦死者を埋葬させました。もともとは7つあったみたいですが、時代の流れによって塚が無くなっていき、平成元年の区画整理の際に塚をひとつ残し、その一画に碑が建てられました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4163
篠島には城址があります。それが篠島城です。 篠島城はかつて三河湾にあった離島をまとめていた篠島王の居城で、南北朝時代には義良親王が滞在された場所でもあります。現在でも墓地の上が登城口になっており、中に入る事ができます。中はいろんな神社が祭られた場所になっています。縄張りは本丸と思われる大きな削平地がひとつあるのみで、他に曲輪は無く、本丸の周辺にうっすらと土塁みたいな土盛が残されているくらいです。基本、森の中なので、夏に訪れる際には虫よけ対策が必要だ思いました。所要時間は10分もあれば十分に巡る事ができると思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1506
篠島には城址があります。それが篠島城です。篠島城はかつて三河湾にあった離島をまとめていた篠島王の居城で、南北朝時代には義良親王が滞在された場所でもあります。
篠島には城址があります。それが篠島城です。 篠島城はかつて三河湾にあった離島をまとめていた篠島王の居城で、南北朝時代には義良親王が滞在された場所でもあります。現在でも墓地の上が登城口になっており、中に入る事ができます。中はいろんな神社が祭られた場所になっています。縄張りは本丸と思われる大きな削平地がひとつあるのみで、他に曲輪は無く、本丸の周辺にうっすらと土塁みたいな土盛が残されているくらいです。基本、森の中なので、夏に訪れる際には虫よけ対策が必要だ思いました。所要時間は10分もあれば十分に巡る事ができると思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1506
蛇池(じゃいけ)神社
織田信長の大蛇探しのエピソードが残っており、物語の舞台になった大蛇探しのあまが池は、蛇池(じゃいけ)神社となり現在でも残っています。
織田信長の大蛇探しのエピソードが残っており、物語の舞台になった大蛇探しのあまが池は、蛇池(じゃいけ)神社となり現在でも残っています。池の前に大きなお堂があり、名古屋市教育委員会の看板が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=210
織田信長の大蛇探しのエピソードが残っており、物語の舞台になった大蛇探しのあまが池は、蛇池(じゃいけ)神社となり現在でも残っています。池の前に大きなお堂があり、名古屋市教育委員会の看板が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=210
豊田市元城町の桜城址は、三宅氏によって築かれた城です。慶長九年(1604)、金谷城に1万石で入封した三宅氏でしたが、敷地が狭いうえに城下町を築く平地が必要だったため、現在の元城町に桜城を築きます。現在の桜城は、櫓台と思われる石垣が残るのみです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2299
豊田市元城町の桜城址は、三宅氏によって築かれた城です。慶長九年(1604)、金谷城に1万石で入封した三宅氏でしたが、敷地が狭いうえに城下町を築く平地が必要だったため、現在の元城町に桜城を築きます。現在の桜城は、櫓台と思われる石垣が残るのみです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2299
岡崎市の三河山中城跡は、15世紀頃に三河守護代・西郷氏によって築かれた城といわれています。その後、西三河と東三河の境近くにある城として重要視され、松平氏(徳川)、今川氏が入城した歴史があり、徳川家康が三河を治める様になると、重臣・酒井忠次の管理下に置かれた城といわれています。山の中は遊歩道が整備されて比較的歩きやすくなっています。ちなみに現在の遊歩道は城があった時代のものではなく、ほとんどが大正時代に整備されたものです。三河山中城で一番のポイントかもしれない馬出(うまだし)の遺構。 甲斐の武田氏が築いた城でよくみられる防御の遺構ですが、武田氏が関連していない城で見られるとは珍しいですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2097
岡崎市の三河山中城跡は、15世紀頃に三河守護代・西郷氏によって築かれた城といわれています。その後、西三河と東三河の境近くにある城として重要視され、松平氏(徳川)、今川氏が入城した歴史があり、徳川家康が三河を治める様になると、重臣・酒井忠次の管理下に置かれた城といわれています。山の中は遊歩道が整備されて比較的歩きやすくなっています。ちなみに現在の遊歩道は城があった時代のものではなく、ほとんどが大正時代に整備されたものです。三河山中城で一番のポイントかもしれない馬出(うまだし)の遺構。 甲斐の武田氏が築いた城でよくみられる防御の遺構ですが、武田氏が関連していない城で見られるとは珍しいですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2097