歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
関連するめっけブック
紹介スポット
- 451件名古屋市千種区の覚王山日泰寺(かくおうざん にったいじ)のすぐ側に四観音道という、江戸時代の街道跡が残っています。これはかつて尾張四観音のうち、笠寺観音(名古屋市南区)と龍泉寺観音(名古屋市守山区)を結んだ街道です。尾張四観音とは、江戸時代初期に徳川家康によって名古屋城が築かれた時、名古屋城の鬼門を守る四方向にあった以下の寺です。 ・荒子観音(名古屋市中川区) ・甚目寺観音(あま市) ・龍泉寺観音(名古屋市守山区) ・笠寺観音(名古屋市南区) 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4068
名古屋市千種区の覚王山日泰寺(かくおうざん にったいじ)のすぐ側に四観音道という、江戸時代の街道跡が残っています。これはかつて尾張四観音のうち、笠寺観音(名古屋市南区)と龍泉寺観音(名古屋市守山区)を結んだ街道です。尾張四観音とは、江戸時代初期に徳川家康によって名古屋城が築かれた時、名古屋城の鬼門を守る四方向にあった以下の寺です。 ・荒子観音(名古屋市中川区) ・甚目寺観音(あま市) ・龍泉寺観音(名古屋市守山区) ・笠寺観音(名古屋市南区) 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4068
在原寺(ざいげんじ)
在原寺(ざいげんじ)は寛平年間(889~97)に業平塚が築かれた時、塚を守る人の御堂として創建されたと伝えられています。現在は臨済宗妙心寺派の寺院。
在原寺(ざいげんじ)は寛平年間(889~97)に業平塚が築かれた時、塚を守る人の御堂として創建されたと伝えられています。現在は臨済宗妙心寺派の寺院。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3981
在原寺(ざいげんじ)は寛平年間(889~97)に業平塚が築かれた時、塚を守る人の御堂として創建されたと伝えられています。現在は臨済宗妙心寺派の寺院。
在原寺(ざいげんじ)は寛平年間(889~97)に業平塚が築かれた時、塚を守る人の御堂として創建されたと伝えられています。現在は臨済宗妙心寺派の寺院。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3981
名古屋市西区にあるCBC自動車学校がある場所に、かつて坂井戸城がありました。現在はここも自動車学校になっており、城の遺構は残っていません。城主は小田又六という人物で、織田信長と同じ時代の人。または小田井城主・織田又六朗信張(のぶはる)という説もあり。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2005
名古屋市西区にあるCBC自動車学校がある場所に、かつて坂井戸城がありました。現在はここも自動車学校になっており、城の遺構は残っていません。城主は小田又六という人物で、織田信長と同じ時代の人。または小田井城主・織田又六朗信張(のぶはる)という説もあり。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2005
坂崎城址は現在、神明社になってます。神社の入り口のところに地元の方でしょうか?天野康景の活躍について展示があります。神社本殿の隣りには、参拝の時手を洗う手水鉢がありますが、横をよく見ると井戸があり、ここから水を引いてます。 もしかすると天野康景時代からの井戸かもしれません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3761
坂崎城址は現在、神明社になってます。神社の入り口のところに地元の方でしょうか?天野康景の活躍について展示があります。神社本殿の隣りには、参拝の時手を洗う手水鉢がありますが、横をよく見ると井戸があり、ここから水を引いてます。 もしかすると天野康景時代からの井戸かもしれません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3761
名古屋市緑区側の主張による今川義元本陣があった場所。実際にはもう少し後方の高い場所にあったのではという指摘もありますが、大体この周辺に布陣していたと思われます。現在では住宅地として開発されていますが、おけはざま山・今川義元本陣跡の石碑と案内看板が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355
名古屋市緑区側の主張による今川義元本陣があった場所。実際にはもう少し後方の高い場所にあったのではという指摘もありますが、大体この周辺に布陣していたと思われます。
名古屋市緑区側の主張による今川義元本陣があった場所。実際にはもう少し後方の高い場所にあったのではという指摘もありますが、大体この周辺に布陣していたと思われます。現在では住宅地として開発されていますが、おけはざま山・今川義元本陣跡の石碑と案内看板が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355
清洲市にある、今川義元の供養塔です。討たれた義元の首は、須ケ口(すかぐち:清須の入り口という意味)に晒されましたが、首が駿河に返還された後、江戸時代にその須ケ口に義元の供養塔が建立されました。もともとは個人宅の敷地にありましたが、平成になり正覚寺に移築されました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2277
清洲市にある、今川義元の供養塔です。討たれた義元の首は、須ケ口(すかぐち:清須の入り口という意味)に晒されましたが、首が駿河に返還された後、江戸時代にその須ケ口に義元の供養塔が建立されました。もともとは個人宅の敷地にありましたが、平成になり正覚寺に移築されました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2277
東海市立横須賀小学校のすぐ近くに小さな祠(ほこら)があります。ココは今川塚といって、今川義元の墓と伝えられている場所です。お堂の前には…なんと今川義元と刻まれた石碑がありますね。実はこの地には次の様な話が伝わっています。 桶狭間合戦後、義元の遺体を護り、横須賀の村へ逃げてきた今川軍の兵士たちは、永昌寺(えいしょうじ:現在は無い)に義元の遺体を葬りました。 そして一部の兵は主君を供養するためにこの地に住み着いたのです。 現在の高横須賀町周辺に『早川』、『北川』の苗字を名乗る人は、その人達の子孫だといわれています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=952
東海市立横須賀小学校のすぐ近くに小さな祠(ほこら)があります。ココは今川塚といって、今川義元の墓と伝えられている場所です。お堂の前には…なんと今川義元と刻まれた石碑がありますね。実はこの地には次の様な話が伝わっています。 桶狭間合戦後、義元の遺体を護り、横須賀の村へ逃げてきた今川軍の兵士たちは、永昌寺(えいしょうじ:現在は無い)に義元の遺体を葬りました。 そして一部の兵は主君を供養するためにこの地に住み着いたのです。 現在の高横須賀町周辺に『早川』、『北川』の苗字を名乗る人は、その人達の子孫だといわれています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=952
知立市八橋町五輪にある根上りの松は、鎌倉街道沿いにあり江戸時代の歌川広重の浮世絵・五十三次名所図会に描かれている松といわれているものです。この根上りの松は、もともと一里塚みたいな土盛りの上にありました。しかし長年の雨風によって土盛りが流出してしまい、根っこの部分が露出して今みたいな形になったみたいです。 だから根上りの松というけれど、別に根っこが上がったワケではなく、根っこ部分の土が流出した松ということなのですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3971
知立市八橋町五輪にある根上りの松は、鎌倉街道沿いにあり江戸時代の歌川広重の浮世絵・五十三次名所図会に描かれている松といわれているものです。この根上りの松は、もともと一里塚みたいな土盛りの上にありました。しかし長年の雨風によって土盛りが流出してしまい、根っこの部分が露出して今みたいな形になったみたいです。 だから根上りの松というけれど、別に根っこが上がったワケではなく、根っこ部分の土が流出した松ということなのですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3971
天正十八年(1590)の小田原攻めで息子である堀尾金助を亡くした母が、息子の菩提を弔う為に橋の架け替えを行ったのが裁断橋です。しかし三十三回忌で母も亡くなってしまい、養子がその意志を継ぎ、裁断橋を架け替えました。その跡がこの地です。 現在では裁断橋も縮小されましたが、橋にあった擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市の指定文化財になっており、現在では名古屋市博物館で保存されています。 ちなみにこの堀尾金助という武将は、国宝松江城を築いた堀尾吉晴の親族と伝わります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=771
天正十八年(1590)の小田原攻めで息子である堀尾金助を亡くした母が、息子の菩提を弔う為に橋の架け替えを行ったのが裁断橋です。しかし三十三回忌で母も亡くなってしまい、養子がその意志を継ぎ、裁断橋を架け替えました。その跡がこの地です。 現在では裁断橋も縮小されましたが、橋にあった擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市の指定文化財になっており、現在では名古屋市博物館で保存されています。 ちなみにこの堀尾金助という武将は、国宝松江城を築いた堀尾吉晴の親族と伝わります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=771
愛知県一宮市の黒田城は、山内一豊の父・山内盛豊が城代を務めていた城で、一豊の生誕地説がある地域でもあります。黒田城の築城は古く、明応年間(1492~1500に相模国から尾張にやって来た五藤源太左衛門光正が居館を築いたのが始まりといわれています。かつての黒田城跡は、現在の一宮市立木曽川小学校の場所と伝わり、小学校の入口には黒田城の石碑のほか、黒田城に関する案内看板も建っています。ちなみに黒田小学校の北側を流れる水路は、かつての堀跡といわれています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2005
愛知県一宮市の黒田城は、山内一豊の父・山内盛豊が城代を務めていた城で、一豊の生誕地説がある地域でもあります。黒田城の築城は古く、明応年間(1492~1500に相模国から尾張にやって来た五藤源太左衛門光正が居館を築いたのが始まりといわれています。かつての黒田城跡は、現在の一宮市立木曽川小学校の場所と伝わり、小学校の入口には黒田城の石碑のほか、黒田城に関する案内看板も建っています。ちなみに黒田小学校の北側を流れる水路は、かつての堀跡といわれています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2005
愛知県内には今川義元の墓が合計6つあります。(供養塔含む)。そのうち今川義元の首塚と伝わる墓があります。桶狭間の戦いで義元の首は織田信長に持っていかれましたが、その後、母国の駿河に返還されました。 しかし傷みが激しく、西尾市の東向寺に埋葬されたといわれます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2277
愛知県内には今川義元の墓が合計6つあります。(供養塔含む)。そのうち今川義元の首塚と伝わる墓があります。桶狭間の戦いで義元の首は織田信長に持っていかれましたが、その後、母国の駿河に返還されました。 しかし傷みが激しく、西尾市の東向寺に埋葬されたといわれます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2277
愛知県内には今川義元の墓が合計6つあります。(供養塔含む)。そのうち今川義元の胴体を埋めた塚といわれる墓があります。義元の首は織田信長にもっていかれましたが、残った胴体は今川家臣たちの手によって、母国である駿河に運ばれようとしました。 しかし合戦が起こったのは、旧暦の5月19日。今でいう初夏です。 運ぶ途中で傷みが激しくなり、当時まだ今川領だった現在の豊川市牛久保町にある大聖寺に埋葬されました。ちなみにこの胴塚は、一番下が手水鉢なのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2277
愛知県内には今川義元の墓が合計6つあります。(供養塔含む)。そのうち今川義元の胴体を埋めた塚といわれる墓があります。義元の首は織田信長にもっていかれましたが、残った胴体は今川家臣たちの手によって、母国である駿河に運ばれようとしました。 しかし合戦が起こったのは、旧暦の5月19日。今でいう初夏です。 運ぶ途中で傷みが激しくなり、当時まだ今川領だった現在の豊川市牛久保町にある大聖寺に埋葬されました。ちなみにこの胴塚は、一番下が手水鉢なのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2277
桶狭間古戦場公園の中にある今川義元の墓。これは明治9年(1876)に有松町の山口正義という人が建立したものです。自然石に【今川治部大輔義元墓】と刻まれています。 ちなみに毎年6月の第1土日に桶狭間古戦場祭りが行われますが、その時の供養祭はこの墓の前で行われます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=305
桶狭間古戦場公園の中にある今川義元の墓。これは明治9年(1876)に有松町の山口正義という人が建立したものです。自然石に【今川治部大輔義元墓】と刻まれています。
桶狭間古戦場公園の中にある今川義元の墓。これは明治9年(1876)に有松町の山口正義という人が建立したものです。自然石に【今川治部大輔義元墓】と刻まれています。 ちなみに毎年6月の第1土日に桶狭間古戦場祭りが行われますが、その時の供養祭はこの墓の前で行われます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=305
前田利春の居城といわれている荒子城は現在神社になっています。 名古屋市教育委員会の看板によると、東西約68m、南北約50m程の規模で一重の堀があったそうです。神社の境内には、前田利家の看板と生誕地を示す石碑が建っています。城の遺構などは残っていないのですが、石碑が建っている場所が少し高台になっており、何かの址か?と思うくらいです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=842
前田利春の居城といわれている荒子城は現在神社になっています。名古屋市教育委員会の看板によると、東西約68m、南北約50m程の規模で一重の堀があったそうです。
前田利春の居城といわれている荒子城は現在神社になっています。 名古屋市教育委員会の看板によると、東西約68m、南北約50m程の規模で一重の堀があったそうです。神社の境内には、前田利家の看板と生誕地を示す石碑が建っています。城の遺構などは残っていないのですが、石碑が建っている場所が少し高台になっており、何かの址か?と思うくらいです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=842
荒川城は別名『八ツ面古城』。東条吉良氏の分流・荒川義広の居城。現在の西尾市立八ツ面小学校の場所に、かつて荒川城があったとの事。義広は東条城の東条吉良氏から独立し、戸ヶ崎氏から分流した『荒川氏』を継ぎます。徳川家康が吉良義昭と争ったときは、家康に味方して功を立て、これにより、家康の異母妹・市楊姫を妻とします。しかし三河一向一揆では一揆方に属し、家康に敗北。翌年に荒川城も落城。その後子孫は尾張徳川家に仕えます。周辺は住宅開発で城跡の遺構は残ってない様に思えますが、わずかに堀跡、曲輪跡を偲ぶことができます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129
荒川城は別名『八ツ面古城』。東条吉良氏の分流・荒川義広の居城。現在の西尾市立八ツ面小学校の場所に、かつて荒川城があったとの事。義広は東条城の東条吉良氏から独立し、戸ヶ崎氏から分流した『荒川氏』を継ぎます。徳川家康が吉良義昭と争ったときは、家康に味方して功を立て、これにより、家康の異母妹・市楊姫を妻とします。しかし三河一向一揆では一揆方に属し、家康に敗北。翌年に荒川城も落城。その後子孫は尾張徳川家に仕えます。周辺は住宅開発で城跡の遺構は残ってない様に思えますが、わずかに堀跡、曲輪跡を偲ぶことができます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129
高月院(こうげついん)
豊田市松平町にある高月院(こうげついん)は、徳川氏の前身・松平氏の墓所が残る寺院です。
豊田市松平町にある高月院(こうげついん)は、徳川氏の前身・松平氏の墓所が残る寺院です。 高月院の山門や本堂は、寛永十八年(1641)年に三代将軍・徳川家光が寄進したものといわれています。これらのものは、建てられた状態で現在に残っているワケではなく、時代の節目で修理が続けられているものです。本堂脇には松平氏の墓所があります。階段を登ると初代・親氏、二代・泰親、そして四代・親忠婦人の墓があります。ここも参拝できます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2564
豊田市松平町にある高月院(こうげついん)は、徳川氏の前身・松平氏の墓所が残る寺院です。 高月院の山門や本堂は、寛永十八年(1641)年に三代将軍・徳川家光が寄進したものといわれています。これらのものは、建てられた状態で現在に残っているワケではなく、時代の節目で修理が続けられているものです。本堂脇には松平氏の墓所があります。階段を登ると初代・親氏、二代・泰親、そして四代・親忠婦人の墓があります。ここも参拝できます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2564
名古屋市緑区の高根山は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、今川軍の前衛部隊・松井宗信(遠州・二俣城主)が陣を置いたとされる場所です。現在では有松神社が建立されており、周辺は住宅ばかりですが、東、北、西に向けて眺望がよく、進軍する織田信長軍を監視できた要所です。高根山の山頂には現地案内看板が2つ設置されています。ひとつは高根山を中心に周辺はどんな様子だったのかを解説しています。もうひとつは高根山からの眺望の良さについての看板。高根山は東、北、西に向けて眺望が良い立地です。北西側を見ると織田信長の進軍ルートである、丹下砦、善照寺砦、中島砦が見えます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4146
名古屋市緑区の高根山は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、今川軍の前衛部隊・松井宗信(遠州・二俣城主)が陣を置いたとされる場所です。現在では有松神社が建立されており、周辺は住宅ばかりですが、東、北、西に向けて眺望がよく、進軍する織田信長軍を監視できた要所です。高根山の山頂には現地案内看板が2つ設置されています。ひとつは高根山を中心に周辺はどんな様子だったのかを解説しています。もうひとつは高根山からの眺望の良さについての看板。高根山は東、北、西に向けて眺望が良い立地です。北西側を見ると織田信長の進軍ルートである、丹下砦、善照寺砦、中島砦が見えます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4146
愛知県長久手市の御旗山(みはたやま)は、天正十二年(1584)に起こった長久手合戦で、徳川家康が本陣を置いた山です。合戦途中で家康は陣を御旗山に移します。それが現在の富士浅間神社です。御旗山はそんなに高くない小山で麓からすぐに頂上に着きます。頂上は削平地で社(やしろ)と案内看板が建っています。見晴らしの良さと高い場所にあるという防御性から、家康はこの御旗山に陣を置いたのでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2967
愛知県長久手市の御旗山(みはたやま)は、天正十二年(1584)に起こった長久手合戦で、徳川家康が本陣を置いた山です。合戦途中で家康は陣を御旗山に移します。それが現在の富士浅間神社です。御旗山はそんなに高くない小山で麓からすぐに頂上に着きます。頂上は削平地で社(やしろ)と案内看板が建っています。見晴らしの良さと高い場所にあるという防御性から、家康はこの御旗山に陣を置いたのでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2967
名古屋市昭和区御器所の御所屋敷は、豊臣秀吉の母・大政所(なか)が生まれたといわれる場所です。秀吉の母として知られる大政所は、従一位まで上り詰めた女性ですが、その素性はハッキリしていません。長い歴史の中でも、いつの頃から御器所の人といわれる様になりました。 記録があるのが、天野信景の随筆・【塩尻】で、『尾州愛智郡御器所村の人也』と記載があります。 現在、住宅地の中のひっそりとした空き地になっています。石碑と名古屋市教育委員会の案内看板、そしてお社が建っています。石碑の側面を見ると、【傳曰 持萩中納言宅跡豊公母…】みたいな事が刻まれています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=928
名古屋市昭和区御器所の御所屋敷は、豊臣秀吉の母・大政所(なか)が生まれたといわれる場所です。秀吉の母として知られる大政所は、従一位まで上り詰めた女性ですが、その素性はハッキリしていません。長い歴史の中でも、いつの頃から御器所の人といわれる様になりました。 記録があるのが、天野信景の随筆・【塩尻】で、『尾州愛智郡御器所村の人也』と記載があります。 現在、住宅地の中のひっそりとした空き地になっています。石碑と名古屋市教育委員会の案内看板、そしてお社が建っています。石碑の側面を見ると、【傳曰 持萩中納言宅跡豊公母…】みたいな事が刻まれています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=928
御坊山(土呂八幡宮)
現在、土呂城址といわれる場所は二カ所あります。御堂山が本丸の址で、これより北二丁(約220メートル)の御坊山が二の丸の址と伝えられている(栗田古文書より)
現在、土呂城址といわれる場所は二カ所あります。御堂山が本丸の址で、これより北二丁(約220メートル)の御坊山が二の丸の址と伝えられている(栗田古文書より) 土呂城二の丸と伝わる御坊山近くの土呂八幡宮。神社入り口の側に土呂城址の碑を発見!土呂八幡宮の創建は、奈良時代とも平安時代ともいわれますが、永禄七年(1564)の三河一向一揆の際、兵火に遭い、歴史を記したものは全て燃えてしまったそうでハッキリした事は分かっていません。 ただ、三河一向一揆後、石川数正が土呂八幡社を再建し、鏡二面を奉納しています。 現在の社殿は元和五年(1619)再建のもの。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2692
現在、土呂城址といわれる場所は二カ所あります。御堂山が本丸の址で、これより北二丁(約220メートル)の御坊山が二の丸の址と伝えられている(栗田古文書より)
現在、土呂城址といわれる場所は二カ所あります。御堂山が本丸の址で、これより北二丁(約220メートル)の御坊山が二の丸の址と伝えられている(栗田古文書より) 土呂城二の丸と伝わる御坊山近くの土呂八幡宮。神社入り口の側に土呂城址の碑を発見!土呂八幡宮の創建は、奈良時代とも平安時代ともいわれますが、永禄七年(1564)の三河一向一揆の際、兵火に遭い、歴史を記したものは全て燃えてしまったそうでハッキリした事は分かっていません。 ただ、三河一向一揆後、石川数正が土呂八幡社を再建し、鏡二面を奉納しています。 現在の社殿は元和五年(1619)再建のもの。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2692