歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件向山砦の候補地と思われる場所
名古屋市緑区の尾張向山砦は、桶狭間合戦時に大高城を包囲していた織田軍の砦跡です。
名古屋市緑区の尾張向山砦は、桶狭間合戦時に大高城を包囲していた織田軍の砦跡です。信長公記には鷲津砦と丸根砦しか記載がなく、向山砦は伝承レベルですが候補地と思われる場所があります。 その候補地とは、大高城の南約200mのところにある西向山の地名の場所。現在この場所には春江院という寺院が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4098
名古屋市緑区の尾張向山砦は、桶狭間合戦時に大高城を包囲していた織田軍の砦跡です。信長公記には鷲津砦と丸根砦しか記載がなく、向山砦は伝承レベルですが候補地と思われる場所があります。 その候補地とは、大高城の南約200mのところにある西向山の地名の場所。現在この場所には春江院という寺院が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4098
古渡城は織田信秀が天文三年(1534)に築城。織田信長が元服した城。またお市の方生誕地説もあり。弘治元年(1555)廃城。元禄三年(1690)東本願寺別院が築かれました。 現在は真宗大谷派名古屋別院になっていますが、境内の片隅に古渡城趾の石碑と案内看板が建っています。また名古屋城築城時に諸大名の石置き場になっていたみたいで、名古屋城に使われる予定だった刻印石もチラホラあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2005
古渡城は織田信秀が天文三年(1534)に築城。織田信長が元服した城。またお市の方生誕地説もあり。弘治元年(1555)廃城。元禄三年(1690)東本願寺別院が築かれました。 現在は真宗大谷派名古屋別院になっていますが、境内の片隅に古渡城趾の石碑と案内看板が建っています。また名古屋城築城時に諸大名の石置き場になっていたみたいで、名古屋城に使われる予定だった刻印石もチラホラあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2005
古木江(こきえ)城跡
愛西(あいさい)市の尾張古木江(こきえ)城跡は、織田信長の弟・織田信興(のぶおき)の居城跡です。信長公記の記載は小木江城。
愛西(あいさい)市の尾張古木江(こきえ)城跡は、織田信長の弟・織田信興(のぶおき)の居城跡です。信長公記の記載は小木江城。織田信興(信与)は、織田信長の4番目(もしくは5番目)の弟で、古木江城や鯏浦城(うぐいうら:現在の弥富市)を築いて、服部氏や長島の一向一揆勢に備えていました。信長の信頼も厚かった弟といわれています。古木江城跡は現在、富岡神社となっていますが、愛西市教育委員会の案内看板には、富岡神社はこの一角に城の鎮守としてあったと考えられるとあります。 つまり富岡神社に古木江城跡の石碑と看板がありますが、富岡神社の範囲=古木江城跡というワケではなく、もっと広かったのだと思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2266
愛西(あいさい)市の尾張古木江(こきえ)城跡は、織田信長の弟・織田信興(のぶおき)の居城跡です。信長公記の記載は小木江城。織田信興(信与)は、織田信長の4番目(もしくは5番目)の弟で、古木江城や鯏浦城(うぐいうら:現在の弥富市)を築いて、服部氏や長島の一向一揆勢に備えていました。信長の信頼も厚かった弟といわれています。古木江城跡は現在、富岡神社となっていますが、愛西市教育委員会の案内看板には、富岡神社はこの一角に城の鎮守としてあったと考えられるとあります。 つまり富岡神社に古木江城跡の石碑と看板がありますが、富岡神社の範囲=古木江城跡というワケではなく、もっと広かったのだと思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2266
犬山市観光案内所前の広場
犬山市観光案内所前の広場から犬山城天守を撮ると森の中に浮かび上がる天守に見えます。
犬山市観光案内所前の広場から犬山城天守を撮ると森の中に浮かび上がる天守に見えます。 以前、この場所には体育館があったので天守も体育館の中に入らなければ撮れませんでしたが、体育館が無くなったのでこのアングルで撮れます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3191
犬山市観光案内所前の広場から犬山城天守を撮ると森の中に浮かび上がる天守に見えます。 以前、この場所には体育館があったので天守も体育館の中に入らなければ撮れませんでしたが、体育館が無くなったのでこのアングルで撮れます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3191
古宮城は武田氏が奥平氏を監視するために築いた城といわれ、馬場信房(美濃守)が縄張りを担当したという説が残る城。日本続100名城。愛知県教育委員会の調査報告書の評価も高く、城内には戦国時代の遺構が良好に残っています。特に北側の五段堀は執念を感じるものがあり必見。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2775
古宮城は武田氏が奥平氏を監視するために築いた城といわれ、馬場信房(美濃守)が縄張りを担当したという説が残る城。日本続100名城。愛知県教育委員会の調査報告書の評価も高く、城内には戦国時代の遺構が良好に残っています。特に北側の五段堀は執念を感じるものがあり必見。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2775
本多忠勝の叔父である、本多肥後守忠真の居城跡。忠真は三方ヶ原合戦で討死してしまい、欠城もその後廃城になったみたいです。 現在の岡崎市東公園が欠城があった場所として推定されています。公園一帯が城跡という訳ではなく、公園の一部分に城があったという事ですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129#i-9...
本多忠勝の叔父である、本多肥後守忠真の居城跡。忠真は三方ヶ原合戦で討死してしまい、欠城もその後廃城になったみたいです。 現在の岡崎市東公園が欠城があった場所として推定されています。公園一帯が城跡という訳ではなく、公園の一部分に城があったという事ですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129#i-9...
血洗い池。血が付いた刀や槍、または首などを洗ったのでしょうか。池跡ということで今は池は残っておらず石碑のみです。またこの石碑もずっとここにあったワケではなく、別の場所から持ってきたものです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2513
血洗い池。血が付いた刀や槍、または首などを洗ったのでしょうか。池跡ということで今は池は残っておらず石碑のみです。またこの石碑もずっとここにあったワケではなく、別の場所から持ってきたものです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2513
桜城を童子山に移転して築いたのが拳母(ころも)城です。安永九年(1780)に幕府より二千両の拝借金で築城が再開され、天明二年(1782)に七州城が完成しました。ちなみに拳母城は七州城という別名があります。これは拳母城があった高台から、三河国、尾張国、美濃国、信濃国、伊賀国、伊勢国、近江国の7つの国が見えたといわれることから付いた名前です。 伊賀や近江が本当に見えたのかは疑問ですが、それくらい眺めが良かったという意味なのでしょう。発掘調査の結果、城の石垣や隅櫓に繋がる白い塀の礎石なども見つかりました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2299#i-2...
桜城を童子山に移転して築いたのが拳母(ころも)城です。安永九年(1780)に幕府より二千両の拝借金で築城が再開され、天明二年(1782)に七州城が完成しました。
桜城を童子山に移転して築いたのが拳母(ころも)城です。安永九年(1780)に幕府より二千両の拝借金で築城が再開され、天明二年(1782)に七州城が完成しました。ちなみに拳母城は七州城という別名があります。これは拳母城があった高台から、三河国、尾張国、美濃国、信濃国、伊賀国、伊勢国、近江国の7つの国が見えたといわれることから付いた名前です。 伊賀や近江が本当に見えたのかは疑問ですが、それくらい眺めが良かったという意味なのでしょう。発掘調査の結果、城の石垣や隅櫓に繋がる白い塀の礎石なども見つかりました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2299#i-2...
重原城跡の周辺は住宅地になっていますが、その一画に権現石(ごんげんいし)というのが祀られています。 重原城が今川軍に攻められていた時、重原城は苦戦していたのですが、その時に重原城の大手門に仁王様の様な大男が現れ、今川軍の矢から城を守りました。 この間に城主の山岡氏は難を逃れたといわれていますが、重原城が落城した後、大手門近くには、矢がたくさん刺さっている大きな石が残されていました。これが権現石です。 現在では祠の中にありますが、よく見てみると矢が刺さった跡の様なものが、確かに残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1218#i-4...
重原城跡の周辺は住宅地になっていますが、その一画に権現石(ごんげんいし)というのが祀られています。 重原城が今川軍に攻められていた時、重原城は苦戦していたのですが、その時に重原城の大手門に仁王様の様な大男が現れ、今川軍の矢から城を守りました。 この間に城主の山岡氏は難を逃れたといわれていますが、重原城が落城した後、大手門近くには、矢がたくさん刺さっている大きな石が残されていました。これが権現石です。 現在では祠の中にありますが、よく見てみると矢が刺さった跡の様なものが、確かに残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1218#i-4...
形原城跡(古城稲荷社)
形原城は、形原松平氏発祥の地で、その拠点・形原城跡が残っています。形原松平市は江戸時代、各地を転封し幕末まで存続しました。
形原城は、形原松平氏発祥の地で、その拠点・形原城跡が残っています。形原松平市は江戸時代、各地を転封し幕末まで存続しました。形原城跡の中心部は少し小高い丘の上に建つ古城稲荷社になっています。現在残る縄張りは曲輪が2つほど残っているのみ。本丸と思われる一番高い場所には古城稲荷社があり、形原城址の石碑も有りました。ココからは木が生い茂っており、周辺の景色はあまり見えません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3446
形原城は、形原松平氏発祥の地で、その拠点・形原城跡が残っています。形原松平市は江戸時代、各地を転封し幕末まで存続しました。形原城跡の中心部は少し小高い丘の上に建つ古城稲荷社になっています。現在残る縄張りは曲輪が2つほど残っているのみ。本丸と思われる一番高い場所には古城稲荷社があり、形原城址の石碑も有りました。ココからは木が生い茂っており、周辺の景色はあまり見えません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3446
平景清が住んだといわれる屋敷跡、それが大府市吉田町の景清神社。 大府市に伝わる話では、元暦二年(1185)の壇の浦の戦いで敗れた平景清は、尾張国まで逃げ延びました。地元の名主・浅田八太夫は景清を保護し、名水が湧く芦沢の井の場所に屋敷を建て住まわせたそうです。それが現在の大府市吉田町の景清神社です。入り口には平家をイメージしてか赤い鳥居があり、横に景清公之旧跡 芦沢の井という石碑があります。景清神社の看板を見ると景清は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫で藤原景清が元の名前だった様です。平家側で活躍したので平姓で呼ばれたのですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3871
平景清が住んだといわれる屋敷跡、それが大府市吉田町の景清神社。大府市に伝わる話では、元暦二年(1185)の壇の浦の戦いで敗れた平景清は、尾張国まで逃げ延びた。
平景清が住んだといわれる屋敷跡、それが大府市吉田町の景清神社。 大府市に伝わる話では、元暦二年(1185)の壇の浦の戦いで敗れた平景清は、尾張国まで逃げ延びました。地元の名主・浅田八太夫は景清を保護し、名水が湧く芦沢の井の場所に屋敷を建て住まわせたそうです。それが現在の大府市吉田町の景清神社です。入り口には平家をイメージしてか赤い鳥居があり、横に景清公之旧跡 芦沢の井という石碑があります。景清神社の看板を見ると景清は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫で藤原景清が元の名前だった様です。平家側で活躍したので平姓で呼ばれたのですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3871
源義朝の墓は、大御堂寺の中にあります。墓の周辺を見るとたくさんの木が置いてありますが、これには次のエピソードがあるからです。 お風呂で長田父子に襲われた義朝は丸腰でした。そりゃお風呂に入っているのですから当然ですよね。そして息絶える寸前、『せめて木刀の1本もあればこんな事にはならなかったものを…』と言い残して亡くなったそうです。 その後、義朝の墓には木刀を模した木の札が奉納されることになりました。 ちなみにこの木の札は1本500円と有料なのですが、願いを書いて奉納すると願いが叶うといわれ、どちらかというと義朝を偲ぶ人達というより、願いを叶えたい人達が参拝しています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1465
源義朝の墓は、大御堂寺の中にあります。墓の周辺を見るとたくさんの木が置いてありますが、これには次のエピソードがあるからです。 お風呂で長田父子に襲われた義朝は丸腰でした。そりゃお風呂に入っているのですから当然ですよね。そして息絶える寸前、『せめて木刀の1本もあればこんな事にはならなかったものを…』と言い残して亡くなったそうです。 その後、義朝の墓には木刀を模した木の札が奉納されることになりました。 ちなみにこの木の札は1本500円と有料なのですが、願いを書いて奉納すると願いが叶うといわれ、どちらかというと義朝を偲ぶ人達というより、願いを叶えたい人達が参拝しています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1465
貨幣・浮世絵ミュージアム
貨幣・浮世絵ミュージアムは一言でいえばお金に関する資料館。お金の歴史は古く、戦国時代もいろんなお金や商人にまつわるエピソードが残されています。
貨幣・浮世絵ミュージアムは一言でいえばお金に関する資料館。 お金の歴史は古く、戦国時代もいろんなお金や商人にまつわるエピソードが残されています。館内は奥にある広重の浮世絵ゾーン以外は撮影可能です。まず館内に入って感じるのは、幅広い年代のお金がズラリと並んでいるという事。例えば弥生時代やもっと古い太古の時代の通貨や外国のお金。もともと日本は豊臣秀吉が最初に統一通貨を作ったといわれ、それまでは現在の中国から通貨として使用する銭を輸入していました。だから、日本の古いお金=中国のお金 という事なんですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=908
貨幣・浮世絵ミュージアムは一言でいえばお金に関する資料館。お金の歴史は古く、戦国時代もいろんなお金や商人にまつわるエピソードが残されています。
貨幣・浮世絵ミュージアムは一言でいえばお金に関する資料館。 お金の歴史は古く、戦国時代もいろんなお金や商人にまつわるエピソードが残されています。館内は奥にある広重の浮世絵ゾーン以外は撮影可能です。まず館内に入って感じるのは、幅広い年代のお金がズラリと並んでいるという事。例えば弥生時代やもっと古い太古の時代の通貨や外国のお金。もともと日本は豊臣秀吉が最初に統一通貨を作ったといわれ、それまでは現在の中国から通貨として使用する銭を輸入していました。だから、日本の古いお金=中国のお金 という事なんですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=908
知立市八ツ橋町の業平塚は平安時代の人物・在原業平の墓とも、供養塔ともいわれる塚です。無量壽寺(むりょうじゅじ)によると、在原業平が亡くなった後に分骨し、寛平四年(892)にこの地に塚を築いたそうです。また塔は室町時代(1336~1573)の特徴が見られるとのことなので、塔の部分だけ後に建立したのでしょう。業平塚のすぐ隣には在原業平朝臣墓所という石碑が建立されています。この業平塚は江戸時代初期の大日本五道中図屏風にも描かれており、江戸時代の初期にはすでに名所、旧跡として有名になっていたみたいです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3981
知立市八ツ橋町の業平塚は平安時代の人物・在原業平の墓とも、供養塔ともいわれる塚です。無量壽寺(むりょうじゅじ)によると、在原業平が亡くなった後に分骨し、寛平四年(892)にこの地に塚を築いたそうです。また塔は室町時代(1336~1573)の特徴が見られるとのことなので、塔の部分だけ後に建立したのでしょう。業平塚のすぐ隣には在原業平朝臣墓所という石碑が建立されています。この業平塚は江戸時代初期の大日本五道中図屏風にも描かれており、江戸時代の初期にはすでに名所、旧跡として有名になっていたみたいです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3981
真清田神社(マスミダジンジャ)
愛知県一宮市に尾張国の一宮である真清田神社があり、織田信長が切り取った東大寺正倉院の蘭奢待。蘭奢待とは、東大寺正倉院に収蔵されている香木(こうぼく)。
愛知県一宮市に尾張国の一宮である真清田(ますみだ)神社がありますが、ここには戦国ファンは一度は見てみたいお宝があります。 それは織田信長が切り取った東大寺正倉院の蘭奢待です。 蘭奢待とは、東大寺正倉院に収蔵されている香木(こうぼく)の事です。少量を切り取り、香炉に入れて火を付け、香りを楽しみます。 その蘭奢待が真清田神社の宝物館で見る事ができます。ちなみに宝物館は有料で開館時間もあるので注意が必要です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=409
愛知県一宮市に尾張国の一宮である真清田神社があり、織田信長が切り取った東大寺正倉院の蘭奢待。蘭奢待とは、東大寺正倉院に収蔵されている香木(こうぼく)。
愛知県一宮市に尾張国の一宮である真清田(ますみだ)神社がありますが、ここには戦国ファンは一度は見てみたいお宝があります。 それは織田信長が切り取った東大寺正倉院の蘭奢待です。 蘭奢待とは、東大寺正倉院に収蔵されている香木(こうぼく)の事です。少量を切り取り、香炉に入れて火を付け、香りを楽しみます。 その蘭奢待が真清田神社の宝物館で見る事ができます。ちなみに宝物館は有料で開館時間もあるので注意が必要です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=409
義朝を裏切った長田父子が磔になったば場所です。 長田父子は源氏を裏切ったものの、源氏の力が強くなると今度は平氏を見限って源氏に付きます。そして壇ノ浦の戦いで功績を上げました。 戦後、源頼朝に対して、『褒美として美濃と尾張をもらいたい』と願い出ます。 すると頼朝は、『では望み通り、身の終わり(美濃・尾張)を授けよう』といって長田父子を捕らえ磔にしたとか。 その長田さん親子を磔にした松の場所です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1465
義朝を裏切った長田父子が磔になったば場所。長田父子は源氏を裏切ったものの、源氏の力が強くなると今度は平氏を見限って源氏に付く。そして壇ノ浦の戦いで功績を上げた。
義朝を裏切った長田父子が磔になったば場所です。 長田父子は源氏を裏切ったものの、源氏の力が強くなると今度は平氏を見限って源氏に付きます。そして壇ノ浦の戦いで功績を上げました。 戦後、源頼朝に対して、『褒美として美濃と尾張をもらいたい』と願い出ます。 すると頼朝は、『では望み通り、身の終わり(美濃・尾張)を授けよう』といって長田父子を捕らえ磔にしたとか。 その長田さん親子を磔にした松の場所です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1465
名古屋市中川区の荒子東公園は、戦国武将の池田恒興の父・池田恒利(いけだつねとし)の屋敷があった場所といわれています。池田恒興の子・輝政は現在の国宝・姫路城天守を築いた人物で、輝政から見ると恒利は祖父、つまりおじいちゃんにあたる人物です。 その恒利の屋敷は堀と土塁に囲まれた城といわれています。池田恒利の屋敷に関する看板が公園内に立っています。池田恒利の屋敷跡近くを横切る様に旧桑名街道が通っています。桑名街道は一色街道ともいわれ、下之一色(しものいっしき)から名古屋へ向かう道でした。昭和の頃まで使われていた街道で魚の行商人がよく利用していたとか。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3901
名古屋市中川区の荒子東公園は、戦国武将の池田恒興の父・池田恒利(いけだつねとし)の屋敷があった場所といわれています。池田恒興の子・輝政は現在の国宝・姫路城天守を築いた人物で、輝政から見ると恒利は祖父、つまりおじいちゃんにあたる人物です。 その恒利の屋敷は堀と土塁に囲まれた城といわれています。池田恒利の屋敷に関する看板が公園内に立っています。池田恒利の屋敷跡近くを横切る様に旧桑名街道が通っています。桑名街道は一色街道ともいわれ、下之一色(しものいっしき)から名古屋へ向かう道でした。昭和の頃まで使われていた街道で魚の行商人がよく利用していたとか。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3901