歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件白鳥山 法持寺(ホウジジ)
熱田神宮に近い白鳥山・法持寺も信長が戦勝祈願したといわれている。
熱田神宮に近い白鳥山・法持寺も信長が戦勝祈願したといわれています。 その理由は、日本武尊(やまとたける)の御陵(墓)を守る寺だったからから、武勇にあやかるつもりだったのでしょうか。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=752
熱田神宮に近い白鳥山・法持寺も信長が戦勝祈願したといわれています。 その理由は、日本武尊(やまとたける)の御陵(墓)を守る寺だったからから、武勇にあやかるつもりだったのでしょうか。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=752
熱田神宮熱田神宮宮庁文化殿・宝物館
熱田神宮宝物館の入口に、真柄太刀(まがらたち)といって、朝倉家家臣だった真柄十郎左衛門直隆が使っていた太刀が展示されている。
熱田神宮宝物館の入口に、真柄太刀(まがらたち)といって、朝倉家家臣だった真柄十郎左衛門直隆(まがら じゅうろうざえもん なおたか)が使っていた太刀が展示されています。 元亀元年(1570)に起こった姉川合戦で、十郎左衛はこの太刀を振って奮戦。単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突破しましたが、朝倉軍は押され、十郎左衛門は戦場の露と消えました。 ちなみに十郎左衛門は身長が7尺(約210cm)、体重が250kgという大男といわれています。かなり長い太刀ですが、軽々と振り回していたのでしょうね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=771
熱田神宮宝物館の入口に、真柄太刀(まがらたち)といって、朝倉家家臣だった真柄十郎左衛門直隆(まがら じゅうろうざえもん なおたか)が使っていた太刀が展示されています。 元亀元年(1570)に起こった姉川合戦で、十郎左衛はこの太刀を振って奮戦。単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突破しましたが、朝倉軍は押され、十郎左衛門は戦場の露と消えました。 ちなみに十郎左衛門は身長が7尺(約210cm)、体重が250kgという大男といわれています。かなり長い太刀ですが、軽々と振り回していたのでしょうね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=771
熱田神宮熱田神宮宮庁
名古屋市、愛知県でも有数のパワースポットとして知られる名古屋市熱田区の熱田神宮の中にある別宮八剣宮。
名古屋市、愛知県でも有数のパワースポットとして知られる名古屋市熱田区の熱田神宮の中にある別宮八剣宮。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2630
名古屋市、愛知県でも有数のパワースポットとして知られる名古屋市熱田区の熱田神宮の中にある別宮八剣宮。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2630
名古屋市南区の笠寺観音は、徳川家康が幼少の頃(竹千代時代)、尾張の織田信広(信長の兄)と人質交換をされた場所です。現に笠寺観音境内には、松平竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換の石像が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4041
名古屋市南区の笠寺観音は、徳川家康が幼少の頃(竹千代時代)、尾張の織田信広(信長の兄)と人質交換をされた場所です。現に笠寺観音境内には、松平竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換の石像が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4041
静岡県湖西市に愛知県豊橋市の三河吉田城(日本続100名城)の移築門 この門は吉田城の大手門とも伝わり、寺伝に寄ると延宝二年(1674)にこの地に移築したもので、高麗門(こうらいもん)といわれる形式の門です。 伝承では湖西市の本興寺の移築門は吉田城の大手門と伝わります。その伝承が本当なら、現在の豊橋市呉服町辺りにあったという事になります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3367
静岡県湖西市に愛知県豊橋市の三河吉田城(日本続100名城)の移築門 この門は吉田城の大手門とも伝わり、寺伝に寄ると延宝二年(1674)にこの地に移築したもので、高麗門(こうらいもん)といわれる形式の門です。 伝承では湖西市の本興寺の移築門は吉田城の大手門と伝わります。その伝承が本当なら、現在の豊橋市呉服町辺りにあったという事になります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3367
桶狭間で亡くなった井伊直盛は、現在の静岡県浜松市にある龍潭寺に葬られ墓もあります。 龍潭寺の井伊家墓所には直盛の墓のほか、直虎や直親の墓もあるんです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=386
桶狭間で亡くなった井伊直盛は、現在の静岡県浜松市にある龍潭寺に葬られ墓もあります。 龍潭寺の井伊家墓所には直盛の墓のほか、直虎や直親の墓もあるんです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=386
かつての尾張国である名古屋市千種(ちくさ)区の末森城址は、信長の弟・織田信勝(信行)の居城で、父である信秀が亡くなった城です。 現在城址は城山八幡宮という神社になっています。 末森城は織田信秀によって天文十七年(1548)に築城された城で、守山城と共に三河の今川氏に対する備えの城でした。 信秀は古渡城から末森城に移りましたが、流行り病にかかり、末森城で亡くなっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=939
かつての尾張国である名古屋市千種区の末森城址は、信長の弟・織田信勝(信行)の居城で、父である信秀が亡くなった城。現在城址は城山八幡宮という神社になっている。
かつての尾張国である名古屋市千種(ちくさ)区の末森城址は、信長の弟・織田信勝(信行)の居城で、父である信秀が亡くなった城です。 現在城址は城山八幡宮という神社になっています。 末森城は織田信秀によって天文十七年(1548)に築城された城で、守山城と共に三河の今川氏に対する備えの城でした。 信秀は古渡城から末森城に移りましたが、流行り病にかかり、末森城で亡くなっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=939
名古屋市東区の含笑寺(がんしょうじ)は織田信長の祖母・含笑院の墓と清洲城の移築門が残る寺です。 名古屋市東区といえば尾張徳川家の菩提寺である建中寺が有名ですが、その建中寺とセットで訪れる事ができます。含笑寺の山門が清洲城の移築門といわれています。慶長十五年(1610)の清洲越しで現在地に移ったといわれています。門を見てみると新しい部分、つまり補修箇所はあるのですが、古い部分も含まれています。またこの移築門が清洲城のどこにあった門なのかまでは分かっていません。清洲城の移築門をくぐるとすぐ左手に墓が数基並んでいますが、この中に織田信長の祖母の含笑院の墓があります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4237
名古屋市東区の含笑寺(がんしょうじ)は織田信長の祖母・含笑院の墓と清洲城の移築門が残る寺です。 名古屋市東区といえば尾張徳川家の菩提寺である建中寺が有名ですが、その建中寺とセットで訪れる事ができます。含笑寺の山門が清洲城の移築門といわれています。慶長十五年(1610)の清洲越しで現在地に移ったといわれています。門を見てみると新しい部分、つまり補修箇所はあるのですが、古い部分も含まれています。またこの移築門が清洲城のどこにあった門なのかまでは分かっていません。清洲城の移築門をくぐるとすぐ左手に墓が数基並んでいますが、この中に織田信長の祖母の含笑院の墓があります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4237
名古屋市北区味鋺(あじま)にある味鋺神社。ここはいつ創建されたのかは不明ですが、物部氏の祖神といわれる宇麻志麻治命(うましまじのみこと)が祀られています。 また寛治(かんじ)七年(1093)頃に競馬の神事が催されたといわれており、以前は例祭で流鏑馬神事(やぶさめしんじ)も行われていました。 この味鋺神社には戦国武将・加藤清正が架けたといわれる清正橋が移築されています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4441
名古屋市北区味鋺(あじま)にある味鋺神社。ここはいつ創建されたのかは不明ですが、物部氏の祖神といわれる宇麻志麻治命(うましまじのみこと)が祀られています。 また寛治(かんじ)七年(1093)頃に競馬の神事が催されたといわれており、以前は例祭で流鏑馬神事(やぶさめしんじ)も行われていました。 この味鋺神社には戦国武将・加藤清正が架けたといわれる清正橋が移築されています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4441
榎白山神社(えのきはくさんじんじゃ)。ここは現在でこそ神社なのですが、かつては押切城という城があった場所でもあり、その押切城の目の前を美濃路という街道が通っていました。桶狭間合戦、清洲城を出た信長は、美濃路を通り、まずこの城に入り、ここの白山神社で戦勝祈願したという事です。その美濃路は現在も残っています。榎白山神社の前の県道がその名残で道幅は拡張されたのでしょうけれど、まっすぐの道がかつての街道を想わせます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=752
榎白山神社(えのきはくさんじんじゃ)。ここは現在でこそ神社なのですが、かつては押切城という城があった場所でもあり、その押切城の目の前を美濃路という街道が通っていました。桶狭間合戦、清洲城を出た信長は、美濃路を通り、まずこの城に入り、ここの白山神社で戦勝祈願したという事です。その美濃路は現在も残っています。榎白山神社の前の県道がその名残で道幅は拡張されたのでしょうけれど、まっすぐの道がかつての街道を想わせます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=752
神明社の道を挟んだすぐ隣にある凌雲寺は臨済宗妙心寺派の寺院で織田信光の墓所です。 また若き日の織田信長がこの凌雲寺で手習い(勉強)をしたという言い伝えが残ります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4060
神明社の道を挟んだすぐ隣にある凌雲寺は臨済宗妙心寺派の寺院で織田信光の墓所です。 また若き日の織田信長がこの凌雲寺で手習い(勉強)をしたという言い伝えが残ります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4060