
大河ドラマでも注目!源頼朝の足跡を辿る

2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
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紹介スポット
- 404件首途八幡宮(かどではちまんぐう)は、宇佐八幡宮の祭神を勧請したのを始まりとし、もとは内野八幡宮と呼ばれていた。 源義経が鞍馬寺を出て奥州へ下るのを手助けしたという金売吉次の屋敷跡といわれ、その鎮守社だったと伝えられている。 1174年(承安4年)、義経はここで吉次と落ち合い、道中の祈願をして奥州へと旅立った。 そのため、「首途」(かどで)と呼ばれるようになったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...


首途八幡宮(かどではちまんぐう)は、宇佐八幡宮の祭神を勧請したのを始まりとし、もとは内野八幡宮と呼ばれていた。 源義経が鞍馬寺を出て奥州へ下るのを手助けしたという金売吉次の屋敷跡といわれ、その鎮守社だったと伝えられている。 1174年(承安4年)、義経はここで吉次と落ち合い、道中の祈願をして奥州へと旅立った。 そのため、「首途」(かどで)と呼ばれるようになったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...

鏡の宿(かがみのしゅく)は、東山道の宿場(宿駅)。 『平治物語』によると、1174年(承安4年)3月3日、京都の鞍馬寺に預けられていた遮那王(源義経)は、金売り商人吉次と下総の深栖三郎光重の子・頼重を伴って奥州平泉の藤原秀衡のもとへ旅立ち、鏡の宿で元服したのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...


鏡の宿(かがみのしゅく)は、東山道の宿場(宿駅)。 『平治物語』によると、1174年(承安4年)3月3日、京都の鞍馬寺に預けられていた遮那王(源義経)は、金売り商人吉次と下総の深栖三郎光重の子・頼重を伴って奥州平泉の藤原秀衡のもとへ旅立ち、鏡の宿で元服したのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...

1185年(元暦2年)の屋島の戦いでは、負傷した源氏軍の兵士がこの寺に運ばれ、討死した佐藤継信は、本堂の扉に乗せられて本陣(瓜生が丘)まで運ばれたのだという。 源義経は合戦によって焼失した洲崎寺を再建したと伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yasima/suza...


1185年(元暦2年)の屋島の戦いでは、負傷した源氏軍の兵士がこの寺に運ばれ、討死した佐藤継信は、本堂の扉に乗せられて本陣(瓜生が丘)まで運ばれたのだという。 源義経は合戦によって焼失した洲崎寺を再建したと伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yasima/suza...

1185年(元暦2年)3月24日、源義経率いる水軍と平知盛率いる水軍が、長門国赤間関壇ノ浦の海上で衝突。合戦が開始された時刻は定かではないが、午の刻(正午頃)には平家軍の敗北に終わっている。二位尼(平時子:平清盛の妻)は三種の神器の一つ宝剣を持ち、按察局(あぜのつぼね)は安徳帝を抱えて入水。建礼門院(平清盛の娘徳子)も海へ飛び込むが源五右馬允(げんごうまのじょう)によって助けられ、安徳帝を抱いて海へ身を投げた按察局も同様に助けられている。平家一門の平教盛らも次々に入水し、経盛は一度上陸して出家してから入水したのだという。しかし、総大将の宗盛とその子清宗は、伊勢三郎能盛によって捕虜とされている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/dannoura/da...


1185年(元暦2年)3月24日、源義経率いる水軍と平知盛率いる水軍が、長門国赤間関壇ノ浦の海上で衝突。合戦が開始された時刻は定かではないが、午の刻(正午頃)には平家軍の敗北に終わっている。二位尼(平時子:平清盛の妻)は三種の神器の一つ宝剣を持ち、按察局(あぜのつぼね)は安徳帝を抱えて入水。建礼門院(平清盛の娘徳子)も海へ飛び込むが源五右馬允(げんごうまのじょう)によって助けられ、安徳帝を抱いて海へ身を投げた按察局も同様に助けられている。平家一門の平教盛らも次々に入水し、経盛は一度上陸して出家してから入水したのだという。しかし、総大将の宗盛とその子清宗は、伊勢三郎能盛によって捕虜とされている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/dannoura/da...

1185年(元暦2年)3月24日に崩御した安徳天皇の御陵。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/dannoura/an...


1185年(元暦2年)3月24日に崩御した安徳天皇の御陵。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/dannoura/an...

1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦で源義経に敗れて滅亡した平家。 一門の多くは入水して最期を遂げたが、総大将の平宗盛と子の清宗は捕らえられ、5月16日、鎌倉へ送られた。 そして、6月9日、京へ送還されるため鎌倉を発つが、6月21日、近江国篠原宿で宗盛が、野路口で清宗が斬首されている。 宗盛父子を護送したのは源義経。 義経は、自らが元服した鏡の宿を血で穢すのを避けて、その先の篠原宿で宗盛を、野路口で清宗を処刑したのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...


1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦で源義経に敗れて滅亡した平家。 一門の多くは入水して最期を遂げたが、総大将の平宗盛と子の清宗は捕らえられ、5月16日、鎌倉へ送られた。 そして、6月9日、京へ送還されるため鎌倉を発つが、6月21日、近江国篠原宿で宗盛が、野路口で清宗が斬首されている。 宗盛父子を護送したのは源義経。 義経は、自らが元服した鏡の宿を血で穢すのを避けて、その先の篠原宿で宗盛を、野路口で清宗を処刑したのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...

岡部忠澄は、一ノ谷の戦いで平清盛の異母弟平忠度を討ち取ったことで知られる武将。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/fukaya/okab...


岡部忠澄は、一ノ谷の戦いで平清盛の異母弟平忠度を討ち取ったことで知られる武将。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/fukaya/okab...

佐々木高綱の館は、鳥山八幡宮付近にあったといわれている。 鳥山八幡宮の創建年は不明だが、高綱が勧請したのだと伝えられている。 高綱は、近江源氏・佐々木秀義の四男。 秀義の子定綱・経高・盛綱・高綱は、佐々木四兄弟として知られ、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に参じて活躍している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/toriyamahat...


佐々木高綱の館は、鳥山八幡宮付近にあったといわれている。 鳥山八幡宮の創建年は不明だが、高綱が勧請したのだと伝えられている。 高綱は、近江源氏・佐々木秀義の四男。 秀義の子定綱・経高・盛綱・高綱は、佐々木四兄弟として知られ、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に参じて活躍している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/toriyamahat...

佐々木高綱が源頼朝から賜った名馬「生食」(いけづき)の霊を慰めるため駒形明神として祀ったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/toriyama-ka...


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