2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件袖摺稲荷神社
伊豆に流されていた源頼朝が稲荷の神体を彫って、北条郷(伊豆国)に祀ったのが始まりなのだという。
袖摺稲荷神社(そですりいなりじんじゃ)は、伊豆に流されていた源頼朝が稲荷の神体を彫って、北条郷(伊豆国)に祀ったのが始まりなのだという。 戦国期には、北条早雲によって、小田原城内に遷座されたが、豊臣秀吉の小田原攻めで小田原城が開城すると、稲荷神のお告げによって隅田の地に遷されたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/asakusa/sod...
袖摺稲荷神社(そですりいなりじんじゃ)は、伊豆に流されていた源頼朝が稲荷の神体を彫って、北条郷(伊豆国)に祀ったのが始まりなのだという。 戦国期には、北条早雲によって、小田原城内に遷座されたが、豊臣秀吉の小田原攻めで小田原城が開城すると、稲荷神のお告げによって隅田の地に遷されたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/asakusa/sod...
鷺沼城址
源頼朝と異母弟の阿野全成が対面した地。
1180年(治承4年)10月1日、鎌倉を目指す頼朝が宿営していた鷺沼旅館に現れたのは異母弟の全成。鷺沼旅館は鷺沼城の事と考えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/saginuma-jy...
1180年(治承4年)10月1日、鎌倉を目指す頼朝が宿営していた鷺沼旅館に現れたのは異母弟の全成。鷺沼旅館は鷺沼城の事と考えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/saginuma-jy...
足立遠元館跡
源頼朝の挙兵に参じた足立遠元館の推定地の一つ。
六部堂
六部堂周辺は、源頼朝に仕えた足立遠元館の推定地の一つ。
息障院
息障院(そくしょういん)は、吉見町一帯を領有していた源頼朝の弟、源範頼の館跡と伝えられている地に建つ寺院。
息障院(そくしょういん)は、吉見町一帯を領有していた頼朝の弟、源範頼の館跡と伝えられている地に建つ寺院。 もとは、坂東札所の安楽寺(吉見観音)と同じ寺院だったが、室町時代に源範頼館跡に移転したのだという。 息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yosimi-soku...
息障院(そくしょういん)は、吉見町一帯を領有していた頼朝の弟、源範頼の館跡と伝えられている地に建つ寺院。 もとは、坂東札所の安楽寺(吉見観音)と同じ寺院だったが、室町時代に源範頼館跡に移転したのだという。 息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/yosimi-soku...
毘沙門堂
伊豆の流人頼朝に挙兵を勧めたという文覚の草庵跡。
1173年(承安3年)4月29日、伊豆に流された怪僧文覚が草庵を結んだ場所とされている。 文覚は同じ頃伊豆に流されていた源頼朝に源氏再興の挙兵を勧め、願いのかなった頼朝は文覚に命じて毘沙門堂を建立させたのだといわれている。参道には頼朝と政子が腰を下ろしたという夫婦石が置かれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-bi...
1173年(承安3年)4月29日、伊豆に流された怪僧文覚が草庵を結んだ場所とされている。 文覚は同じ頃伊豆に流されていた源頼朝に源氏再興の挙兵を勧め、願いのかなった頼朝は文覚に命じて毘沙門堂を建立させたのだといわれている。参道には頼朝と政子が腰を下ろしたという夫婦石が置かれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-bi...
北条館跡
北条時政の館跡。時政の娘政子と結婚した頼朝は北条館に住んでいたものと思われる。
守山の北西、狩野川の東岸にあった北条氏の館跡。鎌倉幕府滅亡後は、北条高時の母覚海円成をはじめとする一族の女性が伊豆に移り住み、北条氏邸跡に円成寺(えんじょうじ:尼寺)を建立して北条一族の冥福を祈ったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ho...
守山の北西、狩野川の東岸にあった北条氏の館跡。鎌倉幕府滅亡後は、北条高時の母覚海円成をはじめとする一族の女性が伊豆に移り住み、北条氏邸跡に円成寺(えんじょうじ:尼寺)を建立して北条一族の冥福を祈ったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ho...
高倉宮跡
後白河法皇の皇子以仁王の邸跡。ここから頼朝をはじめとする全国に源氏へ平家打倒の令旨が発せられた。
以仁王は後白河法皇の第三皇子。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。母の出自が高貴でなかったためか、幼年期の動向は、あまり知られていない。1179年(治承3年)、平清盛が後白河法皇を幽閉すると平家討伐の準備を始めたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
以仁王は後白河法皇の第三皇子。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。母の出自が高貴でなかったためか、幼年期の動向は、あまり知られていない。1179年(治承3年)、平清盛が後白河法皇を幽閉すると平家討伐の準備を始めたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
谷戸観音
新楽寺跡。新楽寺は、源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。
谷戸観音は、古墳時代の横穴墓の中に祀られている石造十一面観音。 かつてこの辺りには、源頼朝が崇敬した新楽寺(真楽寺) という寺があって、鎌倉時代には高麗寺とともに知られた寺だったという ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oiso/yato-k...
谷戸観音は、古墳時代の横穴墓の中に祀られている石造十一面観音。 かつてこの辺りには、源頼朝が崇敬した新楽寺(真楽寺) という寺があって、鎌倉時代には高麗寺とともに知られた寺だったという ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oiso/yato-k...
寄神社
寄神社は、神仏混交の寺社で、かつては弥勒寺と呼ばれ、源頼朝は相模国の神社仏閣27ヶ所に妻北条政子の安産祈願のため、弥勒寺に神馬を奉納している。
寄神社(やどりきじんじゃ)は、神仏混交の寺社で、かつては弥勒寺と呼ばれた禅刹。 1192年(建久3年)8月9日、源頼朝は相模国の神社仏閣27ヶ所に妻北条政子の安産祈願のため、弥勒寺に神馬を奉納している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/matuda/yado...
寄神社は、神仏混交の寺社で、かつては弥勒寺と呼ばれ、源頼朝は相模国の神社仏閣27ヶ所に妻北条政子の安産祈願のため、弥勒寺に神馬を奉納している。
寄神社(やどりきじんじゃ)は、神仏混交の寺社で、かつては弥勒寺と呼ばれた禅刹。 1192年(建久3年)8月9日、源頼朝は相模国の神社仏閣27ヶ所に妻北条政子の安産祈願のため、弥勒寺に神馬を奉納している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/matuda/yado...
大会寺北向観音堂
源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。
聖徳太子が開いたと伝えられている大会寺(だいえじ)。 「北向観音」と呼ばれ、信心していたお竹という女性が嫁に行くため、暇乞いに行って帰ろうとすると、これまで南を向いていた観音が北を向いてしまったことから、堂も北向きにしたのだという。 『吾妻鏡』には、1192年(建久3年)8月9日、源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため神馬を奉納したことが記されている。 鐘の銘文もに頼朝の名があるという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
聖徳太子が開いたと伝えられている大会寺(だいえじ)。 「北向観音」と呼ばれ、信心していたお竹という女性が嫁に行くため、暇乞いに行って帰ろうとすると、これまで南を向いていた観音が北を向いてしまったことから、堂も北向きにしたのだという。 『吾妻鏡』には、1192年(建久3年)8月9日、源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため神馬を奉納したことが記されている。 鐘の銘文もに頼朝の名があるという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
黒部宮
源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。
黒部宮は、現春日神社の元宮。 1191年(建久2年)、源頼朝が馬入川(相模川)の橋供養の後に勧請したと伝えられている。 1192年(建久3年)には、北条政子の安産祈願が行われた祈願所の一つとなった。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
黒部宮は、現春日神社の元宮。 1191年(建久2年)、源頼朝が馬入川(相模川)の橋供養の後に勧請したと伝えられている。 1192年(建久3年)には、北条政子の安産祈願が行われた祈願所の一つとなった。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
加茂神社
源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。
加茂神社は、1192年(建久3年)8月9日、源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamo-jinjya...
加茂神社は、1192年(建久3年)8月9日、源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamo-jinjya...
守山八幡宮
源頼朝が源氏再興を祈願したという守山八幡宮
守山八幡宮は、北条氏ゆかりの願成就院の後方、北条の里の中心にある守山の中腹に鎮座。 647年(大化3年)、大山祗神を祭神として創建され、907年(延喜7年)、宇佐八幡宮の八幡神が勧請されて合祀された。 1180年(治承4年)には、源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-mo...
守山八幡宮は、北条氏ゆかりの願成就院の後方、北条の里の中心にある守山の中腹に鎮座。 647年(大化3年)、大山祗神を祭神として創建され、907年(延喜7年)、宇佐八幡宮の八幡神が勧請されて合祀された。 1180年(治承4年)には、源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-mo...
神楽坂若宮八幡神社
神楽坂若宮八幡神社は、奥州を平定した頼朝が鶴岡八幡宮の若宮を勧請したのが始まりと伝えられています。
神楽坂若宮八幡神社は、1189年(文治5年)、源頼朝が奥州征伐の折、この地で戦勝を祈願し、奥州平定後、鶴岡八幡宮の若宮(仁徳天皇)を勧請したのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kagurazaka-...
神楽坂若宮八幡神社は、1189年(文治5年)、源頼朝が奥州征伐の折、この地で戦勝を祈願し、奥州平定後、鶴岡八幡宮の若宮(仁徳天皇)を勧請したのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kagurazaka-...
平等寺
源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。
平等寺は、1192年(建久3年)、源頼朝が妻北条政子の御産加持を命じたという祈願所の一つ。 『吾妻鏡』には、8月9日の早朝、政子が産気づいたことから、相模国27ヶ所の神社仏閣に神馬を奉納し、経をあげさせたことが記載されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
平等寺は、1192年(建久3年)、源頼朝が妻北条政子の御産加持を命じたという祈願所の一つ。 『吾妻鏡』には、8月9日の早朝、政子が産気づいたことから、相模国27ヶ所の神社仏閣に神馬を奉納し、経をあげさせたことが記載されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
貴船神社
源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。
貴船神社には、源頼朝が祈願したという三面大荒神が祀られてる。 生まれた子が夜泣きをして止まないので、三面荒神に祈願したところ、たちまちに泣き止んだという。 以後、「泣き荒神」と呼ばれ、「夜泣きの神」として祀られるようになったという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
貴船神社には、源頼朝が祈願したという三面大荒神が祀られてる。 生まれた子が夜泣きをして止まないので、三面荒神に祈願したところ、たちまちに泣き止んだという。 以後、「泣き荒神」と呼ばれ、「夜泣きの神」として祀られるようになったという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
稲瀬川の碑
平家追討のため出陣した源範頼を、頼朝はここから見送ったのだといいます
1184年(元暦元年)に平家を討つために出陣した源範頼を頼朝が見送ったのも、1185年(文治元年)に後白河法皇から送られた源義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清)の首を持った使者を出迎えたのもこの地だったという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page136inas...
1184年(元暦元年)に平家を討つために出陣した源範頼を頼朝が見送ったのも、1185年(文治元年)に後白河法皇から送られた源義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清)の首を持った使者を出迎えたのもこの地だったという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page136inas...
一ノ谷古戦場
源氏と平氏の戦いの場所。一ノ谷を源範頼と源義経に攻められ大敗を喫した平家一門
義経の奇襲部隊に属していた熊谷直実、平山季重らが山陽道から一ノ谷の平家の館際を先陣を争いながら襲撃、これに対して平家軍は木戸を開いて平忠光、平景清ら二十三騎が直実らに対抗、直実の子・直家が負傷、季重の家来が討死している。 同じ頃、源氏の主力部隊・範頼軍が大手(生田口)から攻め寄せ、源平が入り乱れて戦う中、鵯越から義経の奇襲部隊が攻め寄せたことにより、平家軍は敗れ、平宗盛らは屋島へと逃れた。 この戦いで、平家軍は平重衡が捕えられ、平通盛、平忠度、平敦盛らが討ち取られている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/itinotani/i...
義経の奇襲部隊に属していた熊谷直実、平山季重らが山陽道から一ノ谷の平家の館際を先陣を争いながら襲撃、これに対して平家軍は木戸を開いて平忠光、平景清ら二十三騎が直実らに対抗、直実の子・直家が負傷、季重の家来が討死している。 同じ頃、源氏の主力部隊・範頼軍が大手(生田口)から攻め寄せ、源平が入り乱れて戦う中、鵯越から義経の奇襲部隊が攻め寄せたことにより、平家軍は敗れ、平宗盛らは屋島へと逃れた。 この戦いで、平家軍は平重衡が捕えられ、平通盛、平忠度、平敦盛らが討ち取られている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/itinotani/i...
五条大橋
五条大橋の西詰には、京人形風に作られた「牛若丸と弁慶の石像」が建てられている。
「五条通」の鴨川に架けられた「五条大橋」は、平安時代末に牛若丸(源義経、頼朝の弟)と弁慶が出会ったという伝説で知られる橋。 現在の「五条通」は当時の「六条坊門小路」に当たり、平安時代の五条通(五条大路)は、清水寺から清水坂を下り鴨川を渡って松原通へとつながる道だったという。 したがって、牛若丸と弁慶が出会ったのは現在の「松原橋」ということになる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
「五条通」の鴨川に架けられた「五条大橋」は、平安時代末に牛若丸(源義経、頼朝の弟)と弁慶が出会ったという伝説で知られる橋。 現在の「五条通」は当時の「六条坊門小路」に当たり、平安時代の五条通(五条大路)は、清水寺から清水坂を下り鴨川を渡って松原通へとつながる道だったという。 したがって、牛若丸と弁慶が出会ったのは現在の「松原橋」ということになる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...