
ゼロからはじめる愛知・戦国史跡巡り講座

歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件羽豆崎城の醍醐味は、やはり展望台です。戦国時代にも、もしかすると物見櫓みたいなものがあり、海を監視できるようになっていたのかもしれません。展望台に登ってみると師崎港が見えますね。天気が良い日は最高の景色です。ちなみに港から離れた場所の島が見えますが、これは日間賀島です。 日間賀島はタコやフグで有名な城です。戦国好きの人は篠島に行きます。その理由は篠島城や清正の枕石、そして清正の石切り場があるからです。日間賀島は残念ながら戦国史跡はありませんが、師崎港から出ているフェリ-で、篠島&日間賀島の二島めぐりができるお得プランがあるので、篠島とセットで巡るのも良いですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=14811

羽豆崎城の醍醐味は、やはり展望台です。戦国時代にも、もしかすると物見櫓みたいなものがあり、海を監視できるようになっていたのかもしれません。展望台に登ってみると師崎港が見えますね。天気が良い日は最高の景色です。ちなみに港から離れた場所の島が見えますが、これは日間賀島です。 日間賀島はタコやフグで有名な城です。戦国好きの人は篠島に行きます。その理由は篠島城や清正の枕石、そして清正の石切り場があるからです。日間賀島は残念ながら戦国史跡はありませんが、師崎港から出ているフェリ-で、篠島&日間賀島の二島めぐりができるお得プランがあるので、篠島とセットで巡るのも良いですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=14811
名古屋市西区に歴史が深い商店街があります。それが円頓寺(えんどうじ)商店街です。名古屋城が築かれる前、尾張の中心地は清洲城がある清洲でした。しかし名古屋城が築かれた慶長十五年(1610)には清洲の首都機能はもちろん、城下町をそっくりそのまま名古屋城に移転したのです。これを清洲越しといいます。この時の引っ越しは徹底していて、寺社はもちろん、商人の屋敷や地名、そして橋までも移転させられました。現在、円頓寺商店街の東には五條(五条)橋が架けられていますが、これは清洲にあった五条川に架けられていた五条橋を移転させたものなのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945

名古屋市西区に歴史が深い商店街があります。それが円頓寺(えんどうじ)商店街です。名古屋城が築かれる前、尾張の中心地は清洲城がある清洲でした。しかし名古屋城が築かれた慶長十五年(1610)には清洲の首都機能はもちろん、城下町をそっくりそのまま名古屋城に移転したのです。これを清洲越しといいます。この時の引っ越しは徹底していて、寺社はもちろん、商人の屋敷や地名、そして橋までも移転させられました。現在、円頓寺商店街の東には五條(五条)橋が架けられていますが、これは清洲にあった五条川に架けられていた五条橋を移転させたものなのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1945
名古屋市中村区の稲葉地城跡は、織田信秀の弟で織田信長の叔父だった津田豊後守信光(織田信光)の居城跡です。稲葉地城は現在、中村区城屋敷町4丁目の神明社になっており、神社の入り口に稲葉地城跡の石碑が建っています。その側面を見ると、織田伯父津田豊後守居城と刻まれています。神明社の鳥居横にある石には稲葉地村古城主 津田豊後守城跡之石と刻まれています。城のどこかで使われていた石なのでしょうか。尾張稲葉地城の遺構は残っていないのですが、神明社周辺に城屋敷という地名が残っています。土豪の屋敷だった場所、つまり館城の跡地に城屋敷という地名が付く例は他にもあり、この地名が城跡を偲ばせていますね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4060

名古屋市中村区の稲葉地城跡は、織田信秀の弟で織田信長の叔父だった津田豊後守信光(織田信光)の居城跡です。稲葉地城は現在、中村区城屋敷町4丁目の神明社になっており、神社の入り口に稲葉地城跡の石碑が建っています。その側面を見ると、織田伯父津田豊後守居城と刻まれています。神明社の鳥居横にある石には稲葉地村古城主 津田豊後守城跡之石と刻まれています。城のどこかで使われていた石なのでしょうか。尾張稲葉地城の遺構は残っていないのですが、神明社周辺に城屋敷という地名が残っています。土豪の屋敷だった場所、つまり館城の跡地に城屋敷という地名が付く例は他にもあり、この地名が城跡を偲ばせていますね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4060
梶原景時を開祖とする梶原氏の菩提寺である興禅寺の裏には羽黒城の土塁が残ります。天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦の羽黒合戦で興禅寺は焼失しましたが、慶長七年(1602)に当時の犬山城主だった小笠原吉次によって羽黒城址に移転し再興されました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4329

梶原景時を開祖とする梶原氏の菩提寺である興禅寺の裏には羽黒城の土塁が残ります。天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦の羽黒合戦で興禅寺は焼失しましたが、慶長七年(1602)に当時の犬山城主だった小笠原吉次によって羽黒城址に移転し再興されました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4329
愛知県犬山市の尾張羽黒城城址は、鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた重臣・梶原景時の孫、梶原景親が築いた城です。戦国時代も梶原氏の居城でしたが、小牧長久手の戦いで羽柴秀吉軍の山内一豊、堀尾吉晴、伊藤祐時らが廃城になっていた羽黒城を砦として再利用したという記録があります。城の中心部分と考えられる場所は高台になっており、そこに羽黒城址の石碑が建立されています。 周辺にある梶原氏の菩提寺・興禅寺、そして名馬で有名な磨墨(するすみ)を祀った磨墨塚もセットにすると歴史史跡巡りの満足度もアップすると思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4313

愛知県犬山市の尾張羽黒城城址は、鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた重臣・梶原景時の孫、梶原景親が築いた城です。戦国時代も梶原氏の居城でしたが、小牧長久手の戦いで羽柴秀吉軍の山内一豊、堀尾吉晴、伊藤祐時らが廃城になっていた羽黒城を砦として再利用したという記録があります。城の中心部分と考えられる場所は高台になっており、そこに羽黒城址の石碑が建立されています。 周辺にある梶原氏の菩提寺・興禅寺、そして名馬で有名な磨墨(するすみ)を祀った磨墨塚もセットにすると歴史史跡巡りの満足度もアップすると思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4313
岡崎市鴨田町向山の西光寺は、井田野合戦、桶狭間合戦の戦死者が眠る千人塚、大衆塚が残る寺です。西光寺は高台にあり、そのふもとに平地が広がっていますが、この平地がかつての井田野(いだの)という場所で、戦国時代に数度、合戦が起こった場所です。西光寺から50m離れた場所に千人塚という墓があります。これは応仁元年(1467)、明応二年(1493)の2度にわたる井田野合戦の戦死者を埋葬した塚といわれています。千人塚の中にはいくつかの墓標が建っています。この千人塚自体、周辺から見るとこんもりしたものになっており、かなり大きな墓という事が分かります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2662


西光寺から50m離れた場所に千人塚という墓があります。応仁元年(1467)、明応二年(1493)の2度にわたる井田野合戦の戦死者を埋葬した塚といわれています。
岡崎市鴨田町向山の西光寺は、井田野合戦、桶狭間合戦の戦死者が眠る千人塚、大衆塚が残る寺です。西光寺は高台にあり、そのふもとに平地が広がっていますが、この平地がかつての井田野(いだの)という場所で、戦国時代に数度、合戦が起こった場所です。西光寺から50m離れた場所に千人塚という墓があります。これは応仁元年(1467)、明応二年(1493)の2度にわたる井田野合戦の戦死者を埋葬した塚といわれています。千人塚の中にはいくつかの墓標が建っています。この千人塚自体、周辺から見るとこんもりしたものになっており、かなり大きな墓という事が分かります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2662
現在の一宮市本町にある三菱東京UFJ銀行前に一宮城跡という石碑があります。戦国時代にはこの周辺に城があり、その城主が関氏だったという事です。蘭奢待を村井貞勝から授かり、自分が神官を務めていた真清田神社に残した関氏ですが、その居城跡は現在でも残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=409

現在の一宮市本町にある三菱東京UFJ銀行前に一宮城跡という石碑があります。戦国時代にはこの周辺に城があり、その城主が関氏だったという事です。蘭奢待を村井貞勝から授かり、自分が神官を務めていた真清田神社に残した関氏ですが、その居城跡は現在でも残っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=409
稲生原(いのうがはら)古戦場跡は、名塚砦の近く名古屋市西区名塚町1丁目124の庚申塚に案内看板が建っています。信長公記に記載されている内容ですと、両軍合わせて約1700名が戦った合戦だったので、庚申塚周辺の広い範囲が古戦場という事ですね。そして公園内には、稲生原の戦いで亡くなった人達を供養する、お堂や供養塔も建てられています。 現在この場所は、名古屋の都心部にも近く、マンションやらビルが立ち並んでいますが、かつては於多井川(庄内川)近くの広い野原だったのでしょうね。 この合戦に勝利した信長は、尾張統一に向けて大きく前進します。 桶狭間合戦の4年前の出来事です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=720

稲生原(いのうがはら)古戦場跡は、名塚砦の近く名古屋市西区名塚町1丁目124の庚申塚に案内看板が建っています。信長公記に記載されている内容ですと、両軍合わせて約1700名が戦った合戦だったので、庚申塚周辺の広い範囲が古戦場という事ですね。そして公園内には、稲生原の戦いで亡くなった人達を供養する、お堂や供養塔も建てられています。 現在この場所は、名古屋の都心部にも近く、マンションやらビルが立ち並んでいますが、かつては於多井川(庄内川)近くの広い野原だったのでしょうね。 この合戦に勝利した信長は、尾張統一に向けて大きく前進します。 桶狭間合戦の4年前の出来事です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=720
羽黒城址の東を走る県道27号線は、江戸時代に名古屋~犬山を結んだ稲置街道(いなきかいどう)です。江戸時代の街道なので羽黒城が廃城になった後?と思いがちですが、江戸時代の街道はそれまでそこにあった街道を再整備して作られているケースがほとんど。だからこの稲置街道もベース(元)になる何かの街道を整備して作られたと思います。北に行くと国宝・犬山城の城下町。南に行くと名古屋城の城下町に着きます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4313

羽黒城址の東を走る県道27号線は、江戸時代に名古屋~犬山を結んだ稲置街道(いなきかいどう)です。江戸時代の街道なので羽黒城が廃城になった後?と思いがちですが、江戸時代の街道はそれまでそこにあった街道を再整備して作られているケースがほとんど。だからこの稲置街道もベース(元)になる何かの街道を整備して作られたと思います。北に行くと国宝・犬山城の城下町。南に行くと名古屋城の城下町に着きます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4313
八橋葦香城跡公園にある葦香(あしか)城阯の石碑。現地案内看板によると、この葦香城阯の石碑はここより約500mほど北にある、才兼池(さいかねいけ)の南西にあったそうです。ここでチェックしておきたいことは、八橋古城と葦香城は別の城ということ!現地案内看板にもその事が強調されています。公園がある場所が八橋古城跡で、その北側、才兼池の南西にあったのが葦香城。ちなみに葦香城があったとされる場所は住宅地になっており、城の遺構は残っていません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4000

八橋葦香城跡公園にある葦香(あしか)城阯の石碑。現地案内看板によると、この葦香城阯の石碑はここより約500mほど北にある、才兼池(さいかねいけ)の南西にあったそうです。ここでチェックしておきたいことは、八橋古城と葦香城は別の城ということ!現地案内看板にもその事が強調されています。公園がある場所が八橋古城跡で、その北側、才兼池の南西にあったのが葦香城。ちなみに葦香城があったとされる場所は住宅地になっており、城の遺構は残っていません。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4000