
ゼロからはじめる愛知・戦国史跡巡り講座

歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件大府市若草町3丁目の新池のほとりに神明社がありますが、そこに青木塚という丸い塚があります。 これは戦国時代、水野信元と松平元康が戦った石ヶ瀬合戦の落ち武者を葬った塚といわれています。 石ヶ瀬合戦の時、松平軍に加勢していた今川軍の中に青木某という武者がいました。 青木某は弓の名手で、数多くの合戦で手柄を立てて来た武将でもあったのです。 その青木某という武将を葬ったのが青木塚です。 神明社の鳥居の横に丸い花壇みたいなものがあります。 これが青木塚です。 碑には次の様な文字が刻まれていました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3857


大府市若草町3丁目の新池のほとりに神明社があるが、そこに青木塚という塚がある。戦国時代、水野信元と松平元康が戦った石ヶ瀬合戦の落ち武者を葬った塚といわれている
大府市若草町3丁目の新池のほとりに神明社がありますが、そこに青木塚という丸い塚があります。 これは戦国時代、水野信元と松平元康が戦った石ヶ瀬合戦の落ち武者を葬った塚といわれています。 石ヶ瀬合戦の時、松平軍に加勢していた今川軍の中に青木某という武者がいました。 青木某は弓の名手で、数多くの合戦で手柄を立てて来た武将でもあったのです。 その青木某という武将を葬ったのが青木塚です。 神明社の鳥居の横に丸い花壇みたいなものがあります。 これが青木塚です。 碑には次の様な文字が刻まれていました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3857
石川康政は三河石川氏の祖で、この人が関東(下野)から三河にやってきて、三河石川氏の基盤を作りました。 墓所は本城公園(小川城跡)から歩いて3分の蓮泉寺にあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1887

石川康政は三河石川氏の祖で、この人が関東(下野)から三河にやってきて、三河石川氏の基盤を作りました。 墓所は本城公園(小川城跡)から歩いて3分の蓮泉寺にあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1887
3つあった深溝松平氏の居城のひとつ。深溝松平氏は大名として明治まで続きます。 菩提寺・本光寺東廟所にある7代・松平忠雄の墓が平成20年(2008)8月末に豪雨災害に遭い、翌年補修の検討のために学術調査が行われたところ、西洋伝来のガラス製グラス、慶長小判などの副葬品が大量に発見されました。 小学校が城跡ネタのもうひとつが、幸田町の深溝小学校。坂を上っていく高台にあり、高低差から城跡を偲ぶことができます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129

3つあった深溝松平氏の居城のひとつ。深溝松平氏は大名として明治まで続きます。 菩提寺・本光寺東廟所にある7代・松平忠雄の墓が平成20年(2008)8月末に豪雨災害に遭い、翌年補修の検討のために学術調査が行われたところ、西洋伝来のガラス製グラス、慶長小判などの副葬品が大量に発見されました。 小学校が城跡ネタのもうひとつが、幸田町の深溝小学校。坂を上っていく高台にあり、高低差から城跡を偲ぶことができます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129
神明社の拝殿前には、推定樹齢約1000年といわれる、大シイの木があります。 国の天然記念物に指定され、高さ約8m、根囲約20m、胸高囲約7mもある県下最大のスダジイの老樹です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=628


神明社の拝殿前には、推定樹齢約1000年といわれる大シイの木。国の天然記念物に指定され、高さ約8m、根囲約20m、胸高囲約7mもある県下最大のスダジイの老樹。
神明社の拝殿前には、推定樹齢約1000年といわれる、大シイの木があります。 国の天然記念物に指定され、高さ約8m、根囲約20m、胸高囲約7mもある県下最大のスダジイの老樹です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=628
蛇枕石は一部が近くにある瀬門神社に移されています。 この瀬門神社は、源頼朝が社殿を修理し、永禄四年(1561)には、松平元康(徳川家康)も東条城攻めの際に先勝祈願を行ったという歴史が残ります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=585


蛇枕石は一部が近くにある瀬門神社に移されている。この瀬門神社は、源頼朝が社殿を修理し、永禄四年には、松平元康(徳川家康)も東条城攻めの際に先勝祈願を行ったそう。
蛇枕石は一部が近くにある瀬門神社に移されています。 この瀬門神社は、源頼朝が社殿を修理し、永禄四年(1561)には、松平元康(徳川家康)も東条城攻めの際に先勝祈願を行ったという歴史が残ります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=585
尾張正光寺砦は永禄三年(1560)の桶狭間合戦の時、今川方だった大高城の南にあった織田軍の砦跡です。 織田信長の一代記・信長公記(しんちょうこうき)に出てこない正光寺砦ですが、江戸時代の張州雑志という資料に大高村より東南五町ばかりにありという記述があります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4094


尾張正光寺砦は永禄三年の桶狭間合戦の時、今川方だった大高城の南にあった織田軍の砦跡。江戸時代の張州雑志という資料に大高村より東南五町ばかりにありという記述がある
尾張正光寺砦は永禄三年(1560)の桶狭間合戦の時、今川方だった大高城の南にあった織田軍の砦跡です。 織田信長の一代記・信長公記(しんちょうこうき)に出てこない正光寺砦ですが、江戸時代の張州雑志という資料に大高村より東南五町ばかりにありという記述があります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4094
橋の名前まで正則!と、ここまで徹底した名前の付け方からわかる様に、地元では非常に親しまれています。 福島正則も死後400年後に正則橋なんて、橋の名前になるとは思っていなかったでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=133

橋の名前まで正則!と、ここまで徹底した名前の付け方からわかる様に、地元では非常に親しまれています。 福島正則も死後400年後に正則橋なんて、橋の名前になるとは思っていなかったでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=133
大給城を上がると突き当りがあり、それを右に向かうと、大給松平氏初代の松平乗元の墓があります。松平乗元は、松平家四代当主・松平親忠の次男で、分家として大給松平家を起こしました。その乗元の墓ですね。ちなみに建てられたのは江戸時代です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1693

大給城を上がると突き当りがあり、それを右に向かうと、大給松平氏初代の松平乗元の墓があります。松平乗元は、松平家四代当主・松平親忠の次男で、分家として大給松平家を起こしました。その乗元の墓ですね。ちなみに建てられたのは江戸時代です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1693
蒲郡市にあろ三河・上ノ郷(かみのごう)城跡は、戦国時代にこの地に勢力を持っていた鵜殿(うどの)氏の居城跡です。三河・上ノ郷城の現状は畑地です。まずみかん畑みたいなところから入りますが、実はここはすでに虎口(こぐち)。そして土塁の上に石碑もあります。虎口を越えると広い削平地があります。本丸下の削平地なので二の丸といった感じでしょうか?畑になっている曲輪跡ですね。そして本丸跡は広い削平地で建造物など何もありません。ブルーシートに覆われている場所は、かつて発掘調査が行われていました。南を見ると市街地の向こうに三河湾が見えます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3315

蒲郡市にあろ三河・上ノ郷(かみのごう)城跡は、戦国時代にこの地に勢力を持っていた鵜殿(うどの)氏の居城跡です。三河・上ノ郷城の現状は畑地です。まずみかん畑みたいなところから入りますが、実はここはすでに虎口(こぐち)。そして土塁の上に石碑もあります。虎口を越えると広い削平地があります。本丸下の削平地なので二の丸といった感じでしょうか?畑になっている曲輪跡ですね。そして本丸跡は広い削平地で建造物など何もありません。ブルーシートに覆われている場所は、かつて発掘調査が行われていました。南を見ると市街地の向こうに三河湾が見えます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3315
野間大坊には織田信長三男・織田信孝の最後の地と墓です。 信孝は本能寺の変後に柴田勝家から織田家の跡取りに推挙されましたが、羽柴秀吉の推挙する三法師(後の秀信)に敗れます。 そして兄・信雄との兄弟ゲンカにも敗れ、野間の地に追いやられ最後を迎えます。 その信孝の墓です。 義朝の墓所と同じ場所にあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1465

野間大坊には織田信長三男・織田信孝の最後の地と墓です。 信孝は本能寺の変後に柴田勝家から織田家の跡取りに推挙されましたが、羽柴秀吉の推挙する三法師(後の秀信)に敗れます。 そして兄・信雄との兄弟ゲンカにも敗れ、野間の地に追いやられ最後を迎えます。 その信孝の墓です。 義朝の墓所と同じ場所にあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1465