歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件愛知県清須(きよす)市は、初期の城として注目されている環濠集落・朝日遺跡や織田信長の居城だった清洲城跡があります。 清須市にはいろんな飲食店がありますが、その中でもオススメなのが清須市西田中蓮池にある信長ラーメンです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3334
愛知県清須市は、初期の城として注目されている環濠集落・朝日遺跡や織田信長の居城だった清洲城跡がある。オススメな飲食店が清須市西田中蓮池にある信長ラーメン。
愛知県清須(きよす)市は、初期の城として注目されている環濠集落・朝日遺跡や織田信長の居城だった清洲城跡があります。 清須市にはいろんな飲食店がありますが、その中でもオススメなのが清須市西田中蓮池にある信長ラーメンです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3334
あま市七宝町の瑞円寺(ずいえんじ)は、加賀百万石の礎を築いた前田利家の正室・おまつ生誕地と中日ドラゴンズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた、星野仙一監督の墓が残る寺です。 瑞円寺の入り口に前田利家の正室・お松の方の説明板があります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3729
あま市七宝町の瑞円寺(ずいえんじ)は、加賀百万石の礎を築いた前田利家の正室・おまつ生誕地と中日ドラゴンズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた、星野仙一監督の墓が残る寺です。 瑞円寺の入り口に前田利家の正室・お松の方の説明板があります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3729
尾張四観音の筆頭ともいわれる甚目寺観音は戦国武将で大名の福島正則の逸話で有名です。 福島正則は現在の愛知県あま市(旧美和町)の出身で甚目寺観音はよもや地元なのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4041
尾張四観音の筆頭ともいわれる甚目寺観音は戦国武将で大名の福島正則の逸話で有名です。 福島正則は現在の愛知県あま市(旧美和町)の出身で甚目寺観音はよもや地元なのです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4041
田原市の長興寺は、戦国時代に渥美半島に勢力を持っていた戸田氏の菩提寺です。 寺伝によると、建治元年(1275)に大覚寺として創建されましたが、その後荒廃し、文明十四年(1482)田原城主・戸田宗光が三河渥美郡の分郡守護代・一色政照(七郎)の菩提を弔うため、再興しました。 この時に長興寺と寺号を改め、また曹洞宗に改宗し、戸田氏の菩提寺としたのです。 一色氏の墓があるのもその理由なのですね。 九鬼守隆の墓と内室(妻)の墓もあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2224
田原市の長興寺は、戦国時代に渥美半島に勢力を持っていた戸田氏の菩提寺です。 寺伝によると、建治元年(1275)に大覚寺として創建されましたが、その後荒廃し、文明十四年(1482)田原城主・戸田宗光が三河渥美郡の分郡守護代・一色政照(七郎)の菩提を弔うため、再興しました。 この時に長興寺と寺号を改め、また曹洞宗に改宗し、戸田氏の菩提寺としたのです。 一色氏の墓があるのもその理由なのですね。 九鬼守隆の墓と内室(妻)の墓もあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2224
長福寺は桶狭間に到着した今川義元本陣に酒肴を献上した寺といわれ、また合戦後にここで義元の首実検が行われました。 長福寺の境内には14世紀中ごろに南朝の落武者が住み着いた時、村人の貴重な生活水源だった泉が残り、現在でも水が湧いています。 ちなみに長福寺は、毎年5月中旬に行われる桶狭間古戦場祭りのメイン会場です。 この日は愛知県内の手作り甲冑の連盟組織・愛知戦国甲冑隊の武者行列をはじめ、史跡散策会、歴史講演会など様々なイベントが行われます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355
長福寺は桶狭間に到着した今川義元本陣に酒肴を献上した寺といわれ、また合戦後にここで義元の首実検が行われました。 長福寺の境内には14世紀中ごろに南朝の落武者が住み着いた時、村人の貴重な生活水源だった泉が残り、現在でも水が湧いています。 ちなみに長福寺は、毎年5月中旬に行われる桶狭間古戦場祭りのメイン会場です。 この日は愛知県内の手作り甲冑の連盟組織・愛知戦国甲冑隊の武者行列をはじめ、史跡散策会、歴史講演会など様々なイベントが行われます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355
名古屋市西区の東雲寺は、織田信長の傅役だった平手政秀の首塚のほか、津田信之夫婦の墓、織田常寛の碑が残る臨済宗の寺院です。 寺伝によると洞雲寺のルーツは至徳元年(1384)に創建された長興寺が始まりで、明応元年(1492)に小田井城主・織田常寛が東雲寺として開基となり、美濃国瑞竜寺より慈済禅師を講じて開山しました。 平手政秀は織田信長の傅役(もりやく:教育係のこと)だった人物墓は名古屋市千種区の平和公園にありますが、首塚は東雲寺にあるんです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3020
名古屋市西区の東雲寺は、織田信長の傅役だった平手政秀の首塚のほか、津田信之夫婦の墓、織田常寛の碑が残る臨済宗の寺院です。 寺伝によると洞雲寺のルーツは至徳元年(1384)に創建された長興寺が始まりで、明応元年(1492)に小田井城主・織田常寛が東雲寺として開基となり、美濃国瑞竜寺より慈済禅師を講じて開山しました。 平手政秀は織田信長の傅役(もりやく:教育係のこと)だった人物墓は名古屋市千種区の平和公園にありますが、首塚は東雲寺にあるんです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3020
豊臣秀吉(羽柴秀吉)と加藤清正の生誕地といわれている名古屋市中村区。 ここには秀吉清正記念館という資料館があります。館内には、秀吉や清正ゆかりの展示物がズラリと並んでいます。 たまに展示物も変わるみたいです。所要時間は常設展で約20分くらいですが、貴重な展示物や企画展がある場合はもう少し時間が必要になるでしょう。あと秀吉清正記念館で無料で配布しているパンフレット、リーフレットも要チェックです。 私の感想ですが、その中に加藤清正の手形がど~んと載っているものがあり、とても人の手とは思えないくらいの大きさです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=819#i-6
豊臣秀吉(羽柴秀吉)と加藤清正の生誕地といわれている名古屋市中村区。 ここには秀吉清正記念館という資料館があります。館内には、秀吉や清正ゆかりの展示物がズラリと並んでいます。 たまに展示物も変わるみたいです。所要時間は常設展で約20分くらいですが、貴重な展示物や企画展がある場合はもう少し時間が必要になるでしょう。あと秀吉清正記念館で無料で配布しているパンフレット、リーフレットも要チェックです。 私の感想ですが、その中に加藤清正の手形がど~んと載っているものがあり、とても人の手とは思えないくらいの大きさです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=819#i-6
田原市の田原城跡は、戦国時代の戸田氏の居城。江戸時代では渡辺崋山(わたなべかざん)で有名な田原藩の拠点になった城です。三の丸は護国神社になっています。人工的な削平地ですが、曲輪当時のものなのか神社造成時のものなのかは微妙… 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2245
田原市の田原城跡は、戦国時代の戸田氏の居城。江戸時代では渡辺崋山(わたなべかざん)で有名な田原藩の拠点になった城です。三の丸は護国神社になっています。人工的な削平地ですが、曲輪当時のものなのか神社造成時のものなのかは微妙… 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2245
名古屋市熱田区の誓願寺は鎌倉幕府を開いた源頼朝が生まれた場所、つまり生誕地といわれている場所です。 なぜ源頼朝が名古屋生まれかというと、母の実家で生まれたからです。 頼朝の母は熱田神宮大宮司家の娘・由良御前(ゆらごぜん)。 誓願寺の中に入ると古そうな井戸がありました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4357
名古屋市熱田区の誓願寺は鎌倉幕府を開いた源頼朝が生まれた場所、つまり生誕地といわれている場所です。 なぜ源頼朝が名古屋生まれかというと、母の実家で生まれたからです。 頼朝の母は熱田神宮大宮司家の娘・由良御前(ゆらごぜん)。 誓願寺の中に入ると古そうな井戸がありました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4357
もともと現在の鳴海城跡の場所ににあった成海神社ですが、応永年間(1349~1428)に安原宗範が鳴海城の前身の城となる根古屋(ねこや)城を築く時、現在の場所に移されました。 鳴海城から丹下砦に行く途中にあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=427
もともと現在の鳴海城跡の場所ににあった成海神社は、応永年間に安原宗範が鳴海城の前身の城となる根古屋城を築く時、現在の場所に移された。鳴海城から丹下砦に行く途中。
もともと現在の鳴海城跡の場所ににあった成海神社ですが、応永年間(1349~1428)に安原宗範が鳴海城の前身の城となる根古屋(ねこや)城を築く時、現在の場所に移されました。 鳴海城から丹下砦に行く途中にあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=427
名古屋市名東区にある猪高(いだか)小学校の校章は、戦国武将・柴田勝家の柴田家の家紋である【二つ雁金紋】(ふたつかりがねもん)を図案化したものです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4422
名古屋市名東区にある猪高(いだか)小学校の校章は、戦国武将・柴田勝家の柴田家の家紋である【二つ雁金紋】(ふたつかりがねもん)を図案化したものです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4422
童庵駅ビルカルミア店
藤堂高虎の出世餅逸話を現代風にアレンジしたお菓子を豊橋市の童庵という店が販売している。
藤堂高虎の出世餅逸話を現代風にアレンジしたお菓子を豊橋市の童庵という店が販売しています。 豊橋市内にいくつか店舗はありますが、豊橋駅にもカルミア店があるので、JR、名鉄そして新幹線で豊橋駅を訪れた時に購入することができます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3155
藤堂高虎の出世餅逸話を現代風にアレンジしたお菓子を豊橋市の童庵という店が販売しています。 豊橋市内にいくつか店舗はありますが、豊橋駅にもカルミア店があるので、JR、名鉄そして新幹線で豊橋駅を訪れた時に購入することができます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3155
長篠設楽原合戦の時、長篠城で活躍した鳥居強右衛門は、現在の愛知県豊川市市田の出身といわれています。鳥居強右衛門の石碑があるのは、豊川市の松永寺です。トイレ横に鳥居強右衛門生誕地の石碑の場所に行く案内があるので、生垣から細い道へと出ます。細い道をまっすぐ歩くと、左手に鳥居強右衛門生誕地の石碑が建っています。あと松永寺の方に申し出れば、鳥居強右衛門の木像も拝観させて頂けます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2910
長篠設楽原合戦の時、長篠城で活躍した鳥居強右衛門は、現在の愛知県豊川市市田の出身といわれています。鳥居強右衛門の石碑があるのは、豊川市の松永寺です。トイレ横に鳥居強右衛門生誕地の石碑の場所に行く案内があるので、生垣から細い道へと出ます。細い道をまっすぐ歩くと、左手に鳥居強右衛門生誕地の石碑が建っています。あと松永寺の方に申し出れば、鳥居強右衛門の木像も拝観させて頂けます。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2910
安城市南部小学校前にあった梅井。小学校のフェンス前によく見ると七つ井の看板があり、その下に梅井がありました。 井戸の横には石碑もあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3409
安城市南部小学校前にあった梅井。小学校のフェンス前によく見ると七つ井の看板があり、その下に梅井がありました。 井戸の横には石碑もあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3409
本多忠勝と酒井忠次の石像
名鉄東岡崎駅前にある、徳川家康の騎馬武者銅像から徒歩5分ほどの場所に桜城橋があり、ここを渡ると本多忠勝と酒井忠次の石像がある。
名鉄東岡崎駅前にある、徳川家康の騎馬武者銅像から徒歩5分ほどの場所に桜城橋(さくらのしろはし)があります。ここを渡ると家臣たちの像もあるんです。 橋を渡ると本多忠勝と酒井忠次の石像があります。 本多忠勝。現在の岡崎市岩津町西蔵前が生誕地です。 酒井忠次は現在の岡崎市井田町が生誕地の武将です。三方ヶ原合戦の時、浜松城に逃げ帰る城兵を鼓舞した時の様子を描いています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3595
名鉄東岡崎駅前にある、徳川家康の騎馬武者銅像から徒歩5分ほどの場所に桜城橋(さくらのしろはし)があります。ここを渡ると家臣たちの像もあるんです。 橋を渡ると本多忠勝と酒井忠次の石像があります。 本多忠勝。現在の岡崎市岩津町西蔵前が生誕地です。 酒井忠次は現在の岡崎市井田町が生誕地の武将です。三方ヶ原合戦の時、浜松城に逃げ帰る城兵を鼓舞した時の様子を描いています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3595
本多平八郎忠勝誕生地の石碑
岡崎市岩津町に残る西蔵前城跡。ここで徳川四天王のひとりに数えられる本多忠勝も生まれていると考えられ、本多平八郎忠勝誕生地の石碑も建立されている。
岡崎市岩津町に残る西蔵前城跡。ここで徳川四天王のひとりに数えられる本多忠勝も生まれていると考えられ、本多平八郎忠勝誕生地の石碑も建立されています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3493 sengokushiseki.com/?p=2997
(編集済み)
岡崎市岩津町に残る西蔵前城跡。ここで徳川四天王のひとりに数えられる本多忠勝も生まれていると考えられ、本多平八郎忠勝誕生地の石碑も建立されている。
岡崎市岩津町に残る西蔵前城跡。ここで徳川四天王のひとりに数えられる本多忠勝も生まれていると考えられ、本多平八郎忠勝誕生地の石碑も建立されています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3493 sengokushiseki.com/?p=2997
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岡崎市八帖町にある、まるや八丁味噌には、『日吉丸石投の井戸』があり、工場見学の時に拝観できます。 豊臣秀吉ゆかりの井戸。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1981
岡崎市八帖町にある、まるや八丁味噌には、『日吉丸石投の井戸』があり、工場見学の時に拝観できます。 豊臣秀吉ゆかりの井戸。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1981
幕末の元治元年(1864)、大垣新田藩(おおがきしんでんはん:美濃大垣藩の支藩)によって築かれた台場跡。現在では、島崎藤村の歌碑がある広場。 城郭研究では、幕末の海防施設も城跡として研究されています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129
幕末の元治元年(1864)、大垣新田藩によって築かれた台場跡。現在では、島崎藤村の歌碑がある広場。城郭研究では、幕末の海防施設も城跡として研究されている。
幕末の元治元年(1864)、大垣新田藩(おおがきしんでんはん:美濃大垣藩の支藩)によって築かれた台場跡。現在では、島崎藤村の歌碑がある広場。 城郭研究では、幕末の海防施設も城跡として研究されています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2129
名古屋市中村区日ノ宮町1丁目の日之宮社は、豊臣秀吉の母・なか(大政所)が男子を授かるようにと日参した神社といわれています。 日之宮社はもとは日吉権現といわれ、秀吉は天分五年(1536)元旦の日の出に生まれたといわれています。また幼名の日吉丸はこの日吉権現から付けられたとも。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3389
名古屋市中村区日ノ宮町1丁目の日之宮社は、豊臣秀吉の母・なか(大政所)が男子を授かるようにと日参した神社といわれています。 日之宮社はもとは日吉権現といわれ、秀吉は天分五年(1536)元旦の日の出に生まれたといわれています。また幼名の日吉丸はこの日吉権現から付けられたとも。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3389