
ゼロからはじめる愛知・戦国史跡巡り講座

歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件桶狭間古戦場に残る瀬名伊予守氏俊陣地跡は、桶狭間合戦時に今川軍の先鋒だった瀬名氏俊の陣跡です。 今川義元がイキナリ桶狭間に来たのではなく、現地の偵察を兼ねた先鋒隊が来た後、大将である今川義元が着陣しています。 今川軍の先鋒だった瀬名伊予守氏俊の陣跡です。 実際にはもう少し後方にあったみたいですが、土地の事情でしょうか、現在の場所に石碑と案内看板が設置されています。 氏俊は先鋒として、義元本陣の設営と地域の下準備などで、今川軍本隊より数日前にはこの桶狭間の地に来ていたみたいです。 ちなみに瀬名氏俊は徳川家康の正室である瀬名姫の父ではありません。(瀬名姫の父は関口氏です)。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355

桶狭間古戦場に残る瀬名伊予守氏俊陣地跡は、桶狭間合戦時に今川軍の先鋒だった瀬名氏俊の陣跡です。 今川義元がイキナリ桶狭間に来たのではなく、現地の偵察を兼ねた先鋒隊が来た後、大将である今川義元が着陣しています。 今川軍の先鋒だった瀬名伊予守氏俊の陣跡です。 実際にはもう少し後方にあったみたいですが、土地の事情でしょうか、現在の場所に石碑と案内看板が設置されています。 氏俊は先鋒として、義元本陣の設営と地域の下準備などで、今川軍本隊より数日前にはこの桶狭間の地に来ていたみたいです。 ちなみに瀬名氏俊は徳川家康の正室である瀬名姫の父ではありません。(瀬名姫の父は関口氏です)。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355
加藤清正が名古屋城築城時に石を切り出したといわれる場所です。 清正は名古屋城の大天守を担当した大名で、石を篠島から調達していました。 その調達していた場所が清正の石切り場です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1506

加藤清正が名古屋城築城時に石を切り出したといわれる場所です。 清正は名古屋城の大天守を担当した大名で、石を篠島から調達していました。 その調達していた場所が清正の石切り場です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1506
大きな岩をよく見ると、楔(くさび)が打ち込んであり、いくつかに石が分かれていますよね。 近くまで行くことができます。 枕石の近くをよく見ると、楔(くさび)が入った石がチラホラあります。これらの石も運び出される予定だった石なのでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1506

大きな岩をよく見ると、楔(くさび)が打ち込んであり、いくつかに石が分かれていますよね。 近くまで行くことができます。 枕石の近くをよく見ると、楔(くさび)が入った石がチラホラあります。これらの石も運び出される予定だった石なのでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1506
菅沼定継が天文元年(1532年)に築いた城というのが、現在、新城古城跡として残っています。 ハッキリいって、郷土史レベルの城ですが、城郭研究の知識をもって見るといろんなものが見えてくる城跡なのです。 これは北側の地形。北側が谷状になっているのがよくわかります。つまり低くなっており、城がある場所が高くなっているという事です。 碑がある周辺を散策してみると、何やら土が盛ってある場所がありました。 これはかつての土塁の跡でしょう。 新城古城は南側を豊川という天然の堀に守られた城だったということだからです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=997

菅沼定継が天文元年(1532年)に築いた城というのが、現在、新城古城跡として残っています。 ハッキリいって、郷土史レベルの城ですが、城郭研究の知識をもって見るといろんなものが見えてくる城跡なのです。 これは北側の地形。北側が谷状になっているのがよくわかります。つまり低くなっており、城がある場所が高くなっているという事です。 碑がある周辺を散策してみると、何やら土が盛ってある場所がありました。 これはかつての土塁の跡でしょう。 新城古城は南側を豊川という天然の堀に守られた城だったということだからです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=997
戦国時代、この地には新城城という城があり、その新城城が現在の新城市の市名の由来になっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=997

戦国時代、この地には新城城という城があり、その新城城が現在の新城市の市名の由来になっています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=997
尾州早鮨のランチのいただける真砂本店。 一度は食べておきたい歴史寿司かな~と思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2861

尾州早鮨のランチのいただける真砂本店。 一度は食べておきたい歴史寿司かな~と思います。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2861
岩倉城近くの神明生田神社には山内一豊公生誕地の石碑があります。山内一豊の生誕地は愛知県に2ヶ所あり、そのひとつの岩倉説がこの場所です。(ちなみにもうひとつは一宮市木曽川町) 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3645

岩倉城近くの神明生田神社には山内一豊公生誕地の石碑があります。山内一豊の生誕地は愛知県に2ヶ所あり、そのひとつの岩倉説がこの場所です。(ちなみにもうひとつは一宮市木曽川町) 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3645
武田信玄の供養塔といわれる五輪塔。寛文(1661~73)年間に建立されたもので、後の宝暦年間(1751~64)に隣に武田神社ができて祀られました。 ただこれは信玄塚ではなく武田神社で、信玄塚はこの武田神社の隣にある風林火山の壁画から少し下がった場所にあります。 この周辺が信玄最後の地だったということです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2927

武田信玄の供養塔といわれる五輪塔。寛文(1661~73)年間に建立されたもので、後の宝暦年間(1751~64)に隣に武田神社ができて祀られました。 ただこれは信玄塚ではなく武田神社で、信玄塚はこの武田神社の隣にある風林火山の壁画から少し下がった場所にあります。 この周辺が信玄最後の地だったということです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2927
桜花学園大学の南は山になっています。 空が晴れてから今川義元本陣を攻めた信長は、この坂を駆け上がり義元本陣に迫ったといわれています。 そのことから信長坂という名前が付きました。 ※信長坂は桜花学園大学の敷地内にあるので立ち入る際には大学側の許可が必ず必要です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355

桜花学園大学の南は山になっています。 空が晴れてから今川義元本陣を攻めた信長は、この坂を駆け上がり義元本陣に迫ったといわれています。 そのことから信長坂という名前が付きました。 ※信長坂は桜花学園大学の敷地内にあるので立ち入る際には大学側の許可が必ず必要です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=355
信長公記に記載してある、上知我麻神社神社(かみちかまじんじゃ)というのが現在の熱田神宮の事で、桶狭間合戦で勝利を収めた信長が、戦勝祈願のお礼に【塀】を寄進しています。 それが現在に残る信長塀です。 織田信長が桶狭間出陣の際、熱田神宮に願文を奏し、大勝したのでそのお礼に塀を寄進しました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=752


信長公記に記載してある、上知我麻神社神社というのが現在の熱田神宮。桶狭間合戦で勝利を収めた信長が、戦勝祈願のお礼に【塀】を寄進している。それが現在に残る信長塀。
信長公記に記載してある、上知我麻神社神社(かみちかまじんじゃ)というのが現在の熱田神宮の事で、桶狭間合戦で勝利を収めた信長が、戦勝祈願のお礼に【塀】を寄進しています。 それが現在に残る信長塀です。 織田信長が桶狭間出陣の際、熱田神宮に願文を奏し、大勝したのでそのお礼に塀を寄進しました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=752