2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件太寧寺
源頼朝の異母弟範頼の墓がある。
伝説によると、源範頼は修禅寺を脱出し、浦郷鉈切(横須賀市)に逃れたが、鎌倉に知られるところとなり、当時瀬ヶ崎にあった太寧寺で自害したのだという。 太寧寺は、範頼が瀬ヶ崎に創建した薬師寺を前身としているといわれ、薬師寺が称名寺門前に移転(現在の薬王寺)した後、薬師寺跡に太寧寺が建てられたのだという。 太寧寺という寺名は、範頼の法名「太寧寺殿」によるもの。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/taineiji.ht...
伝説によると、源範頼は修禅寺を脱出し、浦郷鉈切(横須賀市)に逃れたが、鎌倉に知られるところとなり、当時瀬ヶ崎にあった太寧寺で自害したのだという。 太寧寺は、範頼が瀬ヶ崎に創建した薬師寺を前身としているといわれ、薬師寺が称名寺門前に移転(現在の薬王寺)した後、薬師寺跡に太寧寺が建てられたのだという。 太寧寺という寺名は、範頼の法名「太寧寺殿」によるもの。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/taineiji.ht...
鎌倉大仏
鎌倉大仏の造立は源頼朝の願いだった???
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列し、東大寺の大仏を見た源頼朝は、東国にも大仏を造りたいと願っていたのだという。 しかし、それを果たすことなくこの世を去ってしまったことから、侍女の稲多野局(いなだのつぼね)がその志を受け継いで造立の発起をし、僧浄光が勧進して造立されたのだという。 北条政子が助力したとも。 鎌倉大仏の後ろには、稲多局の笠塔婆が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page136koto...
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列し、東大寺の大仏を見た源頼朝は、東国にも大仏を造りたいと願っていたのだという。 しかし、それを果たすことなくこの世を去ってしまったことから、侍女の稲多野局(いなだのつぼね)がその志を受け継いで造立の発起をし、僧浄光が勧進して造立されたのだという。 北条政子が助力したとも。 鎌倉大仏の後ろには、稲多局の笠塔婆が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page136koto...
銭洗弁財天宇賀福神社
源頼朝が夢のお告げを受けて創建したという神社。
戦乱が鎮まり、民の加護を祈っていた源頼朝は、巳の年の1185年(文治元年)巳の月の巳の日に「宇賀福神」の夢を見た。 夢の中に現れた「宇賀福神」は、「西北の仙境に湧きだしている霊水で神仏を祀れば、平穏に治まる」と告げた。 泉を発見した頼朝は、岩窟を掘らせ宇賀福神を祀った。 それが銭洗弁財天宇賀福神社のはじまりなのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page137zeni...
戦乱が鎮まり、民の加護を祈っていた源頼朝は、巳の年の1185年(文治元年)巳の月の巳の日に「宇賀福神」の夢を見た。 夢の中に現れた「宇賀福神」は、「西北の仙境に湧きだしている霊水で神仏を祀れば、平穏に治まる」と告げた。 泉を発見した頼朝は、岩窟を掘らせ宇賀福神を祀った。 それが銭洗弁財天宇賀福神社のはじまりなのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page137zeni...
海南神社
源頼朝が祈願したという社。境内には頼朝お手植えと伝わるイチョウが聳える。
吉野山
源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた場所。
吉野山・・・ 源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた場所。 鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)で、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時拠点とした場所。 後醍醐天皇が南朝を興した場所。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
吉野山・・・ 源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた場所。 鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)で、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時拠点とした場所。 後醍醐天皇が南朝を興した場所。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
由比ヶ浜海岸
鎌倉時代には、鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていた由比ヶ浜。
源頼朝が放生会を行い、源実朝が渡宋を願って陳和卿に船を造らせた浜。畠山重忠と三浦一族が戦い、静御前の子が殺され、畠山重忠の子重保が騙し討ちされ、和田義盛が滅亡した浜。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/umi-yuigaha...
源頼朝が放生会を行い、源実朝が渡宋を願って陳和卿に船を造らせた浜。畠山重忠と三浦一族が戦い、静御前の子が殺され、畠山重忠の子重保が騙し討ちされ、和田義盛が滅亡した浜。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/umi-yuigaha...
中尊寺
中尊寺は、850年(嘉祥3年)、円仁 (慈覚大師) によって開かれたと伝えられる天台宗の寺院。
中尊寺(ちゅうそんじ)は、850年(嘉祥3年)、円仁 (慈覚大師) によって開かれたと伝えられる天台宗の寺院。 山号は関山(かんざん) 1105年(長治2年)、奥州藤原氏の祖・藤原清衡は、前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養する仏国土建設のため、境内に堂塔の造営を開始。 最初に釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」が建立され、次いで高さ15メートルにも及んだという大長寿院(二階堂)が建立された。 1124年(天治元年)には、清衡の廟堂としての金色堂が建立され、100年にわたる藤原氏の栄華の基礎が築かれた。 1189年(文治5年)、奥州を攻めた折に大長寿院を見た源頼朝は、それを模して鎌倉に永福寺を創建している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/t...
中尊寺(ちゅうそんじ)は、850年(嘉祥3年)、円仁 (慈覚大師) によって開かれたと伝えられる天台宗の寺院。 山号は関山(かんざん) 1105年(長治2年)、奥州藤原氏の祖・藤原清衡は、前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養する仏国土建設のため、境内に堂塔の造営を開始。 最初に釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」が建立され、次いで高さ15メートルにも及んだという大長寿院(二階堂)が建立された。 1124年(天治元年)には、清衡の廟堂としての金色堂が建立され、100年にわたる藤原氏の栄華の基礎が築かれた。 1189年(文治5年)、奥州を攻めた折に大長寿院を見た源頼朝は、それを模して鎌倉に永福寺を創建している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/t...
毛越寺(もうつうじ)
毛越寺は、850年(嘉祥3年)、円仁 (慈覚大師) によって開かれたと伝えられる天台宗の寺院。
毛越寺(もうつうじ)は、850年(嘉祥3年)、円仁 (慈覚大師) によって開かれたと伝えられる天台宗の寺院。 本尊は薬師如来、脇侍は日光菩薩・月光菩薩。 山号は医王山。 奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡によって多くの伽藍が造営され、往時には堂塔40、僧坊500を数えたという。 1189年(文治5年)、源頼朝の奥州征伐によって奥州藤原氏が滅亡した後は、鎌倉幕府の保護を受けていたが、度重なる災禍によって荒廃し、1636年(寛永13年)には、本尊の釈迦三尊が伊達政宗の菩提寺・瑞鳳寺(宮城県仙台市)に遷された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/m...
毛越寺(もうつうじ)は、850年(嘉祥3年)、円仁 (慈覚大師) によって開かれたと伝えられる天台宗の寺院。 本尊は薬師如来、脇侍は日光菩薩・月光菩薩。 山号は医王山。 奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡によって多くの伽藍が造営され、往時には堂塔40、僧坊500を数えたという。 1189年(文治5年)、源頼朝の奥州征伐によって奥州藤原氏が滅亡した後は、鎌倉幕府の保護を受けていたが、度重なる災禍によって荒廃し、1636年(寛永13年)には、本尊の釈迦三尊が伊達政宗の菩提寺・瑞鳳寺(宮城県仙台市)に遷された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/m...
法住寺
後白河法皇の院御所法住寺殿は、この寺を中心に造営された。
1158年(保元3年)、法住寺を中心に後白河法皇の院庁「法住寺殿」が造営された。 しかし、1183年(寿永2年)に木曽義仲の夜襲をうけ、法皇は六条西洞院の長講堂に移っている。 1191年(建久2年)、源頼朝が法住寺殿を再建したが、法皇は翌年3月13日に崩御。 法住寺殿の一画には法華堂が建てられ、法皇の御陵となった。 以後、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として存続したが、明治の神仏分離により御陵と寺が分離されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
1158年(保元3年)、法住寺を中心に後白河法皇の院庁「法住寺殿」が造営された。 しかし、1183年(寿永2年)に木曽義仲の夜襲をうけ、法皇は六条西洞院の長講堂に移っている。 1191年(建久2年)、源頼朝が法住寺殿を再建したが、法皇は翌年3月13日に崩御。 法住寺殿の一画には法華堂が建てられ、法皇の御陵となった。 以後、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として存続したが、明治の神仏分離により御陵と寺が分離されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
河越館跡
武蔵国の河越荘を本拠とした河越氏の居館跡。
常楽寺
河越氏の館跡の一角に建てられている時宗の寺院。
常楽寺は、河越氏の館跡の一角に建てられている時宗の寺院。源頼朝に仕えた河越重頼と、その娘で源義経に嫁いだ郷御前、義経の供養塔が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kawagoe/jyo...
常楽寺は、河越氏の館跡の一角に建てられている時宗の寺院。源頼朝に仕えた河越重頼と、その娘で源義経に嫁いだ郷御前、義経の供養塔が建てられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kawagoe/jyo...
大物主神社
兄の源頼朝と対立して都を落ちた源義経は、神社近くにあった七軒長屋に逗留したのだと伝えられている。
大物主神社の創建は不詳だが、海に至る河口に点在していた三角州の一つに祭場として建てられたのがはじまりと伝えられる。 1159年(平治元年)、平清盛が厳島神社を勧請。 1185年(文治元年)、兄の源頼朝と対立して都を落ちた源義経は、神社近くにあった七軒長屋に逗留したのだと伝えられている。 義経が西国への逃亡の船出をした大物浦は、この神社の目の前だった。 江戸時代までは大物社・大物若宮・若宮社・若宮弁財天・若宮八幡などと称されたが、明治の神仏分離により大物主神社となった。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oomononusi....
大物主神社の創建は不詳だが、海に至る河口に点在していた三角州の一つに祭場として建てられたのがはじまりと伝えられる。 1159年(平治元年)、平清盛が厳島神社を勧請。 1185年(文治元年)、兄の源頼朝と対立して都を落ちた源義経は、神社近くにあった七軒長屋に逗留したのだと伝えられている。 義経が西国への逃亡の船出をした大物浦は、この神社の目の前だった。 江戸時代までは大物社・大物若宮・若宮社・若宮弁財天・若宮八幡などと称されたが、明治の神仏分離により大物主神社となった。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oomononusi....
四天王寺
東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝が参詣している。
四天王寺は、聖徳太子建立の七大寺の一つ。日本仏法最初の官寺。 日本に仏教が伝来すると、仏教信仰に反対する物部氏と賛成派の蘇我氏が対立、587年(用明天皇2年)になると武力闘争へと発展する。 その戦いで蘇我氏についた聖徳太子は、戦いの形勢不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「もし戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立する」と誓願し、勝利を収めたのだと伝えられている(593年(推古天皇元年))。 『吾妻鏡』によると、1195年(建久6年)5月20日、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝が参詣している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oosaka/site...
四天王寺は、聖徳太子建立の七大寺の一つ。日本仏法最初の官寺。 日本に仏教が伝来すると、仏教信仰に反対する物部氏と賛成派の蘇我氏が対立、587年(用明天皇2年)になると武力闘争へと発展する。 その戦いで蘇我氏についた聖徳太子は、戦いの形勢不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「もし戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立する」と誓願し、勝利を収めたのだと伝えられている(593年(推古天皇元年))。 『吾妻鏡』によると、1195年(建久6年)5月20日、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝が参詣している。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oosaka/site...
住吉大社
東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝は、流鏑馬を奉納したと伝えられている。
住吉大社は、200年(仲哀天皇9年)、三韓征伐を行った神功皇后(じんぐうこうごう)が七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道)に帰還した際、神託により住吉三神を祀ったことに始まる。 遣隋使・遣唐使の守護神として崇敬され、多田源氏の祖・源満仲は、970年(天禄元年)、住吉大社に参籠し、神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)を本拠地としている。 1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝は、流鏑馬を奉納したと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oosaka/sumi...
住吉大社は、200年(仲哀天皇9年)、三韓征伐を行った神功皇后(じんぐうこうごう)が七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道)に帰還した際、神託により住吉三神を祀ったことに始まる。 遣隋使・遣唐使の守護神として崇敬され、多田源氏の祖・源満仲は、970年(天禄元年)、住吉大社に参籠し、神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)を本拠地としている。 1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝は、流鏑馬を奉納したと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oosaka/sumi...
義仲寺
源頼朝軍に敗れて粟津で最期を遂げた木曽義仲(源義仲)がここに葬られた寺。
義仲寺(ぎちゅうじ)は、天台宗系の単立寺院。 本尊は聖観音菩薩。 山号は朝日山。 寺名は、源頼朝軍に敗れて粟津で最期を遂げた木曽義仲(源義仲)がここに葬られたことに由来している。 創建年は不明だが、義仲の愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
義仲寺(ぎちゅうじ)は、天台宗系の単立寺院。 本尊は聖観音菩薩。 山号は朝日山。 寺名は、源頼朝軍に敗れて粟津で最期を遂げた木曽義仲(源義仲)がここに葬られたことに由来している。 創建年は不明だが、義仲の愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
三会寺
源頼朝が佐々木高綱に命じて建立させたのだという。
三会寺(さんねじ)は、高野山真言宗の寺院。 創建年は不明だが、一説によると、源頼朝が佐々木高綱に命じて建立させたのだという。 山号は瑞雲山。 本尊は弥勒菩薩。 三会寺の名は、釈迦の入滅から56億7000万年後に弥勒菩薩が現れて、竜華樹の下で悟りを開き、人々を救済するために三度にわたって説法するという龍華三会に由来しているのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/toriyama-sa...
三会寺(さんねじ)は、高野山真言宗の寺院。 創建年は不明だが、一説によると、源頼朝が佐々木高綱に命じて建立させたのだという。 山号は瑞雲山。 本尊は弥勒菩薩。 三会寺の名は、釈迦の入滅から56億7000万年後に弥勒菩薩が現れて、竜華樹の下で悟りを開き、人々を救済するために三度にわたって説法するという龍華三会に由来しているのだとか。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/toriyama-sa...
赤間神宮
源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」で亡くなった安徳天皇を祀る社。
赤間神宮は、源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」で亡くなった安徳天皇を祀る社。859年(貞観元年)に開かれた阿弥陀寺を始まりとし、1191年(建久2年)に後鳥羽天皇の勅命により御影堂が建立され、江戸時代までは安徳天皇御影堂と称され崇敬された。 明治の神仏分離によって阿弥陀寺が廃されて天皇社となり、1875年(明治8年)に赤間宮に改称、さらに1940年(昭和15年)、赤間神宮に改称。境内には平家一門の墓が建てられている。水天門は壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇が住んだという竜宮城をイメージした門。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/dannoura/ak...
赤間神宮は、源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」で亡くなった安徳天皇を祀る社。859年(貞観元年)に開かれた阿弥陀寺を始まりとし、1191年(建久2年)に後鳥羽天皇の勅命により御影堂が建立され、江戸時代までは安徳天皇御影堂と称され崇敬された。 明治の神仏分離によって阿弥陀寺が廃されて天皇社となり、1875年(明治8年)に赤間宮に改称、さらに1940年(昭和15年)、赤間神宮に改称。境内には平家一門の墓が建てられている。水天門は壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇が住んだという竜宮城をイメージした門。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/dannoura/ak...
八坂神社
京都三大祭の一つ「祇園祭」は八坂神社の例祭。
「祇園さん」と親しまれている祇園八坂神社。 平安以前の656年(斉明天皇2年)の創建と伝えられている。 もとは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたが、明治の神仏分離によって「八坂神社」と改められた。 現在の祭神は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
「祇園さん」と親しまれている祇園八坂神社。 平安以前の656年(斉明天皇2年)の創建と伝えられている。 もとは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたが、明治の神仏分離によって「八坂神社」と改められた。 現在の祭神は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
本蓮寺
源頼朝が再建したといわれ、父義朝の遺骨を受け取った場所ともいわれている。
1184年(元暦元年)11月、源頼朝により源立寿寺として再建されたのち、嘉元年間(1303年から1306年)に日秀が日蓮宗の寺とした。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/honrenji.ht...
1184年(元暦元年)11月、源頼朝により源立寿寺として再建されたのち、嘉元年間(1303年から1306年)に日秀が日蓮宗の寺とした。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/honrenji.ht...
佐助稲荷神社
源頼朝に挙兵を勧めたかくれ里の稲荷。
源頼朝がまだ伊豆蛭ヶ小島に配流中の身であったころ、「かくれ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、頼朝に挙兵を勧めたという。 のちに、鎌倉に武家政権を築き上げた頼朝は、「かくれ里」と呼ばれるこの地に祠を見つけ、御家人畠山重忠に命じて社殿を建立させた。 それが佐助稲荷神社の始まり。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page137sasu...
源頼朝がまだ伊豆蛭ヶ小島に配流中の身であったころ、「かくれ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、頼朝に挙兵を勧めたという。 のちに、鎌倉に武家政権を築き上げた頼朝は、「かくれ里」と呼ばれるこの地に祠を見つけ、御家人畠山重忠に命じて社殿を建立させた。 それが佐助稲荷神社の始まり。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page137sasu...