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- 8106件第一次世界大戦の後,アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」の意識が世界的に高まりました。そのなかで,在日朝鮮人留学生の間にも日本による支配からの民族独立をめざす動きが生まれてきます。 1919(大正8)年2月8日,在日本東京朝鮮YMCA(現,在日本韓国YMCA)の講堂で開催された「朝鮮留学生学友会総会」において,独立運動の中心メンバーが朝鮮独立の宣言書を読みあげ,満場一致でその宣言書が採択されました。 しかし,乱入してきた警察官によって中心メンバーのほとんどが検挙されてしまいます。 この事件は海外でも報道されて波紋を呼び,独立宣言書はソウルにも伝えられて,同年,朝鮮全土にわたって起こされる抗日独立運動(三・一独立運動)につながっていきました。 神田にある在日本韓国YMCAの2階には「2・8独立宣言記念資料室」が設けられていて,独立宣言書の写しや宣言書に署名した11名の留学生の写真など2・8独立宣言に関わる様々な資料が展示されています。
第一次世界大戦の後,アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」の意識が世界的に高まりました。そのなかで,在日朝鮮人留学生の間にも日本による支配からの民族独立をめざす動きが生まれてきます。 1919(大正8)年2月8日,在日本東京朝鮮YMCA(現,在日本韓国YMCA)の講堂で開催された「朝鮮留学生学友会総会」において,独立運動の中心メンバーが朝鮮独立の宣言書を読みあげ,満場一致でその宣言書が採択されました。 しかし,乱入してきた警察官によって中心メンバーのほとんどが検挙されてしまいます。 この事件は海外でも報道されて波紋を呼び,独立宣言書はソウルにも伝えられて,同年,朝鮮全土にわたって起こされる抗日独立運動(三・一独立運動)につながっていきました。 神田にある在日本韓国YMCAの2階には「2・8独立宣言記念資料室」が設けられていて,独立宣言書の写しや宣言書に署名した11名の留学生の写真など2・8独立宣言に関わる様々な資料が展示されています。
アーネスト・フェノロサは「日本美術界の恩人」とされています。フェノロサは,1878(明治11)年に25歳で来日し,東京帝国大学教授として哲学や経済学などを講義しました。 当時の日本には,政府の進める欧化政策のもと西洋文化が重んじられる一方,日本古来の文化が軽視される風潮がありました。東洋美術にも造詣が深かったフェノロサは,日本美術が軽く扱われていることに衝撃を受け,文部省の美術取調委員として京都・奈良の古美術の調査・研究を進めます。その際,常に通訳として同行したのが当時学生だった岡倉覚三(天心)でした。法隆寺夢殿の厨子を開扉し,絶対秘仏とされていた救世観音像を包んでいた布を解いた逸話は有名です。 日本美術の復興を唱えたフェノロサは,岡倉天心の東京美術学校(現,東京芸術大学美術学部)の設立に協力し,1889(明治22)年に開校されると翌年,副校長に就任しました。フェノロサは同年に帰国しますが,それからも生涯を通じて海外への日本美術の紹介に努めています。 記念碑は,1920(大正9)年,フェノロサの13回忌にその門人たちが建てたもので,芸大美術館の新築に伴い美術学部前の庭から現在地に移されました。
アーネスト・フェノロサは「日本美術界の恩人」とされています。フェノロサは,1878(明治11)年に25歳で来日し,東京帝国大学教授として哲学や経済学などを講義しました。 当時の日本には,政府の進める欧化政策のもと西洋文化が重んじられる一方,日本古来の文化が軽視される風潮がありました。東洋美術にも造詣が深かったフェノロサは,日本美術が軽く扱われていることに衝撃を受け,文部省の美術取調委員として京都・奈良の古美術の調査・研究を進めます。その際,常に通訳として同行したのが当時学生だった岡倉覚三(天心)でした。法隆寺夢殿の厨子を開扉し,絶対秘仏とされていた救世観音像を包んでいた布を解いた逸話は有名です。 日本美術の復興を唱えたフェノロサは,岡倉天心の東京美術学校(現,東京芸術大学美術学部)の設立に協力し,1889(明治22)年に開校されると翌年,副校長に就任しました。フェノロサは同年に帰国しますが,それからも生涯を通じて海外への日本美術の紹介に努めています。 記念碑は,1920(大正9)年,フェノロサの13回忌にその門人たちが建てたもので,芸大美術館の新築に伴い美術学部前の庭から現在地に移されました。
オランダに生まれたグイド・フルベッキは,アメリカのプロテスタント(オランダ改革派教会)宣教師として布教を目的に,1859(安政6)年来日しました。長崎で布教のかたわら,幕府が設立した済美館(さいびかん)と佐賀藩が設けた致遠館で英語や政治・経済などを教えましたが,その門下生には大隈重信や副島種臣,伊藤博文らがいます。 明治維新後は政府の要請を受けて上京し,開成学校(のち大学南校,東京大学の前身の一つ)の設立に協力,また政府顧問として政府使節団の米欧派遣(岩倉使節団)や近代的学校制度の樹立などを進言するなど,政府の進める近代化政策に大きく寄与しました。その後は,東京一致神学校(明治学院の前身)や学習院の講師を経て,1886(明治19)年の明治学院創設に理事として関わり,それからも明治学院の神学部教授や理事会議長などを歴任しています。 明治学院記念館2階の歴史資料館(月・金曜日の9:00~16:00開館)でフルベッキについて紹介されています。
オランダに生まれたグイド・フルベッキは,アメリカのプロテスタント(オランダ改革派教会)宣教師として布教を目的に,1859(安政6)年来日しました。長崎で布教のかたわら,幕府が設立した済美館(さいびかん)と佐賀藩が設けた致遠館で英語や政治・経済などを教えましたが,その門下生には大隈重信や副島種臣,伊藤博文らがいます。 明治維新後は政府の要請を受けて上京し,開成学校(のち大学南校,東京大学の前身の一つ)の設立に協力,また政府顧問として政府使節団の米欧派遣(岩倉使節団)や近代的学校制度の樹立などを進言するなど,政府の進める近代化政策に大きく寄与しました。その後は,東京一致神学校(明治学院の前身)や学習院の講師を経て,1886(明治19)年の明治学院創設に理事として関わり,それからも明治学院の神学部教授や理事会議長などを歴任しています。 明治学院記念館2階の歴史資料館(月・金曜日の9:00~16:00開館)でフルベッキについて紹介されています。
目黒区立駒場野公園内に「ケルネル田圃」と呼ばれる水田があります。ケルネルとは, 1881(明治14)年に政府の招きに応じてドイツから来日した農芸化学者オスカー・ケルネルのことです。 来日の目的は1878(明治11)年に開校した駒場農学校の教師を務めることでした。当時,殖産興業政策を進めていた明治政府は,日本の伝統的な農法に先進国の農業技術を導入しようと外国人教師を招き,その技術指導に当たらせました。アメリカから招かれたクラーク博士は,札幌農学校でアメリカ式の大農法を教えたのに対し,ケルネルは駒場農学校,その後身の東京農林学校,東京帝国大学農科大学でヨーロッパ式農法を教授しました。 1892(明治25)年に帰国するまでの間,ケルネルは,とくに水田土壤の研究と稲作の肥料の研究に力を注いで大きな成果を収め,近代日本の農学の基礎づくりに貢献しました。「ケルネル田圃」はその実験・研究に利用された初めての試験田で,日本農学発祥記念の地とされています。
目黒区立駒場野公園内に「ケルネル田圃」と呼ばれる水田があります。ケルネルとは, 1881(明治14)年に政府の招きに応じてドイツから来日した農芸化学者オスカー・ケルネルのことです。 来日の目的は1878(明治11)年に開校した駒場農学校の教師を務めることでした。当時,殖産興業政策を進めていた明治政府は,日本の伝統的な農法に先進国の農業技術を導入しようと外国人教師を招き,その技術指導に当たらせました。アメリカから招かれたクラーク博士は,札幌農学校でアメリカ式の大農法を教えたのに対し,ケルネルは駒場農学校,その後身の東京農林学校,東京帝国大学農科大学でヨーロッパ式農法を教授しました。 1892(明治25)年に帰国するまでの間,ケルネルは,とくに水田土壤の研究と稲作の肥料の研究に力を注いで大きな成果を収め,近代日本の農学の基礎づくりに貢献しました。「ケルネル田圃」はその実験・研究に利用された初めての試験田で,日本農学発祥記念の地とされています。
「近代窯業の父」といわれるゴットフリード・ワグネルは,ドイツの化学者で1868(慶應4)年に来日しましたが,その目的はアメリカ企業が長崎で始める石鹸製造の事業に参加することでした。 事業に失敗した後,佐賀藩に招かれ,有田焼に石炭窯を導入し,絵具としてのコバルト顔料の使用法を教えるなど,窯業技術の発展に努めました。その後上京し,大学南校,大学東校(いずれも東京大学の前身)で語学や物理・化学などを教えていましたが,1873(明治6)年,日本がウィーン万国博覧会に参加する際にはその御用掛を兼任し出品物の選択・製作の指導などにあたっています。 また,近代的な科学・技術・モラルを身につけた学生を育てる専門学校を設立すべしとのワグネルの文部省への進言が実り,1881(明治14)年には東京職工学校(東京工業大学の前身)が設置されました。ワグネル自身も1884(明治17)年からこの学校の教師に就任して日本で初めて「窯業学」の講座を開き,1886(明治19)年には「陶器瑠璃工科」を設置し,その主任官となってこれも日本初となる陶磁器やガラスの専門教育を進め日本の窯業技術の近代化に尽力しました。
「近代窯業の父」といわれるゴットフリード・ワグネルは,ドイツの化学者で1868(慶應4)年に来日しましたが,その目的はアメリカ企業が長崎で始める石鹸製造の事業に参加することでした。 事業に失敗した後,佐賀藩に招かれ,有田焼に石炭窯を導入し,絵具としてのコバルト顔料の使用法を教えるなど,窯業技術の発展に努めました。その後上京し,大学南校,大学東校(いずれも東京大学の前身)で語学や物理・化学などを教えていましたが,1873(明治6)年,日本がウィーン万国博覧会に参加する際にはその御用掛を兼任し出品物の選択・製作の指導などにあたっています。 また,近代的な科学・技術・モラルを身につけた学生を育てる専門学校を設立すべしとのワグネルの文部省への進言が実り,1881(明治14)年には東京職工学校(東京工業大学の前身)が設置されました。ワグネル自身も1884(明治17)年からこの学校の教師に就任して日本で初めて「窯業学」の講座を開き,1886(明治19)年には「陶器瑠璃工科」を設置し,その主任官となってこれも日本初となる陶磁器やガラスの専門教育を進め日本の窯業技術の近代化に尽力しました。
「日本近代紙幣の父」とも呼ばれるエドアルド・キヨッソーネは,イタリア生まれの版画家・画家です。来日したのは1875年(明治8)年,政府の大蔵省紙幣寮の招きによるものでした。 当時,政府は「明治通宝」という政府紙幣の印刷をドイツの印刷会社に依頼していましたが,経費と安全性を考慮し紙幣の国産化を目指していました。キヨッソーネは,そのための印刷技術の指導者として招かれたのです。 キヨッソーネの家系は代々製版・印刷業を営んでいて,彼自身もパリ万国博覧会に出品した銅版画が銀賞を受賞するなど,優れた銅版画の彫刻技術を持っていました。また,ドイツで「明治通宝」の製造にも関わった経験がありました。 来日後は,紙幣寮(のち紙幣局)で紙幣や切手などの原版彫刻を担当するとともに後進の育成にも力を尽くし,本格的な印刷技術を日本に根付かせました。キヨッソーネが版をつくった郵便切手や印紙,証券などは500点を超えるといわれます。 彼が当時最高の技術を駆使して制作した改造紙幣は,1881(明治14)年に発行され1899(明治32)年まで使用されています。彼が制作した西郷隆盛や明治天皇の肖像版画も広く知られています。
「日本近代紙幣の父」とも呼ばれるエドアルド・キヨッソーネは,イタリア生まれの版画家・画家です。来日したのは1875年(明治8)年,政府の大蔵省紙幣寮の招きによるものでした。 当時,政府は「明治通宝」という政府紙幣の印刷をドイツの印刷会社に依頼していましたが,経費と安全性を考慮し紙幣の国産化を目指していました。キヨッソーネは,そのための印刷技術の指導者として招かれたのです。 キヨッソーネの家系は代々製版・印刷業を営んでいて,彼自身もパリ万国博覧会に出品した銅版画が銀賞を受賞するなど,優れた銅版画の彫刻技術を持っていました。また,ドイツで「明治通宝」の製造にも関わった経験がありました。 来日後は,紙幣寮(のち紙幣局)で紙幣や切手などの原版彫刻を担当するとともに後進の育成にも力を尽くし,本格的な印刷技術を日本に根付かせました。キヨッソーネが版をつくった郵便切手や印紙,証券などは500点を超えるといわれます。 彼が当時最高の技術を駆使して制作した改造紙幣は,1881(明治14)年に発行され1899(明治32)年まで使用されています。彼が制作した西郷隆盛や明治天皇の肖像版画も広く知られています。
銀座から築地一帯を焼き尽くした1872(明治5)年の銀座大火を契機に,政府は,銀座一丁目から八丁目に至るすべての家屋を煉瓦建築とする不燃化都市計画を策定しました。その設計・監督を任されたのが,アイルランド出身の建築家・土木技師トーマス・ジェームス・ウォートルスです。 ウォートルスの詳細な経歴はわかりませんが,1864(元治元)年頃に香港から鹿児島に渡り,薩摩の紡績所などの建設に関わったといいます。その後,大蔵省貨幣司に雇用され,1871 (明治4)年に落成する大阪造幣寮とその応接所(現,泉布観)の設計・建設にあたりました。その土木建築全般にわたる技術力を認められたウォートルスは,政府から「銀座煉瓦街」の設計を任されることになります。 彼は,家屋の設計にとどまらず道路をはじめ街区全体の設計・建設に当たりました。また,使用する煉瓦を製造するため東京の小菅に最新式のホフマン窯(輪窯)も建設しています。 銀座煉瓦街は関東大震災で壊滅してしまいましたが,銀座八丁目の旧金春屋敷地内で発掘された当時の煉瓦が,「煉瓦遺構の碑」に使われています。
銀座から築地一帯を焼き尽くした1872(明治5)年の銀座大火を契機に,政府は,銀座一丁目から八丁目に至るすべての家屋を煉瓦建築とする不燃化都市計画を策定しました。その設計・監督を任されたのが,アイルランド出身の建築家・土木技師トーマス・ジェームス・ウォートルスです。 ウォートルスの詳細な経歴はわかりませんが,1864(元治元)年頃に香港から鹿児島に渡り,薩摩の紡績所などの建設に関わったといいます。その後,大蔵省貨幣司に雇用され,1871 (明治4)年に落成する大阪造幣寮とその応接所(現,泉布観)の設計・建設にあたりました。その土木建築全般にわたる技術力を認められたウォートルスは,政府から「銀座煉瓦街」の設計を任されることになります。 彼は,家屋の設計にとどまらず道路をはじめ街区全体の設計・建設に当たりました。また,使用する煉瓦を製造するため東京の小菅に最新式のホフマン窯(輪窯)も建設しています。 銀座煉瓦街は関東大震災で壊滅してしまいましたが,銀座八丁目の旧金春屋敷地内で発掘された当時の煉瓦が,「煉瓦遺構の碑」に使われています。
日本における地震学の草分けとなったイギリス人ジョン・ミルンは,鉱山技師であり地質学者・地震学者です。 ミルンは,工部省工学寮(のちに工部大学校を経て東京帝国大学工科大学)に教師として招かれ,1876(明治9)年に来日しました。鉱山学や地質学の指導に当たる傍ら地震や火山活動に関心を深め,函館の火山や浅間山,富士山など全国50もの火山に登って観測を行い,火山活動は地震の原因では無いとの結論を得ています。また人類学・考古学にも造詣が深く,大森貝塚の発掘で知られるモースとともに函館で貝塚の発掘調査を行っています。 1880(明治13)年には,その年に起きた横浜地震を契機に世界初の地震学会となる「日本地震学会」を設立して地震の観測と研究を進め,大森房吉など日本人地震学者の育成にも尽力しました。1891(明治24)年の濃尾地震では被害調査を実施し,建造物の耐震化を提案するなど防災の面でも業績をあげています。 1894(明治27)年に開発した「ミルン水平振子地震計」は,地震動のうちの水平動を記録するもので,ミルンはこれを各地に配置し広域にわたる地震観測網を構築しようとしました。
日本における地震学の草分けとなったイギリス人ジョン・ミルンは,鉱山技師であり地質学者・地震学者です。 ミルンは,工部省工学寮(のちに工部大学校を経て東京帝国大学工科大学)に教師として招かれ,1876(明治9)年に来日しました。鉱山学や地質学の指導に当たる傍ら地震や火山活動に関心を深め,函館の火山や浅間山,富士山など全国50もの火山に登って観測を行い,火山活動は地震の原因では無いとの結論を得ています。また人類学・考古学にも造詣が深く,大森貝塚の発掘で知られるモースとともに函館で貝塚の発掘調査を行っています。 1880(明治13)年には,その年に起きた横浜地震を契機に世界初の地震学会となる「日本地震学会」を設立して地震の観測と研究を進め,大森房吉など日本人地震学者の育成にも尽力しました。1891(明治24)年の濃尾地震では被害調査を実施し,建造物の耐震化を提案するなど防災の面でも業績をあげています。 1894(明治27)年に開発した「ミルン水平振子地震計」は,地震動のうちの水平動を記録するもので,ミルンはこれを各地に配置し広域にわたる地震観測網を構築しようとしました。
東京医学校(東京大学医学部の前身)の教師として招かれたドイツ人の内科医師エルヴィン・フォン・ベルツは,1876(明治9)年に来日しました。 ベルツは,生理学をはじめ内科学・病理学・産婦人科学・精神医学などを幅広く担当して医学生に進んだ医療技術を伝達するとともに,当時の日本に多かった寄生虫病や急性・慢性伝染病,脚気などの研究も行いました。さらに草津温泉に注目して温泉治療の医学的有効性を見いだし,世界に紹介したことでも知られています。また箱根の旅館で働いていた女性の手が荒れているのをみて,「ベルツ水」というひびやあかぎれに効く化粧水をつくったことも有名です。医師としても,伊藤博文や井上馨ら政府高官を診察し,1902(明治35)年からは天皇・皇太子の主治医を務めるなど厚い信頼を得ていました。 ベルツは日本の近代医学の基礎を築いただけでなく,日本の美術・工芸品を収集し,弓道・剣道・柔道をたしなむなど日本文化の保護と世界への伝達にも貢献しています。 東京大学医学部附属病院の向かいには2人のドイツ人の胸像がありますが,左側がベルツで右側はベルツとほぼ同時期に外科を担当していたユリウス・スクリバの像です。
東京医学校(東京大学医学部の前身)の教師として招かれたドイツ人の内科医師エルヴィン・フォン・ベルツは,1876(明治9)年に来日しました。 ベルツは,生理学をはじめ内科学・病理学・産婦人科学・精神医学などを幅広く担当して医学生に進んだ医療技術を伝達するとともに,当時の日本に多かった寄生虫病や急性・慢性伝染病,脚気などの研究も行いました。さらに草津温泉に注目して温泉治療の医学的有効性を見いだし,世界に紹介したことでも知られています。また箱根の旅館で働いていた女性の手が荒れているのをみて,「ベルツ水」というひびやあかぎれに効く化粧水をつくったことも有名です。医師としても,伊藤博文や井上馨ら政府高官を診察し,1902(明治35)年からは天皇・皇太子の主治医を務めるなど厚い信頼を得ていました。 ベルツは日本の近代医学の基礎を築いただけでなく,日本の美術・工芸品を収集し,弓道・剣道・柔道をたしなむなど日本文化の保護と世界への伝達にも貢献しています。 東京大学医学部附属病院の向かいには2人のドイツ人の胸像がありますが,左側がベルツで右側はベルツとほぼ同時期に外科を担当していたユリウス・スクリバの像です。
鹿鳴館の設計者として知られるイギリス人建築家ジョサイア・コンドルは,工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教授として招かれ,1877(明治10)年,25歳のときに来日しました。前年には王立建築学会の若手登竜門とされるソーン賞設計コンペで優勝しています。 コンドルは,ロンドン大学で建築学を学んだだけでなく美術学校でも学んでいたので,設計・製図や構造力学,デッサンなど幅広く本格的な建築教育を行いました。彼の弟子には,東京駅舎を設計した辰野金吾や赤坂の迎賓館を設計した片山東熊など,そうそうたる建築家たちがいます。 またコンドルは,工部省営繕局顧問として旧帝室博物館本館(東京国立博物館の前身)や鹿鳴館など政府系の建築物を多く設計しました。彼の設計には,単純な西洋建築ではなくその土地の文化が採り入れられていることが注目されます。官職を離れた後も,神田のニコライ堂や丸ノ内の三菱煉瓦街,池之端の岩崎久彌本邸など多くの建築物の設計を手がけました。 彼は日本文化にも傾倒し,1881(明治14)年には日本画家の河鍋暁斎(きょうさい)に師事し,暁英の雅号をもらって多くの作品を制作しています。
鹿鳴館の設計者として知られるイギリス人建築家ジョサイア・コンドルは,工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教授として招かれ,1877(明治10)年,25歳のときに来日しました。前年には王立建築学会の若手登竜門とされるソーン賞設計コンペで優勝しています。 コンドルは,ロンドン大学で建築学を学んだだけでなく美術学校でも学んでいたので,設計・製図や構造力学,デッサンなど幅広く本格的な建築教育を行いました。彼の弟子には,東京駅舎を設計した辰野金吾や赤坂の迎賓館を設計した片山東熊など,そうそうたる建築家たちがいます。 またコンドルは,工部省営繕局顧問として旧帝室博物館本館(東京国立博物館の前身)や鹿鳴館など政府系の建築物を多く設計しました。彼の設計には,単純な西洋建築ではなくその土地の文化が採り入れられていることが注目されます。官職を離れた後も,神田のニコライ堂や丸ノ内の三菱煉瓦街,池之端の岩崎久彌本邸など多くの建築物の設計を手がけました。 彼は日本文化にも傾倒し,1881(明治14)年には日本画家の河鍋暁斎(きょうさい)に師事し,暁英の雅号をもらって多くの作品を制作しています。
お茶の水にあるニコライ堂は,正式には東京ハリストス正教会教団「東京復活大聖堂」と言います。ニコライ堂の名は,日本に正教を伝道するため1861(文久元)年に来日したロシア人宣教師ニコライ・カサートキンに由来しています。 ニコライは,最初の伝道地・函館から1972(明治5)年に上京し,伝道の新たな拠点として現在地に大聖堂の建設を進めました。着工は1884(明治17)年,原設計はロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ,そして実施設計にあたったのが当時個人の設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルでした。 コンドルは,原設計にあった5つのドームからなる様式を周りと調和するように変更し,1891(明治24)年に竣工した大聖堂は,柱のない大きなドームを特徴とする本格的なビザンティン様式の建築となりました。この大聖堂は関東大震災で大きな被害を受けたため,1927(昭和2)年から,明治生命館などの設計で知られる岡田信一郎の設計により補強と修復が行われ,1929(昭和4)年に現在の姿になりました。鐘楼は低くなり,中央のドームの形が変わるなど外観が一部変更されましたがその美しさは変わっていません。
お茶の水にあるニコライ堂は,正式には東京ハリストス正教会教団「東京復活大聖堂」と言います。ニコライ堂の名は,日本に正教を伝道するため1861(文久元)年に来日したロシア人宣教師ニコライ・カサートキンに由来しています。 ニコライは,最初の伝道地・函館から1972(明治5)年に上京し,伝道の新たな拠点として現在地に大聖堂の建設を進めました。着工は1884(明治17)年,原設計はロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ,そして実施設計にあたったのが当時個人の設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルでした。 コンドルは,原設計にあった5つのドームからなる様式を周りと調和するように変更し,1891(明治24)年に竣工した大聖堂は,柱のない大きなドームを特徴とする本格的なビザンティン様式の建築となりました。この大聖堂は関東大震災で大きな被害を受けたため,1927(昭和2)年から,明治生命館などの設計で知られる岡田信一郎の設計により補強と修復が行われ,1929(昭和4)年に現在の姿になりました。鐘楼は低くなり,中央のドームの形が変わるなど外観が一部変更されましたがその美しさは変わっていません。
旧岩崎邸庭園には3棟の建物が残されています。そのうち洋館と撞球室(ビリヤード室)はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計したものです。 工部大学校の教授として来日したコンドルは,官を辞した後に設計事務所を開き,三菱財閥の設計顧問も兼ねて岩崎家関係の建物を多く手掛けました。この洋館は,三菱の3代目当主・岩崎久彌の本邸として建設され1896(明治29)年に竣工しました。 地下室のある木造2階建の建物や館内の装飾は,17 世紀初頭のイギリスで発展した直線的で重厚感のあるジャコビアン様式が基調とされていますが,イスラム風のモチーフなど複数の様式が随所にとり入れられていて折衷を得意としたコンドルらしさが窺われます。列柱が特徴的なベランダは,高温多湿の日本の気候を熟知していたコンドルが,直射日光を遮るのに必須として多くの邸宅建築に採用した代表的な例です。別棟として建てられた撞球室は,洋館と地下通路でつながっていますが,洋館より少しあとに完成したとされています。木造平屋の建物は,刻みの入った柱や軒を深く差し出した屋根など,当時としては珍しいスイスの山小屋風の造りになっています。
旧岩崎邸庭園には3棟の建物が残されています。そのうち洋館と撞球室(ビリヤード室)はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計したものです。 工部大学校の教授として来日したコンドルは,官を辞した後に設計事務所を開き,三菱財閥の設計顧問も兼ねて岩崎家関係の建物を多く手掛けました。この洋館は,三菱の3代目当主・岩崎久彌の本邸として建設され1896(明治29)年に竣工しました。 地下室のある木造2階建の建物や館内の装飾は,17 世紀初頭のイギリスで発展した直線的で重厚感のあるジャコビアン様式が基調とされていますが,イスラム風のモチーフなど複数の様式が随所にとり入れられていて折衷を得意としたコンドルらしさが窺われます。列柱が特徴的なベランダは,高温多湿の日本の気候を熟知していたコンドルが,直射日光を遮るのに必須として多くの邸宅建築に採用した代表的な例です。別棟として建てられた撞球室は,洋館と地下通路でつながっていますが,洋館より少しあとに完成したとされています。木造平屋の建物は,刻みの入った柱や軒を深く差し出した屋根など,当時としては珍しいスイスの山小屋風の造りになっています。
北区西ヶ原にある旧古河庭園の敷地は,もとは伊藤博文内閣の外相として活躍した陸奥宗光(むつむねみつ)の邸宅があった場所でした。その後,財閥古河家の所有となり,ここに3代目当主・古河虎之助の本邸が建てられました。 洋館と西洋庭園はジョサイア・コンドルの設計で1917(大正6)年に完成し,西洋庭園に続く池泉回遊式の日本庭園は京都の庭師・小川治兵衛が作庭して1919(大正8)年に完成したもので,いずれも竣工当時の姿が保たれています。 2階建・地下1階の洋館は,主構造は煉瓦造りですが,外壁には真鶴産の紫に近い赤い色の新小松石(安山岩)が使われていて重厚な外観を示しています。内部は,1階がすべて洋室であるのに対して2階は寝室を除き伝統的な和室という,和洋を共存・調和させるコンドルならではのプランになっています。 西洋庭園は左右対称,幾何学模様の刈込があるフランス式庭園と石の欄干や石段など立体的なイタリア式庭園の技法を合わせたつくりになっていて,現在は200本ものバラが植えられています。 この洋館と西洋庭園が竣工したのはコンドルが亡くなる3年前のことで,最晩年の作品となりました。
北区西ヶ原にある旧古河庭園の敷地は,もとは伊藤博文内閣の外相として活躍した陸奥宗光(むつむねみつ)の邸宅があった場所でした。その後,財閥古河家の所有となり,ここに3代目当主・古河虎之助の本邸が建てられました。 洋館と西洋庭園はジョサイア・コンドルの設計で1917(大正6)年に完成し,西洋庭園に続く池泉回遊式の日本庭園は京都の庭師・小川治兵衛が作庭して1919(大正8)年に完成したもので,いずれも竣工当時の姿が保たれています。 2階建・地下1階の洋館は,主構造は煉瓦造りですが,外壁には真鶴産の紫に近い赤い色の新小松石(安山岩)が使われていて重厚な外観を示しています。内部は,1階がすべて洋室であるのに対して2階は寝室を除き伝統的な和室という,和洋を共存・調和させるコンドルならではのプランになっています。 西洋庭園は左右対称,幾何学模様の刈込があるフランス式庭園と石の欄干や石段など立体的なイタリア式庭園の技法を合わせたつくりになっていて,現在は200本ものバラが植えられています。 この洋館と西洋庭園が竣工したのはコンドルが亡くなる3年前のことで,最晩年の作品となりました。
2010(平成22)年に竣工した三菱一号館美術館は,1968(昭和43)年に解体された「三菱一号館」の原設計に基づいて忠実に復元されたものです。 三菱一号館は,ジョサイア・コンドルによって設計され,1894(明治27)年に日本最初のオフィスビルとして竣工しました。政府から丸の内一帯の払い下げを受けた三菱は,そこにロンドンの金融街のようなオフィス街を建設する計画をたてました。三菱財閥の3代目・岩崎久彌がその第一号として建てたのが三菱一号館です。 総赤煉瓦造り,地上3階・地下1階からなる一号館は,尖塔式屋根が連なる凹凸の多い構成や白い窓枠など,19世紀後半のイギリスで流行したクイーン・アン様式を用いて建設されました。またコンドルは,地震の多い日本の状況を考慮し,地中に埋めた9000本以上の松杭で建物を支えるといった耐震構造を採り入れています。この構造もあって,一号館は関東大震災にも耐えることができました。 三菱一号館を皮切りに丸の内地区には赤煉瓦造りのオフィスビルが続々と建設され,ロンドンの街並みに例えられて「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれるようになります。この街並みもコンドルが設計しました。
2010(平成22)年に竣工した三菱一号館美術館は,1968(昭和43)年に解体された「三菱一号館」の原設計に基づいて忠実に復元されたものです。 三菱一号館は,ジョサイア・コンドルによって設計され,1894(明治27)年に日本最初のオフィスビルとして竣工しました。政府から丸の内一帯の払い下げを受けた三菱は,そこにロンドンの金融街のようなオフィス街を建設する計画をたてました。三菱財閥の3代目・岩崎久彌がその第一号として建てたのが三菱一号館です。 総赤煉瓦造り,地上3階・地下1階からなる一号館は,尖塔式屋根が連なる凹凸の多い構成や白い窓枠など,19世紀後半のイギリスで流行したクイーン・アン様式を用いて建設されました。またコンドルは,地震の多い日本の状況を考慮し,地中に埋めた9000本以上の松杭で建物を支えるといった耐震構造を採り入れています。この構造もあって,一号館は関東大震災にも耐えることができました。 三菱一号館を皮切りに丸の内地区には赤煉瓦造りのオフィスビルが続々と建設され,ロンドンの街並みに例えられて「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれるようになります。この街並みもコンドルが設計しました。
日本銀行本店本館は,辰野金吾の設計により江戸時代の金座があった現在地に,1896(明治29) 年に竣工しました。 辰野金吾は,工部大学校造家学科(東京大学工学部の前身)の第一期生としてジョサイア・コンドルに学び,主席で卒業後,ヨーロッパに渡ってイギリスやフランス,イタリアでさらに深く建築を学びました。帰国後はコンドルの後任として工部大学校の教授に就任しています。 辰野が帰国後最初に設計したのが日本銀行本店本館でした。地上3階,地下1階からなる本館は,中央にドームを据え,正面と左右両翼に列柱を配置するなど装飾性の強いネオ・バロック様式の建築ですが,左右対称のかたちや壁面のデザインなどにルネッサンス様式も認められます。また総石造りという当初の計画を変更し,1階部分のみを石造り,2~3階部分を煉瓦造りとして,外側に花崗岩を貼ることで上層部を軽量化し高い耐震性を実現しました。 館内には,日本で2番目というエレベーターや空調設備,水洗トイレなど最新の設備が採り入れられています。 関東大震災や東京大空襲でも建物自体に大きな被害はなく,ほとんど竣工当時の姿のまま現在に残されています。
日本銀行本店本館は,辰野金吾の設計により江戸時代の金座があった現在地に,1896(明治29) 年に竣工しました。 辰野金吾は,工部大学校造家学科(東京大学工学部の前身)の第一期生としてジョサイア・コンドルに学び,主席で卒業後,ヨーロッパに渡ってイギリスやフランス,イタリアでさらに深く建築を学びました。帰国後はコンドルの後任として工部大学校の教授に就任しています。 辰野が帰国後最初に設計したのが日本銀行本店本館でした。地上3階,地下1階からなる本館は,中央にドームを据え,正面と左右両翼に列柱を配置するなど装飾性の強いネオ・バロック様式の建築ですが,左右対称のかたちや壁面のデザインなどにルネッサンス様式も認められます。また総石造りという当初の計画を変更し,1階部分のみを石造り,2~3階部分を煉瓦造りとして,外側に花崗岩を貼ることで上層部を軽量化し高い耐震性を実現しました。 館内には,日本で2番目というエレベーターや空調設備,水洗トイレなど最新の設備が採り入れられています。 関東大震災や東京大空襲でも建物自体に大きな被害はなく,ほとんど竣工当時の姿のまま現在に残されています。
日本の電信事業は,1869(明治2)年に横浜裁判所と東京築地の運上所(現在の税関)に設けられた傳信機役所(東京伝信局)との間で始まりました。 契機となったのは,前年,外国官(現在の外務省)に提出された寺島宗則(のちの外務卿)の建議書です。彼は日本の電信政策を推進したことから「電信の父」と呼ばれています。 電信の架設工事は,イギリス人電信技師G・M・ギルバートの指導の下に進められました。海外貿易の一大拠点だった横浜と東京の運上所が最初に電信で結ばれたのは,輸出入品の関税に関わるトラブルに迅速に対処するためだったと考えられます。当時使われた電信機は,幕府がすでに購入していた通信内容をカナ文字を使ってやり取りするフランス製のブレゲ指字電信機でした。これは,1872(明治5)年にはモールス方式電信機に変更されています。 なお傳信機役所は,碑が建てられている所から少し離れた料亭「治作」のある場所にありました。またブレゲ指字電信機の実物は,郵政博物館(墨田区押上1-1-2東京スカイツリータウン・ソラマチ9F)で展示されています。
日本の電信事業は,1869(明治2)年に横浜裁判所と東京築地の運上所(現在の税関)に設けられた傳信機役所(東京伝信局)との間で始まりました。 契機となったのは,前年,外国官(現在の外務省)に提出された寺島宗則(のちの外務卿)の建議書です。彼は日本の電信政策を推進したことから「電信の父」と呼ばれています。 電信の架設工事は,イギリス人電信技師G・M・ギルバートの指導の下に進められました。海外貿易の一大拠点だった横浜と東京の運上所が最初に電信で結ばれたのは,輸出入品の関税に関わるトラブルに迅速に対処するためだったと考えられます。当時使われた電信機は,幕府がすでに購入していた通信内容をカナ文字を使ってやり取りするフランス製のブレゲ指字電信機でした。これは,1872(明治5)年にはモールス方式電信機に変更されています。 なお傳信機役所は,碑が建てられている所から少し離れた料亭「治作」のある場所にありました。またブレゲ指字電信機の実物は,郵政博物館(墨田区押上1-1-2東京スカイツリータウン・ソラマチ9F)で展示されています。
1871(明治4)年に東京と大阪の間で官営の郵便事業が開始されました。これが日本の近代的郵便制度の始まりとされています。 創設したのは,1円切手の図柄の人物として知られる前島密(ひそか)です。彼は,1870(明治3)年に駅逓権正(えきていごんのかみ)に就任すると郵便制度調査のためイギリスに渡り,翌年,帰国後すぐに近代的な郵便制度の創設に着手しました。「郵便」という言葉をはじめ「郵便切手」,「葉書」などの用語は彼が選び出したものです。 飛脚制度に代わって設けられた郵便制度は,国による管理のもと全国一律の料金で文書を届けるという画期的なシステムでした。郵便制度が開始された時,東京には通信・郵便事務を統括する中央機関として駅逓司(えきていし)が置かれ,現在の郵便局にあたる郵便役所が東京・京都・大阪の3都市に,それらを結ぶ街道の宿駅には62ヶ所の郵便取扱所が設置されました。日本橋郵便局のあるあたりは,駅逓司と東京郵便役所が置かれたところです。 前島密の胸像は,1962(昭和37)に郵便創業90周年を記念して設けられました。
1871(明治4)年に東京と大阪の間で官営の郵便事業が開始されました。これが日本の近代的郵便制度の始まりとされています。 創設したのは,1円切手の図柄の人物として知られる前島密(ひそか)です。彼は,1870(明治3)年に駅逓権正(えきていごんのかみ)に就任すると郵便制度調査のためイギリスに渡り,翌年,帰国後すぐに近代的な郵便制度の創設に着手しました。「郵便」という言葉をはじめ「郵便切手」,「葉書」などの用語は彼が選び出したものです。 飛脚制度に代わって設けられた郵便制度は,国による管理のもと全国一律の料金で文書を届けるという画期的なシステムでした。郵便制度が開始された時,東京には通信・郵便事務を統括する中央機関として駅逓司(えきていし)が置かれ,現在の郵便局にあたる郵便役所が東京・京都・大阪の3都市に,それらを結ぶ街道の宿駅には62ヶ所の郵便取扱所が設置されました。日本橋郵便局のあるあたりは,駅逓司と東京郵便役所が置かれたところです。 前島密の胸像は,1962(昭和37)に郵便創業90周年を記念して設けられました。
日本のガス事業は,横浜の豪商・高島嘉右衛門が設立した横浜瓦斯会社によって1872(明治5)年,現在の横浜馬車道通りにガス灯がともされたことから始まります。東京ではその翌年,官営の帝都瓦斯事業として瓦斯製造所が芝の浜崎町に設立され,1874(明治7)年には銀座通りにガス灯がともされました。 この事業には,横浜でのガス事業で資材の調達などに尽力したフランス人技師アンリ・プレグランが招かれ,協力しています。東京のガス事業は,その後,東京府瓦斯局による経営を経て1885(明治18)年に渋沢栄一らが創立した東京瓦斯会社(現在の東京ガス株式会社)に引き継がれていきました。 碑は,東京ガスが創業50周年を迎えた1935(昭和10)に東京ガス本社の構内に建てたものですが,JR浜松町駅に近いその場所は,初めて瓦斯製造所が設けられたところでもあります。
日本のガス事業は,横浜の豪商・高島嘉右衛門が設立した横浜瓦斯会社によって1872(明治5)年,現在の横浜馬車道通りにガス灯がともされたことから始まります。東京ではその翌年,官営の帝都瓦斯事業として瓦斯製造所が芝の浜崎町に設立され,1874(明治7)年には銀座通りにガス灯がともされました。 この事業には,横浜でのガス事業で資材の調達などに尽力したフランス人技師アンリ・プレグランが招かれ,協力しています。東京のガス事業は,その後,東京府瓦斯局による経営を経て1885(明治18)年に渋沢栄一らが創立した東京瓦斯会社(現在の東京ガス株式会社)に引き継がれていきました。 碑は,東京ガスが創業50周年を迎えた1935(昭和10)に東京ガス本社の構内に建てたものですが,JR浜松町駅に近いその場所は,初めて瓦斯製造所が設けられたところでもあります。
明治維新直後は,通貨として江戸時代の金銀銭貨や藩札がそのまま通用し,政府自身も財政基盤が確立していなかったため紙幣である太政官札・民部省札を両建てで発行,民間の為替会社にも紙幣を発行させるなど,通貨制度は大混乱の状態でした。そのため政府は,1871(明治4)年に新貨条例を制定して貨幣の基本を金貨とする金本位制とし,円を単位とした10進法に基づく新たな通貨制度を樹立しました。 明治通宝は,流通している多様な紙幣を統一するため1872(明治5)年に発行された新紙幣です。ただし,当時の日本には偽造を防止するための高度な印刷技術がなかったため,紙幣の原版の製造をドイツ・フランクフルトの印刷業者に依頼しました。このことから明治通宝は「ゲルマン紙幣」とも呼ばれています。 西洋の印刷技術でつくられた色鮮やかな紙幣は,人々に歓迎されましたが変色しやすく,またニセ札が多く出回ったため1881(明治14)年には神功皇后の肖像が印刷された「改造紙幣」に代えられてしまいます。 明治通宝の実物は,日本銀行に併設された金融研究所貨幣博物館で見ることができます。
明治維新直後は,通貨として江戸時代の金銀銭貨や藩札がそのまま通用し,政府自身も財政基盤が確立していなかったため紙幣である太政官札・民部省札を両建てで発行,民間の為替会社にも紙幣を発行させるなど,通貨制度は大混乱の状態でした。そのため政府は,1871(明治4)年に新貨条例を制定して貨幣の基本を金貨とする金本位制とし,円を単位とした10進法に基づく新たな通貨制度を樹立しました。 明治通宝は,流通している多様な紙幣を統一するため1872(明治5)年に発行された新紙幣です。ただし,当時の日本には偽造を防止するための高度な印刷技術がなかったため,紙幣の原版の製造をドイツ・フランクフルトの印刷業者に依頼しました。このことから明治通宝は「ゲルマン紙幣」とも呼ばれています。 西洋の印刷技術でつくられた色鮮やかな紙幣は,人々に歓迎されましたが変色しやすく,またニセ札が多く出回ったため1881(明治14)年には神功皇后の肖像が印刷された「改造紙幣」に代えられてしまいます。 明治通宝の実物は,日本銀行に併設された金融研究所貨幣博物館で見ることができます。
銀座が西洋風の煉瓦街に変わる契機となったのは,1872(明治5)年に起きた「銀座大火」でした。 皇居和田倉門付近の建物から出た火は銀座一帯を焼き尽くし,さらに築地方面にまでおよんだといいます。当時の東京府知事・由利公正(ゆりきみまさ)は,焼け野原となった銀座全域を不燃の煉瓦造りの街にすることを企画・建策し,大蔵卿代理・井上馨を中心とする大蔵省建設局のもと官営事業として煉瓦街の建設が進められました。設計にあたったのはアイルランド生まれの建築家トーマス・ジェームス・ウォートルスです。 1873(明治6)年にまず「銀座通り」が完成,バルコニーがある洋風二階建ての煉瓦家屋は銀座一丁目から順に建設されていき1877(明治10)年には全域が完成しました。完成後,煉瓦家屋は民間に払い下げられましたが,高額なわりに煉瓦の質が悪く日本の気候にも合わなかったため湿気がひどく空き家だらけだったといわれます。 文明開化を象徴する煉瓦街でしたが,1923(大正12)年)の関東大震災でほとんどの建物が倒壊してしまいました。碑は1956(昭和31)年に建てられたもので,その下の路面は発掘された煉瓦で当時の「フランス積み」が再現されています。
銀座が西洋風の煉瓦街に変わる契機となったのは,1872(明治5)年に起きた「銀座大火」でした。 皇居和田倉門付近の建物から出た火は銀座一帯を焼き尽くし,さらに築地方面にまでおよんだといいます。当時の東京府知事・由利公正(ゆりきみまさ)は,焼け野原となった銀座全域を不燃の煉瓦造りの街にすることを企画・建策し,大蔵卿代理・井上馨を中心とする大蔵省建設局のもと官営事業として煉瓦街の建設が進められました。設計にあたったのはアイルランド生まれの建築家トーマス・ジェームス・ウォートルスです。 1873(明治6)年にまず「銀座通り」が完成,バルコニーがある洋風二階建ての煉瓦家屋は銀座一丁目から順に建設されていき1877(明治10)年には全域が完成しました。完成後,煉瓦家屋は民間に払い下げられましたが,高額なわりに煉瓦の質が悪く日本の気候にも合わなかったため湿気がひどく空き家だらけだったといわれます。 文明開化を象徴する煉瓦街でしたが,1923(大正12)年)の関東大震災でほとんどの建物が倒壊してしまいました。碑は1956(昭和31)年に建てられたもので,その下の路面は発掘された煉瓦で当時の「フランス積み」が再現されています。