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紹介スポット
- 8106件三井記念美術館に銅製で薄い短冊形をした墓誌が所蔵されています。 墓誌の銘文に刻まれた墓の主は船氏王後。銘文によれば,王後は,推古・舒明(じょめい)両天皇の朝廷に仕え,舒明天皇から冠位十二階のうちの第三位にあたる大仁(だいじん)の位を賜った官人とされています。641(敏達天皇13)年に死去し,のちに河内国の松岳山(現在の大阪府柏原市)の墓に妻と共に葬られました。 船氏の祖とされるのは百済から渡来した王辰爾(おうじんに)で,彼は欽明天皇の時,蘇我稲目の下で「船の賦(みつぎ)」=船の積荷に課される税を数えて記録し,その功で「船」という氏(うじ)の名を授けられたといいます。また,カラスの羽に記されていて誰も読むことができなかった高句麗の国書を解読したことで,敏達天皇近くに仕えるようになったともいわれる人物です。 墓誌には,王辰爾は船氏王後の祖父であると記されています。墓誌は,江戸時代に松岳山付近で出土したと伝えられ,表面に86文字,裏面に76文字,計162文字が刻まれています。年代が記された墓誌としては現在のところ最古で,国宝とされています。 なお,美術館は現在休館中ですが2022年5月には開館の予定です。
三井記念美術館に銅製で薄い短冊形をした墓誌が所蔵されています。 墓誌の銘文に刻まれた墓の主は船氏王後。銘文によれば,王後は,推古・舒明(じょめい)両天皇の朝廷に仕え,舒明天皇から冠位十二階のうちの第三位にあたる大仁(だいじん)の位を賜った官人とされています。641(敏達天皇13)年に死去し,のちに河内国の松岳山(現在の大阪府柏原市)の墓に妻と共に葬られました。 船氏の祖とされるのは百済から渡来した王辰爾(おうじんに)で,彼は欽明天皇の時,蘇我稲目の下で「船の賦(みつぎ)」=船の積荷に課される税を数えて記録し,その功で「船」という氏(うじ)の名を授けられたといいます。また,カラスの羽に記されていて誰も読むことができなかった高句麗の国書を解読したことで,敏達天皇近くに仕えるようになったともいわれる人物です。 墓誌には,王辰爾は船氏王後の祖父であると記されています。墓誌は,江戸時代に松岳山付近で出土したと伝えられ,表面に86文字,裏面に76文字,計162文字が刻まれています。年代が記された墓誌としては現在のところ最古で,国宝とされています。 なお,美術館は現在休館中ですが2022年5月には開館の予定です。
首都圏中央連絡自動車道日の出ICから5分ほど,曹洞宗寺院東光院(とうこういん)の本堂の裏手にある急な坂道と階段を登っていくと極彩色の建物が見えてきます。この韓国風の建物が,標高285mの妙見山山頂にある妙見宮七星殿(みょうけんぐうしちせいでん)で,6本の腕を持つ妙見菩薩が本尊としてお祀りされています。この七星殿は,飛鳥時代の685年,関東地方を開発せよという天武天皇の勅命を受けて武蔵国に移住した百済渡来の豪族が,大和斑鳩にある法輪寺の妙見菩薩を勧請し,この地に祀ったことに由来すると伝えられています。妙見菩薩は,北極星・北斗七星が神格化された妙見神が仏教と一体化して祀られたもので,その信仰は,百済の聖明王(せいめいおう=欽明天皇の朝廷に仏教を伝えた百済の王)の第三王子琳聖(りんしょう)太子が,7世紀に日本にもたらしたとされています。現在の七星殿は,1987(昭和 62)年に韓国産の資材と韓国の職人によって再建されたものです。
首都圏中央連絡自動車道日の出ICから5分ほど,曹洞宗寺院東光院(とうこういん)の本堂の裏手にある急な坂道と階段を登っていくと極彩色の建物が見えてきます。この韓国風の建物が,標高285mの妙見山山頂にある妙見宮七星殿(みょうけんぐうしちせいでん)で,6本の腕を持つ妙見菩薩が本尊としてお祀りされています。この七星殿は,飛鳥時代の685年,関東地方を開発せよという天武天皇の勅命を受けて武蔵国に移住した百済渡来の豪族が,大和斑鳩にある法輪寺の妙見菩薩を勧請し,この地に祀ったことに由来すると伝えられています。妙見菩薩は,北極星・北斗七星が神格化された妙見神が仏教と一体化して祀られたもので,その信仰は,百済の聖明王(せいめいおう=欽明天皇の朝廷に仏教を伝えた百済の王)の第三王子琳聖(りんしょう)太子が,7世紀に日本にもたらしたとされています。現在の七星殿は,1987(昭和 62)年に韓国産の資材と韓国の職人によって再建されたものです。
墨田区にある白髭神社は,951(天暦5)年に,近江国滋賀郡(現在の滋賀県高島市)の白鬚神社を分霊して祀ったのがはじまりと伝えられています。 滋賀県高島市の白鬚神社は,全国の白鬚神社・白髭神社の総本宮とされていますが,琵琶湖西岸のこの地域一帯は,渡来系氏族や渡来人が多く居住していたところでした。 かつての武蔵国にあたる現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部には,50社を超える白鬚神社が分布していて,東京では墨田区・江戸川区・葛飾区に集中しています。武蔵国には,ここに移住してきた朝鮮半島からの渡来人集団によって開拓された地域が多くありました。 『続日本紀』は,716(霊亀2)年に東国7ヶ国から集めた高句麗(高麗)からの渡来人1799人を武蔵国に移し,はじめて高麗郡(現在の埼玉県日高市・鶴ヶ島市など)を建てたという記事を載せています。 日高市にある高麗神社は,このような高句麗系の渡来人集団を率い,武蔵国の高麗氏の始祖として崇められたという高麗王若光(こまのこにきしじゃくこう)を主祭神とする神社で「高麗白髭明神」とも称されていました。 白鬚神社と渡来人との深い関わりが推測されます。
墨田区にある白髭神社は,951(天暦5)年に,近江国滋賀郡(現在の滋賀県高島市)の白鬚神社を分霊して祀ったのがはじまりと伝えられています。 滋賀県高島市の白鬚神社は,全国の白鬚神社・白髭神社の総本宮とされていますが,琵琶湖西岸のこの地域一帯は,渡来系氏族や渡来人が多く居住していたところでした。 かつての武蔵国にあたる現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部には,50社を超える白鬚神社が分布していて,東京では墨田区・江戸川区・葛飾区に集中しています。武蔵国には,ここに移住してきた朝鮮半島からの渡来人集団によって開拓された地域が多くありました。 『続日本紀』は,716(霊亀2)年に東国7ヶ国から集めた高句麗(高麗)からの渡来人1799人を武蔵国に移し,はじめて高麗郡(現在の埼玉県日高市・鶴ヶ島市など)を建てたという記事を載せています。 日高市にある高麗神社は,このような高句麗系の渡来人集団を率い,武蔵国の高麗氏の始祖として崇められたという高麗王若光(こまのこにきしじゃくこう)を主祭神とする神社で「高麗白髭明神」とも称されていました。 白鬚神社と渡来人との深い関わりが推測されます。
皆中(かいちゅう)稲荷神社がある新宿区百人町。この町名は,江戸幕府により「鉄砲百人組(伊賀組)」に組織された武士たちがこの辺りに組屋敷を与えられ,集団で居住していたことから名づけられました。 鉄砲は,1543(天文12)年に,種子島に漂着した中国船に乗船していたポルトガル人によって初めて日本にもたらされましたが,間もなく和泉の堺や近江の国友などでも生産されるようになり,戦国大名の間に急速に広まっていきました。鉄砲百人組は,江戸開幕前に,江戸の西側を守るため徳川家康家臣の内藤氏が配置していたものを幕府直轄としたものです。 皆中稲荷神社は,1533(天文2)年に鎮座したと伝えられますが,鉄砲百人組の武士がこの神社に参拝したところ射撃が百発百中で的中し,以降,「みなあたる」皆中稲荷神社と呼ばれるようになったといいます。皆中稲荷神社は,鉄砲百人組の武士はもちろんのこと,江戸の多くの人々の信仰も集めるようになりました。 現在は隔年で,火縄銃の試射などを行う行事「鉄砲組百人隊行列」が開かれています。今も,宝くじの「あたり」を祈願する人たちの参拝が絶えません。
皆中(かいちゅう)稲荷神社がある新宿区百人町。この町名は,江戸幕府により「鉄砲百人組(伊賀組)」に組織された武士たちがこの辺りに組屋敷を与えられ,集団で居住していたことから名づけられました。 鉄砲は,1543(天文12)年に,種子島に漂着した中国船に乗船していたポルトガル人によって初めて日本にもたらされましたが,間もなく和泉の堺や近江の国友などでも生産されるようになり,戦国大名の間に急速に広まっていきました。鉄砲百人組は,江戸開幕前に,江戸の西側を守るため徳川家康家臣の内藤氏が配置していたものを幕府直轄としたものです。 皆中稲荷神社は,1533(天文2)年に鎮座したと伝えられますが,鉄砲百人組の武士がこの神社に参拝したところ射撃が百発百中で的中し,以降,「みなあたる」皆中稲荷神社と呼ばれるようになったといいます。皆中稲荷神社は,鉄砲百人組の武士はもちろんのこと,江戸の多くの人々の信仰も集めるようになりました。 現在は隔年で,火縄銃の試射などを行う行事「鉄砲組百人隊行列」が開かれています。今も,宝くじの「あたり」を祈願する人たちの参拝が絶えません。
目白通り沿いに斬新なデザインのキリスト教会があります。東京カテドラル聖マリア大聖堂というカトリックの教会で,現在の建物は世界的な建築家・丹下健三の設計により1964(昭和39)年に落成しました。 フランシスコ・ザビエルの像はドイツのケルン教区から贈られたもので,大聖堂内に安置されています。 スペイン出身の宣教師ザビエルは,イグナティウス・ロヨラらとともにパリでイエズス会を結成し,インドをはじめ東方へのカトリック布教に生涯を捧げました。ザビエルは,マラッカで鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)と出遭ったことをきっかけに日本への布教を志し,1549(天文18)年,鹿児島に来航しました。キリスト教が初めて日本にもたらされたのです。ザビエルの日本滞在は2年ほどでしたが,この間に九州から中国地方の各地,京都にまで布教活動を展開し,その後のキリスト教信徒拡大の礎を築きました。 この大聖堂は,日本に16あるカトリック教会の教区のうち東京教区の「母教区」ともいえる位置付けになっていますので,ザビエルの像がここにあるのも納得です。 なお,上智大学構内の10号館前にもザビエルの像が建てられています。
目白通り沿いに斬新なデザインのキリスト教会があります。東京カテドラル聖マリア大聖堂というカトリックの教会で,現在の建物は世界的な建築家・丹下健三の設計により1964(昭和39)年に落成しました。 フランシスコ・ザビエルの像はドイツのケルン教区から贈られたもので,大聖堂内に安置されています。 スペイン出身の宣教師ザビエルは,イグナティウス・ロヨラらとともにパリでイエズス会を結成し,インドをはじめ東方へのカトリック布教に生涯を捧げました。ザビエルは,マラッカで鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)と出遭ったことをきっかけに日本への布教を志し,1549(天文18)年,鹿児島に来航しました。キリスト教が初めて日本にもたらされたのです。ザビエルの日本滞在は2年ほどでしたが,この間に九州から中国地方の各地,京都にまで布教活動を展開し,その後のキリスト教信徒拡大の礎を築きました。 この大聖堂は,日本に16あるカトリック教会の教区のうち東京教区の「母教区」ともいえる位置付けになっていますので,ザビエルの像がここにあるのも納得です。 なお,上智大学構内の10号館前にもザビエルの像が建てられています。
1600(慶長5)年,豊後国の海岸(現在の大分県臼杵)に一隻の帆船が漂着しました。オランダ共和国の商船リーフデ号です。 徳川家康は,乗組員のうち航海士のオランダ人ヤン・ヨーステン,水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズを江戸に招き,外交・貿易の顧問としました。 ヤン・ヨーステンは,平戸にオランダ商館が設けられると幕府と商館の仲介役として活躍し,東南アジアとの朱印船貿易も営みました。日本名を耶楊子といい,江戸に屋敷を与えられ,日本人の女性と結婚して女子をもうけています。八重洲というのは,ヤン・ヨーステンがこの辺り(和田倉門外の堀端)に居住していたことから生まれた地名だと伝えられています。 東京駅八重洲中央口からのびる八重洲通りと中央通りとが交差する手前の中央分離帯にある記念碑は,1989(平成元)年に中央区が日蘭修好380周年を記念して設けたもので,二つの羅針盤の中央上にオランダ東インド会社のロゴVOC,右側にリーフデ号,左側にヤン・ヨーステンの像が刻まれています。 また,東京駅の八重洲地下街(外堀地下1番通り)にも,リーフデ号の航路を示す地図とともにヤン・ヨーステンの記念像が置かれています。
1600(慶長5)年,豊後国の海岸(現在の大分県臼杵)に一隻の帆船が漂着しました。オランダ共和国の商船リーフデ号です。 徳川家康は,乗組員のうち航海士のオランダ人ヤン・ヨーステン,水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズを江戸に招き,外交・貿易の顧問としました。 ヤン・ヨーステンは,平戸にオランダ商館が設けられると幕府と商館の仲介役として活躍し,東南アジアとの朱印船貿易も営みました。日本名を耶楊子といい,江戸に屋敷を与えられ,日本人の女性と結婚して女子をもうけています。八重洲というのは,ヤン・ヨーステンがこの辺り(和田倉門外の堀端)に居住していたことから生まれた地名だと伝えられています。 東京駅八重洲中央口からのびる八重洲通りと中央通りとが交差する手前の中央分離帯にある記念碑は,1989(平成元)年に中央区が日蘭修好380周年を記念して設けたもので,二つの羅針盤の中央上にオランダ東インド会社のロゴVOC,右側にリーフデ号,左側にヤン・ヨーステンの像が刻まれています。 また,東京駅の八重洲地下街(外堀地下1番通り)にも,リーフデ号の航路を示す地図とともにヤン・ヨーステンの記念像が置かれています。
「三浦按針(あんじん)」は,イギリス人ウィリアム・アダムズの日本名です。1600(慶長5)年に豊後国(現在の大分県)に漂着したオランダ商船リーフデ号に,水先案内人として乗船していました。「按針」という名は,ウィリアム・アダムズの仕事に由来しています。 リーフデ号の航海士だったヤン・ヨーステンとともに徳川家康に召し抱えられたウィリアム・アダムズは,その造船技術や航海術が高く評価され,また天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられて相模国(現在の神奈川県)三浦郡に領地を与えられました。「三浦」の苗字はそこから来ています。 按針は,日本橋大伝馬町(おおでんまちょう)の名主の娘と結婚したとされていますが,彼が与えられた江戸の屋敷地は屋敷跡の碑がある現在の日本橋室町1 丁目辺りで,昭和初期まで「按針町」と呼ばれていました。 そこには,今でも「按針通り」 の名が残っています。
「三浦按針(あんじん)」は,イギリス人ウィリアム・アダムズの日本名です。1600(慶長5)年に豊後国(現在の大分県)に漂着したオランダ商船リーフデ号に,水先案内人として乗船していました。「按針」という名は,ウィリアム・アダムズの仕事に由来しています。 リーフデ号の航海士だったヤン・ヨーステンとともに徳川家康に召し抱えられたウィリアム・アダムズは,その造船技術や航海術が高く評価され,また天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられて相模国(現在の神奈川県)三浦郡に領地を与えられました。「三浦」の苗字はそこから来ています。 按針は,日本橋大伝馬町(おおでんまちょう)の名主の娘と結婚したとされていますが,彼が与えられた江戸の屋敷地は屋敷跡の碑がある現在の日本橋室町1 丁目辺りで,昭和初期まで「按針町」と呼ばれていました。 そこには,今でも「按針通り」 の名が残っています。
1914(大正3)年,新橋と上野を結ぶ鉄道の中央駅として「中央停車場」が開業しました。現在の東京駅です。 駅舎は当初,ドイツ人技師フランツ・バルツァーが設計する予定でしたが,彼が提案したのは煉瓦造りに瓦屋根,唐破風をあしらった和風の建物だったために却下され,改めて辰野金吾が設計することになりました。辰野は,ジョサイア・コンドルに学んだ日本における西洋建築の第一人者です。 設計を依頼された1903(明治36)年当時,辰野は帝国大学工科大学の学長を辞して建築事務所を開いていました。赤い煉瓦と白い花崗岩で描かれたライン,塔を載せた屋根などを特徴とする「辰野式」と呼ばれるデザインは,この頃から辰野が設計する建物に多く用いられていますが,それを代表するのが東京駅丸の内駅舎です。 鉄骨赤煉瓦造り,3階建てで全長約335メートルという巨大な駅舎は堅牢で,関東大震災でも倒壊しませんでしたが,1945(昭和20)年の東京大空襲で南北のドームをはじめ3階部分が大きく損傷しました。その後,2階建ての駅舎として利用されていましたが,2007(平成19)年からの保存・復原工事で2012(平成24)年に開業当時の姿が甦りました。
1914(大正3)年,新橋と上野を結ぶ鉄道の中央駅として「中央停車場」が開業しました。現在の東京駅です。 駅舎は当初,ドイツ人技師フランツ・バルツァーが設計する予定でしたが,彼が提案したのは煉瓦造りに瓦屋根,唐破風をあしらった和風の建物だったために却下され,改めて辰野金吾が設計することになりました。辰野は,ジョサイア・コンドルに学んだ日本における西洋建築の第一人者です。 設計を依頼された1903(明治36)年当時,辰野は帝国大学工科大学の学長を辞して建築事務所を開いていました。赤い煉瓦と白い花崗岩で描かれたライン,塔を載せた屋根などを特徴とする「辰野式」と呼ばれるデザインは,この頃から辰野が設計する建物に多く用いられていますが,それを代表するのが東京駅丸の内駅舎です。 鉄骨赤煉瓦造り,3階建てで全長約335メートルという巨大な駅舎は堅牢で,関東大震災でも倒壊しませんでしたが,1945(昭和20)年の東京大空襲で南北のドームをはじめ3階部分が大きく損傷しました。その後,2階建ての駅舎として利用されていましたが,2007(平成19)年からの保存・復原工事で2012(平成24)年に開業当時の姿が甦りました。
東京国立博物館の本館に向かって左手にある緑青色のドームが印象的な建物が表慶館(ひょうけいかん)です。「慶びを表す」という名が示すように,表慶館は皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して1900(明治33)年に計画され,建設には市民から募った寄付金があてられました。 完成したのは1908(明治41)年,翌年には日本初の本格的な美術館として開館しています。設計を担当したのは,ジョサイア・コンドルの弟子で,東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)も設計した宮廷建築家・片山東熊でした。しかし完成に至るまでには,平面・立面計画が何度も変更されたり,日露戦争で資材の輸送が滞ったりと多くの困難がありました。 建物は,中央に大ドーム,両翼に小ドームが配置された左右対称で十字型の外観を持つネオ・バロック様式。2階建で総石造りのように見えますが,実際は総煉瓦造りで外壁に花崗岩を貼って石造風に見せています。 関東大震災でコンドルが設計した帝室博物館本館は倒壊しましたが,表慶館は被害が少なかったため,1938(昭和13)年に現在の本館が開館するまでの間,展示施設となっていました。
東京国立博物館の本館に向かって左手にある緑青色のドームが印象的な建物が表慶館(ひょうけいかん)です。「慶びを表す」という名が示すように,表慶館は皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して1900(明治33)年に計画され,建設には市民から募った寄付金があてられました。 完成したのは1908(明治41)年,翌年には日本初の本格的な美術館として開館しています。設計を担当したのは,ジョサイア・コンドルの弟子で,東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)も設計した宮廷建築家・片山東熊でした。しかし完成に至るまでには,平面・立面計画が何度も変更されたり,日露戦争で資材の輸送が滞ったりと多くの困難がありました。 建物は,中央に大ドーム,両翼に小ドームが配置された左右対称で十字型の外観を持つネオ・バロック様式。2階建で総石造りのように見えますが,実際は総煉瓦造りで外壁に花崗岩を貼って石造風に見せています。 関東大震災でコンドルが設計した帝室博物館本館は倒壊しましたが,表慶館は被害が少なかったため,1938(昭和13)年に現在の本館が開館するまでの間,展示施設となっていました。
慶應義塾のシンボルとなっている図書館旧館は,慶應義塾創立50周年を記念して1912(明治45)年に建てられました。設計には,曾禰達蔵と中條(ちゅうじょう)精一郎が共同であたっています。 曾禰は,ジョサイア・コンドルに建築を学んだ工部大学校の第一期生で,同期には辰野金吾や片山東熊がいます。彼は工部大学校や海軍省に勤務した後,三菱に建築技師として入社,コンドルに協力して丸の内オフィス街の設計・建設に携わりました。 三菱退社後,後輩の中條精一郎と共に曾禰中條建築事務所を構え,民間の建物を多く設計しましたが,それらのほとんどは関東大震災で焼失しています。 図書館旧館は,煉瓦造りで塔屋のある地上2階(一部3階)・地下1階の建物。赤レンガと花崗岩,テラコッタ(素焼粘土)で仕上げられた壮麗な外観,大きな窓や玄関ホール正面階段上のステンドグラスなどを特徴とするネオ・ゴシック様式が用いられています。屋根裏まであった書庫は20万冊もの蔵書収容能力があり,閲覧席も200席以上という当時の大学図書館では他に類のない規模のものでした。 関東大震災と戦災で大きな被害がありましたが,その都度修復されて当時の姿が今に残されています。
慶應義塾のシンボルとなっている図書館旧館は,慶應義塾創立50周年を記念して1912(明治45)年に建てられました。設計には,曾禰達蔵と中條(ちゅうじょう)精一郎が共同であたっています。 曾禰は,ジョサイア・コンドルに建築を学んだ工部大学校の第一期生で,同期には辰野金吾や片山東熊がいます。彼は工部大学校や海軍省に勤務した後,三菱に建築技師として入社,コンドルに協力して丸の内オフィス街の設計・建設に携わりました。 三菱退社後,後輩の中條精一郎と共に曾禰中條建築事務所を構え,民間の建物を多く設計しましたが,それらのほとんどは関東大震災で焼失しています。 図書館旧館は,煉瓦造りで塔屋のある地上2階(一部3階)・地下1階の建物。赤レンガと花崗岩,テラコッタ(素焼粘土)で仕上げられた壮麗な外観,大きな窓や玄関ホール正面階段上のステンドグラスなどを特徴とするネオ・ゴシック様式が用いられています。屋根裏まであった書庫は20万冊もの蔵書収容能力があり,閲覧席も200席以上という当時の大学図書館では他に類のない規模のものでした。 関東大震災と戦災で大きな被害がありましたが,その都度修復されて当時の姿が今に残されています。
日本水準原点は,日本全国の標高の基準として1891(明治24)年に,当時,陸軍参謀本部陸地測量部の庭園だった現在地に設けられました。同年に完成した標庫はこれを保護するための建物で,佐立七次郎が設計しました。 佐立は,辰野金吾や曾禰達蔵らと共にジョサイア・コンドルから建築を学んだ工部大学校の第一期生です。工部省や海軍省,藤田組を経て逓信省で勤務し,建築法研究のため欧米にも出張しています。その後,建築設計事務所を開設,日本郵船の設計顧問となって日本郵船小樽支店(現存しています)などを設計しました。佐立が設計に関与した建物は34棟といわれますが,それらはほとんど残っていません。 現存する日本水準原点標庫は,石造りの平家建てで総高4.3mと小さなものですが,正面に配された石段と柱廊,その上部のエンタープラチュア(帯状部)や屋根部分のレリーフが施された三角形の破風など,ローマ風の神殿建築に倣った本格的な建築物です。エンタープラチュアには,現在,公的に使用されている建物には珍しい菊の紋章に挟まれた「大日本帝國」の文字が認められます。
日本水準原点は,日本全国の標高の基準として1891(明治24)年に,当時,陸軍参謀本部陸地測量部の庭園だった現在地に設けられました。同年に完成した標庫はこれを保護するための建物で,佐立七次郎が設計しました。 佐立は,辰野金吾や曾禰達蔵らと共にジョサイア・コンドルから建築を学んだ工部大学校の第一期生です。工部省や海軍省,藤田組を経て逓信省で勤務し,建築法研究のため欧米にも出張しています。その後,建築設計事務所を開設,日本郵船の設計顧問となって日本郵船小樽支店(現存しています)などを設計しました。佐立が設計に関与した建物は34棟といわれますが,それらはほとんど残っていません。 現存する日本水準原点標庫は,石造りの平家建てで総高4.3mと小さなものですが,正面に配された石段と柱廊,その上部のエンタープラチュア(帯状部)や屋根部分のレリーフが施された三角形の破風など,ローマ風の神殿建築に倣った本格的な建築物です。エンタープラチュアには,現在,公的に使用されている建物には珍しい菊の紋章に挟まれた「大日本帝國」の文字が認められます。
谷中にある全生庵には,中国と関係の深い二人の人物の墓と石碑があります。 墓は,上海に「日清貿易研究所」を設立し日清間の貿易実務を担う人材の育成に尽力した荒尾精のものです。 荒尾は陸軍士官学校を卒業後,参謀本部から清国に派遣され約3年間の諜報活動にあたりましたが,帰国した翌年の1890(明治23)年に軍を辞め,日清両国の提携に基づく貿易振興を主張し「日清貿易研究所」(日中友好提携の人材育成を担った東亜同文書院に発展)を設立しました。 荒尾は,日清戦争の最中にも清国に対する領土割譲の要求に反対しています。 一方,境内にある石碑は,中華民国成立後の1913(大正2)年,孫文が来日した際に同志だった山田良政を悼んで建てられたもので,書は孫文自身のものです。 弘前出身の山田良政は上京して中国語を学び,日清戦争に陸軍の通訳として従軍しました。 戦後,日本に亡命中の孫文と出会ってその祖国への情熱や理念に感銘を受け,革命運動を支援するようになります。 1900(明治 33)年に中国広東省の恵州で孫文が蜂起するとそれに加わりましたがこの蜂起は失敗し,山田は清国の政府軍に捕らえられ殺害されました。
谷中にある全生庵には,中国と関係の深い二人の人物の墓と石碑があります。 墓は,上海に「日清貿易研究所」を設立し日清間の貿易実務を担う人材の育成に尽力した荒尾精のものです。 荒尾は陸軍士官学校を卒業後,参謀本部から清国に派遣され約3年間の諜報活動にあたりましたが,帰国した翌年の1890(明治23)年に軍を辞め,日清両国の提携に基づく貿易振興を主張し「日清貿易研究所」(日中友好提携の人材育成を担った東亜同文書院に発展)を設立しました。 荒尾は,日清戦争の最中にも清国に対する領土割譲の要求に反対しています。 一方,境内にある石碑は,中華民国成立後の1913(大正2)年,孫文が来日した際に同志だった山田良政を悼んで建てられたもので,書は孫文自身のものです。 弘前出身の山田良政は上京して中国語を学び,日清戦争に陸軍の通訳として従軍しました。 戦後,日本に亡命中の孫文と出会ってその祖国への情熱や理念に感銘を受け,革命運動を支援するようになります。 1900(明治 33)年に中国広東省の恵州で孫文が蜂起するとそれに加わりましたがこの蜂起は失敗し,山田は清国の政府軍に捕らえられ殺害されました。
アジサイで知られる白山神社の境内の一角に孫文のレリーフがはめ込まれた石碑があり,上部には「孫文先生座石」と記されています。 中国で「革命の父」とされる孫文は,日本を「第二の故郷」と言っていました。 とくに東京は,1905(明治38)年に清朝打倒を目指す中国同盟会が孫文の提唱によって結成された重要な場所です。 革命運動を進めるため世界中を巡っていた孫文は,辛亥革命の前年にあたる1910(明治43)年には,白山神社の近く,当時の小石川原町(現,白山4丁目・5丁目と千石1丁目の一部)にあった革命運動の支援者・宮崎滔天(とうてん)宅に身を寄せていました。 その5月,二人が白山神社の境内の石に腰掛けて中国の将来と革命について語り合っていたところ夜空に流星が現れ,それを見た孫文は祖国の革命を心に誓ったといいます。 その後孫文は,辛亥革命を指導して清朝を倒し,翌年に成立した中華民国の臨時大総統に就任しました。 石碑は,新中国建設を誓った場所を後世に残そうと,1983(昭和58)年に白山神社の宮司を中心に町会有志が建立したものです。 孫文が座ったのは,石碑の下にある横長の石だとされています。
アジサイで知られる白山神社の境内の一角に孫文のレリーフがはめ込まれた石碑があり,上部には「孫文先生座石」と記されています。 中国で「革命の父」とされる孫文は,日本を「第二の故郷」と言っていました。 とくに東京は,1905(明治38)年に清朝打倒を目指す中国同盟会が孫文の提唱によって結成された重要な場所です。 革命運動を進めるため世界中を巡っていた孫文は,辛亥革命の前年にあたる1910(明治43)年には,白山神社の近く,当時の小石川原町(現,白山4丁目・5丁目と千石1丁目の一部)にあった革命運動の支援者・宮崎滔天(とうてん)宅に身を寄せていました。 その5月,二人が白山神社の境内の石に腰掛けて中国の将来と革命について語り合っていたところ夜空に流星が現れ,それを見た孫文は祖国の革命を心に誓ったといいます。 その後孫文は,辛亥革命を指導して清朝を倒し,翌年に成立した中華民国の臨時大総統に就任しました。 石碑は,新中国建設を誓った場所を後世に残そうと,1983(昭和58)年に白山神社の宮司を中心に町会有志が建立したものです。 孫文が座ったのは,石碑の下にある横長の石だとされています。
神田神保町の古書店が並ぶ靖国通りから北に少し入ると「神保町愛全公園」があります。 このあたりに,かつて東亜高等予備学校がありました。 日清戦争に敗れた中国では,体制改革を求める機運が急速に高まり,西洋の諸制度を効率的に学ぶため日本に留学しようという動きが起きてきました。 やがて日本留学がブームとなって,1905(明治38)年ごろには中国人留学生の数が1万人を超えたといわれます。 東亜高等予備学校は,中国人留学生の教育に生涯取り組んだ松本亀次郎によって1914(大正3)年に設立されました。 日本国内での進学を志す中国人留学生の多くが,この学校で日本語・英語・数学等を専門に学んでいます。 中華人民共和国国務院総理(首相)を長く務めた周恩来も,1917年(大正6)年,19歳のときに日本に留学し,この地にあった東亜高等予備学校で2年間日本語を学び,大学進学の指導を受けました。 愛全公園には,周総理生誕100年・日中平和友好条約締結20周年を記念して1998(平成10)年に建てられた「周恩来ここに学ぶ 東亜高等予備学校跡」と刻まれた石碑があります(現在,公園が改修工事中で見ることができません)。
神田神保町の古書店が並ぶ靖国通りから北に少し入ると「神保町愛全公園」があります。 このあたりに,かつて東亜高等予備学校がありました。 日清戦争に敗れた中国では,体制改革を求める機運が急速に高まり,西洋の諸制度を効率的に学ぶため日本に留学しようという動きが起きてきました。 やがて日本留学がブームとなって,1905(明治38)年ごろには中国人留学生の数が1万人を超えたといわれます。 東亜高等予備学校は,中国人留学生の教育に生涯取り組んだ松本亀次郎によって1914(大正3)年に設立されました。 日本国内での進学を志す中国人留学生の多くが,この学校で日本語・英語・数学等を専門に学んでいます。 中華人民共和国国務院総理(首相)を長く務めた周恩来も,1917年(大正6)年,19歳のときに日本に留学し,この地にあった東亜高等予備学校で2年間日本語を学び,大学進学の指導を受けました。 愛全公園には,周総理生誕100年・日中平和友好条約締結20周年を記念して1998(平成10)年に建てられた「周恩来ここに学ぶ 東亜高等予備学校跡」と刻まれた石碑があります(現在,公園が改修工事中で見ることができません)。
東亜高等予備学校があった神保町愛全公園からお茶の水方面に向かい左手に入ると1926(大正15)年に建てられたレトロなビルがあります。 現在は東方学会の本館となっていますが,敗戦まではこのビルに日華学会が入っていました。 日華学会は,学校の選択,入学・転学,宿舎の世話など中国人留学生を支援することを目的に1918(大正7)年に設立された団体です。 設立には,渋沢栄一をはじめとする財界人や元文相小松原英太郎ら政治家,官僚が関わっていました。 背景には,日本が中国の実効支配を進めるため1915(大正4)年に中国政府に突きつけた「二十一ヵ条要求」に対する中国人留学生たちの反発を緩和するねらいがあったといわれます。 設立当初の日華学会は麹町区内山下町(現,千代田区内幸町1丁目)にありましたが,その後神田区中猿楽町に移り,1934(昭和9)年から元は中学校の校舎だったこのビルに入りました。 日華学会の活動は,1945(昭和20)年8月の日本の敗戦にともなって停止されました。
東亜高等予備学校があった神保町愛全公園からお茶の水方面に向かい左手に入ると1926(大正15)年に建てられたレトロなビルがあります。 現在は東方学会の本館となっていますが,敗戦まではこのビルに日華学会が入っていました。 日華学会は,学校の選択,入学・転学,宿舎の世話など中国人留学生を支援することを目的に1918(大正7)年に設立された団体です。 設立には,渋沢栄一をはじめとする財界人や元文相小松原英太郎ら政治家,官僚が関わっていました。 背景には,日本が中国の実効支配を進めるため1915(大正4)年に中国政府に突きつけた「二十一ヵ条要求」に対する中国人留学生たちの反発を緩和するねらいがあったといわれます。 設立当初の日華学会は麹町区内山下町(現,千代田区内幸町1丁目)にありましたが,その後神田区中猿楽町に移り,1934(昭和9)年から元は中学校の校舎だったこのビルに入りました。 日華学会の活動は,1945(昭和20)年8月の日本の敗戦にともなって停止されました。
日清戦争後,中国人の日本留学がブームとなり,1905(明治38)年ころには中国人留学生の数が1万人を超えました。 その後,日本の中国大陸進出が激しくなるに従い留学生の数は減っていきますが,それでも1940年代までは常時,数千人規模の留学生が日本に滞在していたといいます。 彼らの多くは東京に住んでいましたが,とりわけ神保町の界隈には多く集まっていました。 それは,中国人留学生のための東亜高等予備校や日中関係の改善融和を目指して設立された日華学会,数多くの留学生を受け入れていた明治大学などの私立大学,清国留学生会館などがあったからです。 そして,彼らの腹を故郷の味で満たすべく,神保町界隈には中国人が経営するたくさんの中華料理店ができました。 その一つが1911(明治44)年に開業した上海料理の漢陽楼で,開店にあたっては留学生たちが店づくりを手伝ったといいます。留学中の周恩来もこの店によく通いました。 好きだったのは郷里江蘇省の家庭料理「清燉獅子頭(チンドゥシーズートゥ)」(大きな肉団子入りスープ)でしたが,学生の身には高価でいつも食べていたというわけではなかったようです。
日清戦争後,中国人の日本留学がブームとなり,1905(明治38)年ころには中国人留学生の数が1万人を超えました。 その後,日本の中国大陸進出が激しくなるに従い留学生の数は減っていきますが,それでも1940年代までは常時,数千人規模の留学生が日本に滞在していたといいます。 彼らの多くは東京に住んでいましたが,とりわけ神保町の界隈には多く集まっていました。 それは,中国人留学生のための東亜高等予備校や日中関係の改善融和を目指して設立された日華学会,数多くの留学生を受け入れていた明治大学などの私立大学,清国留学生会館などがあったからです。 そして,彼らの腹を故郷の味で満たすべく,神保町界隈には中国人が経営するたくさんの中華料理店ができました。 その一つが1911(明治44)年に開業した上海料理の漢陽楼で,開店にあたっては留学生たちが店づくりを手伝ったといいます。留学中の周恩来もこの店によく通いました。 好きだったのは郷里江蘇省の家庭料理「清燉獅子頭(チンドゥシーズートゥ)」(大きな肉団子入りスープ)でしたが,学生の身には高価でいつも食べていたというわけではなかったようです。
江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母として権勢を振った春日局(かすがのつぼね)の墓所として知られる湯島の麟祥院。 ここに「中華民国留学生癸亥(きがい)地震遭難招魂碑」と刻まれた石碑があります。 癸亥地震とは,1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のことです。 この大震災で,当時日本に留学していた多くの中国人留学生も被災しています。 大震災が発生した直後から,被災した中国人留学生の救護や本国への帰還を推し進める活動を展開したのが日華学会でした。 日華学会は,1918(大正7)年に渋沢栄一ら財界人が一部官僚と提携し日中関係の改善融和を目指して設立した団体です。 大震災のあった年の10月には,亡くなった中国人留学生とその家族の追悼会が,当時の文相岡野敬次郎や日華学会の会長細川護立ら数百名が参加して麟祥院で催されました。 招魂碑は,その翌年の9月,大震災から一年がたったことから日華学会によって建てられたもので,碑の背面には,亡くなった25名の氏名や本籍地・学校・罹災場所などが刻まれています。
江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母として権勢を振った春日局(かすがのつぼね)の墓所として知られる湯島の麟祥院。 ここに「中華民国留学生癸亥(きがい)地震遭難招魂碑」と刻まれた石碑があります。 癸亥地震とは,1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のことです。 この大震災で,当時日本に留学していた多くの中国人留学生も被災しています。 大震災が発生した直後から,被災した中国人留学生の救護や本国への帰還を推し進める活動を展開したのが日華学会でした。 日華学会は,1918(大正7)年に渋沢栄一ら財界人が一部官僚と提携し日中関係の改善融和を目指して設立した団体です。 大震災のあった年の10月には,亡くなった中国人留学生とその家族の追悼会が,当時の文相岡野敬次郎や日華学会の会長細川護立ら数百名が参加して麟祥院で催されました。 招魂碑は,その翌年の9月,大震災から一年がたったことから日華学会によって建てられたもので,碑の背面には,亡くなった25名の氏名や本籍地・学校・罹災場所などが刻まれています。
木母寺の裏門を出ると,塀沿いに「守命供時(天命を守り保つためには時勢と共にしなければならない)」の碑があります。 この碑は,1882(明治15)年に朝鮮の漢城(現在のソウル)で起きた壬午(じんご)軍乱で殺害された日本人14名を追悼して1897(明治30)年に建てられました。 壬午軍乱が起きた当時,朝鮮の政治の実権を握っていたのは国王高宗の妃(閔妃・びんひ)の一族で,朝鮮への影響力を強める日本の指導下で内政や軍隊などの改革を進めていました。 一方,国王の父・大院君を中心とした守旧派と呼ばれる一派は,この動きに強く反発していました。 1881(明治14)年に日本の指導による新式軍隊ができると,待遇の差に不満を募らせていた旧軍兵士は俸給米の遅配問題を機に反乱を起こしました。 これが壬午軍乱です。 背後には政権掌握を目指す大院君一派がありました。 この軍乱で軍事顧問・堀本禮造(れいぞう)中尉をはじめ陸軍省語学生ら7名が殺害され,日本公使館も放火されました。 弁理公使花房義質(よしもと)らは仁川に逃れましたが,そこも襲撃され公使館員や巡査ら7名が殺害されました。 碑は花房らが建てたものです。
木母寺の裏門を出ると,塀沿いに「守命供時(天命を守り保つためには時勢と共にしなければならない)」の碑があります。 この碑は,1882(明治15)年に朝鮮の漢城(現在のソウル)で起きた壬午(じんご)軍乱で殺害された日本人14名を追悼して1897(明治30)年に建てられました。 壬午軍乱が起きた当時,朝鮮の政治の実権を握っていたのは国王高宗の妃(閔妃・びんひ)の一族で,朝鮮への影響力を強める日本の指導下で内政や軍隊などの改革を進めていました。 一方,国王の父・大院君を中心とした守旧派と呼ばれる一派は,この動きに強く反発していました。 1881(明治14)年に日本の指導による新式軍隊ができると,待遇の差に不満を募らせていた旧軍兵士は俸給米の遅配問題を機に反乱を起こしました。 これが壬午軍乱です。 背後には政権掌握を目指す大院君一派がありました。 この軍乱で軍事顧問・堀本禮造(れいぞう)中尉をはじめ陸軍省語学生ら7名が殺害され,日本公使館も放火されました。 弁理公使花房義質(よしもと)らは仁川に逃れましたが,そこも襲撃され公使館員や巡査ら7名が殺害されました。 碑は花房らが建てたものです。
青山霊園の外国人墓地にある,ひときわ大きな板状の墓碑が金玉均(きんぎょくきん)の墓です。 金玉均は,1882(明治15)年に2度目の来日を果たし,福沢諭吉らの支援で約半年間の留学生活を送りました。 日本の明治維新にならって朝鮮の近代化を図ろうとした金は,来日経験のある朴泳孝(ぼくえいこう)らとともに独立党を組織し,清国に依存しながら政権を保っていた国王の妃(閔妃・びんひ)一族の打倒を目指します。 1884(明治17)年,清国がフランスと戦争を始めるとこれを好機とみた独立党は,日本公使館の援助を得てクーデターを起こしました。 これは甲申事変(こうしんじへん)と呼ばれています。 しかし,このクーデターは失敗に終わり,日本に亡命した金はおよそ10年間を日本で過ごしますが,その生活は悲惨なものだったといいます。 その後,金は清国政府に朝鮮の改革を訴えるため上海に渡りましたが,閔妃の一族が送り込んだ刺客によって暗殺されてしまいました。 墓碑は,のちに首相となる犬養毅や国家主義者として知られる頭山満(とおやまみつる)らの支援で建てられました。撰文は同志の朴泳孝によるものです。
青山霊園の外国人墓地にある,ひときわ大きな板状の墓碑が金玉均(きんぎょくきん)の墓です。 金玉均は,1882(明治15)年に2度目の来日を果たし,福沢諭吉らの支援で約半年間の留学生活を送りました。 日本の明治維新にならって朝鮮の近代化を図ろうとした金は,来日経験のある朴泳孝(ぼくえいこう)らとともに独立党を組織し,清国に依存しながら政権を保っていた国王の妃(閔妃・びんひ)一族の打倒を目指します。 1884(明治17)年,清国がフランスと戦争を始めるとこれを好機とみた独立党は,日本公使館の援助を得てクーデターを起こしました。 これは甲申事変(こうしんじへん)と呼ばれています。 しかし,このクーデターは失敗に終わり,日本に亡命した金はおよそ10年間を日本で過ごしますが,その生活は悲惨なものだったといいます。 その後,金は清国政府に朝鮮の改革を訴えるため上海に渡りましたが,閔妃の一族が送り込んだ刺客によって暗殺されてしまいました。 墓碑は,のちに首相となる犬養毅や国家主義者として知られる頭山満(とおやまみつる)らの支援で建てられました。撰文は同志の朴泳孝によるものです。