
ここがあの場所!身近な場所の歴史

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紹介スポット
- 8106件ロシアが千島に積極的に進出してくるようになると,幕府は北方の島々を含む蝦夷地を直接統治しようとし,1798(寛政10)年に大規模な蝦夷地調査を実施しました。 このとき松前蝦夷地御用扱いに任じられた幕臣近藤重蔵(じゅうぞう)は,最上徳内らと共に国後島・択捉島を調査し,択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てそこが日本の領土であることを明らかにしています。翌年には再び国後・択捉に渡り,廻船業者・高田屋嘉兵衛の協力を得て択捉航路を開きました。以降も北方を探検して蝦夷地の事情を明らかにするとともに,北辺の防備について幕府に建言しています。 重蔵は正受院の東隣に滝野川文庫という書斎を設け,1822(文政5)年から4年の間ここに住みました。正受院にある近藤重蔵の石像は,これを記念して南画家・谷文晁(ぶんちょう)が描いた下絵をもとにつくらせたもので,石像のように甲冑に身を固めた姿で蝦夷地を探検したと伝えられています。

ロシアが千島に積極的に進出してくるようになると,幕府は北方の島々を含む蝦夷地を直接統治しようとし,1798(寛政10)年に大規模な蝦夷地調査を実施しました。 このとき松前蝦夷地御用扱いに任じられた幕臣近藤重蔵(じゅうぞう)は,最上徳内らと共に国後島・択捉島を調査し,択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てそこが日本の領土であることを明らかにしています。翌年には再び国後・択捉に渡り,廻船業者・高田屋嘉兵衛の協力を得て択捉航路を開きました。以降も北方を探検して蝦夷地の事情を明らかにするとともに,北辺の防備について幕府に建言しています。 重蔵は正受院の東隣に滝野川文庫という書斎を設け,1822(文政5)年から4年の間ここに住みました。正受院にある近藤重蔵の石像は,これを記念して南画家・谷文晁(ぶんちょう)が描いた下絵をもとにつくらせたもので,石像のように甲冑に身を固めた姿で蝦夷地を探検したと伝えられています。
1792(寛政4)年,ロシア使節ラクスマンが根室に来航し,通商を求めるという事件がありました。老中田沼意次(おきつぐ)が実権を握っていた幕府は,この事件を受けて蝦夷地の調査に乗り出します。 最上徳内は,出羽国(現,山形県)村山郡の農家の出身。江戸で経世家・本多利明に天文・測量などを学んでいましたが,利明の推薦で1785(天明5)年の幕府による蝦夷地調査に加わることになります。この時には国後まででしたが,のちには択捉(えとろふ),得撫(うるっぷ),樺太なども探検し,アイヌの人々の生活やロシア語に精通するようになりました。 老中戸田氏教(うじのり)が立案したとされる1798(寛政10)年の大規模な蝦夷地調査にも参加し,幕臣の近藤重蔵配下として国後・択捉に渡っています。択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱が立てられたのはこのときのことです。 蓮光寺は,現在の文京区小日向に下屋敷があった大垣藩主戸田家の墓所でしたので,その縁で徳内もここに葬られたと考えられます。透明なケースで保護されているのが徳内の墓碑で,右側の「贈正五位最上徳内之墓」と刻まれた碑は1911(明治44)年に建てられたものです。

1792(寛政4)年,ロシア使節ラクスマンが根室に来航し,通商を求めるという事件がありました。老中田沼意次(おきつぐ)が実権を握っていた幕府は,この事件を受けて蝦夷地の調査に乗り出します。 最上徳内は,出羽国(現,山形県)村山郡の農家の出身。江戸で経世家・本多利明に天文・測量などを学んでいましたが,利明の推薦で1785(天明5)年の幕府による蝦夷地調査に加わることになります。この時には国後まででしたが,のちには択捉(えとろふ),得撫(うるっぷ),樺太なども探検し,アイヌの人々の生活やロシア語に精通するようになりました。 老中戸田氏教(うじのり)が立案したとされる1798(寛政10)年の大規模な蝦夷地調査にも参加し,幕臣の近藤重蔵配下として国後・択捉に渡っています。択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱が立てられたのはこのときのことです。 蓮光寺は,現在の文京区小日向に下屋敷があった大垣藩主戸田家の墓所でしたので,その縁で徳内もここに葬られたと考えられます。透明なケースで保護されているのが徳内の墓碑で,右側の「贈正五位最上徳内之墓」と刻まれた碑は1911(明治44)年に建てられたものです。
回向院の境内左手,墓地の前に6基の海難供養碑が建てられています。これらは海難事故で亡くなった人々を供養するためのものですが,そのなかに帆掛船の形をした碑があります。 1789(寛政元)年に三河(現,愛知県)平坂の施主により建てられたもので,表面には「勢州白子三州高浜溺死一切精霊」とあり,裏面には「光太夫」という名前が認められます。 光太夫とは,伊勢白子(現,三重県鈴鹿市)の船頭だった大黒屋光太夫のことで,井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』の主人公になっています。 1782(天明2)年,光太夫の乗った廻船が江戸に向かう途中暴風のために漂流し,アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。約9年半をロシアで過ごしたのち1792(寛政4)年に,ロシア皇帝の命を受け日本との通商を求めるため根室に来航したラクスマンに伴われて帰国しました。この時の通商要求は通りませんでしたが,ラクスマンの来航は当時幕府の実権を握っていた老中松平定信の,以後の外国に対する政策を方向付けることになります。 一方,光太夫は江戸の薬草園に幽閉されてしまいますが,蘭学者などと交流し日本の洋学の発展に大きく貢献しました。

回向院の境内左手,墓地の前に6基の海難供養碑が建てられています。これらは海難事故で亡くなった人々を供養するためのものですが,そのなかに帆掛船の形をした碑があります。 1789(寛政元)年に三河(現,愛知県)平坂の施主により建てられたもので,表面には「勢州白子三州高浜溺死一切精霊」とあり,裏面には「光太夫」という名前が認められます。 光太夫とは,伊勢白子(現,三重県鈴鹿市)の船頭だった大黒屋光太夫のことで,井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』の主人公になっています。 1782(天明2)年,光太夫の乗った廻船が江戸に向かう途中暴風のために漂流し,アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。約9年半をロシアで過ごしたのち1792(寛政4)年に,ロシア皇帝の命を受け日本との通商を求めるため根室に来航したラクスマンに伴われて帰国しました。この時の通商要求は通りませんでしたが,ラクスマンの来航は当時幕府の実権を握っていた老中松平定信の,以後の外国に対する政策を方向付けることになります。 一方,光太夫は江戸の薬草園に幽閉されてしまいますが,蘭学者などと交流し日本の洋学の発展に大きく貢献しました。
記念碑は,小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)の本堂に入って右側の壁面にあります。 この回向院のあるあたりは,江戸時代には「仕置場」と呼ばれた刑場でした。小塚原回向院は,牢死者や刑死者等の供養のため本所にある回向院が1667(寛文7)年に開いた寺院です。 1771(明和8)年,ここで行われた刑死者の腑分け(解剖)に立ち会った前野良沢・杉田玄白らは,オランダ語で書かれた解剖学書『ターヘル・アナトミア』にあった解剖図の正確さに大きな衝撃を受けました。このことが,やがて『解体新書』として結実する『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をはじめるきっかけとなったのです。 記念碑は,腑分けのあった年から150年が過ぎた1922(大正11)年に回向院の本堂裏に建てられましたが,戦災で破損したことから1959(昭和34)年に日本医史学会・日本医学会・日本医師会によって『解体新書』の表紙を模した青銅板だけが現在の場所に移されました。

記念碑は,小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)の本堂に入って右側の壁面にあります。 この回向院のあるあたりは,江戸時代には「仕置場」と呼ばれた刑場でした。小塚原回向院は,牢死者や刑死者等の供養のため本所にある回向院が1667(寛文7)年に開いた寺院です。 1771(明和8)年,ここで行われた刑死者の腑分け(解剖)に立ち会った前野良沢・杉田玄白らは,オランダ語で書かれた解剖学書『ターヘル・アナトミア』にあった解剖図の正確さに大きな衝撃を受けました。このことが,やがて『解体新書』として結実する『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をはじめるきっかけとなったのです。 記念碑は,腑分けのあった年から150年が過ぎた1922(大正11)年に回向院の本堂裏に建てられましたが,戦災で破損したことから1959(昭和34)年に日本医史学会・日本医学会・日本医師会によって『解体新書』の表紙を模した青銅板だけが現在の場所に移されました。
若狭(現,福井県)小浜藩の藩医・杉田玄白が著した『蘭学事始』には,オランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』を4年がかりで翻訳し,1774(安永3)年に『解体新書』を刊行するまでの苦心の様子が描かれています。 その翻訳作業は碑が建てられているこの地にあった豊前(現,大分県)中津藩中屋敷の一室で行われました。 翻訳作業の中心となった前野良沢は中津藩の藩医で,小浜藩の藩医中川淳庵(じゅんあん)や幕府奥医師の桂川甫周(ほしゅう)らもこの作業に加わっていました。公刊された『解体新書』は日本の医学の発展に大いに寄与し,また蘭学勃興の発端となりました。 碑の右側,赤い石には『解体新書』にある人体の図が,左側の黒っぽい石には標題として「蘭学の泉はここに」という文字が刻まれています。また撰文は,蘭学者緒方洪庵(こうあん)の曾孫にあたる元東京大学教授・緒方富雄によるものです。

若狭(現,福井県)小浜藩の藩医・杉田玄白が著した『蘭学事始』には,オランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』を4年がかりで翻訳し,1774(安永3)年に『解体新書』を刊行するまでの苦心の様子が描かれています。 その翻訳作業は碑が建てられているこの地にあった豊前(現,大分県)中津藩中屋敷の一室で行われました。 翻訳作業の中心となった前野良沢は中津藩の藩医で,小浜藩の藩医中川淳庵(じゅんあん)や幕府奥医師の桂川甫周(ほしゅう)らもこの作業に加わっていました。公刊された『解体新書』は日本の医学の発展に大いに寄与し,また蘭学勃興の発端となりました。 碑の右側,赤い石には『解体新書』にある人体の図が,左側の黒っぽい石には標題として「蘭学の泉はここに」という文字が刻まれています。また撰文は,蘭学者緒方洪庵(こうあん)の曾孫にあたる元東京大学教授・緒方富雄によるものです。
小石川の伝通院は,徳川家康の生母・於大(おだい)の方や豊臣秀頼の正室だった孫娘・千姫の墓所であり,徳川将軍家の菩提寺としても知られる名刹です。この寺院の墓地の少し奥まったところにジュゼッペ・キアラ神父の供養碑が建てられています。 イエズス会のイタリア人宣教師キアラは,1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが捕らえられ,1646(正保3)年に江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後,棄教して岡本三右衛門と名乗り妻や召使いまで与えられましたが,幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死しました。 遺体は,キリスト教にはありえない火葬にされ,伝通院の北にあった小石川無量院に葬られました。この無量院が廃寺になったため,1977(昭和52)年に地元有志によって無量院に隣接していた伝通院に本来の墓碑に似せた供養碑が建立されたとみられます。 供養碑には,墓碑と同じく「入専浄真信士」という戒名が刻まれた碑と,その傍らに立つ「ジョセフ岡本三右衛門神父供養碑」という銘と当時の駐日イタリア大使の言葉が刻まれた碑の二つがあります。

小石川の伝通院は,徳川家康の生母・於大(おだい)の方や豊臣秀頼の正室だった孫娘・千姫の墓所であり,徳川将軍家の菩提寺としても知られる名刹です。この寺院の墓地の少し奥まったところにジュゼッペ・キアラ神父の供養碑が建てられています。 イエズス会のイタリア人宣教師キアラは,1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが捕らえられ,1646(正保3)年に江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後,棄教して岡本三右衛門と名乗り妻や召使いまで与えられましたが,幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死しました。 遺体は,キリスト教にはありえない火葬にされ,伝通院の北にあった小石川無量院に葬られました。この無量院が廃寺になったため,1977(昭和52)年に地元有志によって無量院に隣接していた伝通院に本来の墓碑に似せた供養碑が建立されたとみられます。 供養碑には,墓碑と同じく「入専浄真信士」という戒名が刻まれた碑と,その傍らに立つ「ジョセフ岡本三右衛門神父供養碑」という銘と当時の駐日イタリア大使の言葉が刻まれた碑の二つがあります。
新宿御苑のすぐ近くに「江戸六地蔵」の一つ,銅造の地蔵菩薩像が鎮座する浄土宗大宗寺があります。 新宿御苑は江戸時代に信州高遠藩内藤家の下屋敷があったところで,甲州道中の宿場町だったこの一帯は内藤新宿と呼ばれていました。 大宗寺は内藤家の菩提寺でしたが,その内藤家の墓所から1952(昭和27)年に灯籠の竿石(笠や火袋を支える胴または脚)の部分が出土しました。 灯籠の形は,江戸初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したとされる竿石の上部が横に張り出した織部型で,下部には菩薩のような像が刻まれていました。この灯籠は,竿石が十字架を表し,彫像はマリア像を象徴したものと解釈されて「マリア観音」とも呼ばれ,隠れキリシタンが密かに礼拝したキリシタ灯籠であると見なされています。 信州高遠が,キリシタン大名として知られた京極高知(きょうごくたかとも)のかつての所領であったことと関係があるのかも知れません。 現在,灯籠は笠や火袋が復元されて庫裏の前に置かれています。

新宿御苑のすぐ近くに「江戸六地蔵」の一つ,銅造の地蔵菩薩像が鎮座する浄土宗大宗寺があります。 新宿御苑は江戸時代に信州高遠藩内藤家の下屋敷があったところで,甲州道中の宿場町だったこの一帯は内藤新宿と呼ばれていました。 大宗寺は内藤家の菩提寺でしたが,その内藤家の墓所から1952(昭和27)年に灯籠の竿石(笠や火袋を支える胴または脚)の部分が出土しました。 灯籠の形は,江戸初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したとされる竿石の上部が横に張り出した織部型で,下部には菩薩のような像が刻まれていました。この灯籠は,竿石が十字架を表し,彫像はマリア像を象徴したものと解釈されて「マリア観音」とも呼ばれ,隠れキリシタンが密かに礼拝したキリシタ灯籠であると見なされています。 信州高遠が,キリシタン大名として知られた京極高知(きょうごくたかとも)のかつての所領であったことと関係があるのかも知れません。 現在,灯籠は笠や火袋が復元されて庫裏の前に置かれています。
拓殖大学東門前の参道を上って行くと浄土宗の寺院・深光寺があります。 『南総里見八犬伝』を書いた曲亭馬琴の墓所として知られていますが,本堂に向かって右側には「キリシタン灯籠」がひっそりと立っています。火袋を支える竿石(胴または脚の部分)の上部が横に張り出した特徴ある形は,江戸時代初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したものとされ,普通には織部型灯籠と呼ばれています。 深光寺の灯籠は,竿石の形が十字架のようになっていて,アルファベットを組み合わせたような刻印があり,下部に刻まれた像もキリスト教の聖人に見えることから,隠れキリシタンたちが崇拝したキリシタン灯籠ではないかと考えられています。深光寺の近くに切支丹屋敷があったこともこれに関係しているかも知れません。

拓殖大学東門前の参道を上って行くと浄土宗の寺院・深光寺があります。 『南総里見八犬伝』を書いた曲亭馬琴の墓所として知られていますが,本堂に向かって右側には「キリシタン灯籠」がひっそりと立っています。火袋を支える竿石(胴または脚の部分)の上部が横に張り出した特徴ある形は,江戸時代初期の茶人・古田織部(ふるたおりべ)が考案したものとされ,普通には織部型灯籠と呼ばれています。 深光寺の灯籠は,竿石の形が十字架のようになっていて,アルファベットを組み合わせたような刻印があり,下部に刻まれた像もキリスト教の聖人に見えることから,隠れキリシタンたちが崇拝したキリシタン灯籠ではないかと考えられています。深光寺の近くに切支丹屋敷があったこともこれに関係しているかも知れません。
切支丹屋敷は,改宗したキリスト教宣教師(「転びバテレン」と呼ばれました)の収容所で,宗門改役として辣腕を振るった井上政重の下屋敷に1646(正保3)年に設けられました。 1724(享保9)年に焼失し,その後再建されないまま1792(寛政4)年に廃止されています。 収容者としては,イタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラや同ヨハン・シドッチが知られています。 1646(正保3)年に収容されたキアラは,棄教して岡本三右衛門と名乗りました。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルになった人物です。 シドッチは1708(宝永5)年に屋久島に潜入しましたが,すぐに捕らえられ切支丹屋敷に収容されました。新井白石はここでシドッチを審問し,その内容を『西洋紀聞』などに記しています。 2014(平成26)年の発掘調査でここから3体の人骨が出土しましたが,そのうちの1体はシドッチの可能性が高いとされています。 碑の左側には「八兵衛の夜泣石」が置かれています。この石には,改宗を拒んだ八兵衛を生き埋めにした場所に魂が昇天しないよう石を置いたが,夜になるとそこから泣き声が聞こえ,「八兵衛さん悲しかろう」と言うと返事をしたという言い伝えがあります。

切支丹屋敷は,改宗したキリスト教宣教師(「転びバテレン」と呼ばれました)の収容所で,宗門改役として辣腕を振るった井上政重の下屋敷に1646(正保3)年に設けられました。 1724(享保9)年に焼失し,その後再建されないまま1792(寛政4)年に廃止されています。 収容者としては,イタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラや同ヨハン・シドッチが知られています。 1646(正保3)年に収容されたキアラは,棄教して岡本三右衛門と名乗りました。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルになった人物です。 シドッチは1708(宝永5)年に屋久島に潜入しましたが,すぐに捕らえられ切支丹屋敷に収容されました。新井白石はここでシドッチを審問し,その内容を『西洋紀聞』などに記しています。 2014(平成26)年の発掘調査でここから3体の人骨が出土しましたが,そのうちの1体はシドッチの可能性が高いとされています。 碑の左側には「八兵衛の夜泣石」が置かれています。この石には,改宗を拒んだ八兵衛を生き埋めにした場所に魂が昇天しないよう石を置いたが,夜になるとそこから泣き声が聞こえ,「八兵衛さん悲しかろう」と言うと返事をしたという言い伝えがあります。
キリシタンを取り締まるため,信仰の対象であるイエス・キリストや聖母マリアの像が描かれた「踏絵」を踏ませる行為が絵踏です。もとは紙製でしたが,紙だとすぐに破れてしまうので,しだいに木製や金属製のものが利用されるようになりました。 絵踏は,1626(寛永3)年ころに長崎で行われたのが最初とされています。このころは,1622(元和8)年に長崎で55人ものキリシタンが処刑された元和の大殉教があり,1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されるなど,キリスト教に対する弾圧と警戒が強化されていく時期にあたっています。 九州諸藩で絵踏が厳しく行われるようになると,長崎奉行所では真鍮製の踏絵をつくらせて諸藩に貸し出しました。 その踏絵のほとんどが,現在は東京国立博物館に所蔵されていて年に数回本館で展示されています。それらを見ると表面がすっかり摩滅していて,多くの人々がこれを踏んだことがわかります。 実物はなかなか見られませんが,精巧につくられたレプリカがカトリック高輪教会(港区高輪4-7-1)の資料室で常設展示されています。

キリシタンを取り締まるため,信仰の対象であるイエス・キリストや聖母マリアの像が描かれた「踏絵」を踏ませる行為が絵踏です。もとは紙製でしたが,紙だとすぐに破れてしまうので,しだいに木製や金属製のものが利用されるようになりました。 絵踏は,1626(寛永3)年ころに長崎で行われたのが最初とされています。このころは,1622(元和8)年に長崎で55人ものキリシタンが処刑された元和の大殉教があり,1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されるなど,キリスト教に対する弾圧と警戒が強化されていく時期にあたっています。 九州諸藩で絵踏が厳しく行われるようになると,長崎奉行所では真鍮製の踏絵をつくらせて諸藩に貸し出しました。 その踏絵のほとんどが,現在は東京国立博物館に所蔵されていて年に数回本館で展示されています。それらを見ると表面がすっかり摩滅していて,多くの人々がこれを踏んだことがわかります。 実物はなかなか見られませんが,精巧につくられたレプリカがカトリック高輪教会(港区高輪4-7-1)の資料室で常設展示されています。
JR錦糸町駅から徒歩15分ほど,墨田区にあるカトリック東京大司教区本所教会の聖堂は「日本26聖人殉教者聖堂」と呼ばれています。 日本でのキリスト教に対する弾圧は,1587(天正15)年に豊臣秀吉が出したバテレン追放令からはじまります。バテレンとはカトリックの宣教師のことです。 1597(慶長元)年には,捕らえられたカトリック教会フランシスコ会の司祭・修道士・信徒26人が,秀吉の命令によって長崎西坂の丘で磔の刑に処せられました。これが日本で初めての殉教事件です。のちに,カトリック教会がこの26人を聖人に列したことから,彼らは「日本26聖人」と呼ばれるようになりました。 カトリック本所教会の聖堂は,1880(明治13)年に建てられ日本26聖人に捧げられました。今も彼らが殉教した2月に「日本26聖人殉教祭」のミサが行われています。 また聖堂内には,殉教したフランシスコ会のスペイン人司祭ペドロ・バブチスタとメキシコ人修道士フェリペ・デ・ヘススの肖像画が掲げられています。

JR錦糸町駅から徒歩15分ほど,墨田区にあるカトリック東京大司教区本所教会の聖堂は「日本26聖人殉教者聖堂」と呼ばれています。 日本でのキリスト教に対する弾圧は,1587(天正15)年に豊臣秀吉が出したバテレン追放令からはじまります。バテレンとはカトリックの宣教師のことです。 1597(慶長元)年には,捕らえられたカトリック教会フランシスコ会の司祭・修道士・信徒26人が,秀吉の命令によって長崎西坂の丘で磔の刑に処せられました。これが日本で初めての殉教事件です。のちに,カトリック教会がこの26人を聖人に列したことから,彼らは「日本26聖人」と呼ばれるようになりました。 カトリック本所教会の聖堂は,1880(明治13)年に建てられ日本26聖人に捧げられました。今も彼らが殉教した2月に「日本26聖人殉教祭」のミサが行われています。 また聖堂内には,殉教したフランシスコ会のスペイン人司祭ペドロ・バブチスタとメキシコ人修道士フェリペ・デ・ヘススの肖像画が掲げられています。
上智大学は,キリスト教カトリック教会の男子修道会の一つイエズス会を設立母体としています。 イエズス会は,1534年にイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによってパリで結成され,1540年にローマ教皇の認可を受けました。ロヨラは,スペインのバスク地方出身で,イエズス会の初代総長を務めた人物です。 当時は宗教改革のさなかでしたが,イエズス会はこれに抗して世界各地へのカトリック布教を進めました。ザビエルが初めて日本にキリスト教を伝えたのも,こうした動きの一つに位置付けられます。 イエズス会は,日本でもコレジオ(宣教師養成学校)やセミナリオ(神学校)を開設して布教に努めるとともに,東西の文化交流の一翼を担いました。 ロヨラの像は,上智大学構内にある明治時代後期に竣工したクルトゥルハイム聖堂の前に建てられています。

上智大学は,キリスト教カトリック教会の男子修道会の一つイエズス会を設立母体としています。 イエズス会は,1534年にイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによってパリで結成され,1540年にローマ教皇の認可を受けました。ロヨラは,スペインのバスク地方出身で,イエズス会の初代総長を務めた人物です。 当時は宗教改革のさなかでしたが,イエズス会はこれに抗して世界各地へのカトリック布教を進めました。ザビエルが初めて日本にキリスト教を伝えたのも,こうした動きの一つに位置付けられます。 イエズス会は,日本でもコレジオ(宣教師養成学校)やセミナリオ(神学校)を開設して布教に努めるとともに,東西の文化交流の一翼を担いました。 ロヨラの像は,上智大学構内にある明治時代後期に竣工したクルトゥルハイム聖堂の前に建てられています。
東京メトロ築地駅から徒歩5分ほど,聖路加国際病院近くのあかつき公園内にシーボルトの胸像があります。 シーボルトはドイツ人でしたが,オランダ商館付の医師として1823(文政6)年に来日しました。 1828(文政11)年,帰国の際に彼の荷物から幕府禁制の日本地図などが見つかり国外追放となりましたが(シーボルト事件),これまでの間,シーボルトは診療の傍ら長崎郊外に鳴滝塾を開き,日本各地から集まってきた医師たちに西洋医学を教えました。また1826(文政9)年には,オランダ商館長の江戸参府に同行して日本橋の長崎屋に滞在し,蘭学者たちと交流して彼らに大きな影響を与えました。 シーボルトと築地に直接の関係はありませんが,この地に像が置かれたのは,前野良沢,杉田玄白らが『解体新書』の原本となったオランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』を,ここにあった豊前中津藩の藩邸内で翻訳したことからここが「江戸蘭学発祥の地」とされていること。シーボルトの娘いねが築地に産院を開業したこと。明治初期に外国人居留地が築地に設けられたことが理由とされています。 像は,オランダの大学・財団から日蘭友好を目的として中央区に贈られたものです。

東京メトロ築地駅から徒歩5分ほど,聖路加国際病院近くのあかつき公園内にシーボルトの胸像があります。 シーボルトはドイツ人でしたが,オランダ商館付の医師として1823(文政6)年に来日しました。 1828(文政11)年,帰国の際に彼の荷物から幕府禁制の日本地図などが見つかり国外追放となりましたが(シーボルト事件),これまでの間,シーボルトは診療の傍ら長崎郊外に鳴滝塾を開き,日本各地から集まってきた医師たちに西洋医学を教えました。また1826(文政9)年には,オランダ商館長の江戸参府に同行して日本橋の長崎屋に滞在し,蘭学者たちと交流して彼らに大きな影響を与えました。 シーボルトと築地に直接の関係はありませんが,この地に像が置かれたのは,前野良沢,杉田玄白らが『解体新書』の原本となったオランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』を,ここにあった豊前中津藩の藩邸内で翻訳したことからここが「江戸蘭学発祥の地」とされていること。シーボルトの娘いねが築地に産院を開業したこと。明治初期に外国人居留地が築地に設けられたことが理由とされています。 像は,オランダの大学・財団から日蘭友好を目的として中央区に贈られたものです。
東京メトロ中野坂上駅から徒歩7分ほどのところに朝日が丘公園があります。 江戸時代,このあたりに象小屋がありました。『江戸名所図会』には「中野に象厩(きさや)を立ててそれを飼おせられし」と記されています。 この象は,8代将軍徳川吉宗の求めにより,1728(享保13)年に中国商人が安南(現在のベトナム)から連れてきたものでした。長崎に着いたときにはオス・メスの2頭でしたが,メスは死んでしまい,オスだけが陸路,京都を経て江戸までやって来ました。 京都では,中御門(なかみかど)天皇の謁見を受け「広南従四位白象」という位までもらったといいます。江戸では,吉宗が上覧したあと浜御殿(現在の浜離宮恩賜公園)で10年余り飼育されていましたが,その後中野村の源助という農民に下げ渡され,この象小屋で飼われたということです。 当時,象はとても珍しく,多くの見物人がここを訪れ,象にちなんだ物品もいろいろとつくられました。 象は1742(寛保2)年に病死し,皮は幕府に献上され,牙や骨は宝仙寺(中野区中央2-33-3)に納められ供養されましたが,1945(昭和20)年の戦火で一部を残し焼失してしまいました。

東京メトロ中野坂上駅から徒歩7分ほどのところに朝日が丘公園があります。 江戸時代,このあたりに象小屋がありました。『江戸名所図会』には「中野に象厩(きさや)を立ててそれを飼おせられし」と記されています。 この象は,8代将軍徳川吉宗の求めにより,1728(享保13)年に中国商人が安南(現在のベトナム)から連れてきたものでした。長崎に着いたときにはオス・メスの2頭でしたが,メスは死んでしまい,オスだけが陸路,京都を経て江戸までやって来ました。 京都では,中御門(なかみかど)天皇の謁見を受け「広南従四位白象」という位までもらったといいます。江戸では,吉宗が上覧したあと浜御殿(現在の浜離宮恩賜公園)で10年余り飼育されていましたが,その後中野村の源助という農民に下げ渡され,この象小屋で飼われたということです。 当時,象はとても珍しく,多くの見物人がここを訪れ,象にちなんだ物品もいろいろとつくられました。 象は1742(寛保2)年に病死し,皮は幕府に献上され,牙や骨は宝仙寺(中野区中央2-33-3)に納められ供養されましたが,1945(昭和20)年の戦火で一部を残し焼失してしまいました。
江戸時代,幕府は朝鮮(李王朝)との間に唯一対等な外交関係を築いていました。 朝鮮からの外交使節団が,1607(慶長12)年から1811(文化8)年まで,12回にわたって日本を訪れています。この使節団は,1636(寛永13)年の4回目からは,信(よしみ)を通じ修好を目的とする「通信使」と呼ばれるようになります。来日の名目は,おもに将軍の代替わりを祝うということでした。 総勢500人を超えることもあったという通信使一行は,朝鮮半島から対馬・壱岐などを経由して下関に入り,陸路・海路で京都,さらに江戸に向かいました。一行は行列して江戸市中を巡り宿所に入りましたが,多くの庶民が見物に集まり,「江戸市中の道路は見物客で埋まり,塀を築いたようだ」と通信使の正使がその様子を伝えています。 浅草本願寺(現在の東本願寺)は,1657(明暦3)年の明暦の大火以降,通信使一行の江戸での宿所とされたところです。一行には,儒学者や医者,画家などが加わっていたため,宿所では彼らと日本人の学者,医者,画家との交流がみられました。 通信使の来日は,江戸の人々にとって外国文化に接する貴重な機会となっていたのです。

江戸時代,幕府は朝鮮(李王朝)との間に唯一対等な外交関係を築いていました。 朝鮮からの外交使節団が,1607(慶長12)年から1811(文化8)年まで,12回にわたって日本を訪れています。この使節団は,1636(寛永13)年の4回目からは,信(よしみ)を通じ修好を目的とする「通信使」と呼ばれるようになります。来日の名目は,おもに将軍の代替わりを祝うということでした。 総勢500人を超えることもあったという通信使一行は,朝鮮半島から対馬・壱岐などを経由して下関に入り,陸路・海路で京都,さらに江戸に向かいました。一行は行列して江戸市中を巡り宿所に入りましたが,多くの庶民が見物に集まり,「江戸市中の道路は見物客で埋まり,塀を築いたようだ」と通信使の正使がその様子を伝えています。 浅草本願寺(現在の東本願寺)は,1657(明暦3)年の明暦の大火以降,通信使一行の江戸での宿所とされたところです。一行には,儒学者や医者,画家などが加わっていたため,宿所では彼らと日本人の学者,医者,画家との交流がみられました。 通信使の来日は,江戸の人々にとって外国文化に接する貴重な機会となっていたのです。
江戸幕府の鎖国政策の下,日本が交流をもったヨーロッパの国はオランダ一国だけでした。ただし,オランダが許されていたのは貿易だけでしたので「通商の国」と呼ばれていました。 オランダは,長崎の出島に東インド会社の支店として商館を置き貿易の拠点としました。その最高責任者がカピタンと呼ばれた商館長です。 カピタンは,御礼言上のため年に一度(のちに4年に一度)江戸に参府して海外情勢を記した『オランダ風説書』を幕府に提出し,あわせて将軍に拝謁することになっていました。この江戸参府の際に,カピタン一行の定宿(阿蘭陀宿)とされていたのが長崎屋です。長崎屋は,現在の日本橋室町,当時の日本橋石町(こくちょう)に大店を構えていた薬種問屋でした。 カピタン一行には,通訳や医師,学者などが随行してきていたので,彼らの滞在中は,ヨーロッパの進んだ技術や知識を得ようとして幕府の天文方をはじめ江戸の医者や蘭学者たちが長崎屋につめかけました。平賀源内や杉田玄白もその中の一人です。 また,物見高い江戸の庶民も大勢集まってきたといいます。長崎屋は,江戸唯一のヨーロッパ人との交流の場となっていたのです。

江戸幕府の鎖国政策の下,日本が交流をもったヨーロッパの国はオランダ一国だけでした。ただし,オランダが許されていたのは貿易だけでしたので「通商の国」と呼ばれていました。 オランダは,長崎の出島に東インド会社の支店として商館を置き貿易の拠点としました。その最高責任者がカピタンと呼ばれた商館長です。 カピタンは,御礼言上のため年に一度(のちに4年に一度)江戸に参府して海外情勢を記した『オランダ風説書』を幕府に提出し,あわせて将軍に拝謁することになっていました。この江戸参府の際に,カピタン一行の定宿(阿蘭陀宿)とされていたのが長崎屋です。長崎屋は,現在の日本橋室町,当時の日本橋石町(こくちょう)に大店を構えていた薬種問屋でした。 カピタン一行には,通訳や医師,学者などが随行してきていたので,彼らの滞在中は,ヨーロッパの進んだ技術や知識を得ようとして幕府の天文方をはじめ江戸の医者や蘭学者たちが長崎屋につめかけました。平賀源内や杉田玄白もその中の一人です。 また,物見高い江戸の庶民も大勢集まってきたといいます。長崎屋は,江戸唯一のヨーロッパ人との交流の場となっていたのです。
「三浦按針(あんじん)」は,イギリス人ウィリアム・アダムズの日本名です。1600(慶長5)年に豊後国(現在の大分県)に漂着したオランダ商船リーフデ号に,水先案内人として乗船していました。「按針」という名は,ウィリアム・アダムズの仕事に由来しています。 リーフデ号の航海士だったヤン・ヨーステンとともに徳川家康に召し抱えられたウィリアム・アダムズは,その造船技術や航海術が高く評価され,また天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられて相模国(現在の神奈川県)三浦郡に領地を与えられました。「三浦」の苗字はそこから来ています。 按針は,日本橋大伝馬町(おおでんまちょう)の名主の娘と結婚したとされていますが,彼が与えられた江戸の屋敷地は屋敷跡の碑がある現在の日本橋室町1 丁目辺りで,昭和初期まで「按針町」と呼ばれていました。 そこには,今でも「按針通り」 の名が残っています。

「三浦按針(あんじん)」は,イギリス人ウィリアム・アダムズの日本名です。1600(慶長5)年に豊後国(現在の大分県)に漂着したオランダ商船リーフデ号に,水先案内人として乗船していました。「按針」という名は,ウィリアム・アダムズの仕事に由来しています。 リーフデ号の航海士だったヤン・ヨーステンとともに徳川家康に召し抱えられたウィリアム・アダムズは,その造船技術や航海術が高く評価され,また天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられて相模国(現在の神奈川県)三浦郡に領地を与えられました。「三浦」の苗字はそこから来ています。 按針は,日本橋大伝馬町(おおでんまちょう)の名主の娘と結婚したとされていますが,彼が与えられた江戸の屋敷地は屋敷跡の碑がある現在の日本橋室町1 丁目辺りで,昭和初期まで「按針町」と呼ばれていました。 そこには,今でも「按針通り」 の名が残っています。
1600(慶長5)年,豊後国の海岸(現在の大分県臼杵)に一隻の帆船が漂着しました。オランダ共和国の商船リーフデ号です。 徳川家康は,乗組員のうち航海士のオランダ人ヤン・ヨーステン,水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズを江戸に招き,外交・貿易の顧問としました。 ヤン・ヨーステンは,平戸にオランダ商館が設けられると幕府と商館の仲介役として活躍し,東南アジアとの朱印船貿易も営みました。日本名を耶楊子といい,江戸に屋敷を与えられ,日本人の女性と結婚して女子をもうけています。八重洲というのは,ヤン・ヨーステンがこの辺り(和田倉門外の堀端)に居住していたことから生まれた地名だと伝えられています。 東京駅八重洲中央口からのびる八重洲通りと中央通りとが交差する手前の中央分離帯にある記念碑は,1989(平成元)年に中央区が日蘭修好380周年を記念して設けたもので,二つの羅針盤の中央上にオランダ東インド会社のロゴVOC,右側にリーフデ号,左側にヤン・ヨーステンの像が刻まれています。 また,東京駅の八重洲地下街(外堀地下1番通り)にも,リーフデ号の航路を示す地図とともにヤン・ヨーステンの記念像が置かれています。

1600(慶長5)年,豊後国の海岸(現在の大分県臼杵)に一隻の帆船が漂着しました。オランダ共和国の商船リーフデ号です。 徳川家康は,乗組員のうち航海士のオランダ人ヤン・ヨーステン,水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズを江戸に招き,外交・貿易の顧問としました。 ヤン・ヨーステンは,平戸にオランダ商館が設けられると幕府と商館の仲介役として活躍し,東南アジアとの朱印船貿易も営みました。日本名を耶楊子といい,江戸に屋敷を与えられ,日本人の女性と結婚して女子をもうけています。八重洲というのは,ヤン・ヨーステンがこの辺り(和田倉門外の堀端)に居住していたことから生まれた地名だと伝えられています。 東京駅八重洲中央口からのびる八重洲通りと中央通りとが交差する手前の中央分離帯にある記念碑は,1989(平成元)年に中央区が日蘭修好380周年を記念して設けたもので,二つの羅針盤の中央上にオランダ東インド会社のロゴVOC,右側にリーフデ号,左側にヤン・ヨーステンの像が刻まれています。 また,東京駅の八重洲地下街(外堀地下1番通り)にも,リーフデ号の航路を示す地図とともにヤン・ヨーステンの記念像が置かれています。
目白通り沿いに斬新なデザインのキリスト教会があります。東京カテドラル聖マリア大聖堂というカトリックの教会で,現在の建物は世界的な建築家・丹下健三の設計により1964(昭和39)年に落成しました。 フランシスコ・ザビエルの像はドイツのケルン教区から贈られたもので,大聖堂内に安置されています。 スペイン出身の宣教師ザビエルは,イグナティウス・ロヨラらとともにパリでイエズス会を結成し,インドをはじめ東方へのカトリック布教に生涯を捧げました。ザビエルは,マラッカで鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)と出遭ったことをきっかけに日本への布教を志し,1549(天文18)年,鹿児島に来航しました。キリスト教が初めて日本にもたらされたのです。ザビエルの日本滞在は2年ほどでしたが,この間に九州から中国地方の各地,京都にまで布教活動を展開し,その後のキリスト教信徒拡大の礎を築きました。 この大聖堂は,日本に16あるカトリック教会の教区のうち東京教区の「母教区」ともいえる位置付けになっていますので,ザビエルの像がここにあるのも納得です。 なお,上智大学構内の10号館前にもザビエルの像が建てられています。

目白通り沿いに斬新なデザインのキリスト教会があります。東京カテドラル聖マリア大聖堂というカトリックの教会で,現在の建物は世界的な建築家・丹下健三の設計により1964(昭和39)年に落成しました。 フランシスコ・ザビエルの像はドイツのケルン教区から贈られたもので,大聖堂内に安置されています。 スペイン出身の宣教師ザビエルは,イグナティウス・ロヨラらとともにパリでイエズス会を結成し,インドをはじめ東方へのカトリック布教に生涯を捧げました。ザビエルは,マラッカで鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)と出遭ったことをきっかけに日本への布教を志し,1549(天文18)年,鹿児島に来航しました。キリスト教が初めて日本にもたらされたのです。ザビエルの日本滞在は2年ほどでしたが,この間に九州から中国地方の各地,京都にまで布教活動を展開し,その後のキリスト教信徒拡大の礎を築きました。 この大聖堂は,日本に16あるカトリック教会の教区のうち東京教区の「母教区」ともいえる位置付けになっていますので,ザビエルの像がここにあるのも納得です。 なお,上智大学構内の10号館前にもザビエルの像が建てられています。
皆中(かいちゅう)稲荷神社がある新宿区百人町。この町名は,江戸幕府により「鉄砲百人組(伊賀組)」に組織された武士たちがこの辺りに組屋敷を与えられ,集団で居住していたことから名づけられました。 鉄砲は,1543(天文12)年に,種子島に漂着した中国船に乗船していたポルトガル人によって初めて日本にもたらされましたが,間もなく和泉の堺や近江の国友などでも生産されるようになり,戦国大名の間に急速に広まっていきました。鉄砲百人組は,江戸開幕前に,江戸の西側を守るため徳川家康家臣の内藤氏が配置していたものを幕府直轄としたものです。 皆中稲荷神社は,1533(天文2)年に鎮座したと伝えられますが,鉄砲百人組の武士がこの神社に参拝したところ射撃が百発百中で的中し,以降,「みなあたる」皆中稲荷神社と呼ばれるようになったといいます。皆中稲荷神社は,鉄砲百人組の武士はもちろんのこと,江戸の多くの人々の信仰も集めるようになりました。 現在は隔年で,火縄銃の試射などを行う行事「鉄砲組百人隊行列」が開かれています。今も,宝くじの「あたり」を祈願する人たちの参拝が絶えません。

皆中(かいちゅう)稲荷神社がある新宿区百人町。この町名は,江戸幕府により「鉄砲百人組(伊賀組)」に組織された武士たちがこの辺りに組屋敷を与えられ,集団で居住していたことから名づけられました。 鉄砲は,1543(天文12)年に,種子島に漂着した中国船に乗船していたポルトガル人によって初めて日本にもたらされましたが,間もなく和泉の堺や近江の国友などでも生産されるようになり,戦国大名の間に急速に広まっていきました。鉄砲百人組は,江戸開幕前に,江戸の西側を守るため徳川家康家臣の内藤氏が配置していたものを幕府直轄としたものです。 皆中稲荷神社は,1533(天文2)年に鎮座したと伝えられますが,鉄砲百人組の武士がこの神社に参拝したところ射撃が百発百中で的中し,以降,「みなあたる」皆中稲荷神社と呼ばれるようになったといいます。皆中稲荷神社は,鉄砲百人組の武士はもちろんのこと,江戸の多くの人々の信仰も集めるようになりました。 現在は隔年で,火縄銃の試射などを行う行事「鉄砲組百人隊行列」が開かれています。今も,宝くじの「あたり」を祈願する人たちの参拝が絶えません。