大河ドラマで紹介されたスポット・ロケ地を中心に、ゆかりのある場所を集めていきます。街中を歩けば意外なスポットが見つかったりしますので、発見したらみんなでシェアしていきましょう。(その情報ほんと?というのもあると思いますが、そこは自分で調べ考えるということでお願いします) nhk-ondemand.jp/program/P20220...
関連するめっけブック
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紹介スポット
- 136件井伊共保(いいともやす)公出生の井戸
第20回紀行 井伊家初代当主共保公出生の井戸。井伊家の菩提寺である龍潭寺の近く、そして田んぼの中にあります
第20回紀行 井伊家初代当主共保公出生の井戸。井伊家の菩提寺である龍潭寺の近く、そして田んぼの中にあります
井伊谷城跡(いいのやじょうあと)
第20回紀行 井伊家の居城、ゆかりの地
第20回紀行 井伊家の居城、ゆかりの地
犀ヶ崖(さいががけ)古戦場
第18回紀行 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した家康ですが、この地では一矢報いたと伝わります
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗し浜松城に逃げ延びた家康を、この付近で陣をはって追い詰めようとした武田軍に対して家康が一矢報いた戦いの場です。 近くに、夏目吉信の碑、本多忠真の碑があるように、家康は三方ヶ原の戦いで多くの重臣を失うことになりました。
(編集済み)
第18回紀行 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した家康ですが、この地では一矢報いたと伝わります
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗し浜松城に逃げ延びた家康を、この付近で陣をはって追い詰めようとした武田軍に対して家康が一矢報いた戦いの場です。 近くに、夏目吉信の碑、本多忠真の碑があるように、家康は三方ヶ原の戦いで多くの重臣を失うことになりました。
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鎧掛松(よろいかけまつ)
家康が武田信玄との戦いで命からがら逃げ伸びて浜松城に戻った際に、その鎧をここに掛けたと伝わります
家康が武田信玄との戦いで命からがら逃げ伸びて浜松城に戻った際に、その鎧をここに掛けたと伝わります
徳川家康が、武田信玄との三方ヶ原の戦いで敗れて逃げる際に、この地にある楠の穴に隠れて追手を逃れたと伝わります。雲立楠と言われるのは、こういう言われがあるからなんですね。 hamamatsuhachimangu.org/shinbo...
(編集済み)
徳川家康が、武田信玄との三方ヶ原の戦いで敗れて逃げる際に、この地にある楠の穴に隠れて追手を逃れたと伝わります。雲立楠と言われるのは、こういう言われがあるからなんですね。 hamamatsuhachimangu.org/shinbo...
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三方ヶ原古戦場碑(みかたがはらこせんじょうひ)
第18回紀行 武田信玄と徳川家康の戦いの場所
徳川家康が武田信玄との戦いで大敗した場所です。浜松城を素通りして三河の方に向かった信玄を浜松の地の利を活かして背後から急襲しようとした家康でしたが、信玄はその上をいっていました。家康の3大危機の1つとしても有名な合戦の地です。
第18回紀行 武田信玄と徳川家康の戦いの場所
徳川家康が武田信玄との戦いで大敗した場所です。浜松城を素通りして三河の方に向かった信玄を浜松の地の利を活かして背後から急襲しようとした家康でしたが、信玄はその上をいっていました。家康の3大危機の1つとしても有名な合戦の地です。
家康の家臣が守るこの城を中心に、武田信玄との戦いになりました。三方を川が流れており自然の要害を活かした城でしたが、天竜川から水を汲み上げる井戸櫓を武田軍が破壊したことで、二俣城は落城し、次は三方ヶ原の戦いに続いていきました。
家康の家臣が守るこの城を中心に、武田信玄との戦いになりました。三方を川が流れており自然の要害を活かした城でしたが、天竜川から水を汲み上げる井戸櫓を武田軍が破壊したことで、二俣城は落城し、次は三方ヶ原の戦いに続いていきました。
久能山東照宮つながるロープウェイ。1200段近い階段を登ってお参りするのもいいですが、このロープウェイなら5分で、そして綺麗な景色を見ながらお参りできます。
甲斐黄金村・湯之奥金山博物館
第16回紀行 武田家の経済基盤であった金山。ここでは、砂金取りの体験などができます。
第16回紀行 武田家の経済基盤であった金山。ここでは、砂金取りの体験などができます。
長浜市立 曳山博物館
第13回紀行 鉄砲職人の技術が集まった曳山(山車)が展示されています
高度な技術を持つ鉄砲職人たちは、時代が平和になるにつれ、工芸品などにその技術を活かしました。火薬を扱っていた方は、あの有名な長浜の花火に、鉄砲職人の方は、曳山(山車)の装飾にその力を向けたそうです。長浜の花火の由縁はここにあったんですね。 nagahama-hikiyama.or.jp
(編集済み)
第13回紀行 鉄砲職人の技術が集まった曳山(山車)が展示されています
高度な技術を持つ鉄砲職人たちは、時代が平和になるにつれ、工芸品などにその技術を活かしました。火薬を扱っていた方は、あの有名な長浜の花火に、鉄砲職人の方は、曳山(山車)の装飾にその力を向けたそうです。長浜の花火の由縁はここにあったんですね。 nagahama-hikiyama.or.jp
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長浜市立 国友鉄砲ミュージアム
第13回紀行 高い技術力をもとに作られた鉄砲は、家康の大坂夏の陣などでも使われたそうです
高い技術力をもとに作られた鉄砲は、家康の大坂夏の陣などでも使われたそうです。国友 一貫斎という方を初めて知りましたが、すごいですね! kunitomo-teppo.jp/ikkansai
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第13回紀行 高い技術力をもとに作られた鉄砲は、家康の大坂夏の陣などでも使われたそうです
高い技術力をもとに作られた鉄砲は、家康の大坂夏の陣などでも使われたそうです。国友 一貫斎という方を初めて知りましたが、すごいですね! kunitomo-teppo.jp/ikkansai
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日本百名城の一つ。ここ小谷城を中心に浅井家が治めていました。信長の妹お市の方も浅井長政に嫁ぎ、茶々、初、江の3人の子供に恵まれました。日本5大山城の一つでもあります。 tabi-mag.jp/mountaincastle-big...
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