
ゼロからはじめる愛知・戦国史跡巡り講座

歴史初心者向けに作った愛知の戦国史跡と城跡そして御朱印巡りのサイト『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』に掲載されているスポットをMEQQE化しました。ウォーキングや歴史巡り・城巡り、観光にぜひご活用ください。 MEQQE内の情報は、ブログ『ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座』投稿時の情報です。 営業状況が変更されている可能性もありますので、お出かけの際は事前にご確認いただきますようお願いいたします。
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紹介スポット
- 451件石川氏の居城だった小川城跡は、現在、安城市小川町的場丘にある本城公園になっています。公園の名前がすでに城址ですね。 休憩所のベンチの横の壁に小川城についての石碑が埋め込んであります。これってベンチに座った状態では見えず、外から見える石碑なんです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1887

石川氏の居城だった小川城跡は、現在、安城市小川町的場丘にある本城公園になっています。公園の名前がすでに城址ですね。 休憩所のベンチの横の壁に小川城についての石碑が埋め込んであります。これってベンチに座った状態では見えず、外から見える石碑なんです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1887
小牧市の本田公園はかつてこの近くの川に架かっていた年貢橋(清正橋)が移築展示されている公園です。 本田公園の奥に鉄柵があり、その中に年貢橋(清正橋)があります。 中に入ることはできず、鉄格子から見学できます。 ちなみにこの年貢橋(清正橋)は、本田公園から南へ100mちょっと離れた場所に架かっていました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4434

小牧市の本田公園はかつてこの近くの川に架かっていた年貢橋(清正橋)が移築展示されている公園です。 本田公園の奥に鉄柵があり、その中に年貢橋(清正橋)があります。 中に入ることはできず、鉄格子から見学できます。 ちなみにこの年貢橋(清正橋)は、本田公園から南へ100mちょっと離れた場所に架かっていました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=4434
桂林寺のすぐ近くにある堀尾跡公園は、堀尾金助と母の逸話を分かりやすく再現した公園です。 公園内にある裁断橋の親柱(本物)。裁断橋は明治三十七年(1904)に改架されましたが、平成四年に撤去されたので堀尾跡公園に親柱(擬宝珠の下の部分)が移築されました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3709

桂林寺のすぐ近くにある堀尾跡公園は、堀尾金助と母の逸話を分かりやすく再現した公園です。 公園内にある裁断橋の親柱(本物)。裁断橋は明治三十七年(1904)に改架されましたが、平成四年に撤去されたので堀尾跡公園に親柱(擬宝珠の下の部分)が移築されました。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=3709
知多郡東浦町は、戦国時代に知多半島に勢力を持っていた水野氏の拠点・緒川城があります。その緒川城主だった水野氏三代の墓は、於大公園の中にあります。それが水野貞守,賢正,清忠の墓所です。於大公園の中にある【このはな館】に行きます。すると東側の森の中に水野氏三代の墓所があります。森の中を進んでいくと、小川(緒川)城主三代之墓所という石碑があります。この石碑が墓所の入り口です。水野氏三代の墓所は知多半島の戦国史跡の中でも貴重なものだと思います。その理由は緒川城の水野氏といえば、四代・忠政から有名ですが、それ以前の水野氏の墓なので貴重といえるでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2444

知多郡東浦町は、戦国時代に知多半島に勢力を持っていた水野氏の拠点・緒川城があります。その緒川城主だった水野氏三代の墓は、於大公園の中にあります。それが水野貞守,賢正,清忠の墓所です。於大公園の中にある【このはな館】に行きます。すると東側の森の中に水野氏三代の墓所があります。森の中を進んでいくと、小川(緒川)城主三代之墓所という石碑があります。この石碑が墓所の入り口です。水野氏三代の墓所は知多半島の戦国史跡の中でも貴重なものだと思います。その理由は緒川城の水野氏といえば、四代・忠政から有名ですが、それ以前の水野氏の墓なので貴重といえるでしょう。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=2444
江戸時代に整備された東海道は、現在の東京~京都を結ぶ街道でしたが、全て陸路ではなく、一カ所だけ海路がありました。 それが宮宿~桑名宿を結ぶ七里の渡しです。 現在では宮の渡し公園として整備されており、熱田神宮からも歩いて訪れる事ができる場所です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=7711

江戸時代に整備された東海道は、現在の東京~京都を結ぶ街道でしたが、全て陸路ではなく、一カ所だけ海路がありました。 それが宮宿~桑名宿を結ぶ七里の渡しです。 現在では宮の渡し公園として整備されており、熱田神宮からも歩いて訪れる事ができる場所です。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=7711
愛知県に桶狭間古戦場は2つありますが、そのうちのひとつである、名古屋市緑区側の古戦場公園と周辺史跡について。豊明市側もそうですが、かつての桶狭間古戦場は現在では住宅地となって、キレイな街並みが広がっています。つまり大幅に開発が進んでいるという事です。そんな中、住宅街に桶狭間合戦史跡が点在しています。周辺一帯が桶狭間合戦の中心地であり、今川義元が討死した場所といわれ、おけはざま山・今川義元本陣跡の石碑と案内看板が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=280

愛知県に桶狭間古戦場は2つありますが、そのうちのひとつである、名古屋市緑区側の古戦場公園と周辺史跡について。豊明市側もそうですが、かつての桶狭間古戦場は現在では住宅地となって、キレイな街並みが広がっています。つまり大幅に開発が進んでいるという事です。そんな中、住宅街に桶狭間合戦史跡が点在しています。周辺一帯が桶狭間合戦の中心地であり、今川義元が討死した場所といわれ、おけはざま山・今川義元本陣跡の石碑と案内看板が建っています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=280
かつての刈谷城跡は現在、亀城公園(きじょうこうえん)と住宅地になっていますが、よく注意して歩いてみるといろんな見どころのポイントがあります。 刈谷城跡の本丸、二の丸は現在亀城公園になっており、ちょっとした桜の名所にもなっています。毎年4月上旬~中旬に行われる桜まつりは屋台も出るので、多くの観光客で賑わいます。本丸は駐車場の近くにあり、刈谷城で一番高い位置にあるので、自然と本丸にたどり着きます。本丸は基本、公園で芝生とか木が植えてあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=11122

かつての刈谷城跡は現在、亀城公園(きじょうこうえん)と住宅地になっていますが、よく注意して歩いてみるといろんな見どころのポイントがあります。 刈谷城跡の本丸、二の丸は現在亀城公園になっており、ちょっとした桜の名所にもなっています。毎年4月上旬~中旬に行われる桜まつりは屋台も出るので、多くの観光客で賑わいます。本丸は駐車場の近くにあり、刈谷城で一番高い位置にあるので、自然と本丸にたどり着きます。本丸は基本、公園で芝生とか木が植えてあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=11122
信長の菩提寺。 もともとは伊勢国(現在の三重県)にあった西明寺という寺でしたが、本能寺の変後に織田信雄によって、父・信長の菩提を弔うために清洲に移され、安土摠見寺にならって、名前も摠見寺と改めました。 名古屋城築城後の慶長十六年(1611)、それまで尾張国の中心だった清洲を町ごと名古屋に移転させた、清洲越しの時に摠見寺も移され、現在もそのまま存続しています。 門は固く閉ざされ、一般人の参拝は不可ですが、門をよく見ると織田家の家紋である大きな織田木瓜(おだもっこう)があります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=202

信長の菩提寺。 もともとは伊勢国(現在の三重県)にあった西明寺という寺でしたが、本能寺の変後に織田信雄によって、父・信長の菩提を弔うために清洲に移され、安土摠見寺にならって、名前も摠見寺と改めました。 名古屋城築城後の慶長十六年(1611)、それまで尾張国の中心だった清洲を町ごと名古屋に移転させた、清洲越しの時に摠見寺も移され、現在もそのまま存続しています。 門は固く閉ざされ、一般人の参拝は不可ですが、門をよく見ると織田家の家紋である大きな織田木瓜(おだもっこう)があります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=202
現在は曹洞宗になった龍海院。 是字寺(ぜのじでら)の大きな石碑がありました。松平清康の夢ゆかりの石碑ですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1724

現在は曹洞宗になった龍海院。 是字寺(ぜのじでら)の大きな石碑がありました。松平清康の夢ゆかりの石碑ですね。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1724
下茶屋公園には池があるのですが、その池はかつての古渡城の堀跡を利用して作られたものといわれています。ちなみに名古屋別院の庭園の池として整備されたのですが、その池は古渡城の堀跡を利用して作られているとの事。でも現状は庭園の池で、堀の様子はどのようなものだったのかワカリマセン… 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=181

下茶屋公園には池があるのですが、その池はかつての古渡城の堀跡を利用して作られたものといわれています。ちなみに名古屋別院の庭園の池として整備されたのですが、その池は古渡城の堀跡を利用して作られているとの事。でも現状は庭園の池で、堀の様子はどのようなものだったのかワカリマセン… 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=181