
大河ドラマでも注目!源頼朝の足跡を辿る

2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
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紹介スポット
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衣川館(ころもがわのたち)は、源平合戦の英雄・源義経が最期を迎えた場所。 高館(たかだち)、判官館(はんがんだて)とも呼ばれる。 もとは奥州藤原氏の居館があった場所で、兄源頼朝と対立し、逃亡の末、藤原秀衡を頼った義経は、その一画に居館を与えられた。 1187年(文治3年)10月29日、秀衡が亡くなると、跡を継いだ泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、衣川館を攻め、義経を自刃に追い込んだ。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/g...


衣川館(ころもがわのたち)は、源平合戦の英雄・源義経が最期を迎えた場所。 高館(たかだち)、判官館(はんがんだて)とも呼ばれる。 もとは奥州藤原氏の居館があった場所で、兄源頼朝と対立し、逃亡の末、藤原秀衡を頼った義経は、その一画に居館を与えられた。 1187年(文治3年)10月29日、秀衡が亡くなると、跡を継いだ泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、衣川館を攻め、義経を自刃に追い込んだ。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/g...

梶原八幡神社は、梶原景時が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した社。 1191年(建久2年)4月、景時は源頼朝から鶴岡八幡宮の古神体を譲り受け、6月、所領である八王子に奉祀したのだという。 鶴岡八幡宮は、この年の3月4日に発生した火事により焼失(建久2年の大火)。 『吾妻鏡』によると、すぐさま再建にとりかかった頼朝は、4月26日、大臣山の中腹に神殿を造営し、上棟式を行っている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kajiwara-ha...


梶原八幡神社は、梶原景時が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した社。 1191年(建久2年)4月、景時は源頼朝から鶴岡八幡宮の古神体を譲り受け、6月、所領である八王子に奉祀したのだという。 鶴岡八幡宮は、この年の3月4日に発生した火事により焼失(建久2年の大火)。 『吾妻鏡』によると、すぐさま再建にとりかかった頼朝は、4月26日、大臣山の中腹に神殿を造営し、上棟式を行っている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kajiwara-ha...

延暦寺は、788年(延暦7年)、最澄によって開かれた天台宗総本山。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などの鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の祖が学んだ地。弁慶も修行に励んだらしい。頼朝と対立した源義経は比叡山を頼り、一時庇護されていたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...


延暦寺は、788年(延暦7年)、最澄によって開かれた天台宗総本山。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などの鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の祖が学んだ地。弁慶も修行に励んだらしい。頼朝と対立した源義経は比叡山を頼り、一時庇護されていたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...

壺井八幡宮は、前九年の役に勝利した源頼義が、1064年(康平7年)5月15日に社殿を造営し、石清水八幡宮を勧請したことに始まる。 頼義は、河内源氏の祖頼信の子。 前九年の役に勝利して河内国に凱旋した頼義は、それまで香呂峰と呼ばれた地を壺井に改め、壺井八幡宮を河内源氏の氏神とした。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oosaka/tubo...


壺井八幡宮は、前九年の役に勝利した源頼義が、1064年(康平7年)5月15日に社殿を造営し、石清水八幡宮を勧請したことに始まる。 頼義は、河内源氏の祖頼信の子。 前九年の役に勝利して河内国に凱旋した頼義は、それまで香呂峰と呼ばれた地を壺井に改め、壺井八幡宮を河内源氏の氏神とした。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oosaka/tubo...

平盛久は壇ノ浦の戦い後に捕らえられるが、観音信者だった頼朝は罪を許したのだとか・・・ ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kaneiji/kiy...


平盛久は壇ノ浦の戦い後に捕らえられるが、観音信者だった頼朝は罪を許したのだとか・・・ ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kaneiji/kiy...

龍前院は、大庭景親三世の祖良正が建立し、僧道印が行基作の薬師如来・十二神将像を祀ったのが始まりだという。 法相宗の寺院から古義真言宗、鶴嶺八幡宮の僧坊を経て、1508(永正5年)頃、楞山周厳によって曹洞宗寺院として再興された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ryuzenin.ht...


龍前院は、大庭景親三世の祖良正が建立し、僧道印が行基作の薬師如来・十二神将像を祀ったのが始まりだという。 法相宗の寺院から古義真言宗、鶴嶺八幡宮の僧坊を経て、1508(永正5年)頃、楞山周厳によって曹洞宗寺院として再興された。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ryuzenin.ht...

建久年間(1190~1199年)、岩瀬を治めていた岩瀬与一太郎が創建した神社と伝えられている。 与一太郎は、常陸国の佐竹氏の家臣で、佐竹征伐の折に捕らえらたが、源頼朝に許されて御家人となり、岩瀬に屋敷を構えて治めたという。 『吾妻鏡』にも「捕虜の与一太郎を家人に加える」と記されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page140gosh...


建久年間(1190~1199年)、岩瀬を治めていた岩瀬与一太郎が創建した神社と伝えられている。 与一太郎は、常陸国の佐竹氏の家臣で、佐竹征伐の折に捕らえらたが、源頼朝に許されて御家人となり、岩瀬に屋敷を構えて治めたという。 『吾妻鏡』にも「捕虜の与一太郎を家人に加える」と記されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page140gosh...

1192年(建久3年)、源頼朝は落胤を仁和寺の法眼隆暁に弟子入りさせている。 のちの貞暁。 貞暁は、妾の大進局との間に授かった子で、北条政子の勘気に遭い、人目を憚るように育てられていたという。のちに高野山へ登り、そこで最期を遂げている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...


1192年(建久3年)、源頼朝は落胤を仁和寺の法眼隆暁に弟子入りさせている。 のちの貞暁。 貞暁は、妾の大進局との間に授かった子で、北条政子の勘気に遭い、人目を憚るように育てられていたという。のちに高野山へ登り、そこで最期を遂げている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...

1193年(建久4年)、源頼朝が富士裾野で大規模な軍事訓練(巻狩り)を催した際に創建されたと伝えられている(他説もある。)。 「巻狩り」は遊興ではなく、征夷大将軍としての頼朝の力を見せつけるための大軍事演習だったといわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sengenjinya...


1193年(建久4年)、源頼朝が富士裾野で大規模な軍事訓練(巻狩り)を催した際に創建されたと伝えられている(他説もある。)。 「巻狩り」は遊興ではなく、征夷大将軍としての頼朝の力を見せつけるための大軍事演習だったといわれている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sengenjinya...
