2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件満福寺
源義経が兄源頼朝の許しを得るために「腰越状」を書いた寺として知られる。
源義経が兄源頼朝の許しを得るために「腰越状」を書いた寺として知られる。 1185年(元暦2年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、平家の総大将平宗盛を護送し、鎌倉に凱旋しようとしたが、兄頼朝は鎌倉に入ることを許さなかった。 義経は腰越の満福寺に留まり、大江広元を通じて頼朝の許しを得ようとするが、許されることはなく再び京へ戻ることになる。 その後、頼朝との仲はさらに悪化し、ついには義経捕縛命令が出される。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page139manp...
源義経が兄源頼朝の許しを得るために「腰越状」を書いた寺として知られる。 1185年(元暦2年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、平家の総大将平宗盛を護送し、鎌倉に凱旋しようとしたが、兄頼朝は鎌倉に入ることを許さなかった。 義経は腰越の満福寺に留まり、大江広元を通じて頼朝の許しを得ようとするが、許されることはなく再び京へ戻ることになる。 その後、頼朝との仲はさらに悪化し、ついには義経捕縛命令が出される。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page139manp...
金王八幡宮
奥州征伐に出陣した頼朝は、金王八幡宮に太刀を奉納。金王桜は、源頼朝が鎌倉の亀ヶ谷の館から移植させた桜と伝えられている
金王桜(憂忘桜)は、源頼朝が鎌倉の亀ヶ谷の館から移植させた桜と伝えられている。 1189年(文治5年)、奥州征伐に出陣した頼朝は、金王八幡宮に立ちより太刀を奉納。 その際、父義朝に仕えた金王丸を偲んで憂忘桜を移植させ「金王桜」と名付けたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/konnojinjya...
金王桜(憂忘桜)は、源頼朝が鎌倉の亀ヶ谷の館から移植させた桜と伝えられている。 1189年(文治5年)、奥州征伐に出陣した頼朝は、金王八幡宮に立ちより太刀を奉納。 その際、父義朝に仕えた金王丸を偲んで憂忘桜を移植させ「金王桜」と名付けたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/konnojinjya...
願成就院(がんじょうじゅいん)
願成就院は、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立。
願成就院(がんじょうじゅいん:真言宗)は、1189年(文治5年)、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立。 奥州征伐後、願成就院の北隣に源頼朝の別荘を建てようとしたところ、その場所から、「願成就院」と書かれた古い扁額が出てくるという珍しい出来事があったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ganjyojyuin...
願成就院(がんじょうじゅいん:真言宗)は、1189年(文治5年)、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立。 奥州征伐後、願成就院の北隣に源頼朝の別荘を建てようとしたところ、その場所から、「願成就院」と書かれた古い扁額が出てくるという珍しい出来事があったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/ganjyojyuin...
光照寺
源頼朝の宿館跡とも伝えられ、願成就院の池の島にあったとされる弁財天や、古い舞楽面が残されている。
光照寺(こうしょうじ)は、願成就院の支院だった寺院で、建久年間に俊乗坊重源の開創と伝えられる(もとの名は松寿院)。 源頼朝の宿館跡とも伝えられ、願成就院の池の島にあったとされる弁財天や、古い舞楽面が残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ko...
光照寺(こうしょうじ)は、願成就院の支院だった寺院で、建久年間に俊乗坊重源の開創と伝えられる(もとの名は松寿院)。 源頼朝の宿館跡とも伝えられ、願成就院の池の島にあったとされる弁財天や、古い舞楽面が残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nirayama-ko...
駒繋神社
源頼朝が奥州の藤原泰衝征伐に向かう途中で、先祖の義家に倣って参拝したのだと伝えられている。
駒繋神社は、出雲大社の分霊を勧請して創建されたとされる社。 創建年は不明だが、1056年(天喜4年)4月、源義家が奥州の安倍氏討伐(前九年の役)に向かう途中で子の神に祈願参拝したと伝えられ、1189年(文治5年)7月には、源頼朝が奥州の藤原泰衝征伐に向かう途中で、先祖の義家に倣って参拝したのだと伝えられている。 頼朝が参拝した際、愛馬を松に繋いで戦勝を祈願したことから、子の神が駒繋神社と呼ばれるようになり、明治に入って正式に駒繋神社と称されるようになったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/komatunagi-...
駒繋神社は、出雲大社の分霊を勧請して創建されたとされる社。 創建年は不明だが、1056年(天喜4年)4月、源義家が奥州の安倍氏討伐(前九年の役)に向かう途中で子の神に祈願参拝したと伝えられ、1189年(文治5年)7月には、源頼朝が奥州の藤原泰衝征伐に向かう途中で、先祖の義家に倣って参拝したのだと伝えられている。 頼朝が参拝した際、愛馬を松に繋いで戦勝を祈願したことから、子の神が駒繋神社と呼ばれるようになり、明治に入って正式に駒繋神社と称されるようになったのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/komatunagi-...
妙本寺
妙本寺のある比企ヶ谷は、源頼朝が乳母の比企尼を迎え入れた場所
妙本寺のある地は、源頼朝の信任厚かった御家人比企能員の屋敷があったところで、能員の末子能本がこの寺を建立したと伝えられている。1203年(建仁3年)の比企能員の変で比企一族と源頼家の嫡男一幡が滅んだ地でもある。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page043myoh...
妙本寺のある地は、源頼朝の信任厚かった御家人比企能員の屋敷があったところで、能員の末子能本がこの寺を建立したと伝えられている。1203年(建仁3年)の比企能員の変で比企一族と源頼家の嫡男一幡が滅んだ地でもある。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page043myoh...
江島神社
奥津宮の石鳥居は、源頼朝が寄進したと伝えられる。
江島神社は、金亀山与願寺という寺で、頼朝が弁財天を勧請したときを創建とする説もあり。奥津宮の石鳥居は、源頼朝が寄進したと伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/enosima-jin...
江島神社は、金亀山与願寺という寺で、頼朝が弁財天を勧請したときを創建とする説もあり。奥津宮の石鳥居は、源頼朝が寄進したと伝えられる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/enosima-jin...
牛天神北野神社
牛天神は、頼朝が東国支配の願いを叶えてくれた事に感謝して創建した神社だと伝えられています。
牛天神北野神社は、1184年(元暦元年)に源頼朝が創建したという社。 1182年(寿永元年)に嫡男の頼家を授かり、1183年(寿永2年)には後白河法皇から宣旨を賜わって東国の支配権が認められた。 二つの幸を得た翌年、頼朝は太宰府天満宮を勧請して社を建立し、牛天神と名付けたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/usi-tenjin....
牛天神北野神社は、1184年(元暦元年)に源頼朝が創建したという社。 1182年(寿永元年)に嫡男の頼家を授かり、1183年(寿永2年)には後白河法皇から宣旨を賜わって東国の支配権が認められた。 二つの幸を得た翌年、頼朝は太宰府天満宮を勧請して社を建立し、牛天神と名付けたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/usi-tenjin....
補陀洛寺
補陀洛寺は、1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として建立された。たびたび竜巻に襲われたため、「竜巻寺」と呼ばれている。
補陀洛寺(真言宗大覚寺派)は、1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として建立された。たびたび竜巻に襲われたため、「竜巻寺」と呼ばれている。 本堂内には、源頼朝像(自作)、文覚上人裸形像(自作)、行基作と伝わる薬師如来像、運慶作と伝わる日光・月光菩薩像、弘法大師作と伝わる地蔵菩薩像、平安時代作の不動明王像などが安置されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page135fuda...
補陀洛寺(真言宗大覚寺派)は、1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として建立された。たびたび竜巻に襲われたため、「竜巻寺」と呼ばれている。 本堂内には、源頼朝像(自作)、文覚上人裸形像(自作)、行基作と伝わる薬師如来像、運慶作と伝わる日光・月光菩薩像、弘法大師作と伝わる地蔵菩薩像、平安時代作の不動明王像などが安置されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page135fuda...
鞍馬寺
幼少期の源義経が預けられた寺として知られ、多くの義経伝説が残されている。
鞍馬寺は、770年(宝亀元年)、奈良唐招提寺を開いた鑑真の高弟鑑禎(がんてい)が毘沙門天を祀ったことに始まるといわれる。 幼少期の源義経(頼朝の弟)が預けられた寺として知られ、多くの義経伝説が残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
鞍馬寺は、770年(宝亀元年)、奈良唐招提寺を開いた鑑真の高弟鑑禎(がんてい)が毘沙門天を祀ったことに始まるといわれる。 幼少期の源義経(頼朝の弟)が預けられた寺として知られ、多くの義経伝説が残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
醍醐寺
頼朝の異母弟である全成は、1159年(平治元年)の平治の乱後、醍醐寺に入っていた。
全成は、源頼朝の異母弟で、源義経の同母兄。 1159年(平治元年)、父源義朝が平清盛に敗れ、翌年、尾張国で暗殺されると、全成は醍醐寺で出家。 『吾妻鏡』には醍醐禅師と記され、その荒くれぶりから「悪禅師」とも呼ばれていたのだという。 1180年(治承4年)、伊豆国で頼朝が挙兵すると、密かに醍醐寺を抜け出し、頼朝の下へ駆けつけている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
全成は、源頼朝の異母弟で、源義経の同母兄。 1159年(平治元年)、父源義朝が平清盛に敗れ、翌年、尾張国で暗殺されると、全成は醍醐寺で出家。 『吾妻鏡』には醍醐禅師と記され、その荒くれぶりから「悪禅師」とも呼ばれていたのだという。 1180年(治承4年)、伊豆国で頼朝が挙兵すると、密かに醍醐寺を抜け出し、頼朝の下へ駆けつけている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
金剛寺
金剛寺は、大国魂神社へと向かう途中の頼朝が布陣したと伝えられている。
金剛寺は弘法大師創建と伝えられている寺院。 1180年(治承4年)、伊豆国で挙兵し、石橋山での敗北後、安房国に渡って再挙した源頼朝は、府中の大國魂神社へと向かう途中で滝野川松橋の地に布陣したのだと伝えられている。 頼朝は、石神井川の洞窟の中に祀られていた弘法大師作と伝わる弁財天に祈願し、金剛寺内に弁天堂を建立して田園を寄進したのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kongoji-yor...
金剛寺は弘法大師創建と伝えられている寺院。 1180年(治承4年)、伊豆国で挙兵し、石橋山での敗北後、安房国に渡って再挙した源頼朝は、府中の大國魂神社へと向かう途中で滝野川松橋の地に布陣したのだと伝えられている。 頼朝は、石神井川の洞窟の中に祀られていた弘法大師作と伝わる弁財天に祈願し、金剛寺内に弁天堂を建立して田園を寄進したのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kongoji-yor...
八幡神社
奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たした場所
1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、10月には鎌倉に入り、関東・伊豆を平定、10月20日、平家の東征軍を富士川で迎え撃ち敗走させた。 翌日には、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしている。 境内には、兄弟が腰を掛けたという「対面石」(たいめんせき)が残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kisegawa-ha...
1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、10月には鎌倉に入り、関東・伊豆を平定、10月20日、平家の東征軍を富士川で迎え撃ち敗走させた。 翌日には、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしている。 境内には、兄弟が腰を掛けたという「対面石」(たいめんせき)が残されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kisegawa-ha...
六所神社
六所神社は相模国総社。頼朝は富士川の戦いに際し、六所神社で戦勝祈願を行ったという。
源頼朝の崇敬は厚く、1180年(治承4年)の富士川の戦いでは戦勝祈願を行い、1192年(建久3年)には、妻北条政子の御産加持を命じている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oiso/rokush...
源頼朝の崇敬は厚く、1180年(治承4年)の富士川の戦いでは戦勝祈願を行い、1192年(建久3年)には、妻北条政子の御産加持を命じている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/oiso/rokush...
教恩寺
教恩寺の阿弥陀像は、焼討によって東大寺・興福寺を焼き払った平重衡に、源頼朝より一族の冥福を祈るようと与えられたもの。
教恩寺(時宗)は、一ノ谷の戦いで捕らえられた平清盛の五男重衡が信仰した阿弥陀如来を本尊とする寺。 重衡は、南都焼討によって、奈良の東大寺や興福寺を焼いた武将。 一ノ谷の戦いで捕らえられて鎌倉に送られてきた際に、源頼朝より一族の冥福を祈るように阿弥陀像を与えられたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page043kyoo...
教恩寺(時宗)は、一ノ谷の戦いで捕らえられた平清盛の五男重衡が信仰した阿弥陀如来を本尊とする寺。 重衡は、南都焼討によって、奈良の東大寺や興福寺を焼いた武将。 一ノ谷の戦いで捕らえられて鎌倉に送られてきた際に、源頼朝より一族の冥福を祈るように阿弥陀像を与えられたのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page043kyoo...
五所神社
相模国へ進軍した頼朝は、石橋山へ出陣する前夜、五所神社の社前において戦勝祈願の護摩を焚いたと伝えられている。
相模国へ進軍した頼朝は、石橋山へ出陣する前夜、五所神社の社前において戦勝祈願の護摩を焚いたと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/goshojinjya...
相模国へ進軍した頼朝は、石橋山へ出陣する前夜、五所神社の社前において戦勝祈願の護摩を焚いたと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/goshojinjya...
千葉神社
千葉神社は、千葉氏の守護神を祀る社。伊豆国で源氏再興の挙兵をし、安房国から上総国を経て下総国に入った源頼朝は、千葉常胤の案内で参拝したのだと伝えられている。
千葉神社は、千葉氏の守護神・妙見菩薩を本尊とする寺院として、平忠常が建てたのが始まりなのだという。 創建は1000年(長保2年)。 1180年(治承4年)、伊豆国で源氏再興の挙兵をし、安房国から上総国を経て下総国に入った源頼朝は、千葉常胤の案内で参拝したのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tiba/tiba-j...
千葉神社は、千葉氏の守護神を祀る社。伊豆国で源氏再興の挙兵をし、安房国から上総国を経て下総国に入った源頼朝は、千葉常胤の案内で参拝したのだと伝えられている。
千葉神社は、千葉氏の守護神・妙見菩薩を本尊とする寺院として、平忠常が建てたのが始まりなのだという。 創建は1000年(長保2年)。 1180年(治承4年)、伊豆国で源氏再興の挙兵をし、安房国から上総国を経て下総国に入った源頼朝は、千葉常胤の案内で参拝したのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tiba/tiba-j...
石清水八幡宮
石清水八幡宮は源氏の氏神。頼朝も参詣し参道には「頼朝お手植えの松」が植えられている。
859年(貞観元年)、豊前国の宇佐神宮(現:大分県)に籠もった南都大安寺の僧・行教が、「吾れは都の近くの男山に移座して国家を鎮護したい」という八幡神のお告げを受けて勧請したのがそのはじまり。京都の裏鬼門を守護する神社として朝廷・公家・武家の尊崇を集め、とくに源氏は氏神として信仰し、源義家は石清水八幡宮で元服して「八幡太郎義家」を名乗った。義家の子孫で平家を都落ちさせた木曽義仲も石清水八幡宮を参拝して元服したのだという。源頼義・源頼朝によって創建された壺井八幡宮や鶴岡八幡宮をはじめ、各地に石清水八幡宮が勧請されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
859年(貞観元年)、豊前国の宇佐神宮(現:大分県)に籠もった南都大安寺の僧・行教が、「吾れは都の近くの男山に移座して国家を鎮護したい」という八幡神のお告げを受けて勧請したのがそのはじまり。京都の裏鬼門を守護する神社として朝廷・公家・武家の尊崇を集め、とくに源氏は氏神として信仰し、源義家は石清水八幡宮で元服して「八幡太郎義家」を名乗った。義家の子孫で平家を都落ちさせた木曽義仲も石清水八幡宮を参拝して元服したのだという。源頼義・源頼朝によって創建された壺井八幡宮や鶴岡八幡宮をはじめ、各地に石清水八幡宮が勧請されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
般若院
般若院は伊豆山神社(伊豆山権現)の別当坊だった寺院。源頼朝はこの寺で平家討伐の願をかけたという。
般若院は真言宗の古刹で伊豆山神社(伊豆山権現)の別当坊だった寺院。山号は「走湯山」。般若院の草創の時期は定かではないが、平安時代に伊豆山権現の法学のために建てられた観音堂(東明寺)がそのはじまりだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/izusan-hann...
般若院は真言宗の古刹で伊豆山神社(伊豆山権現)の別当坊だった寺院。山号は「走湯山」。般若院の草創の時期は定かではないが、平安時代に伊豆山権現の法学のために建てられた観音堂(東明寺)がそのはじまりだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/izusan-hann...
洲崎神社
洲崎神社は、安房に上陸した頼朝が参拝したという神社。
洲崎神社は、神武天皇の時代に天富命(あまのとみのみこと)が祖母神の天比理乃_命(あまのひりのめのみこと)を御手洗山に祀ったのを始まりとする。 『吾妻鏡』によると、1180年(治承4年)8月、石橋山の戦いに敗れ、海路で安房に渡った源頼朝は、9月5日、洲崎神社を参拝。その後も信仰を続けた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/susaki-jinj...
洲崎神社は、神武天皇の時代に天富命(あまのとみのみこと)が祖母神の天比理乃_命(あまのひりのめのみこと)を御手洗山に祀ったのを始まりとする。 『吾妻鏡』によると、1180年(治承4年)8月、石橋山の戦いに敗れ、海路で安房に渡った源頼朝は、9月5日、洲崎神社を参拝。その後も信仰を続けた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/susaki-jinj...