2022年度の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目度の高かった、源頼朝。 HP「yoritomo-japan.com」は源頼朝が創造した武家の都「鎌倉」とその関係地をめぐった記録。 今回、その「yoritomo-japan.com」にご協力いただき、紹介されているスポットをブックにしました! みなさまの歴史旅・歴史散歩のお供にぜひご覧ください。 ※営業状況等変更になっている可能性があります。お出かけの際は、事前にご確認ください。 yoritomo-japan.com
関連するめっけブック
紹介スポット
- 404件富士山本宮浅間大社(せんげんたいしゃ)
富士山浅間大社の流鏑馬は源頼朝は奉納したことに始まるのだという。
富士山本宮浅間大社は、全国に1300社あまりあるという浅間神社の総本社。 駿河国一之宮。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/fuji/fuji-s...
富士山本宮浅間大社は、全国に1300社あまりあるという浅間神社の総本社。 駿河国一之宮。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/fuji/fuji-s...
善光寺
鎌倉時代には源頼朝が参詣したと伝えられている
信濃善光寺は、無宗派の単立寺院。 源頼朝は、1179年(治承3年)に焼けた信濃善光寺を復興するため、1187年(文治3年)に比企能員を通じて信濃の御家人に再建を命じ、1197年(建久8年)には自らも参詣した。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sinano/zenk...
信濃善光寺は、無宗派の単立寺院。 源頼朝は、1179年(治承3年)に焼けた信濃善光寺を復興するため、1187年(文治3年)に比企能員を通じて信濃の御家人に再建を命じ、1197年(建久8年)には自らも参詣した。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/sinano/zenk...
善光寺
国内最古の源頼朝像と源実朝像がある寺。
甲斐善光寺は、1558年(永禄元年)、合戦による信濃善光寺の焼失をおそれた武田信玄が本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移したことに始まる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kai/zenkoji...
甲斐善光寺は、1558年(永禄元年)、合戦による信濃善光寺の焼失をおそれた武田信玄が本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移したことに始まる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kai/zenkoji...
二荒山神社社務所
奥州平泉の藤原泰衡を討つため出陣した源頼朝は戦勝を祈願。
二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)は、仁徳天皇の時代に創建された古社で、武将の信仰が篤かった社。 藤原秀郷は授かった霊剣で平将門を討ったと伝えられ、前九年・後三年の役では源頼義・義家父子が戦勝祈願した。 1189年(文治5年)7月、奥州平泉の藤原泰衡を討つため出陣した源頼朝は戦勝を祈願。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/simotuke-si...
二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)は、仁徳天皇の時代に創建された古社で、武将の信仰が篤かった社。 藤原秀郷は授かった霊剣で平将門を討ったと伝えられ、前九年・後三年の役では源頼義・義家父子が戦勝祈願した。 1189年(文治5年)7月、奥州平泉の藤原泰衡を討つため出陣した源頼朝は戦勝を祈願。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/simotuke-si...
春日神社社務所
源頼朝が1191年(建久2年)、相模川橋供養の御祈願所としたという
春日神社は、平塚宿の鎮守。 かつては平塚山黒部宮と称し、源頼朝が1191年(建久2年)、相模川橋供養の御祈願所としたという(『吾妻鏡』に記されている範隆寺(廃寺)は、春日神社の別当寺。)。 さらに、翌1192年(建久3年)8月9日には、妻北条政子の安産祈願のため神馬を奉納した祈願所の一つとされ、そのため、安産の神として信仰されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
春日神社は、平塚宿の鎮守。 かつては平塚山黒部宮と称し、源頼朝が1191年(建久2年)、相模川橋供養の御祈願所としたという(『吾妻鏡』に記されている範隆寺(廃寺)は、春日神社の別当寺。)。 さらに、翌1192年(建久3年)8月9日には、妻北条政子の安産祈願のため神馬を奉納した祈願所の一つとされ、そのため、安産の神として信仰されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiratuka-yu...
大山不動尊 大山寺
源頼朝が戦勝祈願のための太刀を奉納したと伝えられ、大山詣の「納めの太刀」の風習は、頼朝の太刀奉納に始まるのだという。
大山寺(真言宗大覚寺派)は、755年(天平勝宝7年)、東大寺や石山寺を開いた良弁によって聖武天皇の勅願寺として開かれた。 第三世には弘法大師が入山している。 源頼朝が戦勝祈願のための太刀を奉納したと伝えられ、大山詣の「納めの太刀」の風習は、頼朝の太刀奉納に始まるのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/isehara/ooy...
大山寺(真言宗大覚寺派)は、755年(天平勝宝7年)、東大寺や石山寺を開いた良弁によって聖武天皇の勅願寺として開かれた。 第三世には弘法大師が入山している。 源頼朝が戦勝祈願のための太刀を奉納したと伝えられ、大山詣の「納めの太刀」の風習は、頼朝の太刀奉納に始まるのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/isehara/ooy...
日向薬師宝城坊
源頼朝は源実朝誕生の際の安産祈願所とし、大姫が重病に陥ったときには自ら参詣した。
今日、日向薬師と呼ばれている霊域は、716年(霊亀2年)に行基によって開かれた霊山寺がそのはじまりとされ、薬師如来の霊場として信仰されてきた。 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』にも、「是行基菩薩建立、薬師如来霊場也」と記され、源頼朝や北条政子も参詣している。 しかし、明治の神仏分離令、さらに、それに伴う廃仏毀釈の影響も受け、現存しているのは、その一坊であった宝城坊のみ。 宝城坊は、旧霊山寺の別当坊で、本堂は霊山寺の本堂を引き継いだもの(国の重要文化財)。 源実朝誕生の際は、北条政子の安産祈願所となった。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/isehara/hin...
今日、日向薬師と呼ばれている霊域は、716年(霊亀2年)に行基によって開かれた霊山寺がそのはじまりとされ、薬師如来の霊場として信仰されてきた。 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』にも、「是行基菩薩建立、薬師如来霊場也」と記され、源頼朝や北条政子も参詣している。 しかし、明治の神仏分離令、さらに、それに伴う廃仏毀釈の影響も受け、現存しているのは、その一坊であった宝城坊のみ。 宝城坊は、旧霊山寺の別当坊で、本堂は霊山寺の本堂を引き継いだもの(国の重要文化財)。 源実朝誕生の際は、北条政子の安産祈願所となった。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/isehara/hin...
三之宮比々多神社
源頼朝が妻北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した相模国の神社仏閣27ヶ所の一つ。
伊勢原市三ノ宮に鎮座する比々多神社は、相模国の三之宮。 神武天皇の時代に建立されたという古い神社で、大山を神体山として豊斟渟尊(とよくもぬのみこと)を祀ったことに始まると伝えられている。 のちに酒解神(さかときのかみ)が合祀され、酒造家の信仰を集めてきた。 源頼朝の崇敬は深く、1184年(元暦元年)には、社殿の大規模な再建を行ったと伝えられ、『吾妻鏡』には、1192年(建久3年)、妻北条政子の御産加持を命じたことが記されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hibita-jinj...
伊勢原市三ノ宮に鎮座する比々多神社は、相模国の三之宮。 神武天皇の時代に建立されたという古い神社で、大山を神体山として豊斟渟尊(とよくもぬのみこと)を祀ったことに始まると伝えられている。 のちに酒解神(さかときのかみ)が合祀され、酒造家の信仰を集めてきた。 源頼朝の崇敬は深く、1184年(元暦元年)には、社殿の大規模な再建を行ったと伝えられ、『吾妻鏡』には、1192年(建久3年)、妻北条政子の御産加持を命じたことが記されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hibita-jinj...
三嶋大社
三嶋大社は伊豆国の一宮。源頼朝や北条政子が崇敬した社。
平治の乱に敗れ伊豆国へ流されていた源頼朝は、三嶋大社を崇敬し、「源氏再興の旗挙げの日」を三嶋大社の祭礼の日と定め、1180年(治承4年)8月17日、伊豆国の目代山木兼隆を討ち取った。境内には安達盛長警護の跡・北条政子寄進の厳島神社・頼朝と政子の腰掛石が、宝物館には北条政子奉納という国宝「梅蒔絵手箱」や源頼家自筆の般若心経が伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misima-tais...
平治の乱に敗れ伊豆国へ流されていた源頼朝は、三嶋大社を崇敬し、「源氏再興の旗挙げの日」を三嶋大社の祭礼の日と定め、1180年(治承4年)8月17日、伊豆国の目代山木兼隆を討ち取った。境内には安達盛長警護の跡・北条政子寄進の厳島神社・頼朝と政子の腰掛石が、宝物館には北条政子奉納という国宝「梅蒔絵手箱」や源頼家自筆の般若心経が伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/misima-tais...
浅草寺
坂東三十三箇所武第十三番。源氏再興の挙兵をし、鎌倉を目指す頼朝は、武蔵国に入ると浅草寺で平家討滅祈願を行ったのだという。
1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で挙兵した源頼朝。10月2日に三万騎を率いて太井川(現在の江戸川)・隅田川を渡って武蔵国に入った。その折、浅草寺を参拝し、平家討滅祈願を行ったのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/asakusa/sen...
1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で挙兵した源頼朝。10月2日に三万騎を率いて太井川(現在の江戸川)・隅田川を渡って武蔵国に入った。その折、浅草寺を参拝し、平家討滅祈願を行ったのだと伝えられている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/asakusa/sen...
大国魂神社社務所
大国魂神社に関東の兵を集めた頼朝は戦勝を祈願し、矢を奉納したという。
大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)は武蔵国総社。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をした源頼朝は、安房から武蔵に入り、大国魂神社に兵を招集して戦勝を祈願し、上矢(うわや:鏑矢)を奉納したという。 1182年(寿永元年)8月11日、源頼朝は妻北条政子の安産祈願を行っている(翌日、源頼家が誕生) ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/futyu/ookun...
大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)は武蔵国総社。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をした源頼朝は、安房から武蔵に入り、大国魂神社に兵を招集して戦勝を祈願し、上矢(うわや:鏑矢)を奉納したという。 1182年(寿永元年)8月11日、源頼朝は妻北条政子の安産祈願を行っている(翌日、源頼家が誕生) ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/futyu/ookun...
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は源頼朝が武家の都の中心に据えた社。
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、1063年(康平6年)に、源頼朝の先祖源頼義が「源氏の氏神」である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したがその始まり(由比若宮(鶴岡若宮))。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たして鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えた。 1191年(建久2年)、火災によって焼失するが、頼朝は、若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に上宮(本宮)を新造し、今日の姿(上下両宮)となる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041hati...
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、1063年(康平6年)に、源頼朝の先祖源頼義が「源氏の氏神」である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したがその始まり(由比若宮(鶴岡若宮))。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たして鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えた。 1191年(建久2年)、火災によって焼失するが、頼朝は、若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に上宮(本宮)を新造し、今日の姿(上下両宮)となる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041hati...
東大寺
東大寺は、1180年(治承4年)平重衡による南都焼討によって灰塵と帰した。頼朝はその再建に尽力した。
東大寺は、1180年(治承4年)12月の平重衡による南都焼討によって灰塵と帰してしましました。 頼朝もその再建に尽力し、1195年(建久6年)の上洛時には、大仏殿の落慶供養に参列しています。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
東大寺は、1180年(治承4年)12月の平重衡による南都焼討によって灰塵と帰してしましました。 頼朝もその再建に尽力し、1195年(建久6年)の上洛時には、大仏殿の落慶供養に参列しています。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
浄光明寺
源頼朝が文覚に建てさせた堂がそのはじまりであるとも、頼朝の子といわれる島津忠久が建てた寺がそのはじまりともいわれている。
浄光明寺 (真言宗泉涌寺派)は、源頼朝が文覚に建てさせた堂がそのはじまりであるとも、頼朝の子といわれる島津忠久が建てた寺がそのはじまりともいわれている。 1251年(建長3年)、北条長時(のちの六代執権)が開山に真阿を招いて再興し、「浄光明寺」とした。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page137jyok...
浄光明寺 (真言宗泉涌寺派)は、源頼朝が文覚に建てさせた堂がそのはじまりであるとも、頼朝の子といわれる島津忠久が建てた寺がそのはじまりともいわれている。 1251年(建長3年)、北条長時(のちの六代執権)が開山に真阿を招いて再興し、「浄光明寺」とした。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page137jyok...
東漸寺
日金地蔵は、源頼朝が建立した松源寺の本尊だった。
三浦大介義明の五男義秀が自邸を寺とした。 鎌倉二十四地蔵の一つ日金地蔵(木造地蔵菩薩半跏像)は、もとは鎌倉の雪ノ下にあった松源寺の本尊であったが、神仏分離令によって長谷寺に移され、さらに転々とした後、大正時代に東漸寺に安置されたと伝わる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tozenji.htm...
三浦大介義明の五男義秀が自邸を寺とした。 鎌倉二十四地蔵の一つ日金地蔵(木造地蔵菩薩半跏像)は、もとは鎌倉の雪ノ下にあった松源寺の本尊であったが、神仏分離令によって長谷寺に移され、さらに転々とした後、大正時代に東漸寺に安置されたと伝わる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/tozenji.htm...
来迎寺
法華堂にあった仏像を安置する寺。
1293円(永仁元年)の創建。 藤沢の遊行寺末。 如意輪観音は、鎌倉地方独特の「土紋装飾」という技法を施した像で、源頼朝の持仏堂(法華堂)にあったものと伝えられている。 「地蔵菩薩像」は、宅間浄宏作と伝えられ、廃寺となった報恩寺の本尊だったもの。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041raik...
1293円(永仁元年)の創建。 藤沢の遊行寺末。 如意輪観音は、鎌倉地方独特の「土紋装飾」という技法を施した像で、源頼朝の持仏堂(法華堂)にあったものと伝えられている。 「地蔵菩薩像」は、宅間浄宏作と伝えられ、廃寺となった報恩寺の本尊だったもの。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page041raik...
寿福寺
源頼朝の父義朝の館跡。頼朝の亡き後、北条政子が栄西に土地を与え壽福寺を建立したといわれています。
寿福寺(正式には「壽福寺」と書く。)は、1200年(正治2年)、源頼朝の妻北条政子の創建。 寿福寺のある亀ヶ谷の地には、頼朝の父義朝の屋敷があったとされ、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉に入った頼朝は、当初この地に御所を置こうと考えたが、土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから大倉の地を選んだのだという。 亀ヶ谷は、奥州征伐に向かう八幡太郎義家(源義家)が勝利を祈願し、白旗を掲げたという源氏山が背後にあり、源家父祖伝来の地でもある。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page137jyuf...
寿福寺(正式には「壽福寺」と書く。)は、1200年(正治2年)、源頼朝の妻北条政子の創建。 寿福寺のある亀ヶ谷の地には、頼朝の父義朝の屋敷があったとされ、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉に入った頼朝は、当初この地に御所を置こうと考えたが、土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから大倉の地を選んだのだという。 亀ヶ谷は、奥州征伐に向かう八幡太郎義家(源義家)が勝利を祈願し、白旗を掲げたという源氏山が背後にあり、源家父祖伝来の地でもある。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/page137jyuf...
大谷観音大谷寺
大谷寺の本尊は日本最古の石仏といわれる千手観音。坂東三十三箇所第十九番。
大谷寺は、日本最古の石仏とされる千手観音を本尊とする天台宗の寺院。 千手観音は、凝灰岩の岩壁に刻まれたもので、810年(弘仁元年)弘法大師作と伝えられている。 坂東観音三十三箇所の十九番札所。鎌倉時代には、二荒山神社の社務職を兼ねながら下野国宇都宮を治めた宇都宮氏の保護を受けて興隆。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/simotuke-si...
大谷寺は、日本最古の石仏とされる千手観音を本尊とする天台宗の寺院。 千手観音は、凝灰岩の岩壁に刻まれたもので、810年(弘仁元年)弘法大師作と伝えられている。 坂東観音三十三箇所の十九番札所。鎌倉時代には、二荒山神社の社務職を兼ねながら下野国宇都宮を治めた宇都宮氏の保護を受けて興隆。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/simotuke-si...
泉涌寺
皇室の菩提寺として栄え、「御寺」(みてら)と呼ばれている。
泉涌寺は、825年(斉衡2年)、左大臣藤原緒嗣が創建した法輪寺を起源とし、仙遊寺と改名された後、1218年(建保6年)に月輪大師(俊じょう)が宇都宮信房から仙遊寺の旧地の寄進を受け、1226年(嘉禄2年)に伽藍の完成をみた。 その間、寺地の一角から清泉が湧き出したことにより泉涌寺と改められている。 月輪大師に寺を寄進した宇都宮信房は、宇都宮氏の祖藤原宗円の次男。 寄進には源頼朝の要請があったといわれる。 真言宗泉涌寺派総本山で、本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
泉涌寺は、825年(斉衡2年)、左大臣藤原緒嗣が創建した法輪寺を起源とし、仙遊寺と改名された後、1218年(建保6年)に月輪大師(俊じょう)が宇都宮信房から仙遊寺の旧地の寄進を受け、1226年(嘉禄2年)に伽藍の完成をみた。 その間、寺地の一角から清泉が湧き出したことにより泉涌寺と改められている。 月輪大師に寺を寄進した宇都宮信房は、宇都宮氏の祖藤原宗円の次男。 寄進には源頼朝の要請があったといわれる。 真言宗泉涌寺派総本山で、本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
即成院
那須与一の墓がある寺。
即成院は泉涌寺の塔頭。 創建されたのは伏見で、宇治の平等院を建てた藤原頼通の三男で橘俊綱(たちばなのとしつな)が建てた光明院を始まりとしていると考えられている。 本尊は阿弥陀如来。 山号は光明山。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
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