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紹介スポット
- 8106件芝公園内にある芝丸山古墳の頂上に,日本地図が描かれた変わった形の碑が建てられています。 日本最初の実測地図は1821(文政4)年に完成した「大日本沿海輿地全図」ですが,それは伊能忠敬による全国の測地測量に基づいて作成されました。50歳を過ぎて測量術・天文観測の技術を学んだ忠敬が,初めて測量の旅に出たのは1800(寛政12)年,彼が55歳のときでした。以後,忠敬の測地測量は17年10回に及んでいます。 完成した日本地図は「伊能図」と呼ばれ国外持ち出しが禁じられますが,1828(文政11)年,オランダ商館付の医師・シーボルトが帰国直前に,その荷物から「伊能図」の写しなどが見つかり国外追放になるという事件が起きています。 東京地学協会は,1889(明治22)年に伊能忠敬の功績を顕彰するための碑を建てますが,それが戦災で失われてしまったため,1965(昭和40)年にここにあらためて碑を建てました。ここに建てられたのは,忠敬の測量の起点が芝公園の近く,高輪大木戸であったことによります。
芝公園内にある芝丸山古墳の頂上に,日本地図が描かれた変わった形の碑が建てられています。 日本最初の実測地図は1821(文政4)年に完成した「大日本沿海輿地全図」ですが,それは伊能忠敬による全国の測地測量に基づいて作成されました。50歳を過ぎて測量術・天文観測の技術を学んだ忠敬が,初めて測量の旅に出たのは1800(寛政12)年,彼が55歳のときでした。以後,忠敬の測地測量は17年10回に及んでいます。 完成した日本地図は「伊能図」と呼ばれ国外持ち出しが禁じられますが,1828(文政11)年,オランダ商館付の医師・シーボルトが帰国直前に,その荷物から「伊能図」の写しなどが見つかり国外追放になるという事件が起きています。 東京地学協会は,1889(明治22)年に伊能忠敬の功績を顕彰するための碑を建てますが,それが戦災で失われてしまったため,1965(昭和40)年にここにあらためて碑を建てました。ここに建てられたのは,忠敬の測量の起点が芝公園の近く,高輪大木戸であったことによります。
日米和親条約と日米修好通商条約については,中学や高校の日本史の授業でその内容の一部を読んだ人も多いことと思います。 日米和親条約は,1854(嘉永7)年に横浜(現在の横浜開港資料館の所在地)で締結・調印されました。残念なことに日本側の調印書原本は,1859(安政6)年にあった江戸城の火災で焼失してしまいましたが,1855(安政2)年に日米で取り交わされた批准書交換証書が残されています。 一方,日米修好通商条約は1858(安政5)年に神奈川沖に停泊中のアメリカの軍艦ポーハタン号上で,アメリカ総領事ハリスと日本全権・井上清直,岩瀬忠震(ただなり)との間で締結・調印されました。こちらは関東大震災で被災したため傷んではいますが原本が残されています。 外務省の外交史料館別館では,常設展示として日米修好通商条約調印書の精密なレプリカが公開されていて見ることができます。
日米和親条約と日米修好通商条約については,中学や高校の日本史の授業でその内容の一部を読んだ人も多いことと思います。 日米和親条約は,1854(嘉永7)年に横浜(現在の横浜開港資料館の所在地)で締結・調印されました。残念なことに日本側の調印書原本は,1859(安政6)年にあった江戸城の火災で焼失してしまいましたが,1855(安政2)年に日米で取り交わされた批准書交換証書が残されています。 一方,日米修好通商条約は1858(安政5)年に神奈川沖に停泊中のアメリカの軍艦ポーハタン号上で,アメリカ総領事ハリスと日本全権・井上清直,岩瀬忠震(ただなり)との間で締結・調印されました。こちらは関東大震災で被災したため傷んではいますが原本が残されています。 外務省の外交史料館別館では,常設展示として日米修好通商条約調印書の精密なレプリカが公開されていて見ることができます。
1623(元和9)年,江戸幕府3代将軍徳川家光の命により,イエズス会のデ・アンジェリス神父,フランシスコ会のガルベス神父をはじめ50人のキリスト教徒(キリシタン)が江戸市中引き回しの上,東海道の入口付近の丘で処刑されました。 このときキリシタンの中心人物として処刑された原主水(はらもんど)は,かつて家康に小姓として仕えていた人物です。 幕府は,初めキリスト教を黙認していましたが,1613(慶長18)年に禁教令を全国におよぼして以降,キリシタンに対する迫害を強めるようになったのです。1622(元和8)年には長崎で55人ものキリシタンが処刑されるという,日本のキリスト教迫害史上最大の殉教事件(「元和の大殉教」と呼ばれています)が起きていますが,この江戸での殉教事件はそれを受けてのことと考えられています。 現在,キリシタンの遺跡の碑があるのは,殉教地と推定されている場所です。
1623(元和9)年,江戸幕府3代将軍徳川家光の命により,イエズス会のデ・アンジェリス神父,フランシスコ会のガルベス神父をはじめ50人のキリスト教徒(キリシタン)が江戸市中引き回しの上,東海道の入口付近の丘で処刑されました。 このときキリシタンの中心人物として処刑された原主水(はらもんど)は,かつて家康に小姓として仕えていた人物です。 幕府は,初めキリスト教を黙認していましたが,1613(慶長18)年に禁教令を全国におよぼして以降,キリシタンに対する迫害を強めるようになったのです。1622(元和8)年には長崎で55人ものキリシタンが処刑されるという,日本のキリスト教迫害史上最大の殉教事件(「元和の大殉教」と呼ばれています)が起きていますが,この江戸での殉教事件はそれを受けてのことと考えられています。 現在,キリシタンの遺跡の碑があるのは,殉教地と推定されている場所です。
幕府は1858(安政5)年に欧米の5ヶ国(米・蘭・露・英・仏)との間に相次いで修好通商条約を結びました。まとめて「安政の五カ国条約」と呼ばれていますが,各国に一歩遅れたフランスは,通常は修好通商条約に先立って結ばれる和親条約の段階を経ていません。 翌年,フランス最初の公使館が三田の済海寺に設けられ,初代公使ド・ベルクールが着任しました。この頃は,外国人襲撃事件・殺傷事件が頻繁に起きていましたが,済海寺でも1860(万延元)年に公使館の旗番だったイタリア人ナタールが2人の武士に斬られるという事件が起きています。 1863(文久3)年に2代目公使として着任したレオン・ロッシュは,薩摩藩・長州藩など倒幕勢力を支援するイギリス公使パークスに対抗し,幕府を積極的に支援して軍制改革などに協力しました。公使館として使用されたのは済海寺の書院や庫裏で,のちに玄関や門などが増築されましたが,1870(明治3)年に引き払いとなりました。 済海寺の門を入った左手に「最初のフランス公使宿館跡」の碑が建てられています。
幕府は1858(安政5)年に欧米の5ヶ国(米・蘭・露・英・仏)との間に相次いで修好通商条約を結びました。まとめて「安政の五カ国条約」と呼ばれていますが,各国に一歩遅れたフランスは,通常は修好通商条約に先立って結ばれる和親条約の段階を経ていません。 翌年,フランス最初の公使館が三田の済海寺に設けられ,初代公使ド・ベルクールが着任しました。この頃は,外国人襲撃事件・殺傷事件が頻繁に起きていましたが,済海寺でも1860(万延元)年に公使館の旗番だったイタリア人ナタールが2人の武士に斬られるという事件が起きています。 1863(文久3)年に2代目公使として着任したレオン・ロッシュは,薩摩藩・長州藩など倒幕勢力を支援するイギリス公使パークスに対抗し,幕府を積極的に支援して軍制改革などに協力しました。公使館として使用されたのは済海寺の書院や庫裏で,のちに玄関や門などが増築されましたが,1870(明治3)年に引き払いとなりました。 済海寺の門を入った左手に「最初のフランス公使宿館跡」の碑が建てられています。
陸奥(現,岩手県)水沢出身の高野長英は,長崎の鳴滝塾でオランダ商館付の医師シーボルトから西洋医学を学び,シーボルトが国外追放になったのち江戸で町医者となりました。 三河田原藩の家老で蘭学に通じる渡辺崋山らと交流し,西洋事情の研究を深めました。 1837(天保8)年に日本人漂流民の送還と交易を求めて来航したアメリカ船モリソン号が砲撃されるという事件が起きました。このことを知った長英は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著し幕府の外交政策を批判しました。 翌年,幕府は崋山,長英らを逮捕し厳しく処罰(この事件は「蛮社の獄」と呼ばれています),長英は永牢(無期禁固)に処せられましたが,1844(弘化元)年に脱獄,顔を焼き人相を変えて各地を転々とします。 その後江戸に戻った長英は青山百人町に隠れ住み,沢三伯と名乗って医業を営みますが,1850(嘉永3)年,幕吏に襲われ自ら命を絶ちました。 その場所にある青山スパイラルビルの柱に碑が埋め込まれています。のちに長英の名誉は回復され,善光寺別院(港区青山3-5-17)に勝海舟の撰文による顕彰碑が建てられました。 長英の肖像がレリーフされた現在の碑は,1964(昭和39)年に再建されたものです。
陸奥(現,岩手県)水沢出身の高野長英は,長崎の鳴滝塾でオランダ商館付の医師シーボルトから西洋医学を学び,シーボルトが国外追放になったのち江戸で町医者となりました。 三河田原藩の家老で蘭学に通じる渡辺崋山らと交流し,西洋事情の研究を深めました。 1837(天保8)年に日本人漂流民の送還と交易を求めて来航したアメリカ船モリソン号が砲撃されるという事件が起きました。このことを知った長英は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著し幕府の外交政策を批判しました。 翌年,幕府は崋山,長英らを逮捕し厳しく処罰(この事件は「蛮社の獄」と呼ばれています),長英は永牢(無期禁固)に処せられましたが,1844(弘化元)年に脱獄,顔を焼き人相を変えて各地を転々とします。 その後江戸に戻った長英は青山百人町に隠れ住み,沢三伯と名乗って医業を営みますが,1850(嘉永3)年,幕吏に襲われ自ら命を絶ちました。 その場所にある青山スパイラルビルの柱に碑が埋め込まれています。のちに長英の名誉は回復され,善光寺別院(港区青山3-5-17)に勝海舟の撰文による顕彰碑が建てられました。 長英の肖像がレリーフされた現在の碑は,1964(昭和39)年に再建されたものです。
1632(元和9)年に,キリシタン50人が処刑された「江戸の大殉教」と呼ばれる事件が起きました。 殉教地近くにあるカトリック高輪教会の聖堂前庭に江戸の殉教者顕彰碑が建てられています。 この殉教地では「江戸の大殉教」事件のあと数年にわたって,女性や子ども,キリシタンをかくまった人々などおよそ1000人が処刑され,江戸全体では2000人近くの人々が殉教したといいます。 この顕彰碑はこれらの殉教者をたたえるため,「江戸の大殉教」があった地に建立された智福寺の境内に,カトリック信徒によって1956(昭和31)年に建てられたものですが,のちにカトリック高輪教会に移されました。 教会では毎年11月下旬に,江戸の殉教者を記念するミサが執り行われています。また,地階にある部屋には踏絵のレプリカや明治政府が出した「切支丹禁止令」の高札などが展示されています。
1632(元和9)年に,キリシタン50人が処刑された「江戸の大殉教」と呼ばれる事件が起きました。 殉教地近くにあるカトリック高輪教会の聖堂前庭に江戸の殉教者顕彰碑が建てられています。 この殉教地では「江戸の大殉教」事件のあと数年にわたって,女性や子ども,キリシタンをかくまった人々などおよそ1000人が処刑され,江戸全体では2000人近くの人々が殉教したといいます。 この顕彰碑はこれらの殉教者をたたえるため,「江戸の大殉教」があった地に建立された智福寺の境内に,カトリック信徒によって1956(昭和31)年に建てられたものですが,のちにカトリック高輪教会に移されました。 教会では毎年11月下旬に,江戸の殉教者を記念するミサが執り行われています。また,地階にある部屋には踏絵のレプリカや明治政府が出した「切支丹禁止令」の高札などが展示されています。
山手通りから目黒不動尊に向かう途中に黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院・海福寺があります。 黄檗宗は禅宗の一宗派で,江戸時代の1654(承応3)年に,中国・明から来日した隠元隆埼(いんげんりゅうき)によって初めて日本に伝えられました。中国の明,清とは鎖国政策の下でも「通商の国」として,長崎での貿易が活発に行われていたのです。 ちなみにインゲン豆は「普茶(ふちゃ)料理」という中国風の精進料理の材料として,隠元禅師が広めたものとされています。普茶料理で有名な京都宇治にある萬福寺(まんぷくじ)は,隠元禅師によって開かれた黄檗宗の大本山です。 海福寺も,1658(万冶元)年に,隠元禅師によってはじめ深川に開創されましたが,1910(明治43)年に現在地へ移転してきました。 海福寺の境内には,1683(天和3)年につくられた他に例がない変わった形の梵鐘が残されています。全体的には日本の伝統的な鐘の形を踏襲していますが,裾には中国風の雲形のデザインが施されていて,どことなく異国の雰囲気が感じられます。
山手通りから目黒不動尊に向かう途中に黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院・海福寺があります。 黄檗宗は禅宗の一宗派で,江戸時代の1654(承応3)年に,中国・明から来日した隠元隆埼(いんげんりゅうき)によって初めて日本に伝えられました。中国の明,清とは鎖国政策の下でも「通商の国」として,長崎での貿易が活発に行われていたのです。 ちなみにインゲン豆は「普茶(ふちゃ)料理」という中国風の精進料理の材料として,隠元禅師が広めたものとされています。普茶料理で有名な京都宇治にある萬福寺(まんぷくじ)は,隠元禅師によって開かれた黄檗宗の大本山です。 海福寺も,1658(万冶元)年に,隠元禅師によってはじめ深川に開創されましたが,1910(明治43)年に現在地へ移転してきました。 海福寺の境内には,1683(天和3)年につくられた他に例がない変わった形の梵鐘が残されています。全体的には日本の伝統的な鐘の形を踏襲していますが,裾には中国風の雲形のデザインが施されていて,どことなく異国の雰囲気が感じられます。
江戸時代の人々は幾度もの凶作や飢饉に見舞われました。そんなときに頼りになるのが救荒作物の代表ともいえる甘藷=サツマイモです。 青木昆陽は,その甘藷の栽培・普及に努めた人物として知られています。 昆陽は初め儒学を学び,江戸で私塾を開いていましたが,町奉行大岡忠相に見いだされ幕府に仕えることになりました。救荒作物としての甘藷の効用を説いた『蕃藷考(ばんしょこう)』を著して幕府に提出したのが1735(享保20)年,享保の大飢饉があった翌々年のことでした。これが将軍徳川吉宗に認められて昆陽は甘藷の試作に取組み,種芋が全国に配布されて甘藷栽培が定着していきました。 また,昆陽は洋学の先駆者ともいわれています。 彼は,西洋の実学を積極的に吸収しようとした徳川吉宗からオランダ語の学習を命じられ,オランダ通詞から言語や西洋文化などを学び蘭学興隆の礎を築きました。門人には前野良沢がいます。 昆陽の別邸近く,目黒不動尊に墓がありますが,墓碑の「甘藷先生之墓」の文字は昆陽自身が刻んだものです。また独鈷(どっこ)の瀧の脇にある大きな顕彰碑は,1911(明治44)年に建てられたもので昆陽の生涯や業績が記されています。
江戸時代の人々は幾度もの凶作や飢饉に見舞われました。そんなときに頼りになるのが救荒作物の代表ともいえる甘藷=サツマイモです。 青木昆陽は,その甘藷の栽培・普及に努めた人物として知られています。 昆陽は初め儒学を学び,江戸で私塾を開いていましたが,町奉行大岡忠相に見いだされ幕府に仕えることになりました。救荒作物としての甘藷の効用を説いた『蕃藷考(ばんしょこう)』を著して幕府に提出したのが1735(享保20)年,享保の大飢饉があった翌々年のことでした。これが将軍徳川吉宗に認められて昆陽は甘藷の試作に取組み,種芋が全国に配布されて甘藷栽培が定着していきました。 また,昆陽は洋学の先駆者ともいわれています。 彼は,西洋の実学を積極的に吸収しようとした徳川吉宗からオランダ語の学習を命じられ,オランダ通詞から言語や西洋文化などを学び蘭学興隆の礎を築きました。門人には前野良沢がいます。 昆陽の別邸近く,目黒不動尊に墓がありますが,墓碑の「甘藷先生之墓」の文字は昆陽自身が刻んだものです。また独鈷(どっこ)の瀧の脇にある大きな顕彰碑は,1911(明治44)年に建てられたもので昆陽の生涯や業績が記されています。
カトリック碑文谷教会の聖堂脇の入口から入ると,正面の祭壇の上に聖母マリアを描いた小さな聖画が飾られています。この聖画は,カルロ・ドルチ作の「親指の聖母」(悲しみの聖母)で,「江戸のサンタ・マリア」と呼ばれているもののレプリカです。 本物は,1708(宝永5)年,日本へのカトリック布教を目的に屋久島に潜入したイタリア人宣教師ヨハン・シドッチがイタリアから携えてきたものです。 シドッチはすぐに捕らえられ,江戸の切支丹屋敷に幽閉されて1714(正徳4)年にそこで病死しました。この間に儒学者新井白石の審問を受けています。 碑文谷教会の聖堂は1954(昭和29)年に完成しましたが,この年に,紛失したとされていた「親指の聖母」が東京国立博物館で発見されたことから聖堂はこの聖母に捧げられ,「江戸のサンタマリア聖堂」と呼ばれるようになりました。 本物の聖画は国の重要文化財として,東京国立博物館に所蔵されています。
カトリック碑文谷教会の聖堂脇の入口から入ると,正面の祭壇の上に聖母マリアを描いた小さな聖画が飾られています。この聖画は,カルロ・ドルチ作の「親指の聖母」(悲しみの聖母)で,「江戸のサンタ・マリア」と呼ばれているもののレプリカです。 本物は,1708(宝永5)年,日本へのカトリック布教を目的に屋久島に潜入したイタリア人宣教師ヨハン・シドッチがイタリアから携えてきたものです。 シドッチはすぐに捕らえられ,江戸の切支丹屋敷に幽閉されて1714(正徳4)年にそこで病死しました。この間に儒学者新井白石の審問を受けています。 碑文谷教会の聖堂は1954(昭和29)年に完成しましたが,この年に,紛失したとされていた「親指の聖母」が東京国立博物館で発見されたことから聖堂はこの聖母に捧げられ,「江戸のサンタマリア聖堂」と呼ばれるようになりました。 本物の聖画は国の重要文化財として,東京国立博物館に所蔵されています。
深大寺は,733(天平5)年,満功上人(まんくうしょうにん)によって開かれたと伝えられています。深大寺の「縁起」では,どこからともなく現れた上人の父福満が郷の長者の娘と結ばれ,やがて生まれた子が長じて満功上人となり,この地に福満が信仰した深沙(じんじゃ)大王を祀る寺を建てたとされています。 『日本書紀』や『続日本紀』には,7世紀後半~8世紀初めに,朝鮮半島の百済や新羅,高句麗(=高麗:こま)から渡来した人々を武蔵国に移住させたという記事があります。深大寺がある一帯(かつての武蔵野国多磨郡狛江郷)も渡来人が開拓した地域と考えられていることから,福満は渡来人の子孫であったとみられています。 深大寺の釈迦堂には,7世紀後半~8世紀初頭の作とされる釈迦如来の倚像(いぞう)が安置されています。制作時期は深大寺の開創年より古く,なぜこの像が深大寺にあるのかは謎ですが,椅子に腰掛けた姿の倚像は白鳳文化期の仏像に多く,眉や鼻筋など顔の表現には興福寺仏頭,衣文には法隆寺の夢違観音像と共通する点が認められます。こうした特徴から,如来像の制作には渡来人系仏師の関与が推定されています。
深大寺は,733(天平5)年,満功上人(まんくうしょうにん)によって開かれたと伝えられています。深大寺の「縁起」では,どこからともなく現れた上人の父福満が郷の長者の娘と結ばれ,やがて生まれた子が長じて満功上人となり,この地に福満が信仰した深沙(じんじゃ)大王を祀る寺を建てたとされています。 『日本書紀』や『続日本紀』には,7世紀後半~8世紀初めに,朝鮮半島の百済や新羅,高句麗(=高麗:こま)から渡来した人々を武蔵国に移住させたという記事があります。深大寺がある一帯(かつての武蔵野国多磨郡狛江郷)も渡来人が開拓した地域と考えられていることから,福満は渡来人の子孫であったとみられています。 深大寺の釈迦堂には,7世紀後半~8世紀初頭の作とされる釈迦如来の倚像(いぞう)が安置されています。制作時期は深大寺の開創年より古く,なぜこの像が深大寺にあるのかは謎ですが,椅子に腰掛けた姿の倚像は白鳳文化期の仏像に多く,眉や鼻筋など顔の表現には興福寺仏頭,衣文には法隆寺の夢違観音像と共通する点が認められます。こうした特徴から,如来像の制作には渡来人系仏師の関与が推定されています。
調布サレジオ神学院の構内に,笠がまるでキリスト教司祭の帽子のように見える変わった形の墓碑が建っています。高さ160㎝もあるこの墓碑は,イタリア・シチリア島生まれのイエズス会宣教師ジュゼッペ・キアラのものです。 キアラは,長崎で棄教したイエズス会のフェレイラ神父救出を目的として1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが,上陸直後に捕らえられ,1646(正保3)年,江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後キアラも棄教して岡本三右衛門と名乗り,キリシタンの吟味に協力したといわれます。妻や召使いまで与えられましたが幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死し,小石川無量院に葬られました。 この墓碑は,はじめ無量院に建てられていましたが,いくつかの所在地を転々としたのち現在地に安置されました。墓碑に刻まれている戒名は「入専(じゅせん)浄真信士」ですが,「入専」はジュゼッペからとったものとされています。 遠藤周作の歴史小説『沈黙』の主人公ロドリゴ神父は,このキアラ神父をモデルにして描かれています。
調布サレジオ神学院の構内に,笠がまるでキリスト教司祭の帽子のように見える変わった形の墓碑が建っています。高さ160㎝もあるこの墓碑は,イタリア・シチリア島生まれのイエズス会宣教師ジュゼッペ・キアラのものです。 キアラは,長崎で棄教したイエズス会のフェレイラ神父救出を目的として1643(寛永20)年に日本に潜入しましたが,上陸直後に捕らえられ,1646(正保3)年,江戸の切支丹屋敷に収容されました。その後キアラも棄教して岡本三右衛門と名乗り,キリシタンの吟味に協力したといわれます。妻や召使いまで与えられましたが幽閉されたまま1685(貞享2)年に病死し,小石川無量院に葬られました。 この墓碑は,はじめ無量院に建てられていましたが,いくつかの所在地を転々としたのち現在地に安置されました。墓碑に刻まれている戒名は「入専(じゅせん)浄真信士」ですが,「入専」はジュゼッペからとったものとされています。 遠藤周作の歴史小説『沈黙』の主人公ロドリゴ神父は,このキアラ神父をモデルにして描かれています。
三条大橋の西側、南北二つ目の擬宝珠(ぎぼし)に池田屋騒動の時の刀傷があるとのことで、注意深く見たものの、イマイチ分からず…その日は時間がなかったので諦めたのですが、後からこのページを見て、三つ目のところにあることを知りました…。現地でこのページを見れていれば…涙 kyoto-inf.com/2017/06/23/poste...
(編集済み)
三条大橋の西側、南北二つ目の擬宝珠(ぎぼし)に池田屋騒動の時の刀傷があるとのことで、注意深く見たものの、イマイチ分からず…その日は時間がなかったので諦めたのですが、後からこのページを見て、三つ目のところにあることを知りました…。現地でこのページを見れていれば…涙 kyoto-inf.com/2017/06/23/poste...
(編集済み)
スターバックスの前にあります。幕府が決めたこと(法度や掟書)が書かれた木の板を、皆の目にとまるよう高いところに掲示する場、それが高札場。ここは人通りが多く目につきやすかったということですね。
スターバックスの前にあります。日本で初の石柱橋として架けられたのがこの橋で、1590年とのこと、そしてこの石柱は神戸の東灘区から切り出されたものだそうです。その当時にどうやってこんなに思い石柱を運んできたのでしょうね…
スターバックスの前にあります。日本で初の石柱橋として架けられたのがこの橋で、1590年とのこと、そしてこの石柱は神戸の東灘区から切り出されたものだそうです。その当時にどうやってこんなに思い石柱を運んできたのでしょうね…
SAKIZO本社ビルの入口少し入った所にこの掲示がありました。すぐ隣に竹市瑞山寓居跡の碑がありますし、三条小橋の橋のところに佐久間象山遭難の碑もあるなど、高瀬川に近いこの辺りが幕末志士たちの活動の場になっていたんですね。池田屋騒動の池田屋もすぐ近くですね。