大河ドラマで紹介されたスポット・ロケ地を中心に、ゆかりのある場所を集めていきます。街中を歩けば意外なスポットが見つかったりしますので、発見したらみんなでシェアしていきましょう。(その情報ほんと?というのもあると思いますが、そこは自分で調べ考えるということでお願いします) nhk-ondemand.jp/program/P20220...
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紹介スポット
- 136件室町時代に駿河の今川氏の支城だった那古野(なごや)城があった場所に、慶長十五年(1610)徳川家康が大坂城の豊臣氏を牽制するために築いたのが名古屋城です。 天下普請(てんかぶしん)といって、西国の諸大名20家を動員して築いた城で、徳川御三家のひとつ・尾張徳川家の居城。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1347
第4回紀行 豊臣方と戦う日に備えて家康が築いたお城。この城を築く際に清洲全体を城下に移す清洲越を行ったそうで、清洲城の部材も使われたそうです。黄金の鯱も有名
室町時代に駿河の今川氏の支城だった那古野(なごや)城があった場所に、慶長十五年(1610)徳川家康が大坂城の豊臣氏を牽制するために築いたのが名古屋城です。 天下普請(てんかぶしん)といって、西国の諸大名20家を動員して築いた城で、徳川御三家のひとつ・尾張徳川家の居城。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1347
愛知県清須市の尾張清洲城は、織田信長ゆかりの城で、信長が桶狭間合戦に出陣したのもこの清洲城でした。 信長と濃姫の銅像や復元石垣、ふるさとのやかたなどがあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1072
愛知県清須市の尾張清洲城は、織田信長ゆかりの城で、信長が桶狭間合戦に出陣したのもこの清洲城でした。 信長と濃姫の銅像や復元石垣、ふるさとのやかたなどがあります。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1072
もとは今川の駿府館があったとされますが、武田信玄との戦いにより焼亡、同時に今川氏が滅びることとなりました。その後、武田滅亡後に徳川家康が駿河を領有し、駿府城を築きました。大御所家康公の晩年の居でもありました。
もとは今川の駿府館があったとされますが、武田信玄との戦いにより焼亡、同時に今川氏が滅びることとなりました。その後、武田滅亡後に徳川家康が駿河を領有し、駿府城を築きました。大御所家康公の晩年の居でもありました。
徳川家康が生まれた城。家康の関東移封後は田中吉政が入城し、江戸時代には譜代・親藩大名が城主を歴任しました。金箔付きの瓦が出土しており、徳川家康を祭る東照宮、もしくは江戸時代初期の寛永年間(1624~44)に岡崎城二の丸に将軍の上洛(じょうらく:京都に向かう事)のため、宿泊施設となる御殿が建てられており、それらの瓦ではないかとの事です。また青海堀の向かい側には雁木(がんぎ)という石段があるのですが、最初の雁木の左下の石が岡崎城の転用石です。城郭用語での転用石とは簡単にいうと、もとは別の目的で使用されていた石を城の石垣に転用したものです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1347
徳川家康が生まれた城。家康の関東移封後は田中吉政が入城し、江戸時代には譜代・親藩大名が城主を歴任しました。金箔付きの瓦が出土しており、徳川家康を祭る東照宮、もしくは江戸時代初期の寛永年間(1624~44)に岡崎城二の丸に将軍の上洛(じょうらく:京都に向かう事)のため、宿泊施設となる御殿が建てられており、それらの瓦ではないかとの事です。また青海堀の向かい側には雁木(がんぎ)という石段があるのですが、最初の雁木の左下の石が岡崎城の転用石です。城郭用語での転用石とは簡単にいうと、もとは別の目的で使用されていた石を城の石垣に転用したものです。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1347
東照公産湯の井戸(徳川家康産湯の井戸)
第2回紀行 岡崎公園内にある家康産湯の井戸
第2回紀行 岡崎公園内にある家康産湯の井戸
龍城神社(たつきじんじゃ)
第2回紀行 岡崎城本丸に鎮座する神社で、神社内の龍は、家康が産まれたとき金色の龍が現れたとのいい伝わりによるものだそうです。
岡崎城本丸に鎮座し、家康が産まれた際の金の龍に関する伝説が残るパワースポットとしても有名な神社。家康公と、岡崎城最後の城主であった本多氏の祖、忠勝公が御祭神として祀られています。 okazaki-kanko.jp/okazaki-park/...
第2回紀行 岡崎城本丸に鎮座する神社で、神社内の龍は、家康が産まれたとき金色の龍が現れたとのいい伝わりによるものだそうです。
岡崎城本丸に鎮座し、家康が産まれた際の金の龍に関する伝説が残るパワースポットとしても有名な神社。家康公と、岡崎城最後の城主であった本多氏の祖、忠勝公が御祭神として祀られています。 okazaki-kanko.jp/okazaki-park/...
大樹寺 (だいじゅじ)
第2,23回紀行 松平家・徳川家の菩提寺。家康の転機となるとあの有名な「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」を知ることになったお寺
松平家・徳川家の菩提寺。桶狭間の戦いで今川義元が織田に討ち取られ、それをきっかけに本拠地の岡崎に逃げ戻った際に駆け込んだお寺。敵に囲まれ自害しようとした家康は、厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)〜汚れた世を正し太平の世を目指す〜を住職に教えてもらい思いとどまった、そしてこの言葉を旗印にも掲げたという家康にとって転機となる大切なお寺です。 tokugawa.ne.jp/okazaki/2015/03...
(編集済み)
第2,23回紀行 松平家・徳川家の菩提寺。家康の転機となるとあの有名な「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」を知ることになったお寺
松平家・徳川家の菩提寺。桶狭間の戦いで今川義元が織田に討ち取られ、それをきっかけに本拠地の岡崎に逃げ戻った際に駆け込んだお寺。敵に囲まれ自害しようとした家康は、厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)〜汚れた世を正し太平の世を目指す〜を住職に教えてもらい思いとどまった、そしてこの言葉を旗印にも掲げたという家康にとって転機となる大切なお寺です。 tokugawa.ne.jp/okazaki/2015/03...
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静岡市役所 静岡庁舎前郵便ポスト プラモニュメント
第1回紀行 ホビーのまち・ 静岡を象徴する郵便ポスト📮と一体化したプラモデルのモニュメント
久能山東照宮や静岡浅間神社の建立にあたり、全国から職人が集まってきたのがきっかけで、プラモデルの産業に繋がっていったそうです。その象徴としてここに郵便ポスト📮と一体化したプラモデルのモニュメントが作られたそうです。
第1回紀行 ホビーのまち・ 静岡を象徴する郵便ポスト📮と一体化したプラモデルのモニュメント
久能山東照宮や静岡浅間神社の建立にあたり、全国から職人が集まってきたのがきっかけで、プラモデルの産業に繋がっていったそうです。その象徴としてここに郵便ポスト📮と一体化したプラモデルのモニュメントが作られたそうです。
世界ふしぎ発見2/6の放送を見て知りましたが、家康公宛にスペイン国王から海難救助のお礼として贈られた洋時計が神宝として残されているとのこと。 ただ当時、西洋は定時法、一方日本は不定時法だったため日常には役に立たなかったらしいですね。 他にも目器(メガネ)やびいどろ薬壺、金銀象嵌けひきばしなども展示されているそうです。ここはぜひ行ってみたい! toshogu.or.jp/about/clock toshogu.or.jp/kt_museum
(編集済み)
世界ふしぎ発見2/6の放送を見て知りましたが、家康公宛にスペイン国王から海難救助のお礼として贈られた洋時計が神宝として残されているとのこと。 ただ当時、西洋は定時法、一方日本は不定時法だったため日常には役に立たなかったらしいですね。 他にも目器(メガネ)やびいどろ薬壺、金銀象嵌けひきばしなども展示されているそうです。ここはぜひ行ってみたい! toshogu.or.jp/about/clock toshogu.or.jp/kt_museum
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静岡浅間神社(せんげんじんじゃ)
第1回、3回紀行 通称おせんげんさま。家康がとても大事にした神社。その理由を知ると納得
神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と呼ぶそうです。この神社は今川家の氏神として庇護され、家康の元服式は義元公が烏帽子親となってここで行うなど、家康にとってとても大切な場所。ちなみにこのページで知りましたが、家康はこの神社の背後にあった武田方の賤機山城を攻めるために、再建することを誓った上で社殿を焼き払い、天下を治めたのちにその誓いを守って社殿を造営したそうです。その後も幕府にとって重要な神社であり、幕府御用であった大工たちがこの社殿をの修復を手がけたそうです。その職人たちが木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、模型はプラモデルへと発展して、日本一のプラモデル産地になったとのこと。 shizuokasengen.net/yuisho.html...
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第1回、3回紀行 通称おせんげんさま。家康がとても大事にした神社。その理由を知ると納得
神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と呼ぶそうです。この神社は今川家の氏神として庇護され、家康の元服式は義元公が烏帽子親となってここで行うなど、家康にとってとても大切な場所。ちなみにこのページで知りましたが、家康はこの神社の背後にあった武田方の賤機山城を攻めるために、再建することを誓った上で社殿を焼き払い、天下を治めたのちにその誓いを守って社殿を造営したそうです。その後も幕府にとって重要な神社であり、幕府御用であった大工たちがこの社殿をの修復を手がけたそうです。その職人たちが木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、模型はプラモデルへと発展して、日本一のプラモデル産地になったとのこと。 shizuokasengen.net/yuisho.html...
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家康の死後、御遺骸は遺言通り久能山に葬られ、その後2代将軍秀忠公の命により久能山東照宮が創建されたそうです。その後、日光に御遺骸が移ったそうでして、久能山東照宮が全国東照宮の創祀なんですね。
(編集済み)
家康の死後、御遺骸は遺言通り久能山に葬られ、その後2代将軍秀忠公の命により久能山東照宮が創建されたそうです。その後、日光に御遺骸が移ったそうでして、久能山東照宮が全国東照宮の創祀なんですね。
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今川方の対織田最前線の城であった大高城。この城にいた鵜殿長照は兵糧攻めを受けて苦しんでいたところ、松平元康(徳川家康)が兵糧を入れて救出しましたが、その後、桶狭間の戦いにて今川義元が織田信長に敗れることとなりました。ちなみに鵜殿長照はその後、家康が織田と手を組んだため敵対関係となり上之郷城で戦うことになりました。
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今川方の対織田最前線の城であった大高城。この城にいた鵜殿長照は兵糧攻めを受けて苦しんでいたところ、松平元康(徳川家康)が兵糧を入れて救出しましたが、その後、桶狭間の戦いにて今川義元が織田信長に敗れることとなりました。ちなみに鵜殿長照はその後、家康が織田と手を組んだため敵対関係となり上之郷城で戦うことになりました。
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