大河ドラマで紹介されたスポット・ロケ地を中心に、頼朝、北条氏、源氏などに関するスポットをまとめています。鎌倉、伊豆あたりはもちろん、街中を歩けば意外なスポットが見つかったりしますので、発見したらみんなでシェアしていきましょう。(その情報ほんと?というのもあると思いますが、そこは自分で調べ考えるということでお願いします) nhk-ondemand.jp/program/P20210...
関連するめっけブック
紹介スポット
兄の源頼朝に謀反の疑いをかけられた源範頼は、修禅寺に幽閉された後、梶原景時らに攻められて自刃したのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/shuzenji/sh...
兄の源頼朝に謀反の疑いをかけられた源範頼は、修禅寺に幽閉された後、梶原景時らに攻められて自刃したのだという。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/shuzenji/sh...
富士山本宮浅間大社(せんげんたいしゃ)
第23回紀行 駿河国一之宮。頼朝がここに流鏑馬(やぶさめ)を奉納
鎌倉幕府が富士山の麓ふもとで行った巻狩りの際に、頼朝がこの地の湧き水を飲み、その味にいたく感銘したと伝えられています。 surugawan.net/guide/456.html
鎌倉幕府が富士山の麓ふもとで行った巻狩りの際に、頼朝がこの地の湧き水を飲み、その味にいたく感銘したと伝えられています。 surugawan.net/guide/456.html
源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。 その帰路、鶴嶺八幡宮にさしかかった所で、弟源義経や叔父源行家らの亡霊に現われて頼朝は落馬。 その怪我が原因で翌年1月13日に亡くなったのだと伝えられている。 鶴嶺八幡宮の大鳥居を入った右側には、後年、里人によって義経一族の霊を慰めるため造ったとされる「弁慶塚」がある。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/benkei-tuka...
源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。 その帰路、鶴嶺八幡宮にさしかかった所で、弟源義経や叔父源行家らの亡霊に現われて頼朝は落馬。 その怪我が原因で翌年1月13日に亡くなったのだと伝えられている。 鶴嶺八幡宮の大鳥居を入った右側には、後年、里人によって義経一族の霊を慰めるため造ったとされる「弁慶塚」がある。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/benkei-tuka...
後白河天皇は、第77代天皇。 1155年(久寿2年)、29歳で即位。 1158年(保元3年)、二条天皇に譲位して院政を開始。 1169年(仁安3年)、法住寺殿で出家して法皇になる。 1192年(建久3年)3月13日、六条殿で崩御(66歳)。 法住寺殿の一画に建立された法華堂に葬られた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
後白河天皇は、第77代天皇。 1155年(久寿2年)、29歳で即位。 1158年(保元3年)、二条天皇に譲位して院政を開始。 1169年(仁安3年)、法住寺殿で出家して法皇になる。 1192年(建久3年)3月13日、六条殿で崩御(66歳)。 法住寺殿の一画に建立された法華堂に葬られた。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
1158年(保元3年)、法住寺を中心に後白河法皇の院庁「法住寺殿」が造営された。 しかし、1183年(寿永2年)に木曽義仲の夜襲をうけ、法皇は六条西洞院の長講堂に移っている。 1191年(建久2年)、源頼朝が法住寺殿を再建したが、法皇は翌年3月13日に崩御。 法住寺殿の一画には法華堂が建てられ、法皇の御陵となった。 以後、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として存続したが、明治の神仏分離により御陵と寺が分離されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
1158年(保元3年)、法住寺を中心に後白河法皇の院庁「法住寺殿」が造営された。 しかし、1183年(寿永2年)に木曽義仲の夜襲をうけ、法皇は六条西洞院の長講堂に移っている。 1191年(建久2年)、源頼朝が法住寺殿を再建したが、法皇は翌年3月13日に崩御。 法住寺殿の一画には法華堂が建てられ、法皇の御陵となった。 以後、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として存続したが、明治の神仏分離により御陵と寺が分離されている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/nara-kyoto/...
高館義経堂(たかだちぎけいどう)
第20回紀行 義経を祀っている神社
頼朝の圧迫に耐えかね、父藤原秀衡の遺言に反した泰衡の急襲にあい、この地で義経は妻子とともに自害したと伝わっています。NHK大河ドラマの中でも記憶に残るシーンでした。 motsuji.or.jp/gikeido/about/in...
第20回紀行 義経を祀っている神社
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接待館遺跡(せったいだていせき)
第20回紀行 京から追われ奥州に逃げ延びた義経が暮らした館がこのあたりにありました
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毛越寺(もうつうじ)
第20回紀行 藤原基衡がつくり、秀衡にて完成
中尊寺の金色堂は、中尊寺に現存する唯一の創建時の遺構で、棟木の銘から、藤原清衡が1124年(天治元年)に創建したものと考えられている(国宝)。 堂内には、中央壇、右壇、左壇の須弥壇が置かれ、それぞれに阿弥陀三尊像、地蔵菩薩立像(六地蔵)、二天像(持国天、増長天)が配されている(国宝)。 『吾妻鏡』は、金色堂は建物全てが金色で、堂内には三つの壇があって全て螺鈿で飾られ、阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝の作だと伝えている。 また、須弥壇内には、藤原清衡(中央壇)、基衡(右壇)、秀衡(左壇)のミイラ化した遺体が納められ、右壇には泰衡の首級も納められている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/t...
中尊寺の金色堂は、中尊寺に現存する唯一の創建時の遺構で、棟木の銘から、藤原清衡が1124年(天治元年)に創建したものと考えられている(国宝)。 堂内には、中央壇、右壇、左壇の須弥壇が置かれ、それぞれに阿弥陀三尊像、地蔵菩薩立像(六地蔵)、二天像(持国天、増長天)が配されている(国宝)。 『吾妻鏡』は、金色堂は建物全てが金色で、堂内には三つの壇があって全て螺鈿で飾られ、阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝の作だと伝えている。 また、須弥壇内には、藤原清衡(中央壇)、基衡(右壇)、秀衡(左壇)のミイラ化した遺体が納められ、右壇には泰衡の首級も納められている。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/hiraizumi/t...
赤間神宮は、源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」で亡くなった安徳天皇を祀る社。859年(貞観元年)に開かれた阿弥陀寺を始まりとし、1191年(建久2年)に後鳥羽天皇の勅命により御影堂が建立され、江戸時代までは安徳天皇御影堂と称され崇敬された。 明治の神仏分離によって阿弥陀寺が廃されて天皇社となり、1875年(明治8年)に赤間宮に改称、さらに1940年(昭和15年)、赤間神宮に改称。境内には平家一門の墓が建てられている。水天門は壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇が住んだという竜宮城をイメージした門。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/dannoura/ak...
赤間神宮は、源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」で亡くなった安徳天皇を祀る社。859年(貞観元年)に開かれた阿弥陀寺を始まりとし、1191年(建久2年)に後鳥羽天皇の勅命により御影堂が建立され、江戸時代までは安徳天皇御影堂と称され崇敬された。 明治の神仏分離によって阿弥陀寺が廃されて天皇社となり、1875年(明治8年)に赤間宮に改称、さらに1940年(昭和15年)、赤間神宮に改称。境内には平家一門の墓が建てられている。水天門は壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇が住んだという竜宮城をイメージした門。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/dannoura/ak...
京から追われ、逃げ移った屋島からも義経によって追われ、九州は範頼によっておさえられ、行き場を無くした平家の最後の地。義経の「八艘はっそう飛び」も有名で、ここでも強さを発揮し、平家滅亡に追いやり、約6年にわたる源平合戦の終焉を迎えました。三種の神器である八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と、安徳天皇を無事に戻すことが求められましたが、安徳天皇と草薙剣は海の底へ…。
京から追われ、逃げ移った屋島からも義経によって追われ、九州は範頼によっておさえられ、行き場を無くした平家の最後の地。義経の「八艘はっそう飛び」も有名で、ここでも強さを発揮し、平家滅亡に追いやり、約6年にわたる源平合戦の終焉を迎えました。三種の神器である八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と、安徳天皇を無事に戻すことが求められましたが、安徳天皇と草薙剣は海の底へ…。
源義朝の墓は、大御堂寺の中にあります。墓の周辺を見るとたくさんの木が置いてありますが、これには次のエピソードがあるからです。 お風呂で長田父子に襲われた義朝は丸腰でした。そりゃお風呂に入っているのですから当然ですよね。そして息絶える寸前、『せめて木刀の1本もあればこんな事にはならなかったものを…』と言い残して亡くなったそうです。 その後、義朝の墓には木刀を模した木の札が奉納されることになりました。 ちなみにこの木の札は1本500円と有料なのですが、願いを書いて奉納すると願いが叶うといわれ、どちらかというと義朝を偲ぶ人達というより、願いを叶えたい人達が参拝しています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1465
源義朝の墓は、大御堂寺の中にあります。墓の周辺を見るとたくさんの木が置いてありますが、これには次のエピソードがあるからです。 お風呂で長田父子に襲われた義朝は丸腰でした。そりゃお風呂に入っているのですから当然ですよね。そして息絶える寸前、『せめて木刀の1本もあればこんな事にはならなかったものを…』と言い残して亡くなったそうです。 その後、義朝の墓には木刀を模した木の札が奉納されることになりました。 ちなみにこの木の札は1本500円と有料なのですが、願いを書いて奉納すると願いが叶うといわれ、どちらかというと義朝を偲ぶ人達というより、願いを叶えたい人達が参拝しています。 【詳しい説明はこちら】 sengokushiseki.com/?p=1465
1183年(寿永2年)12月、頼朝に対する傲慢な態度が災いし、謀反の疑いをかけられ梶原景時に暗殺された上総広常の五輪塔といわれる。 ▼こちらもご覧ください yoritomo-japan.com/kamakura042...
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